日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

谷亮子選手の「銅メダル」に思う

2008-08-09 | その他あれこれ
ヤワラちゃんこと、谷亮子選手5回目のオリンピックは銅メダルでした。

これに関して思うことを2点ほど。

まずは、柔道の審判裁定の基準のなさに重大な問題を感じました。今回の谷選手の負けは、最終的に相手に技を決められたものではなく、「消極姿勢」「組み手をとらない」といった、審判の主観的判断による“反則ポイント”での「劣性負け」でした。彼女の過去のオリンピックでの敗戦の試合は、明らかに相手側に技をかけられての「劣性負け」であり、見ている側にも確実に「勝負に負けた」という実感があったものです。

しかし今回はなんとも歯切れの悪い負け方でした。ちなみに男子の平岡選手も同様の“反則ポイント”わずか1点の判定負けで、全く同じ納得し難い負け方でした。谷、平岡両選手とも、相手が積極的に攻めていたかと言えば、決してそうではなく、両者に同様の“反則ポイント”があっても、逆に相手方にのみ“反則ポイント”があっても、おかしくはなかったように思います。その意味では、まさにその時々の審判団の“主観”に左右され、勝敗づけられたとの印象を強くしました。

でも、考えてみれば「柔道」は日本発祥の格闘技であり、その意味ではこの実に「あいまい」な判定方法は近年西欧人が作ったルールであるとしても、極めて日本的です。その意味では今回の件は、日本文化が導いた“実力封じ”のあいまいな競技ルールに、日本人が見事にはめられたということなのかもしれないという気がしております。国際競技して今や確固たる地位を築いた「柔道」ですから、判定基準の「見える化」はぜひとも早期に改善をはかってもらいたいと感じる次第です。

今一点はヤワラちゃんの銅メダルの価値についてです。どうも国民の期待が大きすぎて、「金」でなければ満足しないという評価基準と「ママ」という競技とは無縁の評価基準があり、彼女の銅メダルに対する「残念」あるいは「ママとして立派」から始まるマスコミはじめ国民的反応には、少しばかり疑問を感じております。本来オリンピックにおける個々のアスリートが獲得したメダルそのものの価値は、競技や選手のおかれた立場によって異なるものではないはずなのですから…。

実は私がこの種の疑問を感じたのは今回が初めてではなく、92年バルセロナ、94年アトランタ両オリンピックでのヤワラちゃんの連続銀メダルと、マラソン有森裕子選手の銀、銅メダルの、マスコミによる取り上げ方があまりに違った時点で、強く問題意識を感じていたのです。ご記憶の方も多いと思いますが、この時の主流世論はヤワラちゃん=「なんだ期待させて金じゃないのか!」に対して、有森=「本当によくやった、金にも匹敵する価値がある」ぐらいの違いがあったのですから。

これも言ってみれば、メダルに対する明確に見える「評価基準」をもたない日本人的な「あいまいさ」が生んだ論調であると言えるのです。根底にあるのは、先の「柔道の判定評価」と同じ類の“日本的文化”なのかもしれません。そう考えると、谷選手は田村の時代から今回に至るまで、確固たる「評価基準」を持たない「日本的あいまい評価」の一番の犠牲者であると思えてくるのです(今回は逆に「ママ」という日本的あいまいな基準でメダル獲得を誉めたたえられてもいますが、個人がブログ等で思いを伝えるのは別として、メディアが大々的にすべき評価ではないと思います)。

何をおいても、前回までのメダルの色はともかくとして、また「ママ」であるかどうかもとりあえずは傍らに置いて、見事に銅メダルを獲得した事実と16歳から32歳まで16年間にわたって5回のオリンピックでメダルを取り続けた、谷亮子選手の日本人アスリートそしての素晴らしく大きなその功績を改めて認識したいと思うのです。マスコミも世論もその点も含めて、「あいまい評価基準」に流されることなく、今こそ純粋に今回のメダル獲得をもっともっとたくさん称えてあげて欲しいと思うのです。

谷選手、本当にお疲れ様でした。今大会の銅メダルおよび5大会連続のメダル獲得おめでとうございます。

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