静聴雨読

歴史文化を読み解く

森 有正のこと

2010-04-13 04:18:27 | 歴史文化論の試み
(1)その1

「BIBLOSの本棚」から、『森有正全集 全14巻+補巻+対話篇2巻 全17巻』を求めていかれた方がいる。感慨ひとしおだ。この機会に、森 有正について、覚えていることを記しておこう。

森 有正(1911年-1976年)は、明治政府の文部大臣を勤めた森 有礼(もり・ありのり)の確か孫にあたる。(以後、「確か」とか「らしい」とかいうことばが頻出するが、その理由は後ほど述べる。)

森は東京大学を出て、母校の確か文学部フランス文学科で教鞭をとりつつ、デカルト・パスカルの哲学の研究を行っていた。その過程で、エリート学者の通例通り、フランスに留学することになる(1950年)。確か助教授の時だった。

ところが、フランスに留学した彼は、留学期限が過ぎても、日本に帰らなかった。
日本には、確か奥さんと娘さんを残したまま、彼は、フランスに留まった。
やがて、彼は東京大学助教授を辞職するか除籍されるかして、文字通り、フランスで一人生活することになる。以後、高名なフランス哲学者としては気に染まぬような仕事で糊口を塗すこともあったらしい。

そして、10年が経過した。この間に彼の書き溜めた手紙と日記が少しずつ発表されて、森 有正の名がわが国に甦った。『バビロンの流れのほとりにて』『流れのほとりにて』『城門のかたわらにて』などの著作である。

これらの著作は、哲学者のものと見ると物足らないところがあるが、異国で一人生活しながら思索を紡いだ結果と見れば、新鮮な驚きを呼び覚ますものであった。わが国の読書界は森 有正を歓迎した。 

こうして、わが国の読書界に確固たる地歩を築いた森 有正は、短期間、日本への帰国を重ねるようになる。1960年代のこと。それに合わせて、雑誌『展望』などに感想を寄稿するようになる。『遥かなノートル・ダム』『旅の空の下で』『木々は光を浴びて』『遠ざかるノートル・ダム』などにまとめられた著作である。私が森 有正に関心を寄せ始めたのはこの頃のことだ。

これらの著作は、前記の日記の延長線上にあるものであり、とくに、生活者の「経験」と「感覚」を重視する点が共通している。

以後も、短期間の日本帰国を重ねるとともに、日本の大学に奉職する話も具体化していたらしい。しかし、それが実現する前に、フランスで帰らぬ身となった。実に、フランス滞在26年に及んだ。

森 有正の死後まもなくして、彼の全集が編まれた(1978年-1982年)。全14巻+補巻のもので、彼の著作のほぼすべてに加え、未発表の日記も発表された。
ところが、この全集には不思議なことが一つある。それは、「年譜」がないのだ。
通常の個人全集では、詳細な「年譜」が付いていて、それにより、その人の生涯をたどれるのだが、森 有正の全集には「年譜」がない。

もともと、その行動からも推測できるように、森 有正には、自己神秘化(ミスティフィケーション)の趣きが少なからずあり、彼は、自己の個人的な事柄を公にすることを極端に嫌ったらしい。フランスに渡って日本に帰らない理由も口を閉ざしたままだ。おそらく、晩年になって、個人全集の話が出版社から持ち上がった際に、森 有正が「年譜」を付けないことを、希望したか、条件にしたか、したのだろう。

森 有正に関する著作をものにした木下順二・佐古純一郎・二宮正之・杉本春生・辻 邦夫・栃折久美子なども、揃って、森 有正の伝記的事実には目を向けていない。
初めに、森 有正の伝記的事実について、「確か」だとか「らしい」とかいう表現が多くなると述べたのは、森 有正の「年譜」がないのがその理由である。

さて、森 有正は、晩年になって、知人に、「(デカルトかパスカルかの)研究の決定版を書き終えた。まもなく印刷に回せるだろう。」と話していたそうだ。ところが、彼の死後、遺稿などを整理しても、デカルトもパスカルもどこにも見当たらなかったという。どうやら、森 有正一流の虚言壁で、周りは煙に巻かれたらしい。

『森有正全集 全14巻+補巻』(*)は現在絶版だが、『森有正エッセー集成 全5巻』(*)がちくま学芸文庫に収録されている。これは、1950年にフランスに渡って以降の著作・日記・書簡を編集したものである。ところが、こちらも絶版らしい。  (2009/10)

(2)その2

その後、「BIBLOSの本棚」から、『森有正全集 全14巻+補巻』(*)がさらに1セット、『森有正エッセー集成 全5巻』(*)も飛び立っていった。異様なほどの森 有正フィーバーだ。何か訳があるのだろうか?

インターネットで「森 有正」を検索してみると、思わぬことに突き当たった。今年9月に、NHK教育テレビの「NHK知る楽-こだわり人物伝」という番組で、『世界の中心で、愛をさけぶ』の作者・片山恭一氏が、森 有正のことを4回にわたって話したらしい。私は、このところ、新聞を購読していないので、テレビで森 有正が取り上げられていることを知らなかった。どうやら、この番組が、「遅れてきた森 有正フィーバー」の源のようだ。それにしても、片山恭一氏、恐るべし、だ。

前回、森有正全集に「年譜」がない不思議を述べたが、同じインターネット検索で、「CHEZ TAKAHASHI 高橋サンち」というホームページに出会い、その中で、「森有正略年譜」をまとめられているのを発見した。印刷したところ、7ページにわたる労作である。「CHEZ TAKAHASHI 高橋サンち」のご主人も、私と同じく、森有正全集に「年譜」がないことにいらだち、自分で「森有正略年譜」を作成することを試みられたのだろう。

それで、森 有正の伝記的事実が明らかになった。前回の私の記述に誤りや不十分な個所があることがわかったが、幸いなことに、「確か」とか「らしい」とか、確認できない事実はあいまいな表現にしておいたので、文章全般を書き直す必要はなさそうだ。改めて、「CHEZ TAKAHASHI 高橋サンち」のご主人にお礼を述べたい。

森 有正を論ずる著作では、海老坂 武『戦後思想の模索 森有正,加藤周一を読む』(1981年、みすず書房)が面白かった。1950年代から1960年代までの森の著作を読み込みながら、フランスと日本との間で格闘する知識人の営みを活写している。森 有正と加藤周一との共通項は、いうまでもなく、「留学体験」だ。森は留学先のフランスに留まる決意をし、加藤は長い留学の末、日本に帰ることを決意する。二人の結論の相違がどこからくるか、という点を海老坂は論じている。  (2009/11)


違いはどこから?

2010-04-07 16:37:53 | Weblog
小学校のクラスメートの顔はほとんど思い出せず、高校のクラスメートの顔はまざまざと思い出せる。この際立った差はどこから来るのでしょうか? 小学校卒業から50年、高校卒業から40年という経過年数の差は確かにあります。正確にいえば、小学校卒業から高校卒業までは6年です。

この6年が記憶作用に劇的な影響を及ぼすとは考えにくいところです。

私は小学校4年生時に転校して、卒業までの2年半を新しい小学校で過ごしましたが、新しい小学校に馴染めないまま卒業してしまったのが一因かもしれません。

当時の私は人見知りが強く、友達もいない児童でした。担任の教諭の通信簿には、「学業はまずまずですが、人見知りが強く、クラスに溶け込めていません。」と記されていたと記憶しています。確かにその通りでした。しかし、これを見た両親が激怒して、担任の教諭にねじ込みました。「だったら、どうしたらいいのか、道を示すのが担任の役目でしょう。」しかし、「詰め込み学級」では、個々の児童のケアには限界があったこともわかります。

記憶の箱をかき回していたら、小学校卒業時の文集が出てきました。クラスメートがそれぞれ感想を綴っていますが、当然のことながら、私の文章はありませんでした。しかし、「ひとこと」と題するコラムに、文字通り、一言記していました:
「東京工業大学でも卒業して実業家になりたい。」

これを見て、現在の私はあ然としました。何といやらしい文章でしょう。上昇志向丸出しで、その上、粗野な気質も現われています。

さらに驚いたのが、小学生時代に、その後の志望とはまったく別方向の進路を想定していたことでした。その後の私は文科系一筋でした。また、いわゆる「実業家」になることは、その後、一度も念頭にありませんでした。

どうやら、小学生時代の私とその後の私はまったくの別人格であるようです。これを考えると、小学校のクラスメートの顔をほとんど思い出せないのも納得がいきます。 (2010/4)


50年の歳月

2010-04-05 08:10:08 | Weblog
さて、小学校のクラスメートから突然クラス会への招待状が舞い込みました。私は、小学校卒業後、クラスメートとは誰とも連絡をとっていなかったので、びっくりしました。高校の同窓会にアクセスしたようです。個人情報保護法が施行されて、どこでも個人情報の管理は厳しくしています。「小学校のクラスメートという人から連絡を取りたいという申し出がありました。その気持がおありであれば、xxxxにご連絡ください。」こういうメッセージを高校の同窓会から受け取ったわけです。

そのクラスメートの名前は記憶しておりました。彼の連絡先にメールすると返信があり、同窓生名簿などが添付されていました。名簿によると、クラスの同級生が約60人。いわゆる「詰め込み学級」で、ずいぶん多くのクラスメートがいました。うち、名前を覚えていたのは6人だけ。クラスメートの多くは忘却のかなたに行ってしまっていました。

名簿には、三分の一程度の人の住所が記載されていました。小学校の同窓生名簿としては立派な維持状況だといえます。今回、私の住所が新たに名簿に加わったわけです。彼によると、2年に一回、クラス会を開いているとのこと。これも立派なことです。

彼は、最近のクラス会での集合写真も添付してくれました。それを見て、さらにびっくりしました。「これは、誰それさん。」というふうに人物にテロップをつけてくれているのですが、ほとんどのクラスメートの現在の顔と小学生時代の顔とが重なり合わないのです。重なったのはただ一人。担任の恩師のお顔もまるで別人でした。50年の歳月とはいかに長いものかを実感しました。

現在の写真を見ても懐かしさの感情は湧いてきません。これでは、クラス会に出ても、知らない人たちの中でポツンと孤立する姿が想像できて、懐かしさを楽しむわけにはいきそうにありません。
折角の彼の誘いですが、今回のクラス会は欠席しようかと思っています。

懐かしさを取り戻すためには、時間をかけて、「浦島太郎」状態を解消する作業が必要でしょう。1年かかるか2年かかるか、わかりません。そうして、「ああ、これは誰それさんで、昔、これこれのことを一緒にしたっけ。」というような思い出が多く蘇ってきた時に、改めて、クラス会に参加させていただこうかと思っています。 (2010/4)


同窓会の季節

2010-04-03 07:29:49 | Weblog
人間は歳をとると、昔が懐かしくなるようで、昔の仲間との再会を試みることが多くなるようです。
また、「啓蟄」とはよくいったもので、春のこの季節は、なにやら、「人懐かしがり」の虫がうづき出すようです。

5年ほど疎遠になっていた将棋仲間にメールをして、対局再開にこぎつけました。彼は、私よりはるかに強いので、まともな勝負になるかどうかわかりませんが、楽しみなことです。

大学の同窓生とは、月に一度、「囲碁・将棋の会」で集っています。これが最も頻繁に顔を合わせている同窓会です。

勤め先のOBの同窓会が二つ同時期に開かれます。隣り合った組織なのですが、一つを春に開くのであれば、もう一つは秋に開くというような配慮は効かないようです。二つとも、錚々たる先輩連が参集するようで、そこでまた「先輩風」を吹かれてはかなわないと、出席をためらっています。

2月には、高校のクラスメートと再会しました。40年ぶりの再会にもかかわらず、昔の面影そのままの彼を見て、びっくりしました。他にも、高校のクラスメート2人とメールでの交流を再開しましたが、彼女らとは高校卒業以来一度も会ったことがないにもかかわらず、高校時の彼女らの面影は今でも思い起こすことができました。不思議なことです。  (2010/4)