日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

続続「小沢問題と新聞報道のあり方」

2010-01-16 | ニュース雑感
マスメディアのあるべき姿勢を考える意味で、小沢問題への大手新聞各紙の対応を引き続き追ってみます。

昨日は小沢氏の私設秘書を9年間勤めた現職の衆議院議員石川和裕氏が、東京地検に逮捕されました。容疑は政治資金規制法違反。これはまさしく小沢氏の資金管理団体陸山会にかかわる“裏金”等不透明な資金の流れを究明する動きに他なりません。すなわち、表面上は石川議員逮捕であっても、その実は小沢氏がらみの犯罪捜査に関し東京地検が“クロ”を確信し具体的に動き出したとの理解で間違いないでしょう。

ということは、マスメディアの本日朝刊段階でのあるべき論調としては、誰が見てもこの問題の責任者たる小沢氏の「進退」に言及するべきであると思います。本件の取材を続けているマスコミ各社は、学生時代から小沢氏に心酔し就職もせず小沢事務所で書生扱いから長年仕えてきた石川議員の小沢氏への“絶対服従”の実態を十分把握しているはずであり、疑惑の事件が石川氏単独の判断でなし得る状況になかったことは、誰の目にも明らかな訳です。であればすなわち、新聞各紙は自身の元秘書である現職国会議員が、その秘書時代の自身の事務所がらみの疑惑で逮捕されたという異常事態を受けて、論ずるべきは小沢氏本人の「進退」問題以外にあり得ないのです。

では実際に本日の各紙社説はどうかです。
読売:「石川議員逮捕 小沢氏の責任は極めて重い」→説明責任追及のみ。進退には言及せず
朝日:「石川議員逮捕 小沢氏の進退を問う」→進退問題に強く言及
日経:「石川議員逮捕は小沢氏に責任」→責任追及するも進退には言及せず
毎日:「石川議員逮捕 裏献金の有無が核心だ」→「捜査の進展次第では小沢氏の進退問題も」とやや婉曲ながら、進退に触れる
産経:「石川議員ら逮捕 小沢氏は進退決断せよ」→幹事長および議員職に関し進退問題に言及

といった具合で、産経の方向転換はともかくとして(たぶん産経のことですから、前回は単なるボケ対応で“特オチ”的に「小沢会見」を社説テーマにしなかったということも考えられます)、やはり対応がぬるいのは読売、日経。前回の問題と併せて考えると明らかに“小沢寄り(と言うよりは小沢畏怖?)”の報道姿勢がよく分かると思います。こう言った曲がった姿勢の新聞が日本で一番読まれている新聞であったり、ビジネスマンに一番信頼されている新聞であったりする訳で、本当にこれでいいのかと思わずにはいられません。もっともっと世の識者たちは、この辺の問題にも目を向ける必要があると思いますし、メディア同士での論説対決等による自浄作用発揮も期待したいところでもあります。兎にも角にも、国民への情報提供のかなり重要な部分を担う新聞の実態が、このような恣意的な情報操作に陥る危険性をはらんでいることは広く国民に対してアナウンスすべきであろうと思います。

私が新聞各紙が小沢氏の「進退問題」に言及するしないになぜそんなにこだわるかですが…。結局テレビやネットでどのような意見が交わされようが、やはり情報ソースとして信頼性が圧倒的に高いのは新聞な訳です。その新聞のうち最も読まれている2紙が論説で「進退問題」に言及しないなら、テレビでニュースを聞いた時「こりゃ小沢氏は辞任も考えるべきじゃないのか」と思った人でも、今朝の新聞を読んでトーンの緩さに誘導され「なんだまだ現状では進退を問うような問題ではないんだ」との誤った理解に導かれかねず、政治浄化に向けて誤った世論形成をさせかねないのです。これこそ間接的な「言論統制」であり、本当に恐ろしいことであると思うからなのです。

この問題をしつこくしつこく取り上げているのは、普段から権力に対する報道との距離や関係に疑問を持っていたからなのですが、このような機会にこそ普段見過ごしがちな各新聞の姿勢や権力との距離感、情報操作のリスク等について真剣に考えるべきではないかと思っています。

読売、日経、産経三紙は、小沢の顔色うかがいの“御用新聞”姿勢を猛省せよ!

2010-01-14 | ニュース雑感
昨13日、東京地検の民主党小沢幹事長関係先への強制捜査が執行されました。

12日の小沢氏の“不明瞭会見”の際に触れましたが、現場記者たちが小沢氏の一方的な“逃げ”を糾弾できなかったこの一件に関して、論説が翌13日に社の威信をかけた対応を見せたのは、権力と一定の距離を置く“革新系”朝日新聞(社説「小沢氏会見-実力幹事長の説明責任」)と部数激減で近年やや門外漢的位置づけの毎日新聞(社説「小沢氏会見説明放棄では」)のみ。保守系(と言うよりも体制派?)3紙はと言えば、昨日の朝刊段階では弱気の現場と足並みをそろえ事実報道のみで小沢氏責任追及には“ダンマリ”。昨日の強制捜査が執行されたとたんに、本日の朝刊各紙社説欄で遅ればせながらの「いつになれば小沢は説明するのか(日経)」「小沢氏土地疑惑の解明を急げ(読売)」「小沢氏の政治責任は明白(産経)」を掲載しています。揃いも揃って笑える“小沢怖し”の腰ぬけ新聞です。

政権担当政党の幹事長で実質№1と言われる人物の不明瞭な資金管理に関して、当局から「任意出頭」を求められている段階で開いた会見。対してこの3紙の、当の本人が一切のコメントを封印したというその異常対応に対し新聞社を代表して世間に是否を問うべき論説までもが当日は沈黙を守り様子をうかがうという対応。社会の公器としてのマスメディアの役割を放棄した“小沢御用新聞”に等しい行為であると言わざるを得ません。3紙の選択は、真実追及や報道の正義を貫き通すことよりも、小沢民主党との取材パイプ維持を優先させた結果であると断言してよいと思います。問題会見の当日には筆を折り、東京地検の“ガサ入れ”によって小沢民主党側に対して論説で意見することにも言い訳ができる段階まで待ってようやく書くという、何とも情けないやり方を堂々とやってのけた訳ですから。

日本で一番部数が出ている読売新聞と、経済という専門領域をもって日本中のビジネスマンに最も読まれている新聞である日本経済新聞の新聞最大手2社(加えて産経)が、上記のような本来新聞の使命として糾弾すべきことを糾弾すべきタイミングで言わない。しかもそれが、特定の政治家あるいは政党との情報パイプ維持という、自社の勝手な利益を優先するがための曲がった判断の下になされた行為であるとするなら、戦時中の言論統制にも似た「大本営発」的情報操作に発展するリスクも大きく、我々国民は我が国の新聞の報道姿勢ひいては報道内容までも全く信用できなくなってしまうのです。これは大変ゆゆしき問題であると思います。

私は20代の頃、取材現場の新聞記者を経験した際に、先輩記者から「世の中に本当の客観性など存在しない。だから主観を鍛えることで、あるべき報道のなんたるかの判断を誤らないようにしなければならない。社会の公器としての新聞の使命はそうやって守られなくてはならないと、常に肝に銘じつつペンを走らせろ」と教えられたものです。その教えからすれば、今回の読売、日経、産経のとったやり方は、もはや報道のなんたるかを全く忘れたあるまじき行動であると言わざるを得ません。読売、日経、産経三紙には、新聞の信用を失墜させる本件行動に猛省を求めるとともに、小沢氏にとどまらない“権力”に対する取材に関し、自社の利益を守らんがために追及取材対象に手心を加えるような国民の信用を裏切る報道は二度としないと、紙面上にて約束して欲しいものです。

小沢会見に政治を浄化できないマスメディアの委縮を見た

2010-01-12 | ニュース雑感
政治とカネをめぐる疑惑をどう語るかが注目された、民主党小沢一郎幹事長の記者会見が12日開かれました。

注目の土地購入資金4億円の出所に関する質問では、質問にまとめて回答するとして質問をすべて出させた上で「捜査が継続中で(対応を)弁護士にすべて一任している。個別のことを申しあげるのは差し控えるべきだと思っている」としてすべての質問に一切コメントせず、疑惑に関する具体的な説明がなされませんでした。かつ会見を一方的に約20分間で打ち切るなどあくまで「小沢流」を貫き通した形であったようで、国民に対する「誤解を招いた謝罪」の言葉はあったものの著しく明快さを欠く対応であり、鳩山首相の母からの“子ども手当”への説明と同様、政治家としての説明責任全うの観点から大いに疑問の残る会見でありました。

小沢氏の対応の悪さもさることながら、私がより一層問題視したいのは、居並ぶマスコミ記者たちの対応のまずさです。「個別のことを申しあげるのは差し控えるべきだと思っている」との回答に対して、2、3食い下がる質問が出はしたものの、結局は本人からの「最初の話を聞いてますか?」とか司会者の「静かにしてください!」の声に黙らされてしまう始末。なんとも情けない対応です。企業の不祥事発生時に「捜査中なのでコメントは差し控えます」等この手の逃げの受け応えをしようものなら、「ふざけるな!説明になってねーだろ!」「あんたの責任をどう思ってんだよ!」「黙ってすむと思うのか!」等々、ヤクザじゃないかと思われるほどの暴力的な言葉の連発で、絶対に許さないのが新聞記者じゃないのでしょうか。しかも一方的な会見打ち切りなど言語道断。絶対に食い下がって許さないはずです。

それが、相手が小沢幹事長となると小さく追及めいた質問をしてはみるものの、相手の論理で答えないなら仕方なしって、どういうことですか?マスメディアの記者連中はいつでも、「我々は読者の代表であり、我々が納得しない取材対応は国民が納得しない対応であり、すなわち国民をバカにしていることだ」とまで言いきっているのではなかったのですか?今後の取材拒否等を含めた小沢氏の意地悪報復措置を恐れての委縮ですか?そんな、相手によって対応を変えたり、無言の圧力に屈したりすることこそ、マスメディアで取材活動をする立場の人間がもっとも恥ずべき態度なのではないのですか?「強気に媚びて、弱気を挫く」、新聞記者の「正義」とは何なのでしょう?

いろいろ批判も多い記者クラブ制度ですが、こういう時こそマスメディア各社は幹事社を中心として結束をした上で、権力を傘に言論統制をはかり自己の望むままにマスメディアを操ろうとする政治家を断固糾弾すべきなのではないかと思うのですが、いかがでしょう。記者クラブ加盟各社が、こんな時に枕を並べて“討ち死に取材”をしているのなら、ホント「記者クラブ制度などやめてしまえ!」と言いたい気分です。今日のような会見対応では、断固ひとつひとつの質問にある程度明確な回答が得られないなら、どこまでも時間制限なしで帰さず終わらせず追及をし続けるのが「読者の代表」としてあたり前じゃないのでしょうか。

政治を悪くしているひとつの大きな原因は、マスメディアの本来の使命を見失った取材姿勢にもあるとつくづく思わされたシーンであります。こんな現場の記者の体たらくに対して、明日の朝刊各紙の論説がどこまでリカバリーするのかしないのか、とくと見させていただきましょう。大きな期待はできませんが…。

昭和49年村田クンの教え 3~ストーンズとウォーホル

2010-01-11 | その他あれこれ
ビートルズがらみの話もまだまだたくさんあるのですが、とりあえず村田クンの教えストーンズ編もしておきます。

私がストーンズを知ったのはちょうど来日中止騒動の直後。その騒ぎも一段落した頃、アルバム「山羊の頭のスープ」がリリースされ、「悲しみのアンジー」が大ヒットしました。私が「アンジー」からストーンズ入りしたことを知って村田クンは、「「アンジー」はストーンズじゃねーぞ。ストーンズはビートルズと並ぶビッグ・ネームなんだから、ちゃんと基本を抑えろ」と指導してくれました。彼が言うことろの「基本」とは、「アルバムは「ベガーズ・バンケット」をまず聞くこと。それとストーンズのビートルズに勝る大きなポイントはライブにあるんだから、ライブを聴け」と。

そう言って彼は翌日アルバム「ベガーズ・バンケット」とライブの「ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト」貸してくれたのでした。実は彼はめったにレコードを貸さない人だったのです。レコードの管理にものすごく几帳面で、1曲目が始まるまでの溝にも傷がついてノイズが入るのを嫌っていたので、「レコードの扱いも知らないコイツら(学校の同級生)には俺のレコードは絶対貸さない」と言い放っていました。そんな彼が、わざわざ私にストーンズのアルバムを2枚貸してくれたのは、「アンジーをストーンズだと思っている様じゃ話にならん」とたまりかねた結果だったのだと思います。

絶対に傷つけちゃいけない緊張感もあって、借りて帰ってレコードをかけたのは1回ずつのみ。でも、翌日にはまた「感想を述べよ」が待っている訳ですから、一生懸命集中して聞きました。で結論は「「ベガーズ・バンケット」は、なんかあまり好みじゃなかった」「ライブはよかった。特に「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」はカッコよかった」でした。彼の反応は「「ベガーズ…」はまだ今のお前には無理だな。「ジャンピング…」はヒット曲で確かにカッコいいけど、アルバムの聞きどころはそこじゃないな」でした。確かに、当時の音楽知識的に未熟な私には「ベガーズ・バンケット」は難しすぎたと思います。もちろん今では大好きなストーンズのアルバムのひとつでありますが…。ライブも、お陰さまで今では全然違った聞き方ができるようになりました。

関連してこんな会話もありました。
私「ライブなのに、なぜジャケット写真はステージ写真じゃない訳?しかも、知らないおっさんが飛び跳ねていて、これ何よって感じじゃない?」
彼「お前、このセンス分かんねーのか?ライブでジャケットにステージ写真って、当たり前すぎじゃんか。それじゃ郷ひろみでも山口百恵でもやる普通のアルバムだろ。この写真とアルバム・タイトルのセンスが最高なんだよ。飛び跳ねているのはドラムのチャーリーだよ。ミックじゃないところがミソなんだよなぁ」
私「へぇ、分かんねーな。だいたいタイトルだって、ライブとは一言もないし、ヤーヤー・ヤーズ・アウトって、真中の「ヤー」がひとつ余計な感じがして嫌だな」
彼「どこまでもダセーな、お前。だいたい真中も最後も「ヤー」じゃなくて「ヤ」だよ。ヤング・オーオーじゃねーぞ。ヤーヤ・ヤズだからいいんじゃねーか。ライブにライブってタイトルつけて、ジャケットがライブ写真って、完璧にドンくさいよ」
私「…」

そう言ってその日の放課後、お茶の水のディスク・ユニオンで彼が私に見せてくれたのは、ジャケットがジーンズの股間のアップでファスナーまで付いているストーンズのアルバムでした(はい、「スティッキー・フィンガーズ」です)。
私「へぇーなんだこれ?おもしれー!本物のYKKじゃん」
彼「分かるか、ストーンズのノリはこれなんだよ。ビートルズにはないノリがここにはあるんだよ。このジャケットは、アメリカの新進芸術家のアンディ・ウォーホルという人がデザインした本物の芸術作品なんだよ。ウォーホルはかっこいいぜ。ストーンズは、そのウォーホルの芸術性と共鳴するわけだ。そこが一番凝縮されたストーンズらしさだな。ヤーヤ・ヤズのヤの数も、あのアルバムをライブと言わずなぜあの写真なのかも、このあたりに答えがある訳だ」

彼の話は当時の私にはなんだかよく分からなかったものの、これを機に私はアンディ・ウォーホルにいたく関心を持つことになったのです。ちなみに、今年も弊社事務所内のメインカレンダーは、ウォーホルです。
(つづく)


昭和49年村田クンの教え 2~ビートルズとトラッド・ファッション

2010-01-10 | その他あれこれ
ビートルズに関して中学3年生の村田クンはまさに“神”でした。彼はビートルズの全アルバムを英国盤、米国盤、日本盤の3種類ですべて持っていて(「留年が決まったときに父親に庭で全部焼かれて最近すべて買いなおしたけど、英盤ホワイトアルバムのオリジナルのナンバリングが印刷になってしまって価値が下がった」と嘆いていました)、それぞれの盤の収録曲の違いやジャケットの違いを事細かに解説してくれたりもしました。

彼のお勧めは断然英国盤で、「ビニール・コーティングのジャケットが断然かっこいいし、盤質もいい。音だって英国盤はEMIのマスターテープから直接カッティングしているから全然違うんだよ(英国人アーティストの場合ということでした)。そこいくと米盤はクソだな。アメリカ人は独特の合理主義で聞けりゃいいって感じだからジャケットの色再現はいい加減だし、音なんかまったくかまってないんだよ。だから、米盤は塩ビもペラペラでプレスが雑だから雑音が多いだろ。日本盤は盤質はいいよ。国民性が几帳面だからな。ただ独自デザインのジャケットは最悪。ホント日本人ってデザインセンスがないんだよ。そのダサさを英国人あたりが東洋の神秘とかと勘違いして、やけに向こうで受けている山本寛斎みたいのもいるけどな。どうかと思うよ」とまぁどこまでもうんちく屋な訳です。

ビートルズ英国盤に関してはこんなやり取りも…
彼「英国盤レコードには、made in England とは書いていないの知ってるか? made in GreatBritain なんだぜ」
私「ふーん」
彼「何でだと思う?」
私「分からないよ、そんなこと」
彼「バカだな少しは考えろよ。いいか、英国と言うのは歴史ある国で、ヨーロッパの歴史は世界の果ての田舎モン国家の日本なんかと違って由緒正しい民族戦争の歴史でもあるんだ。だから、英国は見かけ上ひとつの国であっても、イングランドとアイルランドは歴史も文化も異なる別の民族であって、イングランドがアイルランドを統治したとしても英国=イングランドじゃないんだ。だから、女王陛下の下統一された国家を示す大英帝国= GreatBritainを使うんだよ。そのぐらい常識だぞ」。
こんな調子で彼の講義は毎日展開したわけです。

ビートルズに端を発した彼の英国贔屓(びいき)は半端じゃありませんでした。彼はファッションの好みでも断然ブリティッシュ・トラッドをよしとしていて、中学3年生の彼はregalのウイングチップを履いてそれに合わせて制服のズボンとベルトをこっそりkentのチャコールグレーのスリムパンツ+トラッド風のベルトに替えたりしていました。当時色気づいた中坊たちの憧れだったコイン・ローファーのシューズ+VANジャケットのアイビー・ファッションには見向きもせず、「アイビーなんていうのは、トラッドを輸入したアメちゃん大学生がヤンキーノリで作ったモノなんだぜ。あんなのはガキのファッションだよ」とガキの自分を棚に上げて言い放っていたのです。今となってはなんとも笑える話です。

そんな彼がファッションの手本としていたのが初期のビートルズだったのです。彼はよくビートルズの写真を見ながら、やれこのシャツはどこどこ製の何とかというヤツだとか、この靴はregalで似たのを作ってはいるけど踵(かかと)のカットの角度が違うんだよとか、ホントある意味病気気味と言えるビートルマニアでありました。そんな彼がビートルズ関係で一番ファッションセンスがいいとしていたのが、マネージャーのブライアン・エプスタインでした。何でも初期のビートルズの連中はまだまだ子供でエプスタインの着せ替え人形の域を脱していなかったものの、エプスタイン自身は正統派の英国紳士然としてとにかく様になっていると。エプスタインは髪がやや薄かったのですが、彼に言わせると「正統派英国紳士は薄毛でそれを誇らしげに堂々と振舞うことろがまたかっこいい」のだとか。「お前も美しくハゲそうだから、うらやましいな」と、なんとも奇妙なおほめの言葉をいただいた訳です。薄毛をうらやましがられたのは、人生50年でこの時ぐらいのものです。

そんな訳で私のファッションの好みもそんな彼の影響が大きく、基本はトラッド趣味できております(就職活動時に気合を入れて買った就活用の社会人靴は、彼が中学生の時に履いていたのと同じregalのウイングチップでした)。でも実情はけっこうアメカジに流されていて、きっと彼が見たら「お前のファッションは何だよ。バラバラじゃねーか。アメちゃんに占領されて植民地化された大英帝国だな」とか言われそうですが…。予定通り正攻法で薄くなっている堂々たる頭髪だけはほめて貰えるかもしれません。
(つづく)


昭和49年村田クンの教え 1~“盤質C”のアビーロード

2010-01-09 | その他あれこれ
70年代洋楽新企画は現在仕込中ですので、しばらくお待ち願います。
その間週末の音楽系のユルネタは、しばし私の“洋楽の師”村田クンの教えを聞いてください。

村田クンは私が中学の3年生の時に1年間だけ“同級生”だったひとつ年上の音楽通のマセガキでした。まだまだ洋楽初心者だった私は、彼と知り合いになることでいろいろ未知の音楽の世界を教えられ、抜けられない嬉しい迷路に入り込んでしまった訳です。彼の教えは今思うと素晴らしく基本に忠実でありながら、マニアックでした。「まず第一にビートルズを聞け!」「ストーンズは正しい聞き方をしろ!」「ザ・フーは世界一のロックバンドだ」「アーロ・ガスリーを覚えておけ」「ジョン・セバスチャンも知らないのか」等々、ロックの大物からマニアックなレベルに至るまで、かなり入念な指導を賜り、私の洋楽趣味は彼から多大なる影響を受けたのでした。まずは、ビートルズのくだりから…。

そもそもの出会いは彼が一年留年して私と同じクラスになり、ひょんな音楽話がきっかけで彼とよく話をするようになったのでした。中学3年生の1年間は彼とはかなり仲良しだったと記憶しています。放課後彼とよく出かけた場所はお茶の水。「丸善」と「ディスク・ユニオン」をのぞいてから、神保町へ。古本屋や岩波本社地下の書籍売場とかを週に1~2回はブラブラして帰ったものでした。読書家で理屈っぽい彼は本屋に行くと、哲学の話とか初版本はなぜ価値があるかとか、随分とマセた話を聞かされたものです。レコード・ショップに行っても彼の理屈話は同様で、いろいろなアーティストのコーナーでLPを引っ張り出しては、うんちくを語る訳です。今もよく覚えているのは、最初に彼とディスクユニオンに行ったときのことです。彼は「お前はちゃんとビートルズを聞いたことがあるのか?」と私に質問しました。

実は「レット・イット・ビー」や「ヘイ・ジュード」ぐらいは知ってはいたものの、前年に図書館で「サージェントペパーズ」を借りて聞いたことがあった程度でした。しかもハッキリ言って「サージェントペパーズ」は名盤だなんて知らなかったので、有名曲の収録がないことにガッカリしてあまり一生懸命に聞いてなかったのです。で、「サージェント聞いたけど面白くなかったな。今度出たベスト盤の青盤('67~'70のベスト)を買おうかと思ってるんだ」と答えました。すると彼は、「バカかお前は!「サージェントペパーズ」はなコンセプトアルバムの名盤だぞ!「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」をスゴイと思わないのか?ビートルズのベスト盤?女子中学生みたいなこと言ってんじゃねーぞ!」と一喝されたのでした。

キョトンとしていると、ディスク・ユニオン店内の中古盤コーナーに連れて行かれ、バサバサバサとレコードを漁りだすと「よし、あった、あった」と1枚を取り出して「今日はこれを買って帰れ!お買い得だ」と、私に「盤質C800円~アビー・ロード/ビートルズ」なるアルバムを差し出したのでした。「アビー・ロード」の名前とジャケット写真はさすがに見たことがありました。ジャケットを裏返して曲目を見るとかろうじて「カム・トゥゲザー」「サムシング」は深夜放送で聞いたことがあって嫌いじゃなかったので、「ま、いいか」と思い“人生初ビートルズ”を買って帰ったのでした。翌日学校に行くと早速彼が「昨日買った「アビー・ロード」の感想は?」と質問してきました。

私の答えは、「A面がよかった。特に「カム・トゥゲザー」から「オクトパス・ガーデン」までかな」。すると彼は「B面は?」私「1回聞いただけで、面白くなかったから昨日はよく聞いてないよ」彼「分かってねーな。ホント子供だな。ちゃんと聞けよ。ビートルズも分かんねーで、Tレックスだとかシカゴだとか言ってんじゃねーぞ」といった具合にコテンパンだったのです。「「アイ・ウォント・ユー」はジョンがヨーコに宛てた芸術的な叫びだ」とか、「「ユー・ネバー・ギブ・ユー・マネー」は、ポールがジョンの「ハッピネス・イズ・ア・ウォームガン」に憧れて作った自由なメロディ展開の曲で、B面メドレーの頭に持ってきたのはプロデューサーのジョージ・マーチンのセンスのなせる技だ」とか、今思うと洋楽情報が乏しいあの時代の中坊がどこで仕入れたのだろうかと思うほどのうんちくだったのです。スゴイ奴だったんですね、村田クン。

その時購入した盤質Cで800円の「アビーロード」レコードジャケットは、現在弊社事務所内の壁に額縁に入れて飾られております。
(つづく)


経営のトリセツ78~会議を見直す

2010-01-07 | 経営
企業運営における最重要のフォーマルなコミュニケーション手段は「会議」です。ところがこの「会議」というものが実にやっかいで、中小企業ではちゃんと機能している企業の方が少ないのではないかと感じています。私が思うあるべき「会議運営」について少し触れてみます。

以前にもこのコーナーで「会議」は取り上げていますが、その時も記したと記憶している重要ポイント「会議の目的を明確にする」が、意外にできていないケースはかなり多いように思います。これができていない企業の会議は形式に流れ時間の浪費になる可能性が高くなります。私がおススメしている明快な目的分類別会議は3つです。「報告会議」「改善会議」「戦略会議」がそれです。以下幹部会議を例に説明します。

「報告会議」は文字通り各部門からの報告が主たる目的の会議です。本来、私個人の考えでは「報告に会議必要なし」と考えているのですが、中小企業等で会議慣れしていないケースなどでは、まず会議でのコミュニケーションに慣れる意味で「報告会議」を開催することはそれなりに意味があると思います。ただ問題はそのすすめ方です。ダラダラと各部門の報告を聞くだけの会議は全く無意味です。「報告会議」は、部門計画に対する進捗の報告が目的ですから「できたこと」の報告とその理由、「できなかったこと」の報告と原因分析&対応策を発表させます。そして、他部門からの質疑応答。質問が出ない場合はファシリテーターが質問者を指名します。質問が何もないということは他部門に対する何の問題意識も持っていないことであると、参加メンバーには十分に理解させることも必要であります。

次に「改善会議」。議題は「報告会議」からの拾い上げをメインにして会議間の有機的な連動を形作るのがベストですが、「報告会議」からの議題以外にも、トップおよび役員からの改善指示による議題、各部門から上程させる議題も必要です。あらゆる企業において「改善」が不要な組織は常に皆無であり、この会議は継続していくことで、「改善提案」が上がらないことは業務に対する取り組み姿勢に“問題アリ”なのだという認識を根付かせることも大きな目的のひとつとなります。会議進行は、上程部門が上程理由と改善策を説明し、それを“叩き”として議論し最終的には「改善策を決めること=決裁」が目的となります。「改善会議」の注意点は、意見の出しやすさから「改善」と「クレーム」をはき違えるケースがよくあるという点です。ここをはき違えてしまうと、この手の会議は目的を見失って各部門が言いたい放題の“放談会”になってしまうケースや、トップの“説教会”になってしまうケースがありますので、進行役であるファシリテーターは常に「目的」を見失わないよう進行上の舵取りが必要です。

最後に「戦略会議」。中小企業ではトップが一方的に「戦略」を指示するにとどまって、その思い描く方向感を軸にして「戦略」を議論するという習慣が意外に身についていません。「戦略会議」の議題の出し手は慣れるまではトップ自身でかまいません。例えば「新たに○○マーケットを攻めたらどうかと考えている。開発部門、営業部門それぞれがそれぞれの立場で可能性を分析の上、考えうる商品戦略とマーケティング戦略の案を上程して欲しい」と言った形で指示をする訳です。とにかく企業はいかに現状が恵まれた環境にあろうとも、立ち止まっていたのでは衰退を待つのみです。現状認識と将来展望を共有した上で、戦略的に次の一手を議論し方針を決めて進んでいくことが不可欠な訳です。商品開発、生産管理、マーケティング、営業、販売、人事、財務…、企業のあらゆる部門で「次の一手」となる新たな「戦略」が必要であり、戦略議論の存在しない企業はあり得ないのです。

「報告会議」「改善会議」「戦略会議」この3分類の会議ですが、実は根っこはひとつなのです。キーワードは「イノベーション=改革」。「報告会議」では目標達成に向けた「結果に対する改革」を、「改善会議」では組織の「現状に対する改革」を、「戦略会議」は組織の「将来に対する改革」を議論し決めることなのです。もし自社の会議が“マンネリ形式開催”であったり、あるいは“ガス抜き”や“息抜き”や“アピール”の場になっていたとしたら、今すぐ見直しをかけて各会議の目的を明確に示した上で、「報告」「改善」「戦略」に関する「議論→決定の場」へと改めていく必要があります。PFドラッカーも「企業は発展する経済においてのみ存在する」という言葉で、「イノベーション」の必要性を強く説いています。「イノベーション」の源泉たる「会議」を有機的に機能させることは、企業存続の必要最低条件でもあるのです。

経営のトリセツ77~“反面教師”鳩山首相に学ぶ、リーダーシップのあり方

2010-01-06 | 経営
鳩山内閣の来年度予算審議を前にして藤井財務大臣が突如辞任するという大事件が起きました。マスコミの報道によれば表向きの辞任理由は大臣の健康問題ですが、その真相は小沢民主党幹事長の横やりに嫌気しての辞任とのこと。すべての原因は小沢氏の言いなりになっている鳩山首相のリーダーシップの欠如にある、との論調が主流を占めています。鳩山首相に学ぶ「あるべきリーダーシップ」について考えてみます。

まずリーダーシップの定義です。一般的でかつ平易な言い方をすれば、「自己の見識に基づいて人や組織を動かすことができる能力」ということになると思います。自分の意見を持たない人、自分の仕事で手一杯で組織をリードできない人等はどうにもリーダーシップを持ちようがないと言えると思います。自分の見識を持つとはすなわち「判断力」であり、組織を「こっちへ行け、あっちへ行け」とリードする力は「決断力」であります。この観点で考えると、鳩山さんはどうやら自分の見識がなく(「判断力」の欠如)、人や組織を自らリードできない(「決断力」の欠如)が著しく様々な問題点を引き起こしている原因になっているように思われます。

リーダーシップには実はいくつかの種類が存在します。一般的な種類を紹介しておきます。
まず一番目は「牽引型リーダー」。メンバーの常に先頭を走ってグイグイと集団を引っ張っていくタイプのリーダーシップです。「牽引型」にもとにかく行動で示していくタイプ(中小企業には一番多いタイプ)と論理に基づいた明確な将来像の提示等の思想で共感させる全く異なる2つのタイプがありますが、メンバーはいずれの場合にもリーダーに感銘を受けてついていく形になるのです。二番目は少数派ですが、「人格型リーダー」と言われるタイプ。これは自身がぶれのない人格や価値観を形成し、それを基準にして組織運営を指導的な立場でリードしていくタイプです。ベテラン経営者等に存在し、メンバーはある意味“信者”的尊敬の念を持ってリーダーについていくケースが間々見られます。松下幸之助氏や稲森和夫氏はこのタイプの典型と言えるでしょう。

三番目は「触媒型リーダー」。これは得意分野や特殊技能が異なるメンバーの潜在能力に着目し、それらの人材の間に立って各人の能力が最大限に引き出されるような協働活動を有効に展開させるような役割を担うリーダーシップです。結果自己昇華をし合うような刺激的な組織環境や組織文化を作りだすことになり、また自分自身が自覚している以上の力を発揮できる環境がそれに憧れる新たなメンバーを呼び込み、能力開発の好循環を生み出すことにつながります。リクルートの創業者江副浩正氏などは、このタイプであると思います。

そして最後に、近年注目されつつある「奉仕型リーダー」です。より底辺からスタッフを支えスタッフが最良の環境で業務に専念できるよう腐心するタイプのリーダーです。一般的にサーバント・リーダーシップとも言われるものです。リーダーが組織に奉仕することで、結果的にメンバーは顧客や社会に奉仕することを学び前向きな企業文化を醸成します。国内では、資生堂の池田守男氏などがこのタイプに分類されるでしょう。リーダーシップは、だいたいこの4つのタイプに分類されるのですが、果たして鳩山首相ですが…。やはりというか、残念ながらというか、どれにもあてはまらないですね。やはり、この点からもリーダー失格ということになるのかもしれません。

最後に経営者の皆さまへのリーダーシップ養成に関するアドバスです。まずはご自身に「判断力」と「決断力」があるか否かを定期的に省みてください。勉強もせず人任せで油断をしていると、「判断力」「決断力」はみるみる低下してきます。リーダーシップは日々の努力の積み重ねで磨かれていくものなのです。「判断力」と「決断力」の確認ができたら次は、ご自身が先の4つのタイプのどのリーダーであるのか自身のリーダーシップのあり方を方向づけてください(「人格型」はそれなりの経験が必要です)。そしてタイプが決まったら、「判断力」と「決断力」を底支えにしつつそのタイプの「役割」に徹することです。どのタイブにもピタリとははまらないとお感じのリーダーにおかれましては、心がけひとつで一番容易に対応できる「サーバント・リーダーシップ」をご自身の「役割」として徹することをおすすめします。リーダーシップは「役割意識」ないところには生まれないことをどうかお忘れなく。

ブックレビュー~「コンサルタントの勉強法」

2010-01-05 | ブックレビュー
新年早々、あまり書きたいネタがないので、昨年末読んだ本のレビューをしておきます。

★「コンサルタントの勉強法/野口吉昭(PHP研究所1,000円)」

我が敬愛するコンサルタント野口吉昭氏の新作です。ベストセラー「コンサルタントの質問力」の後に「コンサルタントの習慣術」「考え書き話す3つの魔法」が出て、翻訳本をはさんで前作が「コンサルタントの解答力」、とまぁ昨年はかなり中身の濃い“能力開発”本を立て続けに出版して、大活躍の同氏の昨年のしめくくりは「勉強法」というわけです。これまでPHP新書から出ていた「コンサルタントの…」シリーズかと思いきや、装丁も新書サイズよりもやや大きく、価格もやや高く、中身はというとやや若向き?でしょうか。なんとなく「レバレッジ・シリーズ」の本田直之氏の若者向け近作に似た“嫌な予感”を少し感じつつ本書を手にしました。

結論から申し上げますと、テーマが「勉強法」であるだけに中身は確かに濃いものではありませんが、しっかりと野口イズムが根底に流れており「もしや」の心配は杞憂に終わりました。よかったです。野口氏お得意のコンサルタント的「3つの論理展開」で今回もテーマに明快に切り込んでいます。今回の「3つの論理」は、「点の情報」「線の情報」「面の情報」という切り分けで「情報」を分類し、「面の情報」の吸収に力を注げというものです。「点の情報」の代表例は新聞、「線の情報」は雑誌であり、「面の情報」は書籍であると。同感の極みです。蛇足ですが、ネット情報もまさに「点」と「線」の情報のみ。「面」の情報を持つ者が利用するなら「点の情報」「線の情報」も役に立つのですが、「面の情報」を持たない者にとって「点の情報」「線の情報」は、「点」のまま「線」のままに終わってしまうわけです。

さらにもう一点ポイントは、「フレームワーク思考」で「情報」を「知識」に変え、さらに「コンセプト思考」「ゼロベース思考」で「知識」を「認識」や「見識」に高めることこそ究極の勉強法であるとあり、まさにまさに私あたりが日常的に心がけていることを実にうまい表現でまとめてくれています。納得、納得です。ただ、「面の情報」の重要性やこの「情報」を高めていくくだりに関して言えば、経験の浅い若い読者にはちょっと難しいように思います。少なくとも若い人は、野口氏の他の著作(「コンサルタントの解答力」「考え書き話す3つの魔法」あたり?)をよく読んでからでないと、すんなりは入っていけない嫌いがあるかもしれません。その意味では、野口氏の「勉強法」は実は経営者や管理者を対象とした「勉強法」なのかもしれないと感じさせられました。また、彼が「面」づくりに役立つ書籍164冊を本書内で一覧表示してくれてもいます。これまた我が家の書棚にもある本ばかりなのですが、これだけでも「勉強のための本選び」の基準を知る上でけっこう参考になると思います。

テーマが軽いので中身に乏しいようにも感じますが、野口氏としては標準レベルの著作であると思います。実に簡単に読み終わりますので、難しい本の合間の息抜きにいかがでしょうか。10点満点で8点。

ところでところで余談ですが…
“レバレッジ”本田直之氏がまた変な本を出してます。イラストレーターのしりあがり寿氏との共著「本田流 しりあがり的 額に汗する幸福論」なる本がそれです。見開きページで、片面は彼なりの「ライフスタイルの美学」を説いて、もう片面で寿氏がそれを4コマ漫画にするという、もういい加減お付き合いできません状態の“おバカノリ自己啓発本”です。前作の“勘違い自己啓発小説”に続いてかなり“寒い”出来です。本田さん、ホントどうしちゃったの?って感じですね。当然、私は立ち読みのみなのでレビューしませんが…。

〈70年代の100枚〉完結編です

2010-01-03 | 洋楽
まずは遂に完結した「70年代の100枚」を一覧で表示(アーティストABC別)してみます。

<A>
「ビリオンダラー・ベイビーズ/アリス・クーパー」
「イヤー・オブ・ザ・キャット/アル・スチュワート」
「ホリディ/アメリカ」
「ロックス/エアロスミス」
「ブラザーズ&シスターズ/オールマン・ブラザーズ・バンド」
「ピック・アップ・ザ・ピーセズ/アベレージ・ホワイト・バンド」
<B>
「BAD CO/バッド・カンパニー」
「明日なき暴走/ブルース・スプリングスティーン」
「ザ・リバー/ブルース・スプリングスティーン」
「ニューヨーク52番街/ビリー・ジョエル」
「レット・イット・ビー/ザ・ビートルズ」
「ザ・ビートルズ'62~'66・'67~'70/ザ・ビートルズ」
「ロックンロール・ミュージック/ザ・ビートルズ」
「ノット・フラジャイル/バックマン・ターナー・オーバードライブ」
「ライブ/バリー・マニロウ」
「血の轍/ボブ・ディラン」
「欲望/ボブ・ディラン」
「シルク・ディグリーズ/ボズ・スキャッグス」
「グレイテスト/ビージーズ」
「幻想飛行/ボストン」
「見知らぬ街/ボブ・シーガー」
「スター誕生/バーブラ・ストライザンド」
「エンドレス・サマー/ビーチ・ボーイズ」
<C>
「シカゴⅤ/シカゴ」
「つづれおり/キャロル・キング」
「デ・ジャブ/クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング」
「ノー・シークレット/カーリー・サイモン」
「ア・ソング・フォー・ユー/カーペンターズ」
「南から来た男/クリストファー・クロス」
「ナチュラル・ハイ/コモドアーズ」
「コスモズ・ファクトリー/クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル」
<D>
「メイド・イン・ジャパン/ディープ・パープル」
「モダン・ヴォイス/ダリル・ホール&ジョン・オーツ」
「キャプテン・アンド・ミー/ドゥービー・ブラザーズ」
「ミニット・バイ・ミニット/ドゥービー・ブラザーズ」
「オン・ザ・レイディオ~グレイテスト・ヒッツVOl.1&2/ドナ・サマー」
「ヤング・アメリカン/デビッド・ボウイ」
「アメリカン・パイ/ドン・マクリーン」
「ダイアナ・ロス/ダイアナ・ロス」
「グレイテスト・ヒッツ/ドーン」
<E>
「グッドバイ・イエロー・ブリックロード/エルトン・ジョン」
「グレイテスト・ヒッツ/エルトン・ジョン」
「キャプテン・ファンタスティック&ザ・ブラウンダート・カウボーイ/エルトン・ジョン」
「461オーシャン・ブルバード/エリック・クラプトン」
「サンライズ/エリック・カルメン」
「呪われた夜/イーグルス」
「ホテル・カリフォルニア/イーグルス」
「オーロラの救世主/エレクトリック・ライト・オーケストラ」
「暗黒への挑戦/アース・ウインド・アンド・ファイヤー」
<F>
「噂/フリートウッド・マック」
「栄光の旅立ち/フォリナー」
<G>
「オールシングス・マスト・パス/ジョージ・ハリスン」
「グレイテスト・ヒッツ/ギルバート・オサリバン」
「シティ・トゥ・シティ/ジェリー・ラファティ」
「アメリカン・バンド/グランド・ファンク」
「ブリージン/ジョージ・ベンソン」
<H>
「グレイテスト・ヒッツ/ヘレン・レディ」
<J>
「フォトグラフス&メモリーズ/ジム・クロウチ」
「イマジン/ジョン・レノン」
「ダブル・ファンタジー/ジョン・レノン ヨーコ・オノ」
「レッド・オクトパス/ジェファーソン・スターシップ」
「ブロウ・バイ・ブロウ/ジェフ・ベック」
「グレイテスト・ヒッツ/ジェームス・テイラー」
「バック・ホーム・アゲイン/ジョン・デンバー」
「パール/ジャニス・ジョプリン」
「孤独のランナー/ジャクソン・ブラウン」
「グレイテスト・ヒッツ/ジャクソン5」
<K>
「ダブル・プラチナム/キッス」
「ゲット・ザ・ナック/ザ・ナック」
「KC&ザ・サンシャイン・バンド/KC&ザ・サンシャイン・バンド」
<L>
「フィジカル・グラフィティ/レッド・ツェッペリン」
「夢はひとつだけ/リンダ・ロンシュタット」
「カーニー/レオン・ラッセル」
<M>
「レッツ・ゲット・イット・オン/マーヴイン・ゲイ」
「オフ・ザ・ウォール/マイケル・ジャクソン」
<N>
「ハーベスト/ニール・ヤング」
<O>
「そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン=ジョン」
<P>
「フランプトン・カムズアライブ/ピーター・フランプトン」
「時の流れに/ポール・サイモン」
「バンド・オン・ザ・ラン/ポール・マッカートニー&ウイングス(US盤)」
「狂気/ピンク・フロイド」
<Q>
「オペラ座の夜/クイーン」
<R>
「リンゴ/リンゴ・スター」
「スティッキー・フィンガーズ/ローリング・ストーンズ」
「サム・ガールズ/ローリング・ストーンズ」
「エブリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー/ロッド・スチュワート」
「ナイト・オン・ザ・タウン/ロッド・スチュワート」
「やさしく歌って/ロバータ・フラッグ」
<S>
「エイジャ/スティーリー・ダン」
「天の守護神/サンタナ」
「ブレックファースト・イン・アメリカ/スーパートランプ」
「トーキング・ブック/スティービー・ワンダー」
「キー・オブ・ライフ/スティービー・ワンダー」
「鷲の爪/スティーブ・ミラー・バンド」
「明日にかける橋/サイモン&ガーファンクル」
「コーナーストーン/スティックス」
<T>
「グレイテスト・ヒッツ/スリー・ドッグ・ナイト」
<W>
「フーズ・ネクスト/ザ・フー」
「四重人格/ザ・フー」
「世界はゲットーだ!!/ウォー」


けっこう壮観ですね。
実は最終的に再吟味して、3点ばかり変更を加えています。
①ビートルズの「ザ・ビートルズ'67~'70」は、同時リリースのザ・ビートルズ'62~'66」と一体でひとつとするのが正しい解釈と判断し、「ザ・ビートルズ'62~'66・'67~'70/ザ・ビートルズ」としました。
②シカゴは当初「シカゴⅥ~遥かなる亜米利加」を選出したのですが、やや個人的趣味が入っていたと考え、初期最大のヒット曲「サタディ・イン・ザ・パーク」をフィーチャーした「シカゴⅤ/シカゴ」(9週連続全米1位)に変更しました。
③ローリング・ストーンズですが、「スティッキー・フィンガーズ」と「メインストリートのならず者」の2枚を選出したのですが、今でこそ「メインストリートのならず者」は最高傑作の呼び声も高い名作とされてはいますが、リリース当初はやや地味な印象のアルバムでした。それと「スティッキー・フィンガーズ」ともカラーが近いので、思い切って「メインストリートのならず者」はカットし、代わりに78年のアルバム「サム・ガールズ(2週連続全米1位)」を選出することにしました。このアルバムからはストーンズのディスコ・ナンバー「ミス・ユー」が№1に、「ビースト・オブ・バーデン」が8位「シャタード」が31位にランクされました。

こうして100枚を並べてみて思うのは、これらは間違いなく当時時代を動かしていたアルバムたちであり、“後づけの「名盤」”は1枚もないので1枚1枚から確実に“あの頃”がよみがえってくるということです。毎度繰り返しますが100枚の選出基準は、我々世代が愛聴していたラジオ番組「全米TOP40(ビルボード誌チャート紹介プログラム)」をアルバムまたはアルバム収録曲がより賑わし、日本でもある程度売れた印象のある作品ということになっています。ですから、例えば「名盤100選」なら確実に登場するであろう「いとしのレイラ」や「ジギー・スターダスト」や「電気の武者」はここにはありませんし、デビッド・ボウイでは全米№1ヒット「フェイム」を含む「ヤング・アメリカンズ」が選ばれ、カーペンターズでは「ナウ&ゼン」ではなく米国でよりヒットした「ア・ソング・フォー・ユー」が選ばれているのはそのような理由からです。それと、ビートルズやビーチ・ボーイズなどの60年代ヒーローの編集盤でも、70年代に「売れた」ものは“時代を映す鏡”として選出しております(ビートルズの編集アルバム「ロックンロール・ミュージック」がこの手の企画で選ばれることはまずありませんが、当時を知らない人は信じられないでしょうが大変な話題盤だったのです)。

“後づけの「名盤」選び”が悪いとは申しませんが、やはり当時売れたモノはそれなりの時代の要求があって売れたのであり、過去を振り返って時代を正しく検証するにはやはりその当時「売れたか否か」が重要な基準になる訳です。何とも職業病的なエビデンス主義のモノの見方ではありますが、今回は「当時たいして売れなかったけど、評論家諸氏の主観に導かれ後々名盤とされているアルバム」はとにかく排除することで、より正確な時代検証ができる100枚を選ぶことができたと自負しております。これらのアルバムを1枚1枚聞き返しつつ70年代と言う素晴らしい時代を振り返ることで、また新たな発見や学び、気づきがあるのではないでしょうか(私のipodにはここの大半のアルバムが収録されており、70年代を持ち歩くことで日々“気づき”に溢れています)。「売れた」と言う事実は確実に時代が共感した何かがその作品にあったからであり、「売れなかったけど、今聞けば名盤」とされる作品たちとは一線を隔する何かが間違いなくあるハズなのです。まぁ難しいことはさておくとして、この100枚リストが、洋楽をこよなく愛する皆さんが70年代を振り返る際のお役に立てるならこの上なく嬉しく思います。
〈70年代の100枚〉これにて完です。

※写真は市販の70年代洋楽ヒット曲オムニバスCDのジャケットです。