日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

昭和49年村田クンの教え 1~“盤質C”のアビーロード

2010-01-09 | その他あれこれ
70年代洋楽新企画は現在仕込中ですので、しばらくお待ち願います。
その間週末の音楽系のユルネタは、しばし私の“洋楽の師”村田クンの教えを聞いてください。

村田クンは私が中学の3年生の時に1年間だけ“同級生”だったひとつ年上の音楽通のマセガキでした。まだまだ洋楽初心者だった私は、彼と知り合いになることでいろいろ未知の音楽の世界を教えられ、抜けられない嬉しい迷路に入り込んでしまった訳です。彼の教えは今思うと素晴らしく基本に忠実でありながら、マニアックでした。「まず第一にビートルズを聞け!」「ストーンズは正しい聞き方をしろ!」「ザ・フーは世界一のロックバンドだ」「アーロ・ガスリーを覚えておけ」「ジョン・セバスチャンも知らないのか」等々、ロックの大物からマニアックなレベルに至るまで、かなり入念な指導を賜り、私の洋楽趣味は彼から多大なる影響を受けたのでした。まずは、ビートルズのくだりから…。

そもそもの出会いは彼が一年留年して私と同じクラスになり、ひょんな音楽話がきっかけで彼とよく話をするようになったのでした。中学3年生の1年間は彼とはかなり仲良しだったと記憶しています。放課後彼とよく出かけた場所はお茶の水。「丸善」と「ディスク・ユニオン」をのぞいてから、神保町へ。古本屋や岩波本社地下の書籍売場とかを週に1~2回はブラブラして帰ったものでした。読書家で理屈っぽい彼は本屋に行くと、哲学の話とか初版本はなぜ価値があるかとか、随分とマセた話を聞かされたものです。レコード・ショップに行っても彼の理屈話は同様で、いろいろなアーティストのコーナーでLPを引っ張り出しては、うんちくを語る訳です。今もよく覚えているのは、最初に彼とディスクユニオンに行ったときのことです。彼は「お前はちゃんとビートルズを聞いたことがあるのか?」と私に質問しました。

実は「レット・イット・ビー」や「ヘイ・ジュード」ぐらいは知ってはいたものの、前年に図書館で「サージェントペパーズ」を借りて聞いたことがあった程度でした。しかもハッキリ言って「サージェントペパーズ」は名盤だなんて知らなかったので、有名曲の収録がないことにガッカリしてあまり一生懸命に聞いてなかったのです。で、「サージェント聞いたけど面白くなかったな。今度出たベスト盤の青盤('67~'70のベスト)を買おうかと思ってるんだ」と答えました。すると彼は、「バカかお前は!「サージェントペパーズ」はなコンセプトアルバムの名盤だぞ!「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」をスゴイと思わないのか?ビートルズのベスト盤?女子中学生みたいなこと言ってんじゃねーぞ!」と一喝されたのでした。

キョトンとしていると、ディスク・ユニオン店内の中古盤コーナーに連れて行かれ、バサバサバサとレコードを漁りだすと「よし、あった、あった」と1枚を取り出して「今日はこれを買って帰れ!お買い得だ」と、私に「盤質C800円~アビー・ロード/ビートルズ」なるアルバムを差し出したのでした。「アビー・ロード」の名前とジャケット写真はさすがに見たことがありました。ジャケットを裏返して曲目を見るとかろうじて「カム・トゥゲザー」「サムシング」は深夜放送で聞いたことがあって嫌いじゃなかったので、「ま、いいか」と思い“人生初ビートルズ”を買って帰ったのでした。翌日学校に行くと早速彼が「昨日買った「アビー・ロード」の感想は?」と質問してきました。

私の答えは、「A面がよかった。特に「カム・トゥゲザー」から「オクトパス・ガーデン」までかな」。すると彼は「B面は?」私「1回聞いただけで、面白くなかったから昨日はよく聞いてないよ」彼「分かってねーな。ホント子供だな。ちゃんと聞けよ。ビートルズも分かんねーで、Tレックスだとかシカゴだとか言ってんじゃねーぞ」といった具合にコテンパンだったのです。「「アイ・ウォント・ユー」はジョンがヨーコに宛てた芸術的な叫びだ」とか、「「ユー・ネバー・ギブ・ユー・マネー」は、ポールがジョンの「ハッピネス・イズ・ア・ウォームガン」に憧れて作った自由なメロディ展開の曲で、B面メドレーの頭に持ってきたのはプロデューサーのジョージ・マーチンのセンスのなせる技だ」とか、今思うと洋楽情報が乏しいあの時代の中坊がどこで仕入れたのだろうかと思うほどのうんちくだったのです。スゴイ奴だったんですね、村田クン。

その時購入した盤質Cで800円の「アビーロード」レコードジャケットは、現在弊社事務所内の壁に額縁に入れて飾られております。
(つづく)