日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

孫氏「反骨の哀しみ」が透けて見えるSBロボット事業

2014-06-06 | ニュース雑感
私が子供の頃にはロボットを主役にした未来漫画が流行りました。その代表格が、「鉄腕アトム」と「鉄人28号」。この二つの正義のロボット・ドラマは似て非なるもので、私は幼いながらに「アトムは嫌い」「鉄人が好き」と思ったものです。

昨日ソフトバンクが、人間の感情を認識するという人型ロボット「ペッパー」の発売を発表しました。「ペッパー」は、周囲の状況を把握して行動をする独自のアルゴリズムや音声認識技術による“感情認識機能”を搭載しており、ユーザーの表情や声のトーンを 読み取って人の感情を推定して、感情に応じたさまざまな対応が可能になるといいます。予価198,000円。温かみを全く感じさせないルックスではありましたが、孫代表は、「将来的には愛を理解させたい」と熱く語っておりました。

ロボット事業はこれまでも、ソニーの犬型ロボット「アイボ」やホンダの二足歩行ロボット「アシモ」を代表として、他にもトヨタ自動車やグーグルなど、超有名企業がこぞって取り組んでいる事業分野でもあります。言ってみれば、将来への先行投資的な意味合いの強い事業領域であり、その事業への取り組みが社会貢献性を帯びてもいることから、一流企業の代名詞ともなりうるかのように感じられる分野でもあります。そんな観点から見てみれば、ソフトバンクのロボット事業参入には、孫代表お好みの一流の証を求める“反骨戦略”“成り上がり戦略”が見え隠れするわけです。

それはさておくとして、私が昨日の会見で一番気になったのは、温かみのかけらも感じさせないルックスの自社製ロボットに「将来的には愛を理解させたい」と言い放った孫代表の一言です。この一言から察するに、孫氏が「ペッパー」で夢想する先にあるのは、「鉄腕アトム」なのでしょうか。

「鉄腕アトム」は天馬博士によって開発された、人の心を持つロボットです。確かストーリー的には、交通事故で亡くした我が子の代わりとして開発されたのではなかったかと記憶しています。一方の「鉄人28号」は、その主題歌にあるように「良いも悪いもリモコン次第」という完璧な機械としてのロボットであり、感情や善悪の判断は全く持ち合わせていないものでした。そして幼少期の私の感情は、冒頭で申し上げた通り「アトムは嫌い」「鉄人が好き」だったわけなのです。

年端もいかない私の思いは、ロボットが「感情」を持つことへの拒否反応であったのかと今さらながらに感心します(笑)。そして今もその考えは変わることがありません。端的に言うなら私の思いは、人によって意図的に操作された機械の作られた感情で人の感情を動かして欲しくないということなのかもしれません。なんて夢のない穿った考え方なのだ、と思われる方もいるかもしれません。青臭いことを申し上げるようですが、私は機械は機械であるべきで、人の感情や愛情が純粋に機械で作りだせるもの、言いかえればカネで買えるものでは決してないと思います。さらに言えば、機械に人の思惑を刷り込ませた感情を持たせることは、SF映画の世界ではありませんが、その感情が人によってプログラミングされたものである限り悪意ある意思が入り込むリスクを否定できず、非常に危険なことではないのかとも思うのです。

孫氏の思惑の中に悪意はないとは思います。しかし、私の穿った見方かもしれませんが、氏の貧しさの苦労や差別への反骨が今の氏の地位を作り上げてきたように、今の氏の根底にあるものはその時代に培われた「やさしさ」や「愛情」への渇望感がそうさせているのではないかと思えてならないのです。そして、いかに多額の金銭的資産や、日本を代表する成功実業家の地位や、子供の頃から憧れたプロ野球団をその手にしようとも、どうしても得ることにできない周囲からの「やさしさ」「愛情」渇望に対する空虚感(あるいは、地位が上がれば上がるほどカネ目当てのヤツばかりが周りを取り巻く現状に対する空虚感)が、そうさせているのではないかと。

孫氏がロボットに「愛情を理解させたい」という気持ちは分からなくはないですが、それを現実にやろうとすることは間違っていると思います。福祉にロボットを役立てたいという思いがあるのならそれを否定する気持ちはありません。しかし、ことさらに「愛情を理解するロボット」を強調し、おカネで「愛情」が手に入るかのように喧伝するロボット事業の展開には賛成できないのです。孫氏が稀代の優れたビジネスパーソンであることに異存はありませんが、おカネですべてを手にできるかのような錯覚を感じさせるロボット事業への参入には、「それは違う!」と声を大にして申し上げたい気持ちになった訳なのです。

天馬博士が自ら開発したアトムを手放した理由は、いかに感情を持たせようともやはりロボットはロボット、息子の代わりにはならないと思ったからではなかったでしょうか(すいません、正確なところは覚えていません)。ロボットは機械として人の手助けをするものであり、感情的な部分まで人の代わりを務めさせようとするのは、時代は変われど誤りは誤りであるのだと。アトムよりも鉄人。人にとって必要とされる役に立つロボットは、今もそうあるべきであると私は思っています。

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