静聴雨読

歴史文化を読み解く

奇妙な行き違い

2009-08-22 09:02:38 | Weblog
知人の一人が、60歳を過ぎていますが、まだ働きたいといいます。

シニア世代向けのメール・マガジンを発行している人たちがいて、そのメール・マガジンに、ある会社の求人告知があったのを思い出しました。それでメールで問い合わせました。
メール・マガジンはAさんとBさんの二人が運営していますので、問い合わせはメール・マガジン事務局宛てにしました。

すぐにAさんから返信がありました。「その会社はBさんの知り合いの会社です。Bさんに電話してください。」

なぜ、メールで回答してくれないのか。
問い合わせ内容は簡単なことで、
(1) この会社はどのような事業を営んでいますか?(これに対しては、Aさんがこの会社のホームページのURLを知らせてくださったので、解決しました。)
(2) この会社はシニアを受け入れているのですか?
(3) この会社にアプローチするにはどうしたらいいですか?

これだけのことです。電話を寄越さなければ回答しない、というのは、「上から目線」の表われではないか?

再び、同じ内容の問い合わせをメール・マガジン事務局宛てにメールで行いました。
再び、Aさんから、「委細はBさんに電話で聞いてください。」という返信がありました。
新聞の募集広告では「委細面談」という決まり文句がありますが、メールでのやりとりで「委細電話」というのは、その理由がわかりません。

やがて、Aさんから再度のメールが入り、「Bさんがこの会社に問い合わせたところ、『シニアお断り』だということがわかりました。」

さて、シニア世代向けのメール・マガジンに、「シニアお断り」の求人告知を出すことはいかがなものか?

これを、Aさんにメールすると、「確かに広告効果は疑わしいですね。」という返信が来ました。
ずれています。広告効果の有無ではなく、シニア世代向けのメール・マガジンに、「シニアお断り」の求人告知を出すことは矛盾を孕んでいるだけでなく、シニア世代を侮辱することにつながるでしょう。

このAさんとのやりとりの間、当事者のBさんからは一度も連絡がありませんでした。

知的レベルが高く、常識もわきまえている人たちの間に、秘かに「モラルの融解」が浸透しつつあるのでしょうか? (2009/8)


二つの文学全集

2009-08-10 01:00:00 | 私の本棚
多くの出版社が競うように文学全集を刊行したのは遠い昔のことになった。
今では、権威主義を嫌う風潮が盛んで、お仕着せの文学全集など歯牙にもかけないのだろう。
と思っていたのだが、このところ、また新しい流れが見受けられるようだ。それを書いてみよう。

池澤夏樹の個人編集になる「世界文学全集 全24巻」(河出書房新社)の刊行が始まった。
これは従来の「世界文学全集」の概念を大きく覆す試みに満ちている。

1.まず、「体系」を持たないこと。従来のものでは、古典から現代へ、とか、国ごとに括る、とか、配列に意を注ぐところだが、この全集では、24巻の配列に法則性がない。池澤の考えが隠されているのかもしれないが、それはわからない。

2.20世紀の小説家が選ばれているようだ。しかし、ジョイスとプルーストは選ばれていない。フォークナーとカフカは入っている。最初の5巻の作者を並べると、ケルアック、バルガス・リョサ、クンデラ、デュラス、サガン、ブルガーコフだ。知っている作家も知らなかった作家もいる。

3.初訳(初めての日本語訳)・新訳(新たな訳者による日本語訳)・全面改訳(従来の訳者による改訳)が多いのが意欲的だ。

4.装丁は、B6判カバー装で、函はつかない。函がつかないことが、従来の文学全集との違いを際立たせている。表紙は厚紙装で、なんだか、1950年代の装本のようで、いただけない。厚紙装は、時が経つと、温度や湿度の変化で張ってしまって元に戻らないのだ。

5.これだけ斬新な文学全集だが、タイトルが依然として、「世界文学全集」なのが微笑ましい。「二十世紀文学の精華」くらいのネーミングを考えてもいいではないか。

全巻揃えるつもりはないが、バルガス・リョサ『楽園への道』、田村さと子訳、を求めてきた。初訳である。ポール・ゴーギャンとフローラ・トリスタンの物語だそうだ。  

一方、日本文学全集では、これは少し古くなるが、1991年から刊行の始まった「ちくま日本文学全集 全60巻」が出色だ。

1.まず、池澤夏樹編の「世界文学全集」と同じく、体系を捨てたこと。刊行順に01から60までの番号がふってあるだけだ。

2.作家の選び方が柔軟だ。純文学の作家だけでなく、白井喬二、海音寺潮五郎などの大衆文学作家、夢野久作、江戸川乱歩などの推理作家、稲垣足穂、澁澤龍彦などの幻想作家、柳田國男などの思想家、も収録している。一方、従来の文学全集に「当然のように」割り当てられていた徳田秋声、横光利一、野間宏などはカットしている。

3.一巻に一作家を充てている。

4.A6判(文庫版)で、装丁は厚紙表紙・カバー装。一巻450ページ前後。この装丁は画期的だ。瀟洒な装本は思わず手に取りたくなる魅力に溢れている。

5.これだけ斬新な文学全集だが、タイトルが依然として、「ちくま日本文学全集」となっているのが、池澤編「世界文学全集」と同じで、微笑ましい。「近代文学のエスプリ」くらいのネーミングを考えてもいいではないか。

最近、この「ちくま日本文学全集 全60巻」から30巻を抜き出して再刊する動きが判明した。おそらく、評判がよくて、よく出たものの再刊なのだろう。装丁も若干変わり、厚紙表紙を止め、「ちくま学芸文庫」などと同じ材質の表紙になって一層親しみやすくなった。タイトルも「ちくま日本文学」(!)となり、永年のコブであった「全集」の文字がなくなった。これこそ画期的なことだ。

新しく近代文学に親しみたいという人には、文句なく、この「ちくま日本文学 全30巻」を推奨したいと思う。 (2008/2)

「ちくま日本文学」は10巻増巻して、全40巻となった。 (2009/7)




わが街

2009-08-08 01:00:00 | Weblog
この街に越してきて2年8ヵ月が過ぎた。それまで、短い期間で各地を転々としていたので、一ヶ所に長く住まうのは久しぶりのこと。
この街は、私鉄沿線の各駅停車駅から拡がる街で、どこにでもある街の一つだ。しばらく、この街を描写してみよう。

まず、飲食店について。
そば屋は3軒あったが、1軒が廃業して、2軒が残っている。2軒ともまずまずの味だ。
中華料理屋が1軒、味はいただけない。ほかに、ラーメン屋が2軒。
スパゲッティ屋があったが、つぶれた。
とんかつ屋が1軒、ほかに「新宿 さぼてん」の惣菜屋がある。
うなぎ屋はない。
焼肉店と寿司屋が数軒ずつあるが、入ったことはない。
レストランが1軒、ファミリーレストランが1軒。
24時間営業の「オリジン東秀」があったが、最近店を閉じた。この種の店を維持するには街が小さすぎるのだろう。

駅の後背地に、大きな新開住宅地とマンション群がある割りには、なんとも貧しい飲食店の分布だ。この住宅地とマンションの住人は、街に出て食事をする習慣がないのだろうか? 食材や惣菜を買って家で食事をしている毎日なのだろうか? よくわからない。

駅から私の住む団地に向かう途中に大規模なスーパーマーケットがある。IY堂だ。このお店があるので救われている。大きな食品売り場のほか、衣料、生活用品など何でも揃っている。クリーニング屋、靴修理屋、銀行ATMなど、便利な施設もある。 
このスーパーは、週末など大変なにぎわいで、買いだめしている客も多い。まるで、アメリカかオーストラリアのスーパーのような光景だ。 

シンクレア・ルイスに『本町通り』という小説がある(*)。岩波文庫に収録されている。
本町通りとは、英語で The Main Street のことで、アメリカの田舎町の中心をただ一本走る通りのことを指す。ルイスの小説では、この通りに散在する地元のお店やそのお客である後背地の住宅地の住人たちが織り成す日常のドラマをヴィヴィッドに活写している。

さて、ルイスの小説を思い出したのは、わが街にも、メイン・ストリートがあって、それがルイスの小説を彷彿とさせるからだ。
わが街のメイン・ストリートは駅前から始まり、丘陵地の坂道を上り下りし、後背地の住宅地に吸い込まれていく。両側の店舗は、新興地らしく、改廃や転変が多い。ルイスの小説のメイン・ストリートとの違いは、「お店と住人たちが織り成す日常のドラマ」が比較的薄いところだ。

このように、わが街では、店舗の数が異常に少なく、小ざっぱりした公園が多いなど、いかにも新興地らしく、生活の歴史を感じることが少ない。それでも、私はわが街に愛着を持っている。それはなぜかといえば、静かで落ち着いたたたずまいが、住んで安心を誘うからだと思う。

街の猥雑さを求めたり、ショッピングをしたりするのであれば、近くの特急停車駅か都心まで出かければいい。仕事を退役しているから、通勤で分秒を争う必要もない。代わりに郊外の静かな環境が手に入る。それが何よりだ。

なお、イギリスでは、メイン・ストリートのことを High Street と呼ぶようだ。ロンドンのウィンブルドンの駅前から延びている道が High Street であったことを思い出した。この通りはくねくね曲がっていて、すぐに、商店街をぬけて、住宅と畑が広がる場所に出てしまった。でも、これがメイン・ストリートに間違いない。これ一本しか通りはないのだから。 (2007/12)


旅行に行きたしと思えども

2009-08-06 01:00:00 | 異文化紀行
「ふらんすに行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と詠ったのは萩原朔太郎だが、私の場合は「旅行に行きたしと思えども」の気持ちだ。

このところ、旅行に誘われることが多い。
一つは、アメリカの大リーグ観戦旅行で、今年はボストン・レッドソックスに松坂大輔が入ったので、彼の出る試合を見てみたい。
二つ目は、観光客の入らない砂漠や砂丘を訪ねる旅で、体力に自信があり、好奇心も旺盛なので、食指をそそられるところだ。
三つ目は、シンガポール観光で、これも行ったことがない場所で、一度は行ってみたい。

でも、今は母の世話で休暇が取れない。「旅行に行きたしと思えども 日々雑用に過ぎゆきぬ」の所以である。

朔太郎は前記の詩「旅上」の一節に続けて、「せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん」と詠っている。

私の場合は、旅行に出られない憂さを晴らすため、以前の旅行を題材にした紀行をこのブログに書いている、といったらいいかもしれない。「スイスの休日」「宵闇のニューヨーク」「プラハの春」は、このようにして生まれた。
今準備しているコラムは「変貌する上海」だ。

ほかにも、アンダルシア、ウィーン、ドイツ、パリ、ロンドン、ベルギー、リスボンについても、機会ができたら、書いてみたいと思っている。そして、そう、ボストンについても。
「せめては昔の旅を思い返して きままな感懐にふけってみよう」というところだ。 

旅行に出られない憂さを晴らすため、以前の旅行を題材にした紀行をこのブログに書いているものの、旅への思いは募る。時間があれば行ってみたい場所を列挙すると、次のようになる:

イスタンブールとトルコ各地:ヨーロッパとアジアが交差し、キリスト教とイスラム教の歴史文化が交錯するイスタンブールとトルコ各地は是非訪ねてみたい。カッパドキアの石の遺跡にも惹かれる。

ブダペスト:プラハ・ウィーンと歴史ある中欧の都市を巡った後には、ブダペストにも行ってみたいものだ。加えて、マジャールの面影をもたどってみたいし、温泉文化も興味あるところだ。

ミュンヘンとザルツブルグ:南ドイツのミュンヘンと西オーストリアのザルツブルグはごく近い距離にあるので、まとめて行ってみたい。音楽三昧の旅になりそうだ。ワーグナー、モーツァルト、ヘルベルト・フォン・カラヤンなど。

北イタリア:ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェの三都市は音楽・美術・文学の醸す垂涎のトライアングルだと思う。須賀敦子のミラノ、トーマス・マンのヴェネツィア、若桑みどりのフィレンツェは、どのようなたたずまいを見せていたのか? 通貨リラの恐怖から解放されて、イタリアも身近になった。

サンクト・ペテルスブルグ:ドストエフスキーの面影を探し、エルミタージュ美術館を見尽くす旅になりそうだ。案内書によると、街が大きすぎて、道路が広すぎる、とのこと。19世紀のエカテリーナ二世時代の建造になるこの街に歴史の重みを求めてはいけない。

ベトナム:世界一やさしい人たちの国がベトナムだ。乾季を選んで、ハノイ・ホーチミンの都市のほかにも、中部のフエなどの歴史ある場所も訪れたいし、あのベトナム戦争は何だったのだろうと思いを馳せてもみたい。  (2007/2)


八月の鎮魂再び

2009-08-04 01:00:00 | 歴史文化論の試み
最高気温が35度を超えた日を「猛暑日」という。今は全国各地で猛暑日を記録しています。

1945年の夏、東京の皇居前広場の玉砂利に座って昭和天皇の「玉音放送」を聞いた人たちは、さぞ暑かったことでしょう。玉砂利から伝わる熱でやけどをする思いではなかったでしょうか。
現在、1945年の夏に皇居前広場に居合わせた人に、当日の記憶を尋ねたら、「玉音放送」の中身より、玉砂利から伝わる熱の方を鮮烈に思い出すのではないでしょうか。

さて、八月はわが国では死者を追悼する特別な月です。それに関連する本を読むのが、私の習わしとなっていて、昨年は「靖国問題」を取り上げました。今年は?

最近、アメリカの下院議会で、戦時中、日本が戦地で働かせた慰安婦(従軍慰安婦)の扱い方に問題があったとして、日本政府に謝罪を求める決議案が可決されました。このいわゆる「従軍慰安婦」問題については、村山内閣の河野洋一官房長官が謝罪の談話を発表していて、一部の人は「もう謝罪を済ませた問題をなぜ蒸し返すのか」と思っているようです。

ところが、問題は簡単ではありません。
背景には、戦時中のみならず、戦後も現在まで続く日本人による人権軽視の事実があるようなのです。最近では、国連が、日本の外国人労働者の受け入れに人権にもとる行為があると指摘したことがあります。

安倍首相は今年4月にアメリカを訪れ、「従軍慰安婦」問題についてはすでに日本政府として「謝罪済み」という根回しをしてきたというのですが、それをとらえたアメリカのメディアが「 Prime Minister’s Double Talk 」というキャンペーンを張りました。
Double Talk とは、辞書によれば、「(政治家などの使う)まことしやかなごまかし」です。
北朝鮮による「拉致」を糾弾する論調と、自国の人権問題への無関心ぶりとが調和していないという指摘なのです。

素人の目には、「謝罪済み」「解決済み」と繰り返すより、改めて、自分のことばで、日本の人権政策を述べて諸外国の理解を求める方がはるかにスマートだと思うのですが。
「解決済み」と言い張るのは、「拉致問題は解決済み」という北朝鮮の言い分と似たり寄ったりです。 

さて、「従軍慰安婦」問題について、2冊読みました。

 吉見義明『従軍慰安婦』、1995年、岩波新書
 千田夏光『従軍慰安婦<続篇>』、1978年、三一新書

この2冊は対照的です。

学者である吉見の著書は、「従軍慰安婦」問題を、歴史の事実を掘り起こすことで明らかにすることに力点が置かれています。慰安施設の設置にあたって日本軍の指示・指導がどのようにあったか、慰安婦はどのように集められたか、国際法に照らして日本軍が「従軍慰安婦」問題についてどのような責任を負うべきか、などです。

一方、ジャーナリストである千田の著書(これは、千田自身の前著『従軍慰安婦』の続篇という意味で、吉見の著書との関連はありません)は、慰安婦からの聞き書きや日本軍の軍人からの聞き書きから構成されていて、身につまされるものがあります。千田の筆致はやや乱暴で、吉見のような客観性に欠けるきらいがありますが、よくこれだけの聞き書きができたものだという思いもします。特に、日本軍の軍人からの聞き書きは貴重で、日本軍が「従軍慰安婦」問題にどれだけ深く関与していたかを明らかにしています。

これら2冊は、内容があまりに衝撃的で、ここで紹介するのをためらいます。吉見の著書は書店で手に入りますので、直接手にとってほしいと思います。
ここでは、両著から共通に導き出されることをわずかばかり記すと:
1.「従軍慰安婦」が、慰安婦の出身地の貧困や格差を負っていること
2.「従軍慰安婦」の中でも、出身が日本か朝鮮か中国かで取り扱われ方に差があったこと

現在、外国から研修の名目で受け入れた「研修生」を企業などで低賃金の「労働力」として働かせることが国際的に非難を浴びています。これらの外国人研修生は日本人労働者に比べて劣悪な労働環境を強いられています。
「従軍慰安婦」問題を知ると、それと現在の外国人研修生受け入れ制度との共通点が見えてきます。
もちろん、これはわが国だけの問題ではなく、ドイツ・フランスなどのヨーロッパ諸国やアメリカにも共通する問題ですが。 (2007/8)



八月の鎮魂

2009-08-02 01:00:00 | 歴史文化論の試み
八月はわが国では特別な月です。 

お盆休みには、多くの都会で働く人たちが一斉にふるさとに帰り、しばしの英気を養います。また、炎熱のなか、甲子園でおこなわれる高校野球に多くの人が熱中します。

一方、八月の、特に前半には、現代史の画期となるできごとが多くあります。暦順に記せば、6日の広島被爆、9日の長崎被爆、15日の終戦記念日、となります。さらに、近年、12日が日航機の尾巣鷹山墜落の日として加わりました。三日ごとに重要なできごとを刻む、まさに特異な月として、八月は私たちの前に毎年現れます。

これらのできごとで亡くなられた方々の鎮魂を込めて、関連する本を読むのが、私の習わしとなっています。

ここ数年、やはり一番気になるのは「靖国問題」でしょうか。ベストセラーの高橋哲哉『靖国問題』、ちくま新書、を読んだ方もいらっしゃると思います。実は、私はこの本を読んでいません。手に取ったら、ゴチック体の文章が多く目に付き、なにやら、政党のアジ文書のようで、すぐに手を引っ込めました。そばにあったヒットラー『わが闘争』、角川文庫、をひも解くと、これもゴチック体の文章が目立ちます。

もう少し、穏やかな議論に耳を傾けたい。
私の選んだのは、大江志乃夫『靖国神社』、岩波新書、です。1984年刊で、2001年に第20刷が出ました。これもよく売れたロングセラーのようです。 

目次は:「1 なぜいま靖国神社問題か」「2 天子・大元帥・天皇」「3 靖国神社信仰」「4 村の靖国・忠魂碑」「おわりに 靖国の宮にみ霊は鎮まるも」

ここでは、「1」と「3」を紹介しましょう。この2章によって、靖国神社の性格の歴史的変遷を理解することができます。わかりやすくするために、時系列に沿って整理してみます。

1879年(明治12年) 九段の招魂社が靖国神社と改称、別格官幣社に列格される
                (地域レベルの招魂社から国レベルの靖国神社へ)
1887年(明治20年) 靖国神社の神職任免権が内務省から陸軍省・海軍省に移管
                (軍人の慰霊施設であることが鮮明になる)
1898年(明治31年) 戦病死者の特別合祀の陸軍大臣告示
                (祀る対象が大幅に拡大する)
1945年(昭和20年) 昭和天皇の最後の公式参拝
                (それまでの「祭政一致」の性格が終りを告げる)
1952年(昭和27年) 宗教法人となる
                (政教分離が発足する)
1959年(昭和34年) B級・C級戦犯を合祀
1978年(昭和53年) A級戦犯を合祀
                (国レベルの戦犯の合祀に踏み切る)

戦前と戦後とを分けて検討してみると、戦前では、国レベルへ、軍部主導へ、祀る対象の拡大へ、という流れが見られ、文字通り国家レベルの宗教施設として大きくなっていったことが分ります。
また、戦後になって、国家レベルの宗教施設ではなくなりましたが、1978年(昭和53年)のA級戦犯の合祀によって、再び、国家レベルの宗教施設としての性格を帯び始めています。

このように見てくると、「靖国問題」とは、靖国神社を「国家レベル」の「宗教施設」として認知させたいという靖国神社の立場をどう考えるか、という問題であることがわかってきます。

戦後のGHQと日本政府との協議の中で、日本政府は、靖国神社を慰霊施設ではなく宗教施設として存続させたいと主張したそうです。その時点で、「政教分離」の原則が自動的に適用されることを日本政府が承認したことになります。
そうすると、国として考えるべきことは、戦争犠牲者の「慰霊施設」をどのように作るか、という点に絞られるはずでした。それを、一宗教法人である靖国神社に、いわば、まかせきりにしたツケが現在に及んでいるといえます。

国の首相が靖国神社に参拝することの是非はよくわかりません。ただ、そのことによって近隣の国々との外交交渉さえできなくしてしまうのは、今はやりのことばでいえば「もったいない」というところでしょうか。  (2006/8)