静聴雨読

歴史文化を読み解く

常識を疑え

2011-01-30 06:44:12 | 社会斜め読み
(1)老舗出版社も間違う

「常識とは何か?」とまず聞かれそうですが、細かい定義は追々明らかになっていくと思います。

私は若い頃、ジャーナリストにあこがれていた時期がありました。ジャーナリストのモットーは「現場に聞け」です。別のことばでいえば、「百聞は一見に如かず」です。人から聞いただけのこと、あるいは、書物に書いてあることを鵜呑みにせず、必ず現場に赴いて確かめなさい、という教えです。

この教えは応用範囲が広く、何か事を起こす時、何か書く時には、事前に確認作業を励行するように、というように解釈することもできます。製造業や流通業の社長さんが、インタビューを受けて、「努めて現場に足を運ぶようにしています。」と答える場面によく出会います。

私のコラムを例に引きますと、「チョウセンアサガオの不思議」というコラムを書いたことがあります。その中で、北隆館や平凡社の図鑑を引いて、チョウセンアサガオがチョウセンアサガオ属に属すると書きました。その後、尾崎 章氏の『エンジェルズ・トランペット』という園芸書を参照すると、チョウセンアサガオはブルグマンシア属とダツラ属に分かれ、私の日頃目にするチョウセンアサガオ(花は大きく、下向き)はブルグマンシア属のものだという記述がありました。つまり、北隆館や平凡社の図鑑は古い解釈をそのまま記述しているのでした。

他にも、チョウセンアサガオの開花時期が、北隆館や平凡社の図鑑では6月から9月としていますが、実際に私が一年間観察したところでは、「夏から初冬まで、開花時期は長い」ことがわかりました。

事典といえば、北隆館や平凡社は老舗中の老舗で、その記述を通常疑うことさえ考えられません。しかし、現実は、北隆館や平凡社でも、間違うことがあるのです。原因は明らかで、個々の事項の記述の確認に手抜かりがあったのでした。

ここでの教訓は、「権威を鵜呑みにするな」というものです。北隆館や平凡社でさえ、誤まることがあるのです。 

(2)日本人は勤勉か?

わが国の明治時代以降の急速な近代化と戦後の高度成長を達成した要因の一つが官僚制で、もう一つが国民の勤勉さであった、というのが「定説」となっています。今回は、この「定説」に挑んでみたいと思います。

官僚は、高級官僚(キャリア、とも呼ばれます。)と一般の官吏(ノン・キャリア、とも呼ばれます。)の二層構造になっています。これは、どの国でも共通のようです。

高級官僚は朝10時前後に出勤し、夕方には役所内での仕事を終え、夜は第二の仕事に向かいます。それは、政府高官や国会議員へのブリーフィング、外国要人との会食、関係業界の面々からの接待を受けること、などです。

一方、ノン・キャリアの官吏は朝8時半に出勤して、ルーティン・ワークをこなし、夕方からは、高級官僚からの指示があるかもしれないので、役所で待機するのが通例です。結局、帰宅するのが夜遅くなることが多いのです。

このような働き方を指して「勤勉だ」といえるでしょうか?

同じようなことは民間企業にもあり、「だらだら残業」と「サービス残業」ということばに象徴される働き方が慢延しています。残業時間x時間単価が残業代になるわけですから、残業時間を長くしたいと労働者が考えるのは自然です。

それでは適わん、と経営者が考え、一定時間以上の残業を認めない方針を打ち出します。
しかし、てきぱきと作業することに慣れない労働者はどうしても時間オーバーしてしまい、一定時間以上の労働を残業として計上しないという習慣が労使の暗黙の合意でできあがります。これが、「サービス残業」です。

労働の密度を上げるよりも労働時間を長くするという労使慣行がある限り、日本人の勤勉さに疑問符をつけざるを得ません。 

ある中央官庁の外郭団体(今でいう「独立行政法人」)に2年間ほど民間企業から出向したことがあります。その時の経験を綴ってみましょう。

最初に驚いたのが、ここには「遅刻」の観念がないことです。
朝、始業時の8時30分に出勤する人もいれば、9時30分に出勤する人もいます。
昼休みは12時から13時までですが、職員によっては、囲碁を打って13時30分に職場に復帰する人もいます。

打ち合わせとか来客との面会は、午前10時以降、午後2時以降に設定する理由はここにありました。

役員は、理事長、理事3名、監事のいずれも中央官庁からの天下りです。中には、ほかの外郭団体からの「わたり」で現職についている人もいます。

職員はプロパーが少しと民間企業からの出向者で占めています。
中に一人、異色の人材がいました。中央官庁の「キャリア」ですが、そこで不始末をしでかしたらしく、外郭団体に出されたということです。もう、中央官庁のキャリアに戻る道は閉ざされていて、聞くところによると、外郭団体から外郭団体へと渡り歩いて、現在は5つ目の外郭団体だということです。当然、有能で、彼がいれば、役員が何をしなくても済むようになっています。

官庁の予算編成の時期は、どこでもそうですが、外郭団体が最も緊張する時です。
幹部職員は役所からの資料請求や説明要求に備えて、待機します。それに合わせて、ノン・キャリアの一般職員も待機します。通常は待機していても何もすることがないので、囲碁を打ったり、将棋を指したり、冷蔵庫にしまってある酒を持ち出して、ちびちびやったりして、暇をつぶします。

やがて、時計が深夜を回って、禁足が解かれます。職員は、方面別にタクシーに分乗してご帰館です。

これが、「勤勉な日本人」の典型的労働のパターンです。 

(3)スペイン人は「怠け者」か?

「日本人は勤勉だ」と思い込んでいる人は、同時に、「スペイン人は怠け者だ」という偏見を持っていることが多いようです。

スペイン人の「シエスタ(午睡)」の習慣が誤解を生む原因の一つです。
スペインでは、朝10時から午後2時まで働いて、その後、午後5時まで長い昼休みに入ります。その間に、食事をしたり、「シエスタ(午睡)」を楽しんだりして、午後5時に再び職場に戻り、夜8時まで働きます。そのため、夕食は午後10時前後に取ることになります。

このようなスペイン人の生活習慣を指して、「スペイン人は怠け者だ」と指弾する日本人がいますが、それは大きな誤りです。

南国スペインの昼間は非常に暑く、仕事の能率が上がりません。それで、暑い昼間は働くのを止めて、休息に充てているのです。これは、スペイン人の合理的精神の発露にほかなりません。

労働時間を見てみると、スペインでは1日の実働時間が7時間(4時間+3時間)で、わが国の労働者が朝9時から昼休みを挟んで夕方5時まで働くのに匹敵しています。決してスペイン人は「怠け者」などではありません。労働の能率を上げるために導入している「シエスタ(午睡)」の制度を正しく理解すべきです。

日本とスペインの祝日数は以下の通りです;

 日本   :15日
 スペイン:10日

この数字を見て、「日本人は勤勉」で、「スペイン人は怠け者」と言えるでしょうか?  

スペインを旅行してみて、スペイン人が実に合理的精神に富んでいるかを実感しました。私の泊まった中級ホテルでは、どこでも、廊下の明かりは消されています。しかし、人が近づくと、明かりが灯ります。すなわち、人センサーを設置して、人がいる時だけ廊下を明るくする工夫をしています。

このシステムが、法律か条例で決まっているのか、ホテルが自主的に導入しているのか、判りませんが、どこのホテルでも一様に人センサー・システムを入れていました。それほど、節約の精神が浸透しています。

ひるがえって、わが国では、同じシステムをどこのホテルも導入しているとはとても言えないと思います。 

(4)フランス人は「ケチ」か?

さて、話変わって、角川文庫に『ポケット・ジョーク』(*)というシリーズがありました。二十数冊出ました。他国の国民性を冗談に仕立てるジョークに満ちています。その中で、「フランス人とスコットランド人はケチだ。」というジョークが数多く採用されています。これには、思わず、にやっとしてしまいます。

確かにフランス人は「ケチ」かもしれません。

日本の成田空港からヨーロッパに向かう飛行便は、現在では、正午前後に成田を立ち、夕方にヨーロッパ各地に到着するのがほとんどです。ロシアに上空通過料を払うことにより、快適な昼間便で無理なくヨーロッパに行けるようになりました。

ところが、エール・フランスは一日数便ある成田-パリ便のうち、1便を夜間便にしています。成田発21時55分-パリ着翌朝4時15分。

仕事で付き合いのあったフランス人のエンジニアがこの夜間便の愛好者でした。
彼に聞いてみました:
「昼間便でパリに帰れば楽なのに、なぜ夜間便を利用するのですか?」
「昼間便を利用すると、一日仕事をしないで過ぎてしまう。それがもったいない。夜間便を利用すれば、パリに帰ってすぐに仕事に戻れる。」

この回答には、いささか、度肝を抜かれました。彼は、エンジニアとして、時間について、極端な「ケチ」なのでした。

「ケチ」といえばけなし言葉ですが、「節約心に富んでいる」といえば、ほめ言葉になります。

ひるがえって、日本人のなかで、これほど、時間の使い方に厳格な仕事人がいるでしょうか? 

(5)国民性についての誤解

日本、スペイン、フランスの国民性を見てきました。
それぞれの国民の労働観が垣間見えて興味深いと思います。

日本人は、自らを「勤勉な国民」だと自己暗示にかけて、長時間の労働拘束を受け入れ、時には、それを楽しんでいるかのように振舞ってきました。その反面、能率よく働くという「労働の効率」にはあまり重きを置かない傾向がありました。それは今でもあると思います。

スペイン人は、またフランス人もおそらくそうですが、「労働の効率」を重視しています。だらだら働かない、働くときは集中して働く、という哲学がスペイン人とフランス人に共通しています。それが、「シエスタ(午睡)」の習慣や、夜間飛行便の利用に現われます。

かと言って、彼らは、「働き中毒」などではなく、空いた時間を享楽に充てる知恵にも長けています。その点を日本人が誤解して、「スペイン人とフランス人は遊んでばかりいる。」と言っているのです。

国民性を比較する時には、他国をけなしたり、他国の国民性を誇張したりしがちです。「スペイン人は『怠け者』だ。」というのはまったくの誤解に基づいて他国をけなす例で、「フランス人は『ケチ』だ。」というのは、フランス人の特性を面白おかしく笑い飛ばすための策謀です。

実際は、スペイン人もフランス人も極めて合理的な労働観を持つ国民で、それと同時に、労働時間以外の時間を楽しむのに長じた国民だというのが正確だと思います。この点を日本人は学習したらいいのではないでしょうか?

「常識を疑え」というタイトルに引き寄せれば、この場合は、「他国の国民性についての伝聞を疑え」となります。 (2010/4)


メール文の作法(私の文章作法・Ⅱ)

2011-01-28 07:09:16 | ことばの探求

世の中には、メール文の作法について多くの説が出回っているようだが、私の気になる点だけをピックアップしておきたい。

1. テキストの中に「あて先」と「発信人」を書くべし。

「あて先」もなしにいきなり用件を書く人、また、「発信人」を省略する人が多い。若者だけでなく、ビジネスマンにも広く見られる現象だ。
メール文には、個人あてのものと一斉放送的なものとがあり、この間の区別がつかないために起きる事象だと睨んでいる。
一斉放送的なものはともかく、個人あてのものには「あて先」を載せるだけで、親密感や相手への敬意を表現できるのに。

2. 電報文化から脱却すべし。

本文を短くするためなのかどうかわからないが、語尾を省略したり、名詞を羅列したりするメール文に出会うことがある。ケイタイでメールを打つようになって、この傾向はますます広がっている。
必死になって文章を短くするのは、その昔の「電報文化」の名残りではなかろうか。「イサイフミ」が「委細は手紙でお知らせします。」の省略形であることは、「電報文化」を知るひとには常識だが、現在、これほどまでにしゃかりきになって、文章を短くする必要があるのか。答えは、「そんな必要はない。」ゆったりと、思う存分、書きたいことを書けばいいのだ。  (2011/1)


便利(?)なのか

2011-01-24 07:33:47 | 身辺雑録

長い間、下痢に困っていた。といって、医者にかかるほどではなく、ただ毎日の軟便に閉口していただけだ。牛乳やヨーグルトを飲めば、途端に便意を催す。また、朝食後には決まって便意を催す。長い間、その原因はわからないままだった。

人間ドックを受診することが決まり、その一週間前から、酒を絶つことにした。すると、便に変化が現われるようになった。下痢が少なくなり、便が固まってきたのだ。日を追って、便が固くなっていくのが手に取るようにわかった。

何ということだ。下痢の原因は飲酒だったのだ。
その後も節酒を続け、便はますます固くなっていった。ついに、適度の固さを通り越して、お通じに困難を感じるまでになってしまった。

それで、胃腸科のクリニックの門を叩いた。医者から、便をうながす薬と便を柔らかくする薬を処方してもらって、今それらの服用を続けている。
しかし、便の固さを適度に保つのは難しい。下痢でもなく、便秘でもない状態を維持するのは、意外に骨が折れることだ。  (2011/1)

私の文章作法・Ⅰ

2011-01-22 07:54:23 | ことばの探求

ブログを始めてから文章を書くことが多くなった。一日おきに約1000字から成るコラムをブログに載せているので、一年に180本、18万字の文章を書いていることになる。昔風にいえば、四百字詰め原稿用紙で450枚の原稿を書いていることになる。これは、一冊の書物に該当するほどの量だ。

文章を書くことが多くなれば、自ずから、文章作法を気にするようになる。それを書いてみようと思う。

(1)翻訳表記の限界

一昔前の川柳に、「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」というのがある。
ドイツの文豪・ゲーテは、明治・大正時代には「ギョエテ」と表記されることが多くあった。昭和になって、それを笑って「俺のことか」と巧みに風刺したのが前述の川柳だ。

ゲーテのドイツ語表記は Gothe  。ただし、 o にはウムラートがついている。ウムラートのついている o は、「オ」と「エ」の中間で、日本語にはそれを表記する文字はない。それで、先人は苦労して、「ギョエテ」という表記法を編み出した。「ゴエテ」とすれば、さらにドイツ語の表音に近かったかもしれない。

しかし、「ギョエテ」にしても「ゴエテ」にしても、原音を十分に表記できているとはいいがたい。

ひるがえって、「ゲーテ」はどうだろうか?
「オ」と「エ」の中間のウムラート付きの o に忠実であることをあきらめて、「エ」に寄せた表記が「ゲーテ」だ。思い切りがよくて、日本語としても発語しやすいので、現在定着している。
しかし、ドイツ人は「ゲーテ」と発語していない。

つまるところ、「ギョエテ」も「ゲーテ」も、ウムラート付きのGothe を正しく表記できていない点で五十歩百歩だといえる。冒頭の川柳は、卑俗な表現を使えば、「目くそ、鼻くそを笑う」の典型だ。

日本語にない発音の例では、英語などの v がある。violin はヴァイオリン。このように、 v には「ヴ」を充てる方法が比較的浸透している。「ヴ」は日本語にない文字だが、世に受け入れられたのは、子音のせいかもしれない。
ウムラート付きの o のように、「オ」と「エ」を無理やり圧縮して一つの文字にすることは、日本人には馴染まなかったのだろう。 
            
(2)厳密さを追求するのはあきらめよう

「ギョエテ」も「ゲーテ」もドイツ語の原音を十分に表記できていない、と前回述べた。
それではどうするか?
私の答えは、厳密さを追求しない、だ。さすがに「ギョエテ」は時代遅れだとしても、「ゲーテ」でも「ゴーテ」でもいいじゃないか、と思う。また、「バイオリン」でも「ヴァイオリン」でも、どちらでもいいではないか。

もう一つ、外国語の日本語表記で頭を悩ますのが、長音の取り扱いだ。

ギリシアの「ソクラテス」は、実は、「ソークラテース」と表記した方が原音の表記に近いそうだ。「プラトン」も「プラトーン」。しかし、日本語表記では、これまで、「ソクラテス」・「プラトン」が圧倒的に優勢だ。

この長音の省略は、ほかの地域の言語の日本語表記に広く見られる現象で、インド・アラビア・ヨーロッパの諸言語の長音を忠実に日本語に移していない場合が多い。どうも、日本語は長音を苦手としているらしい。

できるだけ原音に忠実に日本語表記すべきか、従来の長音省略の趨勢を追随するか、は人により意見の分かれるところだろうが、私は、どちらでもいい、むしろ、広く浸透している方式を無理やり変更するほどのことではない、と思っている。

日本語は外国語と違うこと、外国語の音を完全に日本語で表記することは不可能なこと。以上を踏まえて、外国語の音の日本語表記を考えればいい。・・・どうもつまらない結論になってしまった。 

(3)体言止めの採用

私の文章は硬いといわれる。その通りで、自分でもいやになる。

コラムの文章は、「である」・「だ」調を使うか、「です」・「ます」調を使うか、二通りだが、いずれの場合も、普通に記述すると、「・・・である(です)。したがって、・・・である(です)。しかし、・・・の場合には、・・・である(です)。まったくもって、・・・だ(です)。」というような文章の運びに陥りがちだ。これが硬さを印象付けることになる。なんとか改善できないか。

そう考えて思い当たったのが、「体言止めの採用」である。
「最近、はまっているのが海釣りです。」というかわりに、「最近、はまっているのが海釣り。」という塩梅に、終わりの動詞の「です。」などを省く手法である。

この「体言止めの採用」は、新聞の文章で多用されている。
近年、新聞の活字が大きくなり続けている。それに伴って、収録できる文字数は減り続けているのだ。そのため、新聞の文章では、なりふりかまわず、「体言止めの採用」に走っている。そういう実際的な要請による「体言止めの採用」であったが、副作用として、文章が引き締まる効果をもたらしたといってもよいと思う。

後者の効果をねらって、「体言止めの採用」を試みているところだ。
しかし、「体言止めの採用」を使いこなすのは難しい。現に、この文章でも、「体言止めの採用」はどこにも現れない。意識して用いないといけないらしい。 (2008/9-11)

函・帯・月報

2011-01-18 07:12:15 | BIBLOSの本棚

愛書家の間で、また古本屋の間で、扱いがやっかいなもの-それが、本の函・帯・月報です。いずれも、わが国の出版文化に根付いた独特の習慣で、外国の本にはあまり見られない現象です。これを書いてみましょう。

(1) 函

わが国では、実用書などの雑本を除くと、本に函がついていることが多い。特に、全集やシリーズものには必須のアイテムといえます。

函の実用的な功徳は、本を汚れなどから防ぐことが挙げられます。実際、函は汚れているが、本は驚くほどきれい、というケースがしばしばあります。

一方、本に函を付けると、当然のことながら、コストがかさみます。例えば、函なしで4000円の定価の本は、函を付ければ、4800円ほどに高騰します。愛書家はこのような負担増を強いられています。

また、函を付けると、本の厚さが増します。函なしで20mmの厚さの本が、函を付ければ、25mmの厚さに変貌します。この5mmの差が、愛書家を悩ませます。愛書家は多くの蔵書を棚に並べるのが楽しみですが、函のおかげで、並べられる本が少なくなってしまいます。

このように、函の存在は、いいことがある反面、デメリットも多いのが実情です。

わが国の出版業界で、函を付ける習慣がどうしてできあがったか、わかりません。個人的には、「函などなくてもいいのに。」と思っています。 

(2)帯

「帯」とは、本の外回りにかぶせるものです。本の高さの1/3か1/4の幅の紙に、その本の推薦文などが記されていて、新刊書店で客の注意を引く道具として効果があるとされています。

本に帯をかぶせる習慣は、わが国では広く行渡っていますが、外国の本ではあまり見かけません。

この帯が、本を扱う人にとっては、すこぶるやっかいな代物です。

まず、帯は破れやすい。
本棚に本を収納する時、帯付きの本の隣りにつめて新しい本を納めようとすると、帯の上端部に引っ掛けてしまい、帯は破れます。これは、愛書家の誰もが経験していることです。

また、経年の本では、どうしてもヤケが進みますが、帯付きの本では、帯のかかった部分と帯のかからない部分とで、濃淡に分かれが生じます。

新刊書はともかく、古本では、帯はまったく無用の長物です。

ところが、古本マニアの中には、「帯は付いていますか?」とか「帯に破れはありませんか?」というふうに、帯の状態を気にする人が結構います。ところが、「帯を取ったら、水着の着跡のようになっていませんか?」と聞く古本マニアはあまりいません。不思議なことです。  

(3)月報

「月報」とは、全集やシリーズ物などに付録として付いているものの総称で、月報・付録・ノート・栞(しおり)など、呼び名は様々ですが、それらをまとめて「月報」と呼ぶのが出版界の習わしになっているようです。元々、全集やシリーズ物などは毎月1冊配本されることが多かったために、その付録を「月報」と呼ぶようになったのだと思われます。

この「月報」は読者に喜ばれます。個人全集では、「月報」に、その個人の友人・先輩・後輩・研究者などが、その個人にまつわるエピソードを記していて、興味をそそります。

『森有正全集』(筑摩書房)を例にとると;

「月報」は、「森有正をめぐるノート」と題されていて、各巻16ページほどの「大作」です。

第1巻の「森有正をめぐるノート」の目次を引くと;
 仏文研究室の森さん(中村真一郎)
 渡仏前の森有正先生(平井啓之)
 森さんのこと(小川国夫)
 <資料採録>人物点描(森有正)
 <書評再録>絶望と希望の輝き(杉捷夫)
 <資料>森有正のメモ帖から
となっていて、本篇を読む前のオードブルや本篇を読んだ後のデザートにぴったりの内容です。

森有正は自己を語ることが少なかった人ですから、周りの人の森有正観や森有正経験がより貴重になってきます。

このように読者にとって重要な「月報」ですが、書誌上の位置づけはあいまいです。例えば、図書館のカードに、「月報」がついていて、その目次は何々だ、と書いてあるのがどれほどあるでしょう?

また、「月報」はしばしば「無くなります」。「月報」は本に挟みこんでいるだけなので、愛書家でない人の手にかかると、どこかに飛んでいってしまうようです。古本市場に現われる全集やシリーズ物などではとくにその傾向があり、それが関係者を悩ませます。古本屋にとっては、「月報」が不揃いの全集やシリーズ物の価値は下げざるを得ません。また、愛書家にとっては、全集やシリーズ物の古本を求める時には、「月報」が揃っていることを確認する手間が増えます。まったくやっかいなことです。 (2010/7)
 

究極の本棚・3(万葉集)

2011-01-16 06:53:11 | 私の本棚

日本の古典からは、『万葉集』と『源氏物語』は是非「究極の本棚」に加えたいところです。

大学時代の友人の一人は、様々な点で私の先を颯爽と歩いていましたが、古典にも一家言持っていて、「『万葉集』だけ読めば十分だ。」と言っていたのを思い出します。当時はその意味を理解できませんでしたが、さすがに、今になれば、見当がつきます。宮廷貴族から防人まで、幅広い日本人の精神を具現したのが『万葉集』です。

第3番:中西 進『万葉集 全訳注 原文付 全5巻』(講談社)

万葉学の泰斗・中西 進にはおびただしい万葉集に関する研究書がありますが、一般人向けのものとして、この講談社文庫版(全5巻)の訳注本を読んでみたいと思っています。

「石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子 巻第八)

この歌に技巧を見出すのは難しいでしょう。技巧を必要としない歌作法が、広く宮廷貴族から防人までを一流歌人に仕立て上げた秘訣です。というところをじっくり味わいたいものです。

この本には全漢字の原文も付いていますが、それを飛ばして、歌そのものと若干の訳注だけを拾い読みしても、十分原典の香りをつかめるのではないか、と思います。

文庫本ですので、活字がやや小さいのが玉に瑕です。同じ構成で活字の大きい版(「ワイド判 岩波文庫」のような版)を出版してもらえるとさらにうれしいのですが。  (2008/2)

実は、中西 進『万葉集 全訳注 原文付』には、講談社文庫版のほかに、全1冊の机上版(講談社、昭和59年)も刊行されていることがわかりました。早速、古本屋で求めました。まるで、『広辞苑』のような分厚さです。こちらを「究極の本棚」に加えて、座右の書としましょう。  (2008/12)

さらに新しい発見。
中西 進『万葉秀歌 全2巻』(講談社現代新書、昭和59年)と中西 進『傍注 万葉秀歌選 全3巻』(四季社、2005年)が刊行されていることがわかりました。いずれも、氏の大学での講義をベースにした注釈書で、大変読みやすいと感じました。これらも、「究極の本棚」の候補にしておきます。  (2009/1)


おだやかな警告・3

2011-01-14 07:06:03 | 身辺雑録

生活習慣病の患者に対する医者の忠告は、「タバコは止めなさい。」「酒を減らしなさい。」「散歩をするといいでしょう。」の3つに決まっているようだ。

私の場合、喫煙習慣はないので、1番目はクリア。

酒を減らすのがなかなか難しい。4年前に、大幅な節酒に踏み切ったのだが、1年後に、飲酒を復活させた。きっかけは、「あまりに暑い夏だったので、ビールが飲みたくなった」ことだった。以来、酒量はそれまでよりも多くなった。

今回、人間ドックを前にして、期間限定の節酒をしていた。「人間ドックが終わったら、思い切り飲むぞ!」
ところが、人間とは現金なもので、人間ドックで便潜血の宣告を受けた途端、酒を飲む気分がすっかり萎えてしまい、以来、つきあいの場を除き、一人酒を嗜む習慣が途絶えた。

これからの目標は、「飲酒は週に1回」。以前は毎日飲酒だったから、飲酒量は1/7に大幅な削減だ。

毎日散歩することも、簡単なようで、習慣化するのが難しい。毎日1時間の散歩を是非習慣としたい。

「タバコは止めなさい。」「酒を減らしなさい。」「散歩をするといいでしょう。」―「ドクター」は決して強制はしない。この「ドクター」のことばを「おだやかな警告」と受け止める度量があるかどうかは、生活習慣病をかかえる患者自身にかかっているのだろう。 (終わる。2011/1)

おだやかな警告・2

2011-01-12 07:52:07 | 身辺雑録

昨年、この病院で、人間ドックを受診した。1年5ヶ月ぶりだ。
そこで、看護師から思わぬことを告げられた。「便に潜血が見られます。」
「ドクター」の勧めで、大腸内視鏡検査を受けることに決まった。検査は1ヶ月後。この1ヶ月はずいぶん長く感じた。うつうつと最悪の事態まで考え、心楽しまない時間だった。

胃カメラを飲んだことは何回かあるが、大腸カメラは初めての経験だ。
前日から下剤を飲んだりして大腸を空にする準備をし、当日の検査に備える。
検査そのものは20分ほどで終わった。

検査の間、モニターにカメラの撮影映像が映し出される。それをチラチラ見る。腸内といっても、きれいなものなのだなあ、と感心した。
検査後に、検査技師が「詳しくはドクターから後日お話がありますが、見たところ、何も写っていなかったようです。細胞の採取もしませんでした。」と話す。少し安堵した。

一週間後、消化器のドクターから一言、「何もありません。便潜血の理由ですか? 考えられるのは、ところどころに、いぼのような『憩室』ができることがあり、それが便の通過などによって、ポロリと取れ、それで微出血することがよくあります。」とのこと。 (2011/1)


おだやかな警告

2011-01-10 07:02:42 | 身辺雑録

人間ドックで受診するようになったのは30歳代からだと思う。かれこれ30年になる。初めは、勤め先の保健センターで、2年に1回、歳を重ねるにしたがって、毎年受診するようになった。

一方、生活習慣病をかかえるようになったのが40歳代。高血圧症と高脂血症で、以来、2ヶ月に1回のペースで薬を処方されている。

以上が、私のこれまでの医者とのつきあいであった。

10年ほど前から、ある病院で、人間ドックの受診と生活習慣病の受診を併せて行うようにした。

私の「ドクター」は循環器の専門医で、なぜこの「ドクター」を選んだか、記憶は定かでない。おそらく、風邪をひきやすい体質を訴えたために、循環器の専門医に割り振られたのではないか。「循環器」の時間枠で受診するのは恐縮なので、「総合内科」の時間枠で受診するようにしている。

「ドクター」は極めておだやかな紳士で、決して患者を責めるようなことばを発することはない。
私を診て、「ドクター」は、「γ-GTPが高いですね。アルコールをよく飲みますか? 減らした方がいいですね。体重が増えぎみですね。運動をなさるといいでしょう。」とおだやかにいう。それを聞いて、私は帰ってくる。2ヶ月に1回、同じようなルーティンを繰り返しているわけだ。 (2011/1)


岩波新書・黄版の魅力

2011-01-08 06:11:38 | BIBLOSの本棚
(1)「新書」の特徴

「新書」について話をしてみたい。そう、横11cm x 縦17cmの新書判の書物について話してみよう。男性なら背広のポケットに、女性ならハンドバッグに収まるコンパクトな判型で、文庫判(横11cm x縦15cm)と並んで、広く読者に受け入れられている。

多くの出版社は競って「新書」をシリーズ化して読者獲得競争を続けている。例えば、ベストセラーになった『バカの壁』(新潮新書)、『靖国問題』(ちくま新書)、『さおだけ屋だけがなぜ潰れないのか?』(光文社新書)、『国家の品格』(文春新書)、などはいずれも各出版社の新書のシリーズの一冊である。

「新書」はハンディな判型に加え、読者の知識獲得欲に訴えるコンテンツを用意して、読者を獲得していることがわかる。

「新書」の世界では、長らく「御三家」といわれる出版社が君臨していた。古くからある順に並べると、「岩波新書」・「中公新書」・「講談社現代新書」の3つである。この3つのシリーズには共通した特徴がいくつかある。

1. 読者の知識獲得欲に訴えるノン・フィクションのコンテンツがほとんどで、小説などのフィクションは少ない。
2. 執筆者に、実績のある長老・ベテランだけでなく、気鋭の若手を起用する企画が多い。
3. 書下ろしのものが多く、ほかのシリーズのコンテンツの再録や外国語の文献の翻訳は比較的少ない。
4. 1冊は200ページ前後に収まっている。
5. 読者層は男性に偏っているらしい。

先発の「岩波新書」がこの型を作り出し、「中公新書」と「講談社現代新書」が後を追いかけたというのが実情だ。 

(2)岩波新書の歴史

さて、いわゆる「新書」の原型を作り出した「岩波新書」の歴史をかいつまんで記す。

1938年 赤版開始 計101点刊行
1949年 青版開始 計1000点刊行
1977年 黄版開始 計396点刊行 (1987年まで)
1988年 新赤版開始 計1000点刊行
2006年 新赤版新装版開始 計76点刊行 (2007年5月現在)

実に累計2500点以上のコンテンツが刊行されている。
この中で、「岩波新書」の基盤を作ったのが、青版の1000点である。戦後まもなくの刊行開始で、以後の復興期・高度成長期に見合うように、読者の「知識への渇仰」を満たし続けてきた。私も、岩波新書・青版にはずいぶんお世話になった記憶がある。

青版に続く黄版(1977年 – 1987年)は、高度成長に伴う公害などに見舞われる時期に刊行されたが、396点の刊行で終了するという短命に終わった。
これは、端的にいって、黄版の経営が思わしくなかったのだろうが、外部からはわからない。

黄版に続く新赤版と新赤版新装版が順調に継続しているのに比べ、黄版の短命さが際立っている。

しかし、私はこの黄版に特別の愛着を抱いている。それはなぜか? 

(3)岩波新書・黄版の魅力あるコンテンツ

ここで、私の敬愛する岩波新書・黄版を何点か紹介して、コメントを加えてみよう。(並びは刊行順、番号は刊行順にふられたもの。)

15・16 加藤周一ほか『日本人の死生観』(*) :加藤周一がアメリカ人・カナダ人の研究者とともに、乃木希典・森鴎外・中江兆民・河上肇・正宗白鳥・三島由紀夫の6人の死生観を検証した討議記録だ。外国人の間にあって、外国人をリードすることができるという加藤の美質がよく発揮された仕事だ。

65 堀部政男『アクセス権とは何か』:「マス・メディアと言論の自由」という副題からもわかるように、言論の自由を確保するためには、だれでもマス・メディアにアクセスする権利を保障されねばならない、という法理をやさしく解説したもの。その後、堀部は情報化社会におけるプライヴァシー権について発言をひろげることになる。

73 堀田善衛『スペイン断章』(*):老年に入ってからスペインに長期滞在した著者の感想集。たしか、4年か5年にわたって、土地をかえながら滞在したはずである。良い意味でのコスモポリタンの真髄が理解できる本だ。

78 猿谷要『アメリカ南部の旅』:公民権運動の盛んだったころから、アトランタなどのアメリカ南部に張りついた著者の代表作。

82 坂下昇『アメリカニズム』:「Goddamn」「Shit!」「Go ahead」などのことばをキーにして、アメリカニズムの特質を探るもの。副題「言葉と気質」。

113・146・226・261・333・370 大岡信『折々のうた』:朝日新聞連載のコラムを収録したもの。古典から現代まで、日本の詩文学にたいする大岡の目配りはすごいものがある。

114 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』:取り上げているものは、軽業・生人形・講談・どどいつ・歌舞伎・落語・手品・壮士芝居・浪花節・戦争講談・琵琶・娘義太夫・新劇・洋楽。これだけ見てもわくわくする内容が窺える。

136 網野善彦『日本中世の民衆像』:日本史学界に旋風を巻き起こした著作。「為政者の歴史」から「民衆(平民と職人)の歴史」へという歴史像の転換を、わずか185ページの新書で述べきった網野の力業には感服するほかない。後に、網野は、同じ岩波新書に代表的著作『日本社会の歴史 全3巻』も著している。

172 石川博友『穀物メジャー』(*):トウモロコシなどの穀物の商取引を独占的に扱う穀物メジャーの実態を解き明かした画期的著作。 

206 臼田昭『ピープス氏の秘められた日記』(*):17世紀イギリス「紳士」が自らの生活を臆面も
なく綴った日記を紹介する異色のもの。「秘められた日記」だから書き込めた事柄の数々は、これがイギリスの「紳士」の一面なのかと、妙に納得させられる。現代イギリスの政界スキャンダルに通底するものがありそう。

219 伊佐山芳郎『嫌煙権を考える』:わが国の「公共禁煙」論議の草分け。

231 東野治之『木簡が語る日本の古代』:木簡の発掘が日本古代史の進展に大きな役割を果たしたことは有名だが、これは史料としての木簡の意義を説き明かした著作である。ちなみに、将棋の駒も発掘された木簡史料に多く含まれている。

242 神山恵三『森の不思議』:人間にとって森の働きとはどのようなものか、を知らせてくれる本だ。フィトンチッドに親しくなったのはこの本のおかげだ。

249 鹿野政直『近代日本の民間学』(*):官学に対抗する民間学を熱く跡付ける著作。ちなみに、鹿野自身も早稲田大学で研究する身で、官学に対する強烈な対抗心が研究の芯にある。『資本主義形成期の秩序意識』『近代沖縄の思想像』(*)や、堀場清子との日本女性史の共同研究など。

259 大江志乃夫『靖国神社』:軍事史研究者による靖国神社史。

310 三國一郎『戦中用語集』:「関東軍」「イエスかノーか」「大本営」「転進」「千人針」「学童疎開」「撃ちてし止まむ」「国体護持」など、十五年戦争の間に広く使われた用語を拾い出して解説した本。

318 若桑みどり『女性画家列伝』:女性による女性画家論。

325・326・327 丸山真男『「文明論の概略」を読む』:近代日本を代表する政治学者が、近代日本の代表的歴史文化論者・福沢諭吉を縦横に分析する本。

369 松井やより『女たちのアジア』:「女性記者として初めてアジアへの特派員となった松井やよりが、各地で出会った女たちの肉声を通して、アジアの女性解放の胎動を伝える」書。松井には、ほかに『市民と援助』などの著書もある。

書名の後に(*)のついた書目はすでに人手に渡ったものである。
絞ったつもりだが、19点27冊も挙がってしまった。  
            
(4)岩波新書・黄版への愛着

岩波新書・黄版に特別の愛着を抱く理由は何か? それを考えてみよう。

前回挙げた19点27冊から、いくつか特徴を引き出すことができそうだ。

まず、学問の最前線をわかりやすく紹介する本に惹かれる。
日本史の領域では、網野善彦の「民衆(平民と職人)の歴史像」の提出(『日本中世の民衆像」)、東野治之の「史料としての木簡の意義」の解明(『木簡が語る日本の古代」)、鹿野政直の民間学の提唱(「近代日本の民間学」)などは、いずれも、研究の対象(網野)・方法(東野)・拠点(鹿野)を新しい地点まで導いていることを知らせてくれる。

次に、高度成長に伴う公害などに見舞われる時期(1977年 – 1987年)を象徴する「権利意識の向上」を扱った書目に惹かれる。
「アクセス権」(堀部政男)、「嫌煙権」(伊佐山芳郎)、「アメリカ南部の公民権」(猿谷要)、「アジアの女性解放」(松井やより)、「女性画家の自立」(若桑みどり)などは、いずれも、新しい権利への目覚めをわからせてくれる。

三番目に、超一流の知性に触れる喜びが味わえる書目に惹かれる。
加藤周一ほか『日本人の死生観』と丸山真男『「文明論の概略」を読む』とは、ともに、共同研究や読書会の記録をまとめたものだが、討議の形態が加藤や丸山の思想をわかりやすく伝達するのに与っている。
また、堀田善衛(「スペイン断章」)は、加藤周一とともに、戦後日本を代表する国際派の知識人である。

四番目に、戦争の時期を掘り起こす仕事に惹かれる。
大江志乃夫『靖国神社』や三國一郎『戦中用語集』のほかにも、ビルマでの敗戦行を綴った手記(荒木進『ビルマ敗戦行記』)や原爆被爆者の証言(北畠宏泰編『ひとりひとりの戦争・広島』)などが岩波新書・黄版に入っている。
ちょうど、現在、沖縄における「集団自決」や戦地における「従軍慰安婦」に関して、日本軍の関与の有無・程度について議論が再び起こっていることを考えると、戦争の時期の出来事を正確に掘り起こすことの重要さを改めて感じる。

岩波新書・黄版は現在ではほとんどの書目が品切れになっているが、古本屋をまわると、楽に入手できるものがほとんどだ。気になる書目があったら、是非、探してみてほしい。
(2007/5-7)

参考資料:

鹿野政直『岩波新書の歴史 付・総目録 1938-2006』(2006年、岩波新書)   

コールセンターとは

2011-01-06 07:45:18 | 社会斜め読み

さて、郵便事業会社の集荷受付とNHKの解約受付で遭遇したコールセンターの応対ぶりを紹介したが、ここでコールセンターはどうあるべきかを考えてみよう。

郵便事業会社の集荷受付とNHKの解約受付。共通に違和感を覚えたのが、その受付に要した通話料が「利用者負担」だったことだ。わずか1000円の「ゆうパック」の集荷依頼に要したケイタイからの通話料が160円、NHKに解約を「お願い」するのに要した通話料が280円。おかしいではないか。

コールセンターの最もポピュラーな例は、おそらく、通販会社のコールセンターだろう。もちろん、通話料は通販会社持ちだ。商品を購入してもらうからだ。それと、郵便事業会社の集荷受付やNHKの解約受付とのどこが違うのか?

郵便事業会社の集荷受付では、サービスを購入してもらうのだから、通話料の利用者持ちは明らかにおかしい。
NHKの解約受付は受信料支払い者が一人逃げていくだけで、新たなサービスの購入につながらないので、通話料は利用者持ちでいい。これがNHKの論理か? 寂しい考え方だ。

さて、コールセンターへの通話料はコールセンター側が持つべきだという論拠は、実は、次の点にあると私は考えている。

コールセンターは、コールセンター側のペースで利用者とスムーズに通話する道具なので、利用者側にはそのペースに従うことが求められているのだ。
郵便事業会社の集荷受付の例で、最初に利用者の話した「もしもし。料金後納のゆうパック1つの集荷をお願いします。」のことばをコールセンターの係員がまったく記憶していなかったのは、最初の時点では、コールセンター側のペースになっていなかったために、係員の頭に残らなかったためだ。

コールセンター側のペースで行う通話の利用料はコールセンターが持つべきだというのが原則であるべきなのだ。その原則に照らしてみると、郵便事業会社の集荷受付とNHKの解約受付とで、通話料を「利用者負担」にしているのは筋が通らないことがわかる。

郵便事業会社もNHKも、民間会社とはいえない半官半民の事業体だ。それが、上に述べたことと関係がありそうなことは類推できるが、話が大きくなるので、今回はここまで。(2011/1)

リアル古書店のご案内(告知)

2011-01-04 08:46:21 | BIBLOSの本棚

このたび、「スーパー源氏」ならびに三省堂書店のご好意により、「BIBLOSの本棚」は、期間限定のリアル古書店を開設いたします。

 期 間:2011年1月5日(水)-2月28日(月)
 場 所:三省堂書店下北沢店 (小田急線・京王井の頭線 下北沢駅前 大丸ピーコック3階)
 時 間:10時-21時

出品する古書は、「詩とメルヒェン・美術・音楽・演劇・映画・芸能・遊び」のジャンルで、硬めのコンテンツを取り揃えました。

東京にお越しの節は、よろしかったら、下北沢まで足をお運びください。 (2011/1)

個人誌を作りました

2011-01-02 08:40:40 | Weblog


個人誌を作りました。

タイトル: 歴史文化を読み解く 第14集
       [Ozekia のブログから 2006/4 – 2010/3]

目  次:

Ⅰ 異文化紀行      湘南の四季
Ⅱ 社会斜め読み     長ねぎの恨み
Ⅲ BIBLOSの本棚  開業を目指す人に  
(表紙写真)「蝋梅」       (2011/1)