静聴雨読

歴史文化を読み解く

カースン・マカラーズ

2013-10-05 07:04:11 | 文学をめぐるエッセー

 

アメリカ南部の女流作家カースン・マカラーズ( 1917- 1967 )を読み始めた。THE LIBRARY OF AMERIKA が1巻ものの小説選集を出しており、そこに彼女の主要な小説5作が収められている。B6判相当で、827ページ。これなら3ヶ月もあれば読み通せるのではないか、という見当だ。

5作を発表順に並べると:

1940       The Heart is a Lonely Hunter (心は孤独な狩人)

1941       Reflections in a Golden Eye (黄金の眼に映るもの)

1943     The Ballad of the Sad Café (悲しみ酒場の唄)

1946       The Member of the Wedding (結婚式のメンバー)

1961       Clock without Hands (針のない時計)

 

ほかに、詩・短編小説・戯曲・エッセーなどがあるが、彼女を知るには上記小説5編で十分だろう。

 

なぜ、マカラーズなのか?

古くは、劇団民芸が、渡辺浩子の演出で『悲しみの酒場のバラード』を上演したのを観た印象が鮮烈に残っていること。

そして、最近では、夏になると隣家で繰り広げられる家族喧嘩がマカラーズの世界を思い起こさせること。一昨年と今年の夏がとくにひどかった。

 

このようなきっかけで、マカラーズを本格的に読んでみようか、という気になった。

 

マカラーズはアメリカ南部のジョージア州を舞台に小説を展開する。蒸し暑い気候条件は、人の心も狂わせる。それを彼女がグロテスクに描く。しかし、奥底に、人間の持つ原始的優しさが垣間見える。そこが魅力だ。

 

さて、マカラーズにとりかかろう。と思ったのだが、日本語訳の本がなかなか見つからない。やむなく、英語の原書で読むことにする。 (2013/10)

 


プルーストの英訳・2

2012-08-31 07:39:36 | 文学をめぐるエッセー

 

(2)英訳では

最近、英訳版のプルースト『失われた時を求めて』の一つに接する機会がありました。

C・K・スコット・モンクリーフ C. K.. Scott Moncrieff の訳になる「Remembrance of the Things Past」で、初版は1922年に Chatto & Windus Ltd. から刊行されました。私の参照したのは、1973年版。

その第一篇『スワン家の方へ』が「Swann’s Way」のタイトルで訳されています。

その第1部「コンブレー」の冒頭の印象的な一文は英語ではどう表現されているでしょうか?

固唾を呑んでページを繰ると、以下の文言が目に入りました;

「For a long time I used to go to bed early.」

何と、「おそらく、 For a long time I used to go to bed early. とでも表現される」と推定すると上で書いたと同じ文言ではないか! 私はびっくりするとともに、深い満足を感じました。

プルーストの原文を移すにあたって、これほどピッタリした英語表現はほかにありません。それが確認できました。過去の習慣をあらわす used to のフレーズがピッタリなのです。

C・K・スコット・モンクリーフの英訳の評判を私は知りません。また、ほかの訳者が、この冒頭の一文をどう訳しているかも知りません。しかし、C・K・スコット・モンクリーフのこの冒頭の一文の訳文には賛同するとともに、深い敬意を覚えます。 (2012/8)

 


プルーストの英訳・1

2012-08-29 07:35:11 | 文学をめぐるエッセー

 

(1)プルーストの冒頭の一文

以前、「プルーストの翻訳」と題して、プルースト『失われた時を求めて』の冒頭の一文の日本語訳について、鈴木道彦訳と井上究一郎訳を参照しながら議論しました。

プルースト「失われた時を求めて」の第1編「スワン家の方へ」・第1部「コンブレー」の冒頭は、主人公の「私」の回想を導く印象的な一文で始まります。非常に長い文章で有名なこの小説では異例といえるほどの短文です。

フランス語の原文は:(アクサン・テギュ、アクサン・グラーヴ、アクサン・シルコンフレックスは省いています。)

  Longtemps, je me suis couche de bonne heure. (Marcel Proust, Du Cote de chez Swann, 1988, Folio Classique, Editions Gallimard) 

鈴木道彦訳では:「長いあいだ、私は早く寝るのだった。」(2006年、集英社文庫ヘリテージシリーズ版)

井上究一郎訳では:「長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。」(1992年、ちくま文庫版)

病弱な「私」が、親の指示で、早い時刻に就寝することを余儀なくされていたことを示唆する一文です。しかし、就寝がすなわちまどろみではなく、ある時は母親のお休みのキスを待ち焦がれる長い時間があり、またある時は幼い日を回想し追憶する時間があり、このような時間が眠りを妨げる。そのような甘美な時について、以後「私」は延々と語り始めます。

「この印象的な一文のニュアンスが日本訳文で表現されているでしょうか?」 これが私の問題意識でした。そして、英語でどう訳すのだろう、と考え、

「おそらく、

  For a long time I used to go to bed early.

とでも表現される」と推定しました。 For a long time と used to と go to bed とがキーとなる言葉です。

For a long time を「長い時にわたって」(井上訳)と訳すのは、原文の理解とは別に、こなれた日本語とはいえないでしょう。ここは「長いあいだ」(鈴木訳)と訳すのがスマートです。

used to は「私」の習慣を表す重要な言葉です。井上訳は「ものだ」とすることによって辛うじて原文のニュアンスを伝えていますが、鈴木訳の「のだった」では不十分だといわざるを得ません。

また、就寝する(go to bed)のニュアンスが二人の訳文からは伝わりません。作者のねらいは、就寝から実際の眠りまでの時間を語ることにあるのですが。

このように叙述を続けたのですが、実は、この時点では、英訳版のプルースト『失われた時を求めて』には一つもアクセスできていないのでした。 (2012/8)

 


秋来ぬと目にはさやかに・・・

2012-08-17 07:03:07 | 文学をめぐるエッセー

 

私の住む首都圏で季節の変わり目をはっきり感じる時季が2つある。春、桜の花が散って代わりに藤の花やつつじが咲き始めるころと、夏が終り秋の始まるころである。

きのうの雨があがって、今朝は空高く晴れわたっている。外に出れば、陽差しはなお強いものの、風はやや冷たく感じて、きのうまでの夏の気配とは違う気配が支配しているのがわかる。こんなにもはっきりと季節の断絶があるものだろうか。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」

この歌が思い出される。たしか、平安時代の藤原のナニガシの歌である。手元にある『日本詩歌集』、昭和34年、平凡社、にあたると、藤原敏行が作者であることがわかった。「三十六歌仙」の一人とある。

この歌に出会ったのは、中学の国語の授業の時だった。テストで、「来ぬ」の読みを問うものがあり、「こぬ」ではなく「きぬ」ですよ、との教師の言葉が今も記憶に残る。

視覚では認識できない季節の移り変わりが、「風の音」という聴覚ではっきり知ることができると藤原敏行は歌っていたのだった。実際は、風は「音」だけではなく、むしろそれ以上に、「そよぎ」によって、秋の到来を知らしめてくれるのであるが。

夏から秋への移行は、虫のすだきやつくつくぼうしの鳴き納めでも感じることができるが、最もおだやかでありながら、最もきっぱりとしているのが、風の音やそよぎが教えてくれる空気の変化ではないだろうか?  

 秋来ぬと耳にさやかに鳴くつくつくぼうし  陽西

今年は秋の訪れが例年より1週間ほど早いようだ。 (2006/9)


現代語訳「源氏物語」を読む

2012-07-17 07:19:28 | 文学をめぐるエッセー

今、日本では、「源氏物語」生誕一千年を記念する行事が目白押しだ。

さて、「現代語訳『源氏物語』を読む」について、読者からご意見をいただいた。
與謝野晶子訳の引用に誤りがある、というものだ。「深い御寵愛」と私は引用したのだが、正しくは「深い御愛寵」だとのこと。お詫びして訂正したい。

また、與謝野晶子訳には3種類あるらしい、ということも教わった。
1回目の訳は、預けていた出版社が倒産して行方不明になった。
2回目の訳は全訳ではなく、かつ、與謝野鉄幹の筆が入っていること。
3回目の訳は全訳で、かつ、鉄幹死後の訳業なので、これこそが「與謝野晶子訳」だといえること。
また、3回目の訳の完成は1927年で、1910年代とした前回の記述を訂正しなければならない。

私の引用した角川文庫版(*)はこの3回目の訳を収録したもので、現在も版を重ねている。
ところが、これと並行して、『新装版』が同じ角川文庫から、今年刊行された。2つの角川文庫版の相違はどこにあるのか? 調べていないので、よくわからない。

以下は、再録です。 (2008/11)

*************

現代語訳「源氏物語」を読む

来年(2008年)は「源氏物語」生誕一千年だそうである。その機会に、というわけでもないが、「源氏物語」を初めて通して読んでみた。といっても、現代語訳で読んだのである。昨年夏から1年弱をかけてゆっくりと読んだ。

取り上げたのは、谷崎潤一郎の最初の訳になる刊本で、1938年- 41年の発行のものだ。この訳本からも70年経っていて、月日の経過に感慨を覚える。

この本は父の蔵書だったもので、兄に渡り、そして私に来たものだ。すでに中国大陸で戦火が激しくなっている時期に発行されたこの本は、当時の社会情勢から超越したような造りになっている。A5判、函入り、13巻で、各巻には和綴じの冊子が2冊入っている。各冊は、透かし絵入りの紙に文字が印刷されている。透かし絵は長野草風の筆になるもので、今は、残念ながら色あせてしまっているが、当時はさぞ優雅な装丁ぶりであったことだろう。これに、香でも焚きしめてあれば、平安時代の雅な宮廷に誘われること間違いない。

全般を通した感想は:
1.登場人物の系譜などを頭に入れて読まないと、退屈に思うことがある。
全体が、クレッシェンド-ディクレッシェンドの繰り返しになっているためかもしれない。
2.登場人物名の省略と敬語の頻用が隔靴掻痒の感を募らせる。
3.作者(紫式部)の批評・皮肉めいたことばは物語の中核には及んでいない。ほんの「つけたり」
  だ。
4.最後の十帖(宇治十帖)は引き締まった出来で、それまでの中だるみを吹き飛ばしてくれる。
5.全部を一人の作者が書き通したという心証は十分ある。

さて、「源氏物語」の冒頭の一文は次の通りだ。

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」(『完訳日本の古典14』、小学館(*))

帝の存在は、明示されていないものの、判別できる仕掛けになっている。
「御時」(おほむとき、と読む)=「帝の御代」
「さぶらひ」=「帝に仕える」
「時めき」=「帝の寵愛を得る」

尊敬の対象は女御・更衣に及んでいる。それは、「さぶらひたまひける」・「時めきたまふ」のように、「たまふ」という敬語動詞でわかるようになっている。

主人公の光源氏の母の存在も明示されていないが、「時めきたまふ(お方、が省略されている)ありけり」という形で文脈の中で暗示されている。「いとやむごとなき際にはあらぬ」とあるので、女御ではなく更衣だろうと推測できる仕組みになっているのだ。

以上の前提を置いて、何種類かの現代語訳を見てみよう。古い順に並べる。

與謝野晶子訳(1910年代)
「どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御寵愛を得ている人があった。」

谷崎潤一郎訳(1938年)
「いつ頃の御代のことであったか、女御や更衣が大勢祇候してをられる中に、非常に高貴な家柄の出と云ふのではないが、すぐれて御寵愛を蒙っていらっしゃるお方があった。」

谷崎潤一郎新々訳(1964年)
「何という帝の御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいている方がありました。」

円地文子訳(1972年)
「いつの御代のことであったか、女御更衣たちが数多く御所にあがっていられる中に、さして高貴な身分というではなくて、帝の御寵愛を一身に鐘(あつ)めているひとがあった。」

瀬戸内寂聴訳(1996年)
「いつの御代のことでしたか、女御や更衣が賑々しくお仕えしておりました帝の後宮に、それほど高貴な家柄の御出身ではないのに、帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっしゃる更衣がありました。」 

初めに、訳文の長さに注目したい。
谷崎潤一郎新々訳(1964年)と與謝野晶子訳(1910年代)が短く、瀬戸内寂聴訳(1996年)が圧倒的に長いのがわかる。

谷崎潤一郎新々訳と與謝野晶子訳に共通しているのは、女御・更衣に対する敬語を訳すのを省略していることだ。これが文章の短縮に貢献している。
一方、瀬戸内寂聴訳(1996年)は、「賑々しく」・「帝の後宮」・「帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっしゃる」というように、補足的・説明的な文言を多く挿入しているために、文章が長くなっているのだ。

谷崎潤一郎新々訳(1964年)や與謝野晶子訳(1910年代)か、瀬戸内寂聴訳(1996年)か、どちらを取るかと問われたら、私は谷崎潤一郎新々訳や與謝野晶子訳を取る。文章が引き締まっているのが魅力だ。

次に、帝の存在の表わし方に注目したい。それは、「御寵愛」ということばだ。與謝野晶子訳(1910年代)・谷崎潤一郎訳(1938年)・円地文子訳(1972年)に共通する訳語だ。このことば一つで、帝と光源氏の母との関係が明らかにされている。以降に現われる、他の女御・更衣の嫉妬の記述にストレートにつながる。

谷崎潤一郎新々訳(1964年)が「御寵愛」ということばを止めて、「誰よりも時めいている」ということばを採用したのは、文章を短くするための工夫のようだ。しかし、「時めいて」よりも「御寵愛」の方が優れているのは明らかだろう。

瀬戸内寂聴訳(1996年)は親切心から説明過剰の表現になっている。

帝の存在を示し、女御・更衣にも敬意を表わし、なおかつ短くまとめる訳文は可能か? 與謝野晶子訳をベースに、新しい訳文を考えてみた。

「いずれの帝の御代であったか、女御や更衣が数多くお仕えしていた中に、ものすごく高貴なのではないが、帝の深いご寵愛を得ているお方があった。」(拙訳)

それにしても、與謝野晶子の現代語訳(1910年代)が、百年弱を経過して、なお生命力を保っていることは驚くべきことだ。(以前、現代の日本語は30年か50年で古びる、と述べたことがあったが、ここに例外が現われて、訂正せねばならない。)

源氏物語生誕一千年も素晴らしいが、源氏物語現代語訳百年も同様に素晴らしい事績だと思う。 (2007/6)


会津八一をめぐる誤解

2012-07-03 07:08:28 | 文学をめぐるエッセー

大正から昭和にかけて、古今集以来の大和ぶりの和歌で活躍したのが会津八一である。中央公論社から全集が出ている。私の父が、八一の歌を額装して保存していた。そこにあった歌は、次のようなものである。
「たひひとのめにいたきまてみとりなるついちのひまのなはたけのいろ」
八一の歌はすべてかな表記である。また、ここでは濁点が省略されている。
これを私は次のように解釈した。
「旅人の眼に痛きまで緑なる築地の隙の縄竹の色」
築地塀の崩れた隙間から覗く縄竹のいかにも鮮やかな緑に眼を洗われることよ。すこぶる平明な歌だ。
ところが、私の解釈には誤りがあった。「自註鹿鳴集」(新潮文庫)を参照すると、次のように載っている。
「たびびと の め に いたき まで みどり なる ついぢの ひま の なばたけ の いろ」
ここでは、濁音が復活し、なおかつ、分かち書きが登場する。分かち書きは議論を複雑にするので措いておこう。私が「縄竹」と解釈したことばが「なばたけ」、すなわち、「菜畑」となっているではないか。考えるまでもなく、「縄竹」であれば、元のかなは「なわたけ」でなければならない。単純な思い違いだった。

しかし、なお違和感が残る。緑色の菜畑とは? 
「いちめんのなのはな、いちめんのなのはな」と詠った詩人がいたように、菜の花から連想するのは、圧倒的な黄色のマッスである。それが、緑の菜畑とは? これが、この歌に八一が仕掛けたわなである。おそらく、花の終わった初夏の菜の葉の印象を訴えたかったのであろう。見事、一本取られた気持ちである。
東京の中野駅と東中野駅との間の線路沿いの土手に、今3月、菜の花が咲き乱れている。よく見ると、黄色い菜の花と同じほどの迫力で黄緑色の菜の葉が存在を誇示しているのがわかる。菜の花は黄色、という先入観を笑うように。これから更に菜の葉の緑が勢力を増すのを予感させる光景だ。  (2006/3)


芭蕉論考

2012-05-15 07:26:16 | 文学をめぐるエッセー

 

(1)『おくのほそ道』と虚構

芭蕉は元禄2年に奥羽・北陸などを旅して、元禄6年ころに『おくのほそ道』を著した。わが国における最も有名な紀行文の一つであり、最も有名な詩文の一つでもある。

この紀行文または詩文の性格について、多くのことがいわれている。

ここでは、井本農一について見てみよう(「おくのほそ道論」、『芭蕉の本6 漂泊の魂』、昭和45年、角川書店、*)。

井本によれば、この紀行文は旅行記ではない。つまり、元禄2年の旅の記録とはいえない。元禄2年の旅は紀行文の素材とはなっているが、紀行文は旅をそのまま写すことを慎重に避けている。

その証拠に、旅をしてから紀行文が成るまで4年ほどの月日を必要とした。その間、芭蕉は何をしようとしたか?

井本によれば、芭蕉は古来の紀行文(『東関紀行』・『十六夜日記』など)の様式を踏襲している。

それは、(1)古来の歌枕・名所・旧跡への訪問であること、(2)都から地方への旅であること、(3)各部の末尾を和歌(または発句)で結ぶこと、である。これだけの約束事を守る一方、具体的事実には言及しない原則を貫いている。訪れた場所の詳細や会った人の印象などは、『おくのほそ道』にはほとんど書かれていない。

今回、改めて『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫)を読んでみて、その通りだとわかった。

また、旅行記的事実が省かれているのみならず、実際の旅と紀行文の記述の間に食い違いがある、と井本はいう。

例えば、有名な平泉のくだりでは、「『国敗れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」という詞があって、「夏草や侍どもが夢の跡」という発句を掲げている。ところが、随行した曽良の『旅日記』によると、その日の旅程は大変あわただしく、5時間の間に、高館・衣川・中尊寺・光堂・さくら川・秀衡屋敷・無量光院跡などなどを見てまわったという。藤原三代の栄華をゆっくり偲ぶ時間の余裕はなかったはずだと、井本は指摘している。 

芭蕉の『おくのほそ道』と曽良の『旅日記』と間の食い違いはほかにも数多くあるらしい。もちろん、曽良もすべての旅程をソラで覚えて記録したとは限らないから、どちらが正確だということを議論しても始まらない。

注目すべきは、芭蕉が旅の記録を記すつもりはなかったことである。旅を素材に紀行文を執筆したのだが、その紀行文は虚実織り交ぜた詩文だった。これが芸術的感興を増すために芭蕉が構えた虚構であった。井本は、これを、事実に「風雅のまこと」を付け加えたと解している。『おくの細道』が完成するまでの4年の年月は、「風雅のまこと」を発酵・熟成させて詩文を創造するための時間であった。

『おくのほそ道』の虚構について初めて知ったのは、高校の古文の授業でだった。教師は得々として、ここも食い違う、そこも違う、と講義をした。生徒の中には、芭蕉を胡散臭い俳人だと思ったものもいたようだ。私もどちらかといえばその組であった。

しかし、その後、いわゆる「芸術的虚構」に徐々に親しむようになるにつれ、芭蕉への嫌悪感はなくなった。ドストエフスキーの延々と続く神学問答(『カラマーゾフの兄弟』)やジョイスの一夜の出来事を綴った小説(『フィネガンス・ウェイク』)に親しめば、芭蕉の虚構などは小さいことのように思われた。要は、虚構を構築するための技巧が目立たないですませられるか、である。

その後、胡散臭い筒井康隆や井上ひさしに出会い、また、さらに胡散臭い井上光晴に傾倒したのは、芭蕉の虚構の種まきがあったからだと今では考えている。 (2006/6)

(2)月日は百代の過客にして

芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭は次のようである。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」(『芭蕉 おくのほそ道』、萩原恭男校注、岩波文庫)

初老の芭蕉が、旅の途中で死んでも本望だという決意を述べた文章ととらえられているが、これが、美文なのか、私にはわからない。とくに最初の一文が謎だ。萩原恭男は校注をつけていないが、この一文は理解がむつかしい。

文字通り解釈すると、「歳月は旅人であり、歳月も旅人である。」となるのではないか?

『芭蕉 おくのほそ道』に併載されている『奥細道菅菰抄』(蓑笠庵梨一著)によれば、中国の『古文後集』を踏まえた文章だという。

まず、「月日(つきひ)」「百代(ひゃくたい)」「過客(かきゃく)」という漢字の連なりが違和感を覚える。そのゴツゴツした発音が引っかかる。後半の「行かふ年も又旅人也」とは対照的だ。『おくのほそ道』のリズムと異なるのは明らかだ。

芭蕉は旅を素材に紀行文を執筆したのだが、その紀行文は虚実織り交ぜた詩文だった、というのはよく知られた事実だ。これが芸術的感興を増すために芭蕉が構えた虚構である。「おくのほそ道」が完成するまでの4年の年月は、紀行の事実を発酵・熟成させて詩文を創造するための時間であった、ともいわれている。

その4年間の推敲の過程で、詩文全体のリズムを乱してまで、「月日は百代の過客にして」を冒頭に定着させた芭蕉の真意が理解できない。

次に、「歳月は旅人であり、歳月も旅人である。」という同義反復をなぜ敢えて行ったのか、という疑問がある。

中国の古文を引用したい、という欲求が強くあったことまでは理解できるが、そのために無駄な同義反復を自分に許した心性がわからない。

『おくのほそ道』の詩文は簡潔さを旨としているのに、冒頭の一文だけがそれに反旗を翻している格好だ。「虚実織り交ぜた詩文」の落とし穴に芭蕉がはまった感がある。 (2007/7)

 


バルガス・リョサ『楽園への道』を読む

2010-10-07 22:09:10 | 文学をめぐるエッセー
バルガス・リョサ『楽園への道』(田村さと子訳)を読み終えた。池澤夏樹編集の世界文学全集(河出書房新社)の一冊で、B6判で485ページの大作である。

画家ポール・ゴーギャンとその母方の祖母フローラ・トリスタンの物語だが、両者の直接の関係性は何もない。小説は、フローラの章、ポールの章と交互に進み、それぞれの死まで記述が進むという仕掛けだ。

ポールについては、タヒチに移り住み、その後マルキーズ諸島に居を移して死を迎えるまで。記憶の中では、ゴッホ(オランダの狂人)との共生とその破綻までが描かれる。

フローラについては、労働運動のオルグとしてフランス各地を飛び回る生活と、前夫との生活の破綻と故郷ペルーへの旅行が描かれる。

全体を支配するのは、ラテンアメリカ文学に特有の、圧倒的な饒舌だ。バルガス・リョサは二人の生涯を記録してやまない。

バルガス・リョサの手法で着目すべきは、二人に対する「語りかけ」だ。作者が高い位置から二人を見下ろしているのではなく、二人に同情し、二人を理解していることを示すしるしとして、たえず二人に語りかける手法を用いている。

「あの娘が懐かしいのだね、フロリータ」(フローラに対して)
「おまえの父の国への旅行はすごかったね、アンダルシア女」(フローラに対して)
「おまえはどれほど後悔しただろうね、ポール」(ポールに対して)
「急がなければおまえも駄目になってしまうぞ、コケ」(ポールに対して)

ポール・ゴーギャンに対する語りかけは素直にうなずける。

また、フローラに対する「フロリータ」というのもよくわかる。

しかし、フローラに対する「アンダルシア女」という呼びかけには首をかしげる。
アンダルシア人のことをスペイン語で、アンダルース andaluz という。その女性形がアンダルーサ andaluza だ。それを訳して「アンダルシア女」としているのだろう。

だが、日本語の「アンダルシア女」は、「アンダルシア」と「女」の二つのことばの合成と取られてしまい、また、ことばが長すぎる。普通の呼びかけことばとしての「アンダルシア女」は見るからに異常である。

ここは少し工夫が必要ではないか。
私の提案は:初めに断りを入れた上で、「アンダルーサ」と原語のままのことばを使うのはどうだろう。
「おまえの父の国への旅行はすごかったね、アンダルーサ」
これだと、素直に受け入れられると思う。

翻訳はもう一つの創作だといわれる。それを大胆に実践する訳者の工夫があってもいいのではないか、というのが私の感想だ。
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バルガス・リョサの著作で邦訳のあるものを列記する。
1959年・67年 『小犬たち、ボスたち』(野谷文昭訳、国書刊行会)
1963年 『都会と犬ども』(杉山晃訳、新潮社、*)
1966年 『緑の家』(木村栄一訳、新潮社)
1969年 『ラ・カテドラルでの対話』(桑名一博訳、集英社)
1973年 『パンタレオン大尉と女たち』(高見英一訳、新潮社、*)
1975年 『果てしなき饗宴-フロベールと「ボヴァリー夫人」』(工藤庸子訳、筑摩書房、*)
1977年 『フリアとシナリオライター』(野谷文昭訳、国書刊行会、*)
1981年 『世界終末戦争』(旦敬介訳、新潮社)
1986年 『誰がパロミーノ・モレロを殺したか』(鼓直訳、現代企画室、*)
1987年 『密林の語り部』(西村英一郎訳、新潮社、*)
1988年 『継母礼賛』(西村英一郎訳、福武書店、*)
1989年 『官能の夢-ドン・リゴベルトへの手帖』(西村英一郎訳、マガジンハウス)
1997年 『若い小説家に宛てた手紙』(木村栄一訳、新潮社、*)
2003年 『楽園への道』(田村さと子訳、河出書房新社、*)
(2008/5)

バルガス・リョサが2010年のノーベル文学賞を受賞した、と報じられている。(2010/10)

フォンターネを読む

2010-09-17 07:57:26 | 文学をめぐるエッセー
テオドール・フォンターネ Theodor Fontane(1819年-98年)を知っている人は少ないだろう。かくいう私も最近までその名を聞いたこともなかったのだから。

フォンターネは、シュティフターと同じく、19世紀ドイツの作家だ。
その姓から憶測すると、イタリア人と間違えるが、父親は南フランスの生まれ、母親はやはり南フランスから移住した両親の元でドイツのベルリンで生まれたという。つまり、南フランスにルーツを持つ家系で、フォンターネ自身はベルリン近郊で生まれ、生涯、ベルリンで生活した。
だから、彼は、ドイツの作家に数えられる。

フォンターネの作家デビューは遅く、1878年、58歳の時だ。以降、20年間に17作の小説を発表したという。
作風はリアリズム(自然主義)と評されている。つまり、日常の出来事を淡々と綴るのがフォンターネの持ち味だ。

さて、フォンターネの作品が2点岩波文庫にあることを最近発見した。
 『迷路』(伊藤武雄訳、1937年初版)
 『罪なき罪 全2巻』(加藤一郎訳、1941年・42年初版)
戦前に刊行されたこれら二作が、2005年に久しぶりに復刊して、私の目に触れるようになったわけだ。

このうち、 『迷路』を読んでみた。最初の感想は、通俗小説のよう、というものだ。
伊藤武雄の解説に従えば、「大都市の平凡な人間の日常的な運命を愛した」結果がこの小説に実っている。

また、加藤一郎の解説に従えば、「彼は、作中人物の気分や感情を描述するよりも、それらの人物が遭遇する単純で、ありふれた日常的な経験を、軽妙な諧謔に包み、そつのない対話の口調にのせ、語られる言葉によって情景なり性格なりをそっくり写し出そうとする。・・浅薄などころか、それゆえに一そう切実に悲劇的な効果を生み、真に詩的な雰囲気を醸し出しているのである。」
こちらはかなり買いかぶりだ。後半の部分についていえば、作中人物の会話は浅薄さを免れないし、詩的な雰囲気からはほど遠い。私が「通俗小説のよう」と感じたのは、ストーリーの展開のほかに、会話重視の小説作法にあった。

わが国で、戦後の舟橋聖一や丹羽邦雄が忘れ去られたように、19世紀ドイツの通俗小説作家が忘れられるのもむべなるかな、と思う。 (2010/9)

シュティフターを読む

2010-08-08 07:19:15 | 文学をめぐるエッセー
アーダルベルト・シュティフター(1805年-68年)のことが長らく気になっていた。

古本屋とはおかしな商売で、読んだことのない作家の作品を平気で扱うことがよくある。シュティフターもその一人で、彼の作品を求めていかれる客がいて、はて、なぜなのだろう、と思っていた。
シュティフターの生きた19世紀前半のドイツ語圏では、晩年期のゲーテがおり、また、ホフマンやノヴァーリスなどのロマン派が同時期に活躍したはずだ。

その中で、シュティフターの存在は必ずしも大きくない。
手元にある、『ドイツ・ロマン派集 世界文学大系77』(昭和38年、筑摩書房)に収録されている作家は、ヘルダーリン、クライスト、ジャン・パウル、ノヴァーリス、アイヒェンドルフ、ホフマン、シュライエルマッヘルで、シュティフターの名はない。
そう、シュティフターは、どのグループにも属さない孤高の作家だったらしい。

さて、シュティフターをわが国に積極的に紹介したのが、手塚富雄と藤村 宏の二人であった。
その二人の訳業が岩波文庫で読める。『水晶 他三篇』(1993年)だ。
シュティフターの作品で最も有名なのが、『石さまざま』である。オーストリアの山中の自然の描写と人情の交歓を淡々と綴った六篇の短編を集めたものだ。『水晶 他三篇』はうち四篇を収録したもので、手塚富雄・藤村 宏の達意の翻訳のせいもあって、すらすらと読める。

もう一冊、『森の小道・二人の姉妹』(山崎章甫訳、2003年、岩波文庫)は、初期の『習作集』から選んだ二篇で、こちらも、自然と人情の描写が淡彩で描かれている。そういえば、シュティフターは絵もよくしており、ロイスダールを彷彿とさせるような自然画を多く残している。

この2冊を読んでみて、やはり、シュティフターは19世紀前半の作家であり、現代に生き残るのは困難だという気がする。しかし、少数ながら、シュティフターを愛好するファンもいるということらしい。

現在では、上記2冊のほかに、『晩夏 全2巻』(藤村 宏訳、2004年、ちくま文庫)が容易に入手できる。これは、山崎章甫の紹介では、藤村 宏の翻訳が秀逸だということだ。是非、トライしてみたい。

ほかに、『シュティフター作品集 全4巻』が松籟社から出ていたが、求めるのは困難かもしれない。 (2010/8)


大江健三郎の新作

2009-12-23 06:20:30 | 文学をめぐるエッセー
大江健三郎の新作『水死』、2009年、講談社、を読んだ。

長らく、大江の小説は発表される都度読んでいるので、斬新さは感じない。
私小説の流儀と、土地に潜む民俗と、風俗の風刺とで成り立つ今回の新作も、彼の近作とまったく同じ手法を取り入れている。

つまり、「私」が故郷の四国(の愛媛県)に放り込まれ、「私」を取り巻く劇団の人たちとの折衝に巻き込まれ、障害を持つ息子との葛藤に疲れ・・・、というようなことが延々と綴られる。

「私」は常に周りの人からバカにされ、「私」自身もその周りの評価を受け入れる、という点では、まったく救いのない物語だ。

大江健三郎は、ノーベル賞の受賞(1994年)の前か後に、新たな小説は書かないと宣言したのだが、その後もいくつかの小説を発表した。そのいずれもが、「私小説の流儀と、土地に潜む民俗と、風俗の風刺と」を基軸にしたもので、褒められた成果はない。

私の大江健三郎は『個人的な体験』や『洪水はわが魂に及び』の大江であって、その後の「私小説の流儀と、土地に潜む民俗と、風俗の風刺と」を基軸とした小説群はどうしても馴染めない。

ただ、「私小説の流儀と、土地に潜む民俗と、風俗の風刺と」を基軸とした小説群の端緒は、明らかに『万延元年のフットボール』にあったはずで、今、この小説の評価を公表することができないのが不甲斐ない。改めて、『万延元年のフットボール』を再読してみようと思っている。 (2009/12)


村上春樹『1Q84』を読む

2009-11-26 07:57:06 | 文学をめぐるエッセー
遅ればせながら、村上春樹『1Q84』を読み終えた。私はベストセラーを追う趣味はないので、実は「遅ればせながら」ではないのだが、世間の常識に合わせれば、やはり、ようやく読んだ、という感がある。

これほどのベストセラーだから、ストーリーを紹介する必要はなかろう。
読後感を箇条書きすると:

1 小学生時代の同級生である天吾と青豆の物語が並行して語られるが、その意味があまり伝わらない。

2 最後に、天吾と青豆が偶然の出会いをしそうになるが、結局出会わずに終わるくだりは、作り物の感が強く残る。

3 新人賞作家ふかえりの造形が最も面白い。抑揚のない言葉遣いなどはなかなかシュールに仕上がっている。

4 村上が物事を形容する仕方に馴染めなかった。一言でいえば、文学としての「品格」に欠けた形容が散見される。

5 スラスラと読めたのはいいが、一級の小説というには疑問が残る。

私は初めて村上春樹を読んだのだが、これを機会に、旧作(『ノルウェイの森』や『ねぎまき鳥クロニクル』)を読んでみようか、という気分にはなっていない。 (2009/11)


翻訳のいのち(ドストエフスキーの場合)

2009-02-05 03:40:01 | 文学をめぐるエッセー
翻訳にもいのちがあります。旬があります。
一般的には、新しい翻訳ほどよいといえます。例えば、シェ-クスピア全集は、坪内逍遥訳で読むよりも、小田島雄志訳で読むほうがはるかに理解が進みます。

翻訳のいのちは、文体のみずみずしさと文章の分かりやすさに集約されます。
日本語の文体は変化が激しく、50年たたないうちに古びてしまうのが普通です。坪内逍遥訳がもはや現代人に受け入れられないのは当然です。

ただし、分かりやすい文章はどの時代にもあり、分かりやすい文章で綴られた翻訳は長生きできるものです。昭和30年代から50年代にかけての、西暦でいえば、1960年代から80年代にかけての翻訳文化隆盛のころに残された翻訳資産の一部がいまだに古びることなく生き続けているのは、分かりやすい文章のお蔭だといえます。

日本人の大好きなドストエフスキーは、戦前から戦後にかけて、中村白葉や米川正夫の訳が大いにもてはやされました。米川正夫訳は河出書房刊の全集にもなりました。また、岩波文庫などにも収録されました。しかし、読んで分かることですが、中村白葉訳や米川正夫訳はもはや現代の文体ではありません。これらを読んで、ドストエフスキーは長たらしくて読み続けられないという印象を植え付けられた人は不幸です。

1960年代から筑摩書房が刊行したドストエフスキー全集は小沼文彦の個人訳でした。比較的無名の訳者を起用したこの全集は大きな冒険といわれました。
しかし、結果は大成功でした。何より、文体のみずみずしさと文章の分かりやすさが際立っています。大部な『作家の日記』や『書簡集』もスラスラと読めてしまいます。私はこの小沼訳でドストエフスキーに親しみました。

その後、1980年前後に新潮社から新たにドストエフスキー全集が刊行されました。この全集は気鋭の訳者を集めたもので、もちろん今でも生きています。
筑摩書房版と新潮社版。二つのドストエフスキー全集を持つ現代の読者は幸せです。(2006/5)
            
金原ひとみがドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の読書経験を朝日新聞2006年5月7日朝刊に寄稿しています。
それによると、彼女は、全3巻の上巻を半分読むのに3ヶ月、上巻の残りを読むのに1ヶ月かかったそうです。ところが、中巻と下巻を読み通すのに3日しかかからなかったそうです。上巻の終わりあたりからこの小説のリズムをつかみ、その魔力にはまったようです。彼女の読んだのは原卓也訳の新潮文庫版です。

ところで、岩波文庫版の『カラマーゾフの兄弟』はいまだに米川正夫訳が現役のようです。1927年に最初の版が出て、1957年に新字・新かなに改版されているとはいえ、翻訳そのものには手が入ったとは思えません。

金原ひとみが原卓也訳の新潮文庫版を選んだのは幸いでした。さもなければ、最初の巻の途中で放り出すハメに陥ったに違いありません。  (2006/5)
            

中野重治(近代の詩人たち・3)

2008-11-25 06:55:24 | 文学をめぐるエッセー
中野重治は学生時代から左翼活動に従事して、検察に検挙され、獄中で思想転向を表明して、出獄した。以後、その事実を負って、作家活動に入る。中野重治の小説は私小説の色合いが濃いが、小説『村の家』の中に、父親に向かって、「それでも、やはり、書いていきたいと思います。」という趣旨のことばがある。これが、中野重治の文学的出自を表わす特徴的なことばである。

詩人としての中野重治は、散文作家としての中野重治と重なり、それを補っているようだ。だが、詩人としての中野重治はほとんど忘れられている。

『中野重治詩集』、岩波文庫、を読んだ。ただし、この本は現在絶版だ。

中野重治の詩のことばは平易だ。私の定義では、「平語派」に当たる。
だが、激しいことばが混じる。典型的な詩人(私の定義では、「技巧派」)から見ると、「あれは詩ではない。」と評される、と壷井繁治の解説が紹介している。

「夜明け前のさよなら」と「雨の降る品川駅」が彼の詩の特徴をよく示している。ともに、「別れ」をテーマにしている。

「夜明け前のさよなら」は、官憲の目を逃れながら地下活動をする同士を歌っている。
「僕らは仕事をせねばならぬ そのために相談をせねばならぬ」というフレーズで始まるこの詩は切迫した感情をストレートに表現している。「夜明けは間もない 僕らはまた引越すだろう」と続くと、切迫した感情とともに解放感も感じられる構成になっている。

タイトルは「さようなら」ではなく「さよなら」となっている。卑俗なことばをちりばめるのも中野重治の詩の特徴のひとつだ。

「雨の降る品川駅」の出だしは、「辛よ さようなら 金よ さようなら 君らは雨の降る品川駅から乗車する 李よ さようなら も一人の李よ さようなら 君らは君らの父母の国にかえる」となっている。朝鮮半島に帰る朝鮮人を送る詩だということがわかる。

品川駅は独特の風情をもった駅だ。山の手線や京浜東北線のプラットフォームと東海道線や横須賀線のプラットフォームとの間に、使っているのか使っていないのかわからないプラットフォームがあるのだ。品川終着の列車の降車プラットフォームとして、また、品川始発の団体列車や修学旅行列車の待ち合わせプラットフォームとして、たまに使われるが、普段は閑散としている。

戦時中は召集されて入隊する兵士で混雑したこともあったろうし、戦後は、この詩に歌われているように、朝鮮への「帰国事業」の始発点として、このプラットフォームは役割を果たした。そのような駅の持つ哀愁を、人名と「さようなら」を重ねることによって見事に表出している。

後半の「も一人の李よ さようなら」が中野重治特有のユーモアを表わしている。朝鮮人の姓には「李」が多いことにかけて、親子か兄弟か夫妻かをぼやかして、二人の「李」に呼びかけている。そこに温かさや親しみを込めていることが自ずから伝わってくる。

「夜明け前のさよなら」と「雨の降る品川駅」から感じるのは、作者の鮮烈なリリシズムだ。それは、平語だからこそ表現できたものだと思う。 (つづく。2008/11)

[掃除30分](24日)玄関・たたきと扉の水拭き

ことばの力(近代の詩人たち・2)

2008-10-17 07:36:15 | 文学をめぐるエッセー
(2) ことばの力

詩とは何か? 多くの人がこの疑問に対する回答を与えてきたと思うが、私は、不勉強でそれらを知らない。

私は、「詩とは、『ことばに力を与える営み』だ」と考えている。ことばの力を信じる人が詩人である。そういう単純な回答を用意している。

それでは、「ことばの力」とは何か?
ことばが本来持っているはずの喚起力のことだ。喚起の対象は、新しい感情であったり、未知のものへの好奇心であったり、ことばの組み合わせによって生ずることばの化学変化(のようなもの)であったりするが、個々の詩人は、何らかの方法で、これら、新しい感情、未知のものへの好奇心、ことばの化学変化などを紡ぎだす営みをしているのではないか。

前回、日本近代詩の詩人たちを、難語派、平語派、技巧派に分類することを提案したが、これは「ことばの力」をどのように掘り出すかという「詩の作法」に注目した分類にほかならない。

再度、その定義を載せると:
・難語派(ことばに何かを象徴させて、読み手を異次元に誘う詩人たち)
・平語派(俗なことばを使いながら、読み手に感興を与える詩人たち)
・技巧派(ことば使いの技巧によって、読み手を驚かす詩人たち)

そして、それぞれを代表する詩人は次の通りだ:
・難語派(北原白秋・宮沢賢治・西脇順三郎・吉本隆明)
・平語派(中原中也・中野重治・伊藤 整)
・技巧派(萩原朔太郎・草野心平)

次回から、詩人一人ひとりを紹介していきたい。 (つづく。2008/10)