扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

満州見物記 #12 最後の夜

2007年07月16日 | 取材・旅行記

瀋陽観光で今回のツアーは終了。

夕食がてら繁華街を散策。

夜の瀋陽市街はネオンが燦然と輝いていて街全体が夜市のようである。

明日は空港から帰国する。

この旅は元々、二百三高地を身に行く旅であった。

加えて仕事ついでに見物するのと違って大いに妄想し、過去に悩む旅でもあった。

楽しかった。

 

 

 

 


満州見物記 四日目 #11 瀋陽故宮

2007年07月16日 | 海外出張記

ホンタイジの墓参りの次は瀋陽故宮へ。

1625年の建築といい日本では大坂の陣が終わって天下泰平に進もうかという時期である。

ここはヌルハチ、ホンタイジの住居と政庁、紫禁城の12分の1の規模という。

中心的な建物である大政殿は平面が八角形、全体の意匠は昭陵と大差なくこちらもボテッとしている。

細部の意匠に龍が多用されていてその表情はどれも荒々しい。

五爪のものばかりでありここにも中華思想が現れている。

建物は三層のひとつを覗けば平屋ばかりであり、仰ぐ天が広くその点でも紫禁城の1/12を感じる。

 

瀋陽はヌルハチの時、「盛京(ムクデンホトン」と改称された。清の北京入城後は奉天府が置かれていた。

奉天府は現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省のエリアを統括する皇帝直属の所領であった。

この範囲が概ね後に日本が関与した満州国と重なる。

ロシアが進出してくるとその租借地となり、日本軍が進出、日露戦争最後の大会戦、奉天会戦が行われた。

満州に渡った日本人にとっては「奉天」という幻の都市としての郷愁があるかもしれないが、戦争を知らない私にとっては何の感慨もない。

しかしながらここが日本の最大進出拠点だったという事実は、愛新覚羅族の故郷という事実と合わせてその遠さを心に刻むべきであろう。

 

 

 


満州見物記 四日目 #10 昭陵とホンタイジ

2007年07月16日 | 海外出張記

昭陵はホンタイジの墓であるが一見すると城のようである。

意匠は北京の紫禁城のそれと大差はなく、屋根に仙人と聖獣が並んでいる様も赤みがかった黄色い屋根も同様。

少し野暮ったくみえるのは満州族初期の建物だからかもしれないがぼてっとしている。

望遠でみると装飾品も精緻とはいえない。

しかし全体としては美術品とするに重文で威厳とか迫力とかいう言葉がふさわしくようは堂々としている。

天下を獲った人々の草創期の気迫を感じられる。

 

参道の真ん中にホンタイジの大きな銅像が立っており姿形が素晴らしい。

参道には石造りの聖獣が整然と配置されている。

獅子や馬に加え、北方民族に馴染みがなさそうなラクダや象が加わっていることから中華思想を取り入れたものだろう。

ホンタイジの墓は半球状になっていておもしろい。

 

元を建てたモンゴル族も中国を制すると急速に「中華化」しているが満州族もまた盛大に「中華化」した。

その事実を体得できる遺跡といえようか。

 


満州見物記 四日目 #9 瀋陽へ

2007年07月16日 | 海外出張記

四日目は北京から瀋陽へ移動。

空港に着くと飛行機の手配でトラブル発生。

予定していた飛行機が来ずに延々待たされる。

ようやく瀋陽に到着すると14:00過ぎ。

 

瀋陽は遼寧省の中核都市、人口は800万という巨大都市ではあるが我々日本人が学ぶ中国史に登城するのは満州族が天下を獲る頃、そして日露戦争の時であろう。

空港から市内へ向かうバスの中でボンヤリ眺めていると他の地方都市と同じようであるが少しロシア風味がかかっているようにも思われる。

 

瀋陽は満州族(女真)の都、かつて「金」を建てて宋帝国を南に追った。

金はチンギスが建てたモンゴル王朝に押されて滅ぶ。

その後裔が愛新覚羅一家。

その長ヌルハチは豊臣秀吉の侵攻への対応でドタバタしている明朝の隙をついて満州族の王となる。

万里の長城の外で勢力を蓄えたヌルハチは南下、1620年に瀋陽を獲って都とした。

ヌルハチの子、ホンタイジが長城より北を平定、その子フリンの時、摂政ドルゴンらが明を滅ぼした李自成を討って北京に入城。

フリンは順治帝となって紫禁城を都とする清朝が始動することになる。

要は瀋陽とは清朝皇帝の創業の地、故郷である。

徳川家にとっての松平郷、岡崎城とでもいおうか。

 

さて瀋陽に着いた我々一行は「昭陵」にまず連れていかれた。

ここはホンタイジの陵墓。