日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№96~忘れられた70年代最も成功した女性シンガー

2009-12-06 | 洋楽
70年代には今思うと「なぜ売れた?」と思しき女性ボーカルがいました。日本でもそこそこ売れていたヘレン・レディ。およそアイドルではないそれなりのお姉さん的お歳。しかもバツイチでコブつき(その後×がさらにふたつ増えたとか…)、歌は確かにうまいとは思いますがそんなに特別なレベルではありません。しかも、スタイルが良い訳でもないのに露出の多い衣装を好んで「ワースト・ドレッサー」に選ばれたりもしました(今の西川史子女史の金太郎ルックはまさにあの日のヘレンそのもの!)。そんな彼女ですが、72~74年にかけて3曲もの№1ヒットを放っています。

№96   「グレイテスト・ヒッツ/ヘレン・レディ」

デビューヒットは71年のA2「私はイエスが分からない」(全米13位)。翌72年にA1「私は女」が、当時アメリカで力をのばしていた「ウーマン・リブ運動」のテーマ曲的に取り上げられ見事№1に。翌73年にはタニヤ・タッカーがカントリー・チャートでヒットさせたA4「デルタの夜明け」をカバーしてまたも№1。その人気を不動のものとしました。74年には折からのブームにも乗って、ネオAOR的アルバム「フリー&イージー」をリリース。そこからは、自らも「アンダー・カバー・エンジェル」の№1ヒットを持つAORの旗手アラン・オディの作になるB1「アンジー・ベイビー」を3作目の№1ヒットとして送り出します(アラン・オディは長らく廃盤だったアルバム2枚が、いよいよ今月国内紙ジャケ化されます)。

同アルバムからのセカンド・シングルB2「エモーション」、75年の次作アルバム「さめた心」からのシングルA6「ブールバード」B5「さめた心」「夜どこかで(本作収録なし)」あたりは完璧なAORノリでして、今聞いてもなかなかな出来であります。全キャリアを通じても彼女のピークとも言えるこの時期の2枚のアルバム「フリー&イージー」「さめた心」の出来は、群を抜いていると思います。「ブールバード」はレオン・ラッセルが75年のアルバム「鬼火」で発表した新作、「夜どこかで」は「マンディ」の作者がバリー・マニロウに書き下ろした当時の新作を、リアル・タイムでカバーしたものでした。そうやって考えると、彼女が優れていたのか、スタッフが優れていたのかは分かりませんが、先の№1ヒット「デルタの夜明け」もしかり、とにかく良い楽曲を目ざとく見つける“選曲眼”は一流で、彼女の人気を支えていたのはその確かな目にあったと言って間違いないと思います。

このアルバム「グレイテスト・ヒッツ」は75年、彼女の最盛期を記録すべくリリースされました。全12曲デビューからアルバム「さめた心」までのヒット・シングルナンバーばかりで構成された、まさしく彼女のベスト・オブ・ベストです。アルバムの最高位は全米チャートの第5位。これは彼女の全アルバム中最高位を記録したものでもあり、やはり彼女はアルバムよりはシングルで聞かせるシンガーであったと改めて思わされる事実でもあります。

また彼女はオーストラリアの出身で、その点から言えば同国出身でその後世界的シンガーとなるオリビア・ニュートン=ジョンの先駆的役割を果たしたとも言そうです(ヘレンはオリビアのアメリカ・デビューを手伝い、非常に仲が良いとも言われています)。「私は女」以降先の3曲の全米№1ヒットをはじめ、14曲連続でTOP40ヒットを放っており、オリビアが登場する以前においてはオーストラリア出身で最初に成功した女性シンガーであったでしょうし、さらに言えばオリビア以前において70年代に最も成功したソングライターでない女性シンガーであるとも言えるでしょう。

80年代以降ヒット曲に恵まれなくなり、彼女は活躍の場を徐々に女優業に移していったそうですが、日本では残念なことに以降現在に至るまで全く忘れられた存在になり下がっております。彼女のHPを見る限りにおいては、現在は故郷オーストラリア在住で、マイペースの活動をしているようです。ただ近影写真を見る限り、かなりしわがれの“おばあちゃん顔”になってしまっているのがオリビアとの大きな違いでもあり、なんとも寂しい限りではあります。