静聴雨読

歴史文化を読み解く

渡辺バヨリンさん

2013-03-28 07:30:29 | 音楽の慰め

 

このブログに掲載したコラム「渡辺茂夫と渡辺季彦」には大きな反響があった。このコラムを読んで横浜の放送ライブラリーを訪問した方、渡辺茂夫のヴァイオリンの音色にいまだに魅了されている方、渡辺季彦にヴァイオリンを習っていた方、やはりこのコラムを読んで渡辺季彦の死を知った方、などなど、実に様々な方が渡辺茂夫と渡辺季彦の生涯と事績に関心を持っておられるようなのだ。

最近、KさんとSさんから新たな情報がもたらされた。それを中心に述べてみたい。

茂夫が失意の帰国をしたのが、昭和33年(1958年)。落ち着いたのは、養父宅だ。この養父宅が西鎌倉だと当初思っていたのだが、白金の旧宅が正しいらしい。

Kさんは「5歳(昭和27年=1952年)から10歳(昭和32年=1957年)ころまで、渡辺邸に通って渡辺季彦にヴァイオリンを習っていた」とのこと。これは貴重な直接証言だ。

Kさん「帰国されてパジャマ姿でキッチンのテーブルに座っている姿を拝見しましたが、すっかり面影は消えていました。」

Kさん「私が社会人になって間もないころ(昭和47年=1972年ごろ)、バスで先生ご夫妻と一緒になり、家を売りたいというようなことを言っていました。」

そして、昭和50年(1975年)ごろ、西鎌倉に移住したらしい。

 

さて、白金の旧宅の位置だが、コラム「渡辺茂夫と渡辺季彦」では、テレビ・ドキュメンタリーに「三光町25」とある、と述べた。これに基づいて、旧芝白金三光町の東端、すなわち、現在の白金3丁目あたりだと推定していたのだが、これには、Kさんから異論が出た。Kさんによれば、現在の白金台5丁目だという。

旧芝白金三光町は非常に大きな町で、住居表示の変更(昭和43年)により、現在の白金3丁目・白金4丁目・白金5丁目・白金6丁目に分割されたと認識していたのだが、現在の白金台5丁目の大部分も旧芝白金三光町だったらしい。

 

現在の白金台5丁目に住んでいた知人のSさんにこの辺の事情を聞いてみた。

Sさんは渡辺邸について承知していて、詳しい位置まで教えてくれた。

Sさん「そういえば親から『渡辺バヨリンさん』と聞かされていたのを思い出します。」

ヴァイオリン教師の渡辺季彦と天才ヴァイオリニストの渡辺茂夫、だから「渡辺バヨリンさん」。

昭和の時代を想起させるエピソードではないか。これも、当事者だからこそ覚えている決定的証言だ。

 

以上から、渡辺邸が現白金台5丁目のどこかにあったことが明らかになった。

Kさん説「現白金台5-9」

Sさん説「現白金台5-9-5、旧芝白金三光町253」

 

すると、テレビ・ドキュメンタリーに「三光町25」(現在の白金3丁目あたり)とあったと述べたことと矛盾する。

私は、ふたたび、横浜の放送ライブラリーを訪れ、テレビ・ドキュメンタリーを観てみた。

渡辺茂夫がニューヨークから両親にあてたハガキが映し出されて、その宛書きに「251」「二五一」とあるではないか。私の記憶していた「25」とは明らかに違う。人間の記憶とはいかにあやふやなことか。私は自分の記憶力にあきれた。

 

以上から、渡辺茂夫と渡辺季彦の白金の旧宅は、現白金台5丁目内であることは確かだが、旧芝白金三光町251番地か253番地かは確定できずにいる。 (2013/1)

 



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