静聴雨読

歴史文化を読み解く

NHKの勘違い

2010-12-31 08:04:03 | 社会斜め読み

解約受付時のNHKのコ-ルセンターの対応については、背景を説明しないとわからないところがあるかもしれない。次の部分:
「はい、どのような理由で解約されるのですか?」
「解約の理由を知らせる必要がありますか?」
「はい、単にNHKを見ないというだけでなく、テレビ受像機を処分されて初めて解約できます。」
「???」

放送法第32条(受信契約及び受信料)には、「1、協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備(中略)を設置した者については、この限りでない。」という条文があり、NHKは、これを盾にとって、「テレビを買ったか、もらったかして、持っている者は、NHKを視聴するかしないかにかかわらず、受信料を支払わなければならない。」と主張している。
その流れで、解約するには「テレビを処分したことを証明せよ。」と解約希望者に迫っているわけだ。

ハードウェア(テレビ)の所有とコンテンツ(テレビ番組)の視聴とは、まったく無関係で、テレビを持っているからNHK視聴料を払え、という論理はいかにも不合理だ。

放送法については、自民党政権下でも、民主党政権下でも、この理不尽な法文を正そうとする動きを聞かない。これも不思議なことだ。また、社会民主党や日本共産党の野党が改正に動いたという話も知らない。

NHKが、ペイパー(受信したいものだけが契約して受信料を払う)の原則に従って、民間企業並みの経営努力をするよう、現行の受信料制度は早く改正すべきだ。それが、NHKの放漫経営を是正し、視聴者本位の番組制作に向かわせるきっかけとなるだろう。  (2010/12)


郵便事業会社の勘違い

2010-12-29 07:04:24 | 社会斜め読み

郵便事業会社の集荷受付とNHKの解約受付で遭遇したコールセンターの応対ぶりを紹介したが、ここでコールセンターはどうあるべきかを考えてみよう。

まず、郵便事業会社の集荷受付の例。

ここでの問題は、大口顧客と普通のお客との区別をつけていないことだ。おっと、これは表現が正確でないかもしれない。「料金後納」のお客と普通のお客との区別をつけていない、というのが正しい。

一日に5個も10個も集荷を依頼する「大口顧客」との間では、郵便事業会社は特別のプロトコルを築いているものと思う。集荷時間、決済方法はあらかじめ両者で取り決めているに違いない。だから、集荷依頼の電話さえ不要になっているはずだ。

一方、月に5-6個の集荷依頼しか出さない「料金後納」のお客の扱い方について、郵便事業会社はルールを定めていないらしい。その証拠に、「料金後納」のお客に「お客様番号」を発行する手間さえかけていない。したがって、コールセンターは、受ける集荷依頼が、「料金後納」のお客からなのか、普通のお客からなのか、判別する手段を持っていない。それで、「お客様のお名前からお願いいたします。」という冒頭の切り出しになるわけだ。もし、「お客様番号」があれば、「もしもし、xxxx番のyyyyですが」と聞くだけで、後は、希望集荷時間を聞くだけで、集荷手配がかけられるはずだ。現状を知っている郵便局員の話では、コールセンターは、お客から聞き出した情報を手で紙に記録して、それをもって集荷手配するということだ。「料金後納」客の顧客管理・顧客サービスのためのコンピュータ化などは毛頭考えていないらしい。

「料金後納」客から見れば、たまに集荷を依頼する普通のお客と同じに見られて、毎回住所・氏名などの情報を話さなければならないのはいかにも辛い。 (2010/12)


枯れるワザ

2010-12-27 08:32:57 | 身辺雑録

仕事中心の生活を終え、「第三の人生」ともいうべき人生の後半期にさしかかれば、その生き方も自ずからそれまでとは違ったものが求められる。

典型的な「第三の人生」の生き方として、親や配偶者の介護に明け暮れる、病いを得て療養する、ボランティア活動に汗を流す、日々悠々自適に好きなことをして過ごす、などが挙げられるが、これらの生き方に求められる共通の要件があるように思う。それは何か? 一言でいえば、それは「いかに枯れるか」だと思う。

「枯れる」といっても、単に「老いる」のとは違い、例えば「ドライフラワー」のように、生花とは違った魅力を醸すような成熟の仕方が、本来の「枯れ方」なのだろう。

ここで、うまく「枯れる」ための要件を挙げれば;

1。「浮利を追わない」こと。
未公開株への投資話にだまされたという話がよく出る。うまい話などないと気づくべきだ。

2。「覇権主義」から脱すること。
覇権を追い求めないこと。代わりに、名誉を求めること。

3。尽くす対象を見失わないこと。
退役して社会への貢献が終わり、親を看取り終わって家族への貢献が終わると、本当に生きる目標を見出すことが難しい。ボランティア活動は、社会への貢献を実現する数少ない生きがいとなる。

4。打ち込む対象を持ち続けること。
多人数で楽しむ趣味、夫婦で楽しむ趣味、一人で楽しむ趣味。これらをそれぞれ持つのが老後を生き生きと過ごす秘訣だといわれるが、趣味は多ければ多いほどいい。

5。あるがままの生を受け入れること。
健康の不安、身近なものに先立たれる喪失感、人生への後悔などが織り交ざって襲い来るのが人生の後半期だが、それを受け入れることが大事だ。

こう書いてくると、「枯れる」ことは並大抵のワザではない。世の中を見回してみても、上記の1から5までを達成している人は数えるほどだということがわかる。まことに生きることは難しい。(2010/12)

参議院選挙制度の改革案

2010-12-23 07:09:20 | 社会斜め読み

参議院議長の西岡武夫氏が、参議院選挙制度の改革案を公表した(2010年12月22日付朝日新聞朝刊)。西岡議長は民主党の出身だが、出身会派にとらわれない発想をする点に注目している。

西岡氏の案は、従来の都道府県別の選挙区と全国比例代表区を止め、全国9ブロックに分けた比例代表区だけにするというものだ。私にとっては、「我が意を得たり」の思いがする。

実は、参議院を改組して「国民議会」とし、その議員は、来るべき道州制の実現を見据えて、ブロックごとの比例代表選挙にするという案を私は提案していたのだ(2010年8月、「道州制論議・5」)。その考えにまさに響きあうのが、9ブロックに分けた比例代表選挙の西岡氏案だ。

私の案では、ブロックを11に分けたが、これは、北海道特別州と沖縄特別区を設けたためで、基本の考えは西岡氏案と同じだ。

ブロックに分けた比例代表選挙の利点は、小選挙区に比べ、小政党にも議員を送り出すチャンスがある、という点だ。

一方、ブロックに分けた比例代表選挙では、第一党でさえ過半数を取ることは考えられないので、複数の党の連立が常態化することを頭に入れておかなければならない。

全国ベースの比例代表選挙に固執する勢力(日本医師会とかゼンセン同盟とか)は、ブロックに分けた比例代表選挙には当然反対だ。また、人口の少ない県(島根県とか徳島県とか)の選挙区当選者は、次の選挙での当選がおぼつかないので、ブロックに分けた比例代表選挙に反対する。

このような反対を押しのけて、ブロックに分けた比例代表選挙が実現するか。参議院の「鼎の軽重」が問われている。 (2010/12)

明治26年と平成20年

2010-12-21 07:39:26 | 現代を生きる

(1)北村透谷

私は滅多に元号を使わないが、あえて使えば、明治26年(1893年)2月、詩人・北村透谷は、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表した。今風に翻訳すれば、「生きるとはどういうことか?」といったところだろうか。時に、透谷24歳2ヶ月。

その中で、透谷は、山路愛山などの歴史家が主張する「世の役に立つことこそが生きる意義だ。」という説に反駁して、例えば、文学を発表することも生きることだし、日々生活することだって生きがいのあることだと、主張している。

透谷は、その時までに、すでに『楚囚之詩』(明治22年)や『蓬莱曲』(明治24年)などの詩を発表していたし、一方、石坂ミナへの崇拝ぶりが新しい近代人の人間関係だと評されてもいた。透谷にとって、社会的効用一辺倒の考え方は息苦しいものと映っていただろう。

「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表したすぐ後に、人生に煩悶した末に、透谷は自殺を企てる(明治26年12月)。
未遂に終わったものの、翌明治27年(1894年)5月再び自殺を企て、果てた。25歳4ヶ月の命だった。

この明治27年(1894年)の8月に日本は日清戦争を始めている。時代は「効率」という歯車によって回るようになった。透谷の自殺は日清戦争前夜を象徴する出来事となった。  

(2)藤村 操

明治27年(1894年)-明治28年(1895年)の日清戦争に勝利した日本は、未曾有の戦勝景気に沸き、急激に近代国家への道を歩み始めた。「戦後経営」期と呼ばれる時期である。明治30年(1897年)官営八幡製鉄所が設立され、明治34年(1901年)には、操業を開始した。日本資本主義の確立の画期となる出来事である。

そんな中、ある一高生が日光の華厳の滝で自殺を遂げた事件が報道された。明治36年(1903年)5月のこと。

藤村 操、満16歳10ヶ月。

気になって、インターネットで少し調べた。

彼は、滝の近くの楢の木を削り、「巌頭之感」と題する辞世の文を残したらしい。
もう著作権は消滅しているだろうから、その全文を書き写してみる。

「巌頭之感
悠々なる哉天襄、遼々なる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす、ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを値するものぞ、万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。」

彼は生きることの道理を誰も教えてはくれない、といって生を絶ったのだが、エリートの一高生の自殺に世は騒然としたという。一高教授だった夏目漱石は藤村 操の自殺を聞いてうろたえたという。

今振り返ってみると、ある奇妙な事実に突き当たる。

彼が「巌頭之感」を記すために削った楢の木の表面積は縦200cm、横50cmほどの大きさだ。
これだけの表面積を準備して、「巌頭之感」を書くか彫るか(どちらか確定できないが)するには一日や二日では足りず、相当の日数をかけたに違いないのだ。

ここに、いかにも一高生らしい自己顕示欲が表われていないだろうか?  
藤村 操の自殺は日露戦争(明治37年=1904年=開始)前夜を象徴する出来事となった。

(3)「アキバ男」

明治26年(1893年)、北村透谷は「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表し、「効率」一辺倒でない生き方を提起した。
また、明治36年(1903年)、藤村 操は「生きることの道理を誰も教えてはくれない」と不満を訴えた。

ともに、人生に煩悶した末に、自殺を選んだ。

さて、ひるがえって、平成20年(2008年)の現在、人は生きることの意味を見出しているだろうか?

東京・秋葉原の歩道に車を突っ込み、その後、刃物で通行人に切りつける事件を引き起こした「アキバ男」は、彼なりの人生への煩悶ぶりを見せていたらしい。

進学校の高校に入るも、勉強をしようとしなかった。
進路を、好きな自動車に関わることに決めて、自動車整備の短期大学に入るも、卒業までに、誰もが取得する「自動車整備士」の資格さえ取らなかった。
自動車部品工場で派遣工として働くも、「世間はオレを評価していない」と鬱屈する。

「アキバ男」はこの鬱屈をケイタイの「ブログ」に披露する。このブログを読んだ誰かが自分の暴走を止めてくれるのではないか? ところが、たまに、そのブログに反応があると、彼はたちまち反発し、再び自らの殻に閉じこもったという。彼は秋葉原の事件を引き起こす直前まで、出口のないブログへの書き込みを続けていた。

ブログへの書き込みには自己顕示の要素がある。ちょうど、華厳の滝の傍らの楢の木に「巌頭之感」を記すのと同じ自己顕示である。

「アキバ男」を特徴づける「派遣工」と「ブログ」はまさに現代の象徴だ。生きる悩みの発生する場所とその悩みを披露する場所。彼は、その意味で、現代の悩める人間の象徴だといえるかもしれない。

北村透谷や藤村 操はその悩みを自殺で終結させたのだが、「アキバ男」は少し違う。違いは「他人を道連れにして、破滅しよう。」 ああ、何という錯乱だろう。 (2008/7-9)

「アキバ男」と同様に、自らの生きる意味を喪失し、しかし、自殺する勇気を持たない人間が引き起こす事件が後を絶たない。常磐線・荒川沖駅頭で刃物をふりかざして通行人を殺傷した男、常磐線・松戸駅前のバス内で刃物をふりかざして乗客に襲い掛かった男。
いずれも、「襲う対象は誰でもよかった。」と言っているらしい。

現代は、自殺者の多さが目を引くが、ここには、自殺さえもできない「自殺予備軍」が控えていることが顕在化している。 (2010/12)


噺家になりたかった

2010-12-19 07:02:49 | 身辺雑録
人の世はままならぬ、とはよくいったもので、私たちの人生はままならぬことに満ちています。

人生を、青年・壮年・老年と分けてみましょう。これに、金・暇・力を割り振ってみます。この場合の「力」は、権力というよりも活力・エネルギーを指しているといった方が判りやすいと思います。

青年期には、人は、暇があり、力に満ちていますが、いかんせん、金には恵まれません。
壮年期には、金巡りがよくなり、力に溢れていますが、暇を見つけるのは容易ではありません。
老年期には、やっと暇に恵まれ、金にもそこそこ困らない生活が営めても、残念なことに、力に衰えが見えてきます。

金・暇・力を三位一体で身につけることがいかに難しいことか。まことに人生はままなりません。

人生はまた悔悟に満ちていて、歳老いて後に、ああ、あの時こうしておけばよかった、とか、なぜあの時こうしなかったか、とか、思い起こしては悔やむことになります。「後悔、先に立たず。」とはよく経験する真理です。

さて、私は、現役時代はサラリーマンとして過ごしました。その過ごし方に後悔がなかったかといえば、評価は相半ばです。

経済的な安定という点では、サラリーマンは恵まれています。必要経費が少なくて済むからです。年収1000万円のサラリーマンの必要経費はせいぜい100万円、残り900万円は「粗利」です。

一方、自営業などで、900万円の「粗利」を稼ぎ出すためには、大雑把にいって、3000万円の年収が必要だと想像できます。

いわゆる「脱サラ」で飲食店を開業する人が後を絶ちませんが、「脱サラ」飲食店主が、サラリーマン時代と同額の「粗利」を手にしているケースは滅多にないと思います。「でも、好きな仕事に打ち込めるから、充実しています。」というコメントはよく聞きますが、これはやせ我慢でしょう。

サラリーマンほど恵まれた稼業は滅多にありません。

それで、サラリーマンとして過ごした人生が幸せであったか、という点については、いや、もっと別の人生があったのではないか、という思いが駆け巡ります。

現時点で整理すると、私の送りたかった人生は次の4つになります:

1 コラムニストとして
2 古本屋の主人として
3 博物館の学芸員として
4 噺家として

いずれも、サラリーマンとは全く別の生業です。

「コラムニスト」とは、「特定のジャンルについて、継続的に新聞・雑誌・メディアなどに記事を提供するジャーナリスト」といえるかと思います。これについては、2008年4月8日のブログで述べました。(「コラムニストになりたかった」)

「コラムニスト」への夢を果たせぬまま、今、思いがけず、「ブログ」という形式で、擬似コラムニストを演じているのが現在の私の姿です。

「古本屋の主人」は、退役後、趣味の範疇ですが、インターネット古書店を開業して、現在に至っています。(「『開業講座』の講師を勤めました」、2009年3月27日)

以上、二つは、部分的・限定的ではありますが、長年の夢を実現したことになります。 

美術館・博物館の学芸員とは、収蔵品の選定・獲得・保存・目録作りや、展示の企画・交渉・実施などを行う役職です。「歴史文化」を専攻するにはうってつけの仕事だと思います。

学芸員になるためには、まず、大学院で3年ほど専門の勉強をした後に、大英博物館などで下積みの修業を10年ほど積み、その上で、どこかの博物館の主任学芸員に迎えてもらう、というのが一般的なキャリア・プランです。

エジプトの考古学博物館、中国の三星堆遺跡博物館、パリの中世史美術館、バリ島や韓国の仮面劇の博物館など、興味ある博物館はいくつもあります。

ただし、ここで大きな問題があります。どこの博物館でも、学芸員の定員は極めて少なく、なかなか、就職の見込みがたたないことです。就職難を覚悟の上で学芸員を目指すかどうか、悩むことになりそうです。

学芸員の仕事については、目指せば、実現できる自信があります。
生まれ変わったら、一直線に、学芸員を目指すことになるかもしれません。 

そして、最後に残った憧れの職業は「噺家」、そう、落語家です。

小さい頃から、物見知りが激しく、まともにことばも発せなかった私には、噺家の、流暢なことばの運び方、絶妙な間の取り方は驚異の的です。どうしたら、あのような話芸を身につけることができるのだろう?

噺家への憧れは尽きることがありません。
しかし、生まれ変わって噺家になれるかというと、全くなれる見込みはありません。生まれ変わっても実現できないからこそ、噺家への尊敬がいや増すのです。

高座では、噺家は、「まくら」という前振りを講じます。本題に入る前のウォーミング・アップのための短いコントですが、これが、噺家ごとに個性が出て、興趣が尽きません。

何とか、この「まくら」を真似できないか、と考えることがあります。
ブログに載せるコラムの初めに、気の利いた「まくら」を置きたいと思い、試行していますが、錯誤の連続です。
それは、「まくら」は短くてエスプリがまぶされていなくてはならないからです。
この「エスプリ」こそが、噺家を噺家とさせている所以だとわかりました。 (2010/5-6)

優しい東南アジア

2010-12-15 07:07:15 | 異文化紀行
ヨーロッパが遠いと感ずるようになった今では、アジアが従来以上に身近に感じられる。かといって、中東やインドはやはり遠い。

アジアの中では、東南アジアの諸国に最も魅力を感ずる。多くの年金生活者が、タイやマレーシアなどに、長期滞在したり移住したりする心境が少し判りかけてきた。

まず、日本から比較的近い。東南アジアの諸国は成田から空路6時間ほどで行ける。逆にいえば、長期滞在したり移住したりした人が、急に、日本に帰るのにも適しているのだ。

次に、陽気がいい。特に、10月から3月にかけて、東南アジアの諸国は乾季で、日本の寒さと湿気から逃げ出すには格好の土地だ。

第三に、人びとが明るく、屈託のないのがいい。

第四に、物価の安いのがいい。

このように、東南アジアの諸国は日本人にとっては天国のようなものだ。

その内で、3つの国や地域を挙げるとすれば;

ベトナム:世界一やさしい人たちの国がベトナムだ。乾季を選んで、ハノイ・ホーチミンの都市のほかにも、中部のフエなどの歴史ある場所も訪れたいし、あのベトナム戦争は何だったのだろうと思いを馳せてもみたい。 

タイ:近年の政情不安でタイの人気はガタ落ちだが、ベトナムと並んで魅力のある国に変わりない。
アユタヤなどの歴史遺跡に行ってみたいし、かつての宗主国イギリスとの関係を振り返ったり、近隣諸国(カンボジャ・ラオス・ミャンマー・マレーシアなど)との付き合い方なども勉強してみたい。

バリ島:インドネシアの保養地だが、この地に根ざす民俗舞踊とそれに使う「仮面」に惹かれている。
ただ、火山活動の活発化、地震・津波の来襲、テロリズムの頻発、治安の悪さなど、訪問を躊躇させる要素も数多くある。

いずれは、ベトナムかタイに数ヶ月滞在してみようか。そんなことを考える。  (2010/12)


フランソワ・トリュフォー

2010-12-13 08:06:58 | 映画の青春

(1)神保町シアター

フランソワ・トリュフォー(1932-84)は、ジャン・リュック・ゴダール、クロード・シャブロルと並んでヌーヴェル・ヴァーグの旗手といわれますが、三人の映画手法はまったく異なります。ゴダール=破壊的・前衛的、トリュフォー=伝統継承的かつ前衛的、シャブロル=伝統継承的かつ家族的、という違いがあります。

トリュフォーの映画では、カメラは流れるように、シークエンスも流れるように、主題も家族・仲間・同志などが多いのが特徴です。代表作を一作だけ挙げるのは難しく、『突然炎のごとく』『アメリカの夜』『ピアニストを打て』『華氏451』などみな傑作です。

以上は、「私のバックボーン(近・現代外国人編)」というコラムで、トリュフォーについて述べたくだりですが、やや記憶から薄れかけたトリュフォーを呼び覚ます出来事が昨年秋にありました。東京・神田神保町の「神保町シアター」で、彼の没後25年を記念する回顧上映が企画されたのです。

トリュフォーは生涯に25編の映画を演出しましたが、そのうち14編を「神保町シアター」で見ることができました。

折角なので、プログラムを書き写しておきます:

・アントワーヌ・ドワネルの冒険を描く連作
1 『大人は判ってくれない』、1959年
2 『アントワーヌとコレット』、短篇、1962年
3 『夜霧の恋人たち』、1968年
4 『家庭』、1970年
5 『逃げ去る恋』、1979年
(以上5作は、トリュフォーの分身を連想させるアントワーヌ・ドワネルの少年時から30歳代までのスケッチです。)

・その他の作品
6 『あこがれ』、短篇、1959年
7 『ピアニストを撃て』、1960年
8 『突然炎のごとく』、1961年
9 『柔らかい肌』、1964年
10 『恋のエチュード』、1971年
11 『私のように美しい娘』、1972年
12 『終電車』、1980年
13 『隣の女』、1981年
14 『日曜日が待ち遠しい!』、1983年

今、14本のトリュフォー映画を見直してみると、長編第一作の『大人は判ってくれない』が圧倒的に優れているのがわかりました。文学者について、「処女作にすべてが胚胎している。」といわれますが、同じように、トリュフォーの長編映画第一作『大人は判ってくれない』には、彼のすべての美質が芽を出しています。 

(2)山田宏一

「神保町シアター」でフランソワ・トリュフォーの回顧上映を見た後、一冊の本を読みました。

 山田宏一『増補新版 トリュフォー ある映画的人生』(1994年、平凡社)

これが素晴らしい本だったので、それを紹介します。

これは、長年、トリュフォーと親しく接して来た著者の、「トリュフォーとその時代」ともいうべき評伝です。作家論ではありません。トリュフォーの来日時に学生であった著者は、通訳を勤めたそうです。それ以来、トリュフォーの文章を翻訳し、トリュフォーの映画に字幕を付け(「神保町シアター」で上映された14編のトリュフォー映画には、すべて「翻訳=山田宏一」のクレジットがありました)、トリュフォーにインタビューし、というように、トリュフォー漬けの日々を過ごしたようです。

そのような著者には、「トリュフォーとその時代」を語るにふさわしい経験の蓄積があります。

トリュフォーは少年時に親の愛に恵まれず、学業も嫌いな子になります。この点は、『大人は判ってくれない』にビビッドに描かれています。そういうトリュフォーは映画にのめり込みます。弱冠12歳で、自らの将来を映画監督に措定しています。
トリュフォーの後見人を引き受け、トリュフォーを映画界に紹介したのがアンドレ・バザンで、トリュフォーは生涯、バザンの死後までも、バザンへの恩義を感じ、バザンの顕彰に力を尽くします。この点は日本人の感性に極めて近いと思います。

トリュフォーの映画界でのキャリアは映画評論家として始まりました。クロード・オータン・ララやルネ・クレールなどの「既存の」大物監督をこきおろし、一方、ジャン・ルノワールやアルフレッド・ヒチコック、ハワード・ホークスなどのアメリカ映画の監督をほめちぎります。このような映画観がジャン・リュック・ゴダールなどの仲間に共通してあり、これが「ヌーヴェル・ヴァーグ」という潮流を生み出す原動力になりました。

やがて、監督に転じたトリュフォーは、家族・仲間・同志を主題に選びながら、「愛」を描く映画作家になっていきました。実生活でも多くの女性を愛し、その中にはカトリーヌ・ドヌーヴなどの女優もいました。
「反抗」から「愛」へ、というのがトリュフォーのたどった道で、彼の映画は彼の自画像のようなものです。

以上は、この本から得た知識ですが、この本の素晴らしさを要約すると:

1 「トリュフォーとその時代」の資料を広く博捜して、同時代の映画史の中にトリュフォーを浮かび上がらせていること。

2 トリュフォーへの親愛がにじみ出ていること。しかし、何でもトリュフォーを賛美するのではなく、一定の距離感をもって、トリュフォーの映画に接していること。

3 「反抗」、「愛」、「恩義」などの概念を抽出するのに成功していること。

おそらく、山田宏一『増補新版 トリュフォー』は、トリュフォーの評伝の中でも一番優れたものでしょう。フランス人による評伝よりもさらに優れている、と言っても言い過ぎではありません。 

(3)ゴダール

フランソワ・トリュフォーとジャン・リュック・ゴダール(1930-)。この二人はフランス映画の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手として、広く認知されています。

この二人は、映画監督としてのキャリアを始める前の経歴に共通するものがあります。共に、シネクラブ(映画上映運動)を主宰して、アメリカのハワード・ホークスやアルフレッド・ヒチコック、フランスからアメリカに渡ったジャン・ルノワールなどを称揚します。返す刀で、フランス映画界の既成勢力を鋭く否定しました。また、映画評論家としても、二人は頭角を現わしました。

映画監督としてデビューする前には、その準備段階として、二人はシナリオをいくつも書いたようです。

山田宏一『増補新版 トリュフォー』に面白いエピソードが紹介されています。ゴダールの監督デビュー作『勝手にしやがれ』(1959年)の最初のシナリオを書いたのが、実はトリュフォーだったというのです。
ゴダールはそれまで、何本も何本もシナリオを書きましたが、プロデューサーから却下されてしまいます。それで、トリュフォーがいつか自分で演出しようと温めてあったシナリオをトリュフォーから譲り受けたのです。その頃は、それほど、二人の仲は良かったようです。

もちろん、ゴダールはトリュフォーのシナリオを自己流に書き改めましたが、元になったアイディアやエピソードには、トリュフォーの残滓が刻印されているということです。
主人公のチンピラが、路上で死ぬ時に、自分で自分のまなこを閉じるシーンがありますが、このシュールな映像は明らかにゴダールのものですが、トリュフォーならこのシーンをどう演出したでしょうか。

トリュフォーの『大人は判ってくれない』とゴダールの『勝手にしやがれ』は、共に、1959年の製作です。

さて、その後、トリュフォーとゴダールは、1968年に、決定的な仲違いをします。この年は、フランスに「5月革命」が起こった年です。ゴダールは「5月革命」にコミットしましたが、トリュフォーは「5月革命」から距離を置きました。おそらく、それが仲違いの直接の原因でしょう。しかし、元を糺せば、監督として映画に取り組む姿勢の点で、二人は相容れなくなっていたのだと思います。トリュフォーは、家族・仲間・同志を主題に選びながら、「愛」を描く映画作家になっていったのに対し、ゴダールは映画そのものの破壊への道を突き進むようになりました。

トリュフォーがわずか52歳で早世したのに対し、ゴダールは生き延びて、今も生きていれば、80歳。何と、不可思議で不条理な二人の後半生でしょう。 (2010/1)

参考資料:

山田宏一『増補新版 トリュフォー ある映画的人生』(1994年、平凡社)
フランソワ・トリュフォー『わが人生 わが映画』(1979年、たざわ書房)
『ゴダール全集 全4巻揃い』(1970年・71年、竹内書店)
『ゴダール全評論・全発言Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1998年、筑摩書房)
ゴダール『映画史 Ⅰ・Ⅱ』(1982年、筑摩書房)


ある日のNHKとの対話

2010-12-11 07:43:02 | 社会斜め読み
「もしもし、NHKですか?」
「はい、コールセンターのxxが承ります。」
「解約をしたいのですけれど。」
「はい、どのような理由で解約されるのですか?」
「解約の理由を知らせる必要がありますか?」
「はい、単にNHKを見ないというだけでなく、テレビ受像機を処分されて初めて解約できます。」
「???」

「それでは、お客様番号をお願いいたします。」
「次に、住所、氏名、電話番号をお願いいたします。」
「そんなの、お客様番号から検索すれば判ることじゃないの。」
「念のため、裏づけを取るために、お客様からも伺っております。」

一通りのやりとりが済んだ後、コール・センターの係員は次のように宣(のたま)わった。
「それでは、お申し越しの住所に解約申込書をお送りしますので、それにご記入の上、ご返送願います。」
何と、解約申込書を受け付けて初めて解約が成立すると言っているのだ。アパートの賃貸契約の解約ではないのだ。

こんな公共サービス機関があっていいのだろうか?

NHKに解約依頼するのに要したケイタイからの通話料は280円、利用者負担だ。あきれてものが言えない。(実際は、書いているけれども。) (2010/12)


究極の本棚・2(コリン・デクスター)

2010-12-09 07:07:27 | 私の本棚
==左欄上の「文字サイズ変更」で、文字を大きくすることができます。==

老後の楽しみにミステリーを読むことを計画したのはいつでしたか? アームチェアに埋まって、のんびりと、頭の体操をするのは、時間の余裕のある時には無上の喜びとなります。

そう思っていたのですが、定年で現役を退く前に、この玉手箱を開いてしまいました。
ガイドブックを頼りに、ベスト100の50番くらいまで、片っ端から読みました。

その中では、レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』、マイケル・Z・リューイン『刑事の誇り』などのアメリカのミステリーやピーター・ラヴゼイ『偽のデュー警部』、アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』などのイギリスにミステリーに感銘を覚えました。
また、アメリカのミステリー(ハードボイルドのスタイル)とイギリスのミステリー(パズル・ストーリー)との味わいの違いを体得したように思います。

第2番:コリン・デクスターのミステリー

中でも最も気に入ったのが、ディック・フランシスとコリン・デクスターのミステリーでした。

ディック・フランシスは40冊ほどの作品を発表していますが、いずれも、競馬サークルをテーマにしています。騎手・調教師・装蹄師・予想屋など、競馬サークルに息づく様々な人々を取り上げて、ミステリーに組み込んでいます。

36冊まで読破しました。そこで、ディック・フランシスの断筆が発表されました。奥さんが亡くなったのです。彼はミステリーの構想を練るのに奥さんの協力を得ていたのではないか、と噂されていたのですが、彼の断筆は図らずもその噂を証明することになってしまいました。これも一つのミステリーでしょう。
その後、彼は執筆を再開しましたが、それは息子さんの協力を仰ぎながらのことだと、ご本人がいっています。

コリン・デクスターはオックスフォードを舞台にしたミステリーを14冊発表しました。いずれも格調の高いパズル・ストーリーで、私の読んだ中では、最高のミステリー作家であり、最高の作品群だと評価しています。
14冊発表したところで彼は断筆を宣言しました。ディック・フランシスと違って、コリン・デクスターが執筆を再開することはまずないでしょう。

今ではミステリーを読む楽しみを卒業してしまいましたが、コリン・デクスターだけは、機会があれば、再読してみたいと思っています。彼のミステリーは再読に耐えるだけの密度の濃さを持っています。いずれもハヤカワ文庫で容易に入手できます。 (2008/4)


タイトルを変えました

2010-12-06 14:04:50 | Weblog

ブログのタイトルを「晴釣雨読-歴史文化を読み解く-」に変えました。

2006年3月に「歴史文化を読み解くエッセー」と題してブログを立ち上げ、その後、「歴史文化を読み解く」と改題して現在に至りましたが、今回、「人生後半期の悠々自適な日常」を綴るにふさわしいタイトルに変更することにいたしました。

内容は、従来よりも、日常生活の報告の色合いが深くなりますが、歴史文化や芸術芸能に関するコラムも引き続き掲載するつもりです。

以上、突然のタイトル変更のお知らせでした。

EUとユーロの実験

2010-12-03 08:28:24 | 歴史文化論の試み

さて、現在のヨーロッパで最も注目すべきは、EUとユーロの行く末だろう。

1993年に発効したマーストリヒト条約によって誕生したEU(欧州連合)は、初めの「西欧諸国の連合」の性格を脱皮して、今や、27ヵ国が加盟する大連合に成長した。歴史・文化・言語・通貨が異なる国々がこれほどまで連合を組むとは予想できないことであった。

また、2002年には、欧州統一通貨として、「ユーロ」が発行され、EU加盟国のうち16ヵ国がユーロを採用し、ほかにも6ヵ国がユーロを導入している。「ユーロ」は、今や、ドルに次ぐ「第二の基軸通貨」と評されるまでになった。これもまた、大規模な通貨統合が実現するとは夢にも思わぬ出来事だった。

だが、統合地域が巨大化し、統合通貨が拡大するにつれて、その中で、歪みが否応なく露呈してくるのは避けられない。それは、EU内やユーロ圏内における国ごとの格差として現われる。上部に、旧「西欧」諸国が、そして、下部に、周辺の北欧・東欧・南欧諸国が、という二重構造が出来上がってくる。

そして、EUやユーロの安定を脅かしたのが、アイスランドに始まる周辺諸国であった。ギリシア、ポルトガル、ハンガリー、最近のアイルランド・スペインに見られるように、いずれも経済基盤の弱い国々が財政不安・金融危機・通貨不安の波に洗われた。これを解決するのは並大抵の努力では無理かもしれない。

改めて、EU統合と通貨統合の理念に各国が立ち返ることが求められる。それは何か、に答えることはできない。ただ言えるのは、現代のEUの実験・ユーロの実験は、はるか昔の中世期に、大西洋・地中海・カスピ海がとりまく広大な地域を「ヨーロッパ」として霧の中から浮かび上がらせた歴史的経験の再生のはずだ、ということだ。 (2010/11)