2月1日。
兄は、再び、腹水を抜いてもらうために、入院した。奥さんから電話があり、「医師から、『会わせておきたい人にはできるだけ早く会ってもらいなさい。』とアドバイスされた」、とのこと。
2月2日。
もう一人の兄と連れ立って、午後3時半、病院へ。
兄はベッドの上に起きて、迎える。顔が細くなり、亡くなった父の相貌に瓜二つなのに驚いた。
それから、これまでの経緯を話し始めた。その話しぶりはしっかりしていた。
その後、もう一人の兄に向かって、「お前は大丈夫か?」と聞く。
「前立腺を患ったが、検査の結果、(がんは)陰性だった。でも、2週間入院して、前立腺を削る手術をしたよ。今は、何ともない。」
「それは、よかった。」
私に向かっても、「お前は大丈夫か?」と聞く。
「高血圧と高脂血症の生活習慣病で薬を飲んでいるが、それ以外は何ともないよ。」
「それは、よかった。」
「ところで、母はその後どうしている?」
昨年9月まで、交代で母を見舞っていたのだが、その後の様子を気にしていたのだ。
「きょう、母を見舞ったが、とても元気だった。食欲も十分にあったよ。」
「それは、よかった。」
その後、「息子の先行きだけが心配で、それがなければ、俺は、いつ死んでもいいと思っている。」と兄はいう。それを聞いて、はっとした。これほど、死の覚悟ができているとは。
1時間ほどの面会時間の前半は起き上がった状態で、後半は臥せった状態で会話したが、思った以上にことばがしっかりとしていた。
午後4時半、退出。
2月6日。
確定申告のことが気になって、午後2時、病院へ。
「確定申告を手伝おうか?」
兄はうなずいて、「一昨年の・・・」という。つまり、「一昨年の控えを見れば大体わかるから。」ということをいったのだろう。
「xx万からxx万は戻るはずだ。」
「一昨年」を「おととし」ではなく「いっさくねん」といったのには驚いた。依然、ことばが丁寧だ。
時々、からだを起こすが、2月2日に比べると、衰弱の度合いが甚だしい。
午後6時、退出。
2月9日。
午前10時半、奥さんが医師に呼ばれ、「危ない」といわれる。
午前11時半、病院。
時々、起きたがる。
私を認めて、「悪いねえ。」という。二時間後には「ありがとう。」という。これが、兄から聞いた最後のことばになった。
午後6時、退出。
2月10日。
午前11時半、病院。酸素吸入器を装着。のどがぜいぜいと鳴る。10秒ほど無呼吸状態を続け、やがてふっと息を吸い込む。それの繰り返し。
午後1時、退出。
午後6時半、再び病院。状態は変わらず。
午後8時半、退出することにし、兄に「帰るよ。」というと、うなずく。
「帰っていいか?」と再び聞くと、左手の親指と人差し指で「○」を作る。「OK」のサインだ。そのユーモラスなしぐさに一同歓声を上げた。ふだんは、ユーモアの少ない兄だったのだけれど。結局、これが私の目撃した兄の最後の反応になった。
2月11日。
午後2時、病院。昨日とは変わって、規則正しい呼吸音。1分間に13回。眠ったまま。
午後2時半、血圧90-61。
午後3時半、清拭。
午後4時半、呼吸が10秒から15秒ほど止まる事象が起こる。それを繰り返した後、午後4時47分、呼吸停止。 (2010/2)
兄は、再び、腹水を抜いてもらうために、入院した。奥さんから電話があり、「医師から、『会わせておきたい人にはできるだけ早く会ってもらいなさい。』とアドバイスされた」、とのこと。
2月2日。
もう一人の兄と連れ立って、午後3時半、病院へ。
兄はベッドの上に起きて、迎える。顔が細くなり、亡くなった父の相貌に瓜二つなのに驚いた。
それから、これまでの経緯を話し始めた。その話しぶりはしっかりしていた。
その後、もう一人の兄に向かって、「お前は大丈夫か?」と聞く。
「前立腺を患ったが、検査の結果、(がんは)陰性だった。でも、2週間入院して、前立腺を削る手術をしたよ。今は、何ともない。」
「それは、よかった。」
私に向かっても、「お前は大丈夫か?」と聞く。
「高血圧と高脂血症の生活習慣病で薬を飲んでいるが、それ以外は何ともないよ。」
「それは、よかった。」
「ところで、母はその後どうしている?」
昨年9月まで、交代で母を見舞っていたのだが、その後の様子を気にしていたのだ。
「きょう、母を見舞ったが、とても元気だった。食欲も十分にあったよ。」
「それは、よかった。」
その後、「息子の先行きだけが心配で、それがなければ、俺は、いつ死んでもいいと思っている。」と兄はいう。それを聞いて、はっとした。これほど、死の覚悟ができているとは。
1時間ほどの面会時間の前半は起き上がった状態で、後半は臥せった状態で会話したが、思った以上にことばがしっかりとしていた。
午後4時半、退出。
2月6日。
確定申告のことが気になって、午後2時、病院へ。
「確定申告を手伝おうか?」
兄はうなずいて、「一昨年の・・・」という。つまり、「一昨年の控えを見れば大体わかるから。」ということをいったのだろう。
「xx万からxx万は戻るはずだ。」
「一昨年」を「おととし」ではなく「いっさくねん」といったのには驚いた。依然、ことばが丁寧だ。
時々、からだを起こすが、2月2日に比べると、衰弱の度合いが甚だしい。
午後6時、退出。
2月9日。
午前10時半、奥さんが医師に呼ばれ、「危ない」といわれる。
午前11時半、病院。
時々、起きたがる。
私を認めて、「悪いねえ。」という。二時間後には「ありがとう。」という。これが、兄から聞いた最後のことばになった。
午後6時、退出。
2月10日。
午前11時半、病院。酸素吸入器を装着。のどがぜいぜいと鳴る。10秒ほど無呼吸状態を続け、やがてふっと息を吸い込む。それの繰り返し。
午後1時、退出。
午後6時半、再び病院。状態は変わらず。
午後8時半、退出することにし、兄に「帰るよ。」というと、うなずく。
「帰っていいか?」と再び聞くと、左手の親指と人差し指で「○」を作る。「OK」のサインだ。そのユーモラスなしぐさに一同歓声を上げた。ふだんは、ユーモアの少ない兄だったのだけれど。結局、これが私の目撃した兄の最後の反応になった。
2月11日。
午後2時、病院。昨日とは変わって、規則正しい呼吸音。1分間に13回。眠ったまま。
午後2時半、血圧90-61。
午後3時半、清拭。
午後4時半、呼吸が10秒から15秒ほど止まる事象が起こる。それを繰り返した後、午後4時47分、呼吸停止。 (2010/2)