日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

原発再稼働へ突き進ませるビジョンなき“政治屋的判断”

2012-04-12 | ニュース雑感
政府による関西電力の大飯原発の再稼働に向けたGOサインが、週内にも出されるそうです。私は原発の専門家ではないので、その安全性についてとやかく申し上げる立場にありません。なので、前回エントリーでも取り上げた本来あるべき「政治的判断」と現政権が下そうとしている「政治的判断」のかい離という観点から、原発再稼働に関する問題点を探ってみようと思います。

今回の原発再稼働論議は、政府の「政治的判断」を前面に押し出しての強引な展開から隠したハズの「再稼働ありき」姿勢が透けて見えてしまう、という点が最大の問題であると感じています。「政治的判断」を再稼働の判断基準にするのであれば、前回のエントリーでも申し上げた通り、政治がどのようなビジョンを持ちそれに基づいて現状に対する判断をいかに下すのかが明確でなければならないハズです。

今一度「政治」に関する橋下大阪市長の分かりやすい定義を引用します。
「国のかたち論からあるべき論をきっちりと固める。その上で、喫緊の課題への対応策からとりあえずこうさせて欲しいと説明をする。これが政治だ」。

個人的に同意できるこの定義に沿って考えるなら、仮に原発を再稼働するとしても「政治」は、まず日本国の将来像を考える中でのエネルギー政策に関して明確なビジョンを提示し、その上で現状電力不足もありうるという状況を踏まえた暫定措置として具体的な安全対策を前提に一時的な再稼働を決断するべきです。それができてはじめて「政治的判断」により再稼働へ導いたと言えるでしょう。

ではなぜ今回、「政治的判断」ならぬ“政治屋的判断”とも言えそうないい加減な「判断」により、再稼働への道を突き進んでしまうのか。関西圏における夏の電力不足が喫緊?いやそれはあくまで表向きのお話でしょう。原発を再稼働させなくてはいけない最大の理由は、関電ではなく東電にあるとみています。

東電救済の前提条件として現在策定中の再建計画は、国が資本注入をしてもしっかりと利益を出してこれを返済しつつ企業再建を果たすというシナリオが前提になっています。東電はつぶされまいとして必死に再建の絵を描いている訳ですが、早期に利益を出しての企業再建に信ぴょう性を持たせる計画づくりは「料金の値上げ」と「原発の再稼働」が前提条件にならざるを得ない模様です。しかもこの計画の提出と政府の承認はリミットが迫っている。だから今、急ぐ理由が見えないまま大飯原発再稼働に突っ走る以外にないのでしょう。

原発の再稼働なくして東電の再建計画は成立しない。ならば常識的には、福島第一の先行きさえ見えない現状下で原発の再稼働による世間の波風を避け、東電の再建計画は白紙化して破たん処理を検討したらいいと思いませんか。現政権の“政治屋的判断”が介入しないなら、そう結論づけられてしかるべきなのですが、どうも政治家ならぬ“政治屋”さんはそう単純にはいかないようです。

そこでその理由をさぐるべく、「風が吹いたら桶屋がもうかる」式に少し考えて想像してみます。東電の再建計画が成立しないなら、国による再建支援はとん挫する。国による再建支援がとん挫するなら、東電は破たん処理を余儀なくされ株主責任や貸し手責任が問われることになる。株主責任、貸し手責任が問われるなら、株主責任や貸し手責任を問われた膨大な者たちの恨みつらみが選挙票に影響する。それじゃ困るということになる。

しかも金融機関は不良債権が急増し、国としての対策が必要になる。金融機関対策が必要になって血税資本注入だなんだとなれば財務省が矢面に立たされる。それは困ると賢い財務官僚が東電を破たんさせた場合の最悪シナリオを政治家に提示して、国家危機をにおわせ脅しをかける。するとトロい政治家はまんまと東電再建ありきの結論に行き着いてしまう。これが今回の原発再稼働を後押しする「政治的判断(=政治屋的判断)」の大きな根拠に違いない、と私は思っています。

もちろんそれがすべてはないでしょう。原発ありきで我が国のエネルギー政策がここまで進んできた以上、株主や貸し手以外にも原発が再稼働しないと困る人や企業が世にたくさんいることは想像に難くない訳で、来るべき総選挙を視野に入れた場合今以上に票を逃がすようなことはしたくない、そんな民主党代表としての総理の別の「政治屋的判断」も多分に働いているのではないかと。

すなわち以上を総括すれば、既得権益堅持にからむ票の力学と官僚主導が世にはびこることで“政治屋的判断”が生まれおかしな結論に導かれてしまう。ハッキリ言って日本の政治が腐りきっていることが今更ながらよく分ってしまうのです。だからこそ邪悪な流れを断ち切るためにも今、政治主導を標榜したはずの現政権は、福島第一の悲劇を日本の現在のエネルギー政策の過ちとするのか否か、それを受けて今後の我が国エネルギー政策をいかに描くのか、明確なビジョンの提示が必要なのです。そのビジョンの下で、今をどうするのかが指し示されるのなら、“政治屋的判断”が入る余地のない原発再稼働議論が展開されるはずなのですから。

ビジョンなきところは様々な利権がツケいる隙だらけ。従い、ビジョンなきリーダーシップは邪(よこしま)なモノになりがち。原発再稼働の動きを巡る今の政治のあり様からは、企業経営にも通じるそんな真理を改めて痛感させられる次第です。

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