静聴雨読

歴史文化を読み解く

ハインリッヒ・フォーゲラー

2008-10-25 06:35:44 | 美術三昧
19世紀末に北ドイツ・ブレーメン近郊のヴォルプスヴェーデ村に集まった芸術家集団があり、その中に、フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハインリッヒ・フォーゲラー、パウラ・モーダーゾーン・ベッカー、クララ・ヴェストホフなどがおり、詩人ライナー・マリア・リルケがこの集団を援助し世に喧伝するのに貢献した、ということを、種村季弘『ヴォルプスヴェーデふたたび』、1980、筑摩書房、を引きながら、「パウラ・モーダーゾーン・ベッカー」と題するコラムで述べた。
 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20081023

今回は、このヴォルプスヴェーデ村に集まった芸術家集団のうち、ハインリッヒ・フォーゲラーに焦点をあてて紹介してみたい。

ハインリッヒ・フォーゲラー(1872-1942)は、ブレーメンで商人の子として生まれ、デュッセルドルフ美術学校で学んだ。1895年には、23歳の若さでヴォルプスヴェーデに移住している。

フォーゲラーは多才で、エッチング、装飾、工芸、団地設計など、活躍の場を拡げていった。
もちろん、油彩にも長けていて、白樺の林を背景にして女性のたたずむ姿を描いた「春」、1897年、や、バルケンホフの玄関前の中庭にヴォルプスヴェーデ村の芸術家集団の面々を配した「夏の夕べ」、1905年、などの傑作を残している。

特に、「夏の夕べ」は、芸術家集団のつかの間の団欒を写しとっていて、身につまされる。以後、芸術家集団は散り散りになるのだが、その運命の予兆があるのだろうか、ないのだろうか。芸術家集団は個性の強い人たちの集まりだから、いずれ、個々が独立するのは避けがたい。

フォーゲラーの場合は、その芸術上の主張とともに、社会改革への激しい姿勢が、自己の立場を一層困難にした。以後、彼は、ヴォルプスヴェーデを離れるだけでなく、ソ連の社会主義建設に自らを賭ける。社会主義建設と民衆の姿を重ね合わせた多くのプロパガンダ絵画はフォーゲラーの理想を実現しているはずであった。

ところが、社会主義建設に貢献すれどもすれども、ソ連から疎外されることになる。理想に裏切られることを身をもって感じても、なおも理想を信じる彼の心境は痛々しい限りだ。

晩年には、ソ連政府からの年金の支給を絶たれ、生活物資に困窮し、物乞いに歩き、栄養失調にかかり、北カフカズのコルホーズで亡くなった。

芸術の理想とは何か、芸術が社会に貢献する道は、と愚直に突き進むフォーゲラーには、ソ連とその社会主義は余りにも冷たく写ったのではなかろうか。

2000年に大規模な「ハインリッヒ・フォーゲラー展」が東京駅ステーション・ギャラリーで開かれた。私はそこでかれの生涯と芸術のすさまじい相克を見て、息を詰めたものである。

参考文献:
ジークフリート・ブレスラー『ハインリッヒ・フォーゲラー伝』、2007年、土曜美術社出版販売
『ハインリッヒ・フォーゲラー展』、2000年(*)
 (2007/9)

パウラ・モーダーゾーン・ベッカー

2008-10-23 00:07:33 | 美術三昧
神奈川県立近代美術館葉山(フー、長い!)で開かれていた「パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 時代に先駆けた女性画家」(これも長い)を観て来た。春の嵐の荒れくれた日の翌日で、葉山湾に白い大きな波頭が残り、強風が雲を吹き払ったあとに富士山がくっきりと見えた。陽は明るく、まさに湘南の趣きを現出していた。

(1) 北ドイツの女性画家

パウラ・モーダーゾーン・ベッカー Paula Modersohn-Becker について知ることは多くない。その絵画を見たこともない。亡くなった種村季弘の最高傑作(と私の信ずる)『ヴォルプスヴェーデふたたび』(1980年、筑摩書房)が唯一の導きだ。19世紀末に北ドイツ・ブレーメン近郊のヴォルプスヴェーデ村に集まった芸術家集団にパウラの名前は刻まれていた。フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハインリッヒ・フォーゲラー、クララ・ヴェストホフなどと並んでパウラはこの芸術家集団のアクティブな一員であった。大量生産・大量消費の19世紀文明に対応することのできない不器用で純粋な芸術家魂を拠りどころにして創作に励む集団のなかで、パウラはひときわその芸道に忠実であったらしい。

ヴォルプスヴェーデ村の芸術家集団が一層の光彩を放ったのには、詩人ライナー・マリア・リルケの力も与っていた。彼はこの集団を鼓舞するとともに、作品を買い上げるなど、パトロンとしてもこの集団を応援していた。パウラもリルケから励ましを受けた一人だ。リルケは一時期クララ・ヴェストホフとパウラの両方に思いを寄せ、結局クララと結婚したのだが、その後もパウラとリルケ、パウラとクララの厚情はともに変わりなく続いたらしい。リルケの『美術書簡』(塚越敏編訳、1997年、みすず書房)には、パウラあての書簡が2通収録されている。ロダンとセザンヌを媒介にして自らの思いを述べたものだが、極めて慎み深い行間から、二人の関係を推し量ることは難しい。

さて、パウラについては、日本人によるモノグラフがあった。

佐藤洋子『パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 表現主義先駆けの女性画家』、2003年、中央公論美術出版

早速取り寄せて読んでみた。
ドイツの上流階級の家庭の女性として恵まれた前半生を送ったパウラはベルリン・ロンドンで絵の勉強をし、次いでマッケンゼンについて本格的に修行を進め、ヴォルプスヴェーデ村に移り住む。オットー・モーダーゾーンと結婚した後にも絵心は亢進し、パリに出ては身を削るようにデッサンに励む。その間、オットーとの間で心の疎隔が生じたこともあったようだが、オットーは精神的にも経済的にもパウラを支え続けたようだ。また、パウラのベッカー家の家族もパウラに理解を示し続けたようである。

ヴォルプスヴェーデ村とパリ。二つの拠点で養分を吸い取りながら、パウラの画業は形成されていった。
ヴォルプスヴェーデ村は泥炭地と白樺が象徴するように、寒々とした印象を受けるところである。パウラの絵も暗い色調で一貫している。対象は、風景・子ども・老婆など。
パリでは、セザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンやエジプト彫刻・日本の浮世絵などをむさぼるように吸収した。対象は静物に拡がっている。パウラの静物画を点検すると、面白いことに、構図にはセザンヌの影響が見られるが、色調はゴーギャンを彷彿とさせるものとなっている。

パウラの特徴をよく示す代表作を挙げるならば、ヴォルプスヴェーデ村で制作した子どもや老婆、パリで制作した静物、そして、ヴォルプスヴェーデ村でもパリでも制作した多くの自画像、の三つになるだろうか?
絵の巧拙はわからない。しかし、それは、ゴーギャンやアンリ・ルソーについてもいえることだ。

パウラの暗い色調の絵画と葉山の陽光とはなにかしらそぐわない。葉山美術館(と略してしまおう)のあと、栃木県立美術館に巡回しているが、北関東の地でパウラとまみえたならば、また別の印象を受けるかもしれない。時間があったら行ってみよう。 

(2)パウラのイニシアル

パウラ・モーダーゾーン・ベッカーについてもう一回書いてみたい。

彼女の名前は、ベッカー家からモーダーゾーン家に嫁いだパウラを表わしている。パウラとオットーの婚約は1900年9月、結婚は1901年5月である。

さて、パウラが絵に残したイニシアルに注目してみたい。彼女のイニシアルは一定しない。大きく分けて4通りある。(1)無署名:55点。(2)PMまたはPMB:9点。(3)PMBまたはP.Modersohn Beckerの下にOMの副署があるもの:6点。(4)PMBの下にTMまたはT.Modersohnの副署があるもの:20点。

パウラのイニシアルの特徴を挙げると:
(a)一定しないこと(上記の通り)
(b)無署名が多いこと(半数以上。完成作品・未完成作品を問わない)
(c)副署のあるものがあること(OMまたはTM。OMがオットー・モーダーゾーンであることは間違いないが、TMは誰? また、何のための副署か?)

いくつかの疑問が湧く。
なぜ無署名が多いのか? 一般には、未完成のためにイニシアルを入れない、ということが考えられるが、パウラの場合、堂々たる完成作品にも無署名が多い。会場に展示された1897年から1907年までのどの年の作品にも無署名のものがある。自らに厳格なパウラの心性が窺える。

副署の意味するものは? 佐藤洋子の評伝によると、パウラの絵の最も厳格な批評者がオットーであることがわかる。つまり、オットーのチェックを通ったもの、という推測が成り立たないだろうか? TMのTは、あるいは、oTto のつもりではなかろうか? パウラ自身が納得しオットーも評価した作品が、世にも珍しい副署付きイニシアルを刻印されたのではないだろうか?
しかし、1901年のパウラとオットーの結婚(あるいは1900年の両者の婚約)より前(1898年および99年)の作品に副署付きのもの6点あるのはどう説明すれがいいのだろうか? そう、後日、遡ってイニシアルを入れたのだ。

PMだけまたはPMBだけのイニシアルを持つ絵は、1903年(2点)・05年(2点)・06年(5点)に分布している。1905年から06年にかけて、パウラとオットーとの間に疎隔が進行し、パウラは一時離婚を決意するまでになっている。そのことと関係がありそうである。

パウラは知人の忠告を容れて離婚を回避し、1907年11月に一児を儲けるものの、その後すぐ、産褥熱からの塞栓症で他界する。まことに自らに厳しい女性画家の一生といわねばならない。
イニシアルを調べるために、宇都宮市の栃木県立美術館を訪れた。そこでパウラの一生を振り返りつつ、その暗く重い絵に魅せられるひとときを過ごした。パウラの絵が広く受け入れられることを望んでやまない。   (2006/5-7)

(3) 補足

パウラ・モーダーゾーン・ベッカーに関する論考を収録した個人誌「歴史文化を読み解く 第3集」を佐藤洋子先生に献呈した。先生から、パウラのイニシアルについて、いくつかのご教示をいただいたので、紹介したい。

その1。パウラは署名に熱心な画家ではなかったこと。残された絵の多くが無署名であること。

その2。PM、PMB、P.Modersohn Becker の署名の中には、無論パウラのものもあるが、明らかに他人が入れた署名もあること。したがって、「筆跡鑑定」をして誰の署名か確定する必要があること。

その3。OMはオットー・モーダーゾーン、TMは、パウラの遺児ティレ・モーダーゾーンだろうということ。

その4。オットー・モーダーゾーンにしても、ティレ・モーダーゾーンにしても、副署した理由は、散逸を防ぐための「所有表示」の趣きが強く、必ずしも、その絵に対するオットーまたはティレの評価を示しているわけではないこと。この点、私は考えすぎていたことになる。

このように、パウラのイニシアルについてはなかなか奥が深く、今後の研究は専門の先生に委ねたいと思う。

なお、佐藤先生は、パウラ・モーダーゾーン・ベッカーの研究をさらに深化させておられ、最近も先生の称する「パウラ詣で」のため、ブレーメン(クンストハレにパウラの絵が多く展示されている)などを訪れて帰られたとのこと。先生のパウラについての著書の2冊目が『いのちの泉を描いた画家 パウラ・モーダーゾーン=ベッカーの絵画世界』の題で、中央公論美術出版から刊行されている(2008年4月刊)。
(2008/10)


ことばの力(近代の詩人たち・2)

2008-10-17 07:36:15 | 文学をめぐるエッセー
(2) ことばの力

詩とは何か? 多くの人がこの疑問に対する回答を与えてきたと思うが、私は、不勉強でそれらを知らない。

私は、「詩とは、『ことばに力を与える営み』だ」と考えている。ことばの力を信じる人が詩人である。そういう単純な回答を用意している。

それでは、「ことばの力」とは何か?
ことばが本来持っているはずの喚起力のことだ。喚起の対象は、新しい感情であったり、未知のものへの好奇心であったり、ことばの組み合わせによって生ずることばの化学変化(のようなもの)であったりするが、個々の詩人は、何らかの方法で、これら、新しい感情、未知のものへの好奇心、ことばの化学変化などを紡ぎだす営みをしているのではないか。

前回、日本近代詩の詩人たちを、難語派、平語派、技巧派に分類することを提案したが、これは「ことばの力」をどのように掘り出すかという「詩の作法」に注目した分類にほかならない。

再度、その定義を載せると:
・難語派(ことばに何かを象徴させて、読み手を異次元に誘う詩人たち)
・平語派(俗なことばを使いながら、読み手に感興を与える詩人たち)
・技巧派(ことば使いの技巧によって、読み手を驚かす詩人たち)

そして、それぞれを代表する詩人は次の通りだ:
・難語派(北原白秋・宮沢賢治・西脇順三郎・吉本隆明)
・平語派(中原中也・中野重治・伊藤 整)
・技巧派(萩原朔太郎・草野心平)

次回から、詩人一人ひとりを紹介していきたい。 (つづく。2008/10)

英語学習の思い出(続)

2008-10-09 07:51:44 | ことばの探求
(1)イントネーションにまつわる思い出

日本語の苗字では、4文字の名前が多くあります。福田内閣の閣僚を例にとれば、「町村」「桝添」「鳩山」などがそうです。これらのイントネーション(抑揚)を調べると、「^^・・」「・・・・」「・・・・」となり、いずれも、抑揚が少ないか、ない、ことがわかります。これが、英語を話す人たちには障害となっているようです。

高等学校でのもう一人の英語教師は、英語ではイントネーションが重要であることを盛んに強調しておられました。
「沖縄」ということばを例にとって、彼は説明します:
「沖縄」は日本語では、「_・・・」と発言しますが、それでは、アメリカ人やイギリス人には通じません。
そういって、彼は黒板に、「owe-key-now-wa」と書きました。そして、「now」の上にアクセントがあることを表示したのです。そのイントネーションは「・_ _ _ ^・ ・」となるでしょうか。

なるほど、抑揚の乏しい日本語の「沖縄」と、英語の「Okinawa」では、聞いた感じはまったく違います。イントネーションの重要性がひしひしとわかります。

先生は「沖縄」の発音を学ばせるにあたって、次のような例文を使われました。
 Okinawa is the keystone of the Pacific.

「沖縄は太平洋の要め石だ」という意味で、アメリカ政府当局者やアメリカ軍部がたえず口にしていたセリフです。沖縄返還が実現するよりも前の時代の話なので、日本人の中にも、このように、アメリカ政府やアメリカ軍部の代弁をする人が多くいました。

沖縄から東アジアのソ連・中国・北朝鮮に爆撃機を飛ばすことができましたし、また沖縄から西アジアには航空母艦を派遣することもできたわけで、文字通り、沖縄はアメリカにとって戦略的に重要な太平洋の拠点でした。でも、それを日本人から聞かされたくはない、という気持ちも生じました。

現在、沖縄は日本に帰ってきましたが、沖縄にはいまだにアメリカ軍基地が多く残っています。 アメリカ軍にとっては、「沖縄は太平洋の要め石だ」という認識は健在のようです。

それに対して、日本人の認識がどう変わるのかが問われているように思います。

 Okinawa is a paradise for reef. (沖縄は珊瑚の楽園だ)
という人が多くなるのが望ましいと思います。

(2)ヒアリングにまつわる思い出
            
私の受験した大学では英語の中にヒアリングの試験もありました。受験生の中には、このヒアリングにパニックになる人もいたようで、「ヒアリングは捨てて、ほかの部分で頑張る」、と表明する人もいました。

私の高等学校ではヒアリングの授業があり、わずかでしたが、ヒアリングには慣れていました。それで、大学受験でのヒアリングは恐れるに足らないものでした。

大学を卒業して、会社勤めを始めてしばらくは、英語を使う機会がほとんどなかったことはすでに述べた通りです。
その後、突然、英語を必要とする部署に配置転換となり、外国企業の人たちとのコミュニケーションが始まりました。

英語に慣れるには英語の話される環境に身を置くのが一番だといわれますが、アメリカなどへの出張で英語のシャワーを浴びることが、ヒアリングの最上の勉強法でした。初めは何も聞き取れなかったものが、いつのまにか、少しずつ、耳にひっかるようになります。
英語の環境に身をさらす時間に比例して、ヒアリングの能力が上がるように実感しました。

アメリカなどへの出張から帰るとヒアリング能力は落ちます。しかし、また、次のアメリカなどへの出張に出て、英語のシャワーを浴びると、再びヒアリング能力が戻ることを体感しました。まさに、バッテリーの充電です。

今は、英語の環境に身を置くことはありませんので、ヒアリング能力は落ちました。しかし、再び英語の環境に身を置けば、ヒアリング能力が復活することは間違いありません。

と自慢してみたものの、痛い経験もしています。
ヘンリー・D・ソローを記念する年次集会が毎年7月に、アメリカ・マサチューセッツ州コンコードで開かれます。ある年、この集会に出席しました。そして、多くの講演や討論を聞いたのですが、そのどれもがチンプンカンプンで、まったく理解できませんでした。これはショックでした。ある程度、話題の範囲が限られていれば、理解できるものと思っていたのですが、思うようになりませんでした。これが、本当のヒアリングの実力なのでしょう。

(3)優雅なイギリス英語

仕事でロンドンに出張した時のこと。
ウィンブルドンにある小さな会社を訪れることになり、住所だけを頼りに行くのは心もとないので、ロンドン市街からタクシーを拾うことにしました。ホテルのドアマンに頼みました。これが間違いでした。

運転手に行き先のアドレスを示し、「ここに行ってほしい。」と告げました。「あいよ!」といって、運転手は車を発進させました。

しばらく乗ってウィンブルドンに近づいたと思われた時、車が急に止まりました。運転手が窓ガラスを下ろし、路行く女性に何やら尋ね始めました。二人の会話は延々と続き、15分ほど過ぎたところで、運転手が「 Much obliged ! 」と発して会話は終了しました。「ありがとうございました。」といったのだと理解しましたが、その余りに短い謝辞に、一瞬、あっけにとられました。

運転手のいうことには、まったく地理不案内で、今尋ねてやっとわかった、とのことでした。ロンドンのタクシー運転手にはありえないことです。そう、この運転手は、ホテルのドアマンと結託した白タクの運ちゃんなのでした。

しかし、この運ちゃんの発した「 Much obliged ! 」の一言が何と詩的で美しかったことか!

話変わって、オーストリアのウィーンで開かれたある国際会議でのこと。

タイの大学教授の方から話しかけられたことがありました。何人もの子分を従えて、見るからに、セレブリティーぶりを発揮しています。
彼女から、日本の放送大学のことを尋ねられて、私の知る限りのことをお話しました。
終わりに彼女の発したことばが「 Much obliged ! 」でした。

彼女の英語は完全なイギリス英語で、限りなく優雅な英語でした。これが、Queen’s English なのかと思いを深くしたものです。
映画『王様と私』でデボラ・カーの演じた王女を思い出しました。デボラ・カーの英語も優雅なものでした。

おそらく、タイには、正統的な Queen’s English が受け継がれているのでしょう。イギリス植民地主義の数少ない「正の遺産」をここに確認することができます。

イギリス英語には、ごつごつしたところがある反面、優雅な側面があることを、ロンドンの白タクの運ちゃんとタイの大学教授は教えてくれました。

(4)やさしい英語

アメリカの作家・ヘミングウェイに『老人と海』という小説があります。スペンサー・トレーシーの主演で映画にもなりました。老人と情熱、老人と孤独を描いた傑作です。この小説の原題が THE OLD MAN AND THE SEA というものです。何とわかりやすい題名でしょうか? よく見ると、6語すべてが3字で構成されています。これほど、単純でわかりやすい題名を考えるヘミングウェイはただものではありません。

同じアメリカの作家・フィッツジェラルドは「彼は決して難しいことばを使いません。」とヘミングウェイを評しています。むべなるかな、です。

さて、仕事でアメリカの企業の方々と折衝するなかで、勤務先の上司が「君の英語は、中学生の語彙で言わんとすることを表現しているね。」と評したことがありました。確かに、私の英語は拙くて、やさしい言葉ばかりを使っていました。作文であれば、辞書を参考にして、難しい言葉をちりばめることもできますが、会話では、辞書を参考するわけにはいかないではありませんか。それで、頭にある言葉と構文で会話文を考えることになります。

今考えれば、あの時の上司の言葉は最高のホメ言葉だったわけです。

やさしい言葉で英文を組み立てる。この過程で、知らず知らず、ヘミングウェイの方法に感化されていたようだ、と思い当たります。 

(5)会話はどこで習ったか?

今、会話をどこで習ったか、を思い出そうとしているのですが、なかなか思い出しません。

ヒアリングについては、高校時代からボツボツと、また、勤め人になってからは、海外出張の機会が増えるにしたがって、その機会に、ヒアリングをマスターしたことは思い出します。

だが、会話については、継続的に習ったことはないのです。
勤務先の英会話教室に通って「ままごと」のような会話を習ったことはあります。
講師は同じ企業の英語通でしたが、その教室で学習したことの一つを思い出しています。

Thank you very much. と相手にいわれたら、即座に、 Not at all. It’s my pleasure. と返しなさい、という教えです。この「どういたしまして」ということばを発することが習慣として定着すれば、会話に余裕が生まれる、という意味だったと思います。いかにも、企業人として理にかなった考えです。

そのような断片的な学習以外に、結局、会話をどこかで学んだことはなかった、といえます。

私の英会話は、(1)相手のいうことを理解する、(2)それに対して、やさしいことばを組み立てて応答する、という2点に尽きるようです。そして、その学習の場は、もっぱら、勤め人時代の海外出張の機会だったというのが結論です。  (2008/4-9)


二重基準(ダブル・スタンダード)

2008-10-07 00:01:44 | 社会斜め読み
社会現象で、「金太郎飴」現象と並んで私の注目するのが、二重基準(ダブル・スタンダード)です。『広辞苑(第四版)』には、「二重基準」も「ダブル・スタンダード」も見当たりません。物事を評価するのに、内向きの基準と外向きの基準とを使い分けたりすることを指します。

その最も典型的な例が、国際政治の場における「核の拡散」への各国の対応が挙げられます。
もしそれを行使したら、世界人口の何十倍もの死者を生み出すだけの核兵器を人類は製造し・貯蔵しています。今では、核兵器の行使自体ができない、というのが人類の「理性」の教えるところです。

そこで核保有国の考え出したのが「核の不拡散」です。平たくいえば、これ以上核兵器を開発して核を拡散すことは抑止しよう、ということです。そのため、非核保有国の核開発を厳格にチェックする理由付けを見出そうとしています。人類の「理性」も、これ以上の核兵器の増加は食い止めなければならない、と賛成しますが、非核保有国からすれば、「核の不拡散」とは核保有国による「核の独占」の維持にほかならないと映ります。

実は、「核の不拡散」と同時に、核保有国による「核兵器の削減」がなされなければ、人類共通の目標である「核の恐怖からの解放」は実現しません。「核の不拡散」に熱心な割りに、「核兵器の削減」には熱心でない、ここに、核保有国の核政策における二重基準(ダブル・スタンダード)が現われています。

また、最近、アメリカが、インドの核開発は認めて、イランの核開発は認めない、という姿勢を露わにして国際社会の顰蹙を買っていますが、これも、典型的な二重基準(ダブル・スタンダード)です。「核の不拡散」には、「良い拡散」と「悪い拡散」の区分などありません。インドの核開発は認めて、イランの核開発は認めない、というのはアメリカの国情に沿った区分であって、人類の「理性」の承認するものではありません。

二重基準(ダブル・スタンダード)には様々なヴァリエーションがあり、「総論賛成、各論反対」・「面従腹背」などはわが国の官僚機構におなじみの二重基準(ダブル・スタンダード)の一種です。
(2008/10)