静聴雨読

歴史文化を読み解く

「金太郎飴」現象

2008-09-27 06:51:08 | 社会斜め読み
私には社会を斜めに見る習慣がありますが、社会現象で最も注目するのが、一つは「金太郎飴」現象であり、もう一つは二重基準(ダブル・スタンダード)です。今回は、「金太郎飴」現象を採り上げます。

身近な政治の場では、毎年恒例の首相交代劇があって、政界歳時記の9月の季語に「投げ出し」が載るほどです。

新総理の麻生氏が、福田前総理や安倍元総理と違うのか同じなのか、が当面の問題でしょう。

政権を突然投げ出した安倍元総理と福田前総理には、ご本人が否定しようとも、まぎれもない共通点がありました。それは:
・選挙で選ばれたわけではなく、突然舞い込んだ「総理の座」をつかんだにすぎない
・政治家の二世か三世の世襲議員である
・自民党という万年与党にどっぷり漬かった政治家である、
などが挙げられます。

麻生・新総理はどうかといえば、上の3点に見事合致しています。次の総選挙の洗礼を受けるまでは、麻生・新総理に安倍元総理と福田前総理と違った画期的な政策を期待するのは無理です。

個人の性格や個別の政権ビジョンに違いがあっても、それらを飲み込んでしまう大きな因子があるのが汲み取れます。それが「金太郎飴」現象です。どこを切っても同じ模様の顔が現われるが「金太郎飴」。安倍元総理・福田前総理・麻生新総理の3人にはまぎれもない同じ遺伝子が流れていることがわかります。その遺伝子を名づければ、「戦後自民党政治」とでもなりましょうか。
(2008/9)


近代の詩人たち・1

2008-09-21 12:03:27 | 文学をめぐるエッセー
日本の近代詩について書きたいと思う。
といって、大掛かりな準備をしたわけでも、画期的な主張を展開するわけでもない。日頃、日本の近代詩に対して抱いている思いを率直に述べてみたい、というほどの試みである。

(1) 日本の近代詩の特徴

明治以降の日本近代詩の特徴を挙げるとすれば、
・文語詩から口語詩へ
・定型詩から非定型詩へ
・抒情詩の興隆から衰退へ
などであろうが、これらはすべて、詩の流行や廃りに注目した評価である。

別の切り口があるのではないか、という思いが絶えない。

これから採り上げる何人かの詩人たちを、私は以下のように分類したい:
・難語派(ことばに何かを象徴させて、読み手を異次元に誘う詩人たち)
・平語派(俗なことばを使いながら、読み手に感興を与える詩人たち)
・技巧派(ことば使いの技巧によって、読み手を驚かす詩人たち)

具体的な詩人名を挙げるのは次回以降にするとして、上記の分類は、明治・大正・昭和の時代に関係なく、適用できるものだ。  (つづく。2008/9)

ネットワークの力

2008-09-15 20:59:38 | 現代を生きる
風邪をひき元気の出ないまま、テレビのスイッチをつけると、国会中継を実況していた。これが意外に面白く、ひきずられて見てしまった。参議院の予算委員会だ。

質問者は野党(民主党・新緑風会・日本)の桜井充氏。福島県の選出。医師の経験があるそうで、小泉内閣・安倍内閣と続いた構造改革・格差是認政策を追求するには格好の質問者だ。

格差問題が今国会の重要テーマに浮上してきて、桜井氏の切り口を注目したが、社会保障制度と郵政民営化に焦点を当てたのは妥当なところだ。

いろいろ勉強になることがあった。
医師の不足、とりわけ、産婦人科医と小児科医の不足がいわれて久しいが、この現象が際立って現われるのが、地方の地域であること。ここでも格差が如実に現われること。舛添厚生労働大臣が丁寧に答弁していたが、中でも目立ったのが、大規模病院に過度に依存することが危険であるという指摘だ。地域ごとにしっかりしたクリニック(産婦人科医クリニックと小児科医クリニック)を根付かせることこそが重要だということ。この点については、質問者と政府答弁が合致したように感じた。

そう、地域ごとにしっかりしたクリニックがあって初めて医療システムが機能することを改めて肝に銘ずるべきだ。
その上で、地域ごとのクリニック相互を結ぶネットワークがあり、さらにそれらを補完する高度医療機関がある、というかたちが、スマートで経費の少ない解決方法だといえる。

実は、地域ごとのしっかりした拠点という考え方は、医療にとどまらず、介護においても、教育においても、当てはまる考え方であり、この考え方こそが、「地方再生」だとか「地域格差の是正」だとかいう政策の決め手だと思う。そして、その中核となる裏方こそが「ネットワーク」なのだ。

(2)

医療にとどまらず、介護においても、教育においても、地域ごとのしっかりした拠点という考え方が、「地方再生」だとか「地域格差の是正」だとかいう政策の決め手で、その中核となる裏方こそが「ネットワーク」なのだ、と前回結んだ。

今回はそれを詳しく述べよう。
地域ごとに医療・介護・教育の需要はあるが、通常、その需要は大都市に比べて小さい。そのため、「効率が悪い」・「不採算だ」として、地域の医療・介護・教育に携わる人間・機関が減少するというのが基本構図だ。小泉内閣・安倍内閣と続いた構造改革・格差是認政策のもたらした帰結だ。

いい知恵はないものか?
地域ごとに医療・介護・教育に携わる人たちと機関に、まず、踏ん張ってもらえるような行政の手当てが必要だ。地域の医療・介護・教育に、大掛かりな設備を投資することは経済効率上難しい。その代わり、地域ごとに医療・介護・教育に携わる人たちと機関に最小限の財政支援をするよう地域行政組織に期待したい。

地域の医療・介護・教育に携わる機関は、大掛かりな仕事はできないかもしれない。しかし、そこに働く人たちのノウハウは高い水準を保っている可能性がある。その可能性を引き出すのが、地域の医療・介護・教育に携わる機関同士の連携だと思う。得意な分野・深い経験を互いに交換し合えるような連携の輪を作り出すことで、個々人や個々の機関に埋もれていたノウハウを最大限に活用することができる。これが、「ネットワーク」という考え方だ。

「ネットワーク」には、地域の医療・介護・教育に携わる機関同士のもののほかに、地域の医療・介護・教育に携わる機関と大規模な医療・介護・教育機関とのあいだのものがあり、こちらのネットワークの整備も並行して進めるべきことは論を俟たない。 

(3)

「ネットワーク」はIT用語でもある。

情報システムの発達の歴史は、バッチ処理システム→オンライン・システム→ネットワーク・システムとたどることができるのは周知の事実だ。

「オンライン・システム」の基本形態は、1つのホスト・コンピュータに多くの端末機器がぶら下がるというピラミッド型だ。全体を統制するのが「ホスト・コンピュータ」で、ほかの端末機器はホスト・コンピュータの指示するままに動作する。このシステムは別名「ホスト・スレーブ・システム」といわれるように、「ホスト」が「スレーブ(奴隷)=端末機器」を完全に支配するのが特徴だ。

はて、待てよ? と思う方もおられるだろう。
従来の国と地方との関係がまさに「オンライン・システム」の形態だったのである。国が「補助金」というエサで地方を実質上支配する構図が長いあいだ続いてきたのだ。

これに異を唱えたのが、宮城県・高知県・三重県・鳥取県・長野県などの知事たちで、国のひも付きでない「地方分権」を提唱した。
これに対して、国は、「補助金」を削減した上で、地方に「自由にしなさい」と引導を渡したのである。財力のある・なし、知恵のある・なしがモロに県や市町村の浮沈を左右するようになったのが、小泉内閣の「三位一体改革」であった。

ここで地方がひるんではならない。ここで、もう一度、情報システムの発達の歴史からの類推を進めてみよう。

(4)

情報システムはオンライン・システムからネットワーク・システムへと進化した。
「ネットワーク・システム」は情報システムの中核にネットワークがあり、そのネットワークにあらゆるものが参加するシステム形態だ。「あらゆるもの」の中には、巨大なメール・サーバやデータベース・サーバと並んで、個人のPC群もあるのが特徴的だ。また、あらゆるものが「参加する」ということばが表わすように、例えば、巨大なサーバと個人のPCとの間に上下関係はなく、それぞれが対等な立場でネットワークに参加し・ネットワークを利用する考え方が根底にある。

昔のオンライン・システムが「ホスト・スレーブ・システム」と呼ばれたのに対し、ネットワーク・システムは「クライアント・サーバ・システム」とも呼ばれるように、個人のPCなどの「クライアント(顧客)」とショッピング・モールなどの「サーバ」がネットワークを介してつながっているのが特徴だ。その中にあって、ネットワークそのものは透明であることが求められる。

さて、ネットワークがあると、地方自治で何ができるようになるか、が問題だ。

まず、地域の医療・介護・教育に携わる機関同士の連携が可能になる。得意な分野・深い経験を互いに交換し合えるような連携の輪を作り出すことで、個々人や個々の機関に埋もれていたノウハウを最大限に活用することができる。医療でいえば、例えば、症例の照会や空きベッドの照会などがスムーズに行えるようになる。

次に、地域の医療・介護・教育に携わる機関と大規模な医療・介護・教育機関とのあいだの連携が可能になる。医療でいえば、例えば、カルテの電子的共有ができれば、A地の大規模な医療・機関の専門医がB地の患者を診ることができるようになる。また、教育でいえば、遠隔教育設備があれば、A地の大学の高度な教育内容をB地の学生が享受できるようになる。

このように、ネットワークがあれば、財政状態の貧弱な地域でも、大きな負担なしに、地域だけでは受けられないような高度で先進的なサービスを受けられる可能性があるのだ。ネットワークこそ、現代のインフラストラクチャであるといってよい。 

(5)

と、ここまで書いたところで、古本屋で、金子郁容『ネットワーキングへの招待』、1986年、中公新書、を手に入れた。20年前の著作だが、そこには、ここまで考えてきた「ネットワークの力」と相通ずる議論が展開されていて、興味深かった。

金子の言説の趣旨を我流で要約すると;
① 人と人、機械と機械を結びつけて、新しい価値を創造しようとするのがネットワーキングの考え方である。
② ネットワークを活性化するのは、そこに参加する「自律的人間」である。「自律的人間」は互いに主張し、時には論争して、何らかの共通の目的を達成しようとする意思がある。
③ 「自律的人間」相互に上下関係は存在しない。
④ ネットワークそのものは中立的で裏方である。

さて、インフラストラクチャ(社会基盤)の議論に戻ろう。
インフラストラクチャは、文字通り、社会の活力の基盤となるものだ。道路・河川・鉄道などの交通インフラ、電力・ガス・水道などの生活インフラ、郵便・電話などの通信インフラなどが数えられる。ネットワークはIT時代の通信インフラとして不可欠のものとなった。

しばらく、通信インフラの一つである「郵便局ネットワーク」について考えてみよう。さきにふれた参議院の予算委員会に質疑では、「郵政民営化」で何が変わったかの議論があった。

桜井氏の指摘したのは、①手数料が値上げになった。②1万9千局あった特定郵便局が400局も休止に追い込まれた。局と局員が「老朽化」して、新しい設備・新しいサービスに追いつけなくなったのが原因らしい。③集配局の統廃合が進み、100局が集配を取りやめた。それで、年間400億円の経費削減ができるという。その結果、廃止された集配局の近隣の人たちへの郵便配達サービスが悪くなるのは子供でもわかることだ。

「郵政民営化」で、経営の効率化とサービスの低下が並行して起こっていることに、総務省も「日本郵政グループ」も真っ向から答えられないのだ。
それはなぜかといえば、「郵政民営化」で新しいサービスを提供できるようになると謳いながら、その新サービスを提示できていないからだ。

郵便局は全国で2万4千局あるという。そのうち、1万9千局が特定郵便局で、そのうち400局が休止に追い込まれたのだ。「郵便局ネットワーク」の価値が損なわれる事態になっているといえる。1万9千局の特定郵便局は、いわば「不採算拠点」の典型のように扱われている。1局の廃止は1局分の不採算の解消に役立つかもしれないが、それ以上に「郵便局ネットワーク」の価値の損耗をもたらすことを考えるべきだ。 

(6)

「郵便局ネットワーク」の価値を維持するためには、特定郵便局の不採算を解消するか・赤字を減らすかの手立てが必要だ。ここに知恵が必要だ。

例えば、「産直販売」への進出などはどうだろう。
全国、どこの村でも、どこの港町でも、自慢できる産品を持っているものだ。これを、「郵便局ネットワーク」に乗せて、販売することを考えてみたらどうだろう。

その際、必要なものは、①自慢できる「産直品」、②それをPRできるインターネット・ショッピング・モール、③産品を出荷する物流網、④そして、少しばかりの頭脳だ。

インターネット・ショッピング・モールはヤフーか楽天の軒先を借りればすむことだ。

物流網こそ、「郵便局ネットワーク」がフルに活躍できる場ではなかろうか。例えば、1日の出荷個数200個の「産直品」を持つ村や港町の特定郵便局の「ゆうパック」の集荷量が200増えるということだ。この200個という数が特定郵便局にどれだけインパクトがあるかわからないが、少なくない数であることは間違いないだろう。何よりもいいことは、この「産直品販売」はどのように小さな村や港町でも始められることだ。

ここで、「産直品」だけを扱う「産直メール」を、「ゆうパック(郵便小包)」「ゆうメール(冊子小包)」と並ぶ第三の郵便商品とすることを併せて提案しておこう。
「産直メール」は、全国一律どこへでも500円、大きさは80サイズ(縦・横・高さの合計が80cm)まで、商品の価格は上限5000円、として、「ゆうパック(郵便小包)」との差別化を図る。
何よりも、特定郵便局の集荷の荷扱いが多くなるのが魅力的だ。配達よりも集荷を増やす知恵こそが、特定郵便局の生き残る道だ、と思う。

「郵便局ネットワーク」はわが国の誇る通信インフラであり、「民営化」を契機に、インターネットなどのITネットワークを十分に活用しながら、新しいビジネス・新しいサービスを展開する礎となるものだということを再認識したいものだ。  (2007/10)


大食い世界一周

2008-09-13 18:19:51 | 異文化紀行
(1) アメリカ

アメリカの東海岸に仕事で出張した時のこと。
昼食のために街角のレストランに入って、帆立貝のシーフード・サラダを注文した。昼食なので、軽く済ませたいという思惑で注文したのだが、出てきた料理を見て驚いた。かなり大きなボウルに、野菜が満載で、その中に生の帆立貝も見えている。これを食べ始めたのだが、食べても食べてもなくならない。ついに食べきれなくて、完食をギブアップした。小ぶりではあるが、まるごとの帆立貝が20個以上入っていたようだ。

アメリカの食習慣を実感した思いであった。 
この例のように、アメリカでは、一食の量が例外なく多い。これを、朝・昼・晩摂っていたら、確実に、肥満体になるか、体を壊すか、してしまう。
これを防ぐ手段は、食事の量を減らす(つまり、残す)か、食事の回数を2回に減らすしかない。
しかし、仕事の相手先との会食(「横メシ」ということばがあった。)を省くわけにはいかないし、アメリカでの食生活は不便この上ない。

アメリカですぐ目につくのは、セイウチかとどのような体型の人が多く、しかもその人たちが、勤め人なら働いている週日の昼間に数多く「ジョギング」していることだ。

アメリカに滞在した経験のある人には、よく食べる健啖家が多いように思う。体型からは考えられないほどよく食べる。これは、アメリカでの食生活で鍛えられた・あるいは習慣づけられたためだと私は推測している。

小柄な先輩と中華料理屋に入り、私は飯類+小ラーメン、先輩は麺類+小チャーハンを注文したのだが、私が小ラーメンには手が回らなかったに対して、先輩は小チャーハンまで見事に完食した。先輩は、ハーバード大学を出て、アメリカの企業で勤務した経験を持つ。このくらい食べて当然なのだ。

別の先輩と昼食をともにするときにも、いつもその食べぶりに感心する。この先輩は、アメリカの現地法人に数年間出向した経験がある。

さらに別の人で、私より若い人だが、アメリカの現地法人に長く勤務していた日本人は、仕事が終わってから、自宅でもてなしてくれたのだが、彼は、自ら、客人のために、庭に出て、鉄板で大きなビーフ・ステーキを焼いて、ふるまってくれた。そのステーキの大きさにもびっくりしたが、彼のエネルギッシュな動きにも驚いた。アメリカで生活するということはこういうことか、と頷いた。

どうやら、アメリカでは、「大食い」が一つの文化になっている、といえるかもしれない。 

(2)ヨーロッパ


アメリカからヨーロッパに飛ぼう。

大学の指導教官がイタリアでの学会に出席して帰って来られ、土産話を伺った。「君、イタリアでは、スパゲッティが前菜なんだそうだよ。」
正餐では、アンティ・パスタ(前菜)としてシーフードのマリネが出、次にスパゲッティが出る。もちろん、パンもついている。先生はここまででもう腹いっぱいになってしまった、とおっしゃる。まだ、メイン・ディッシュの肉料理が残っていて、これに手をつけるのに難儀されたそうだ。さすがに、その後のデザートはパスした、と回想しておられた。

ことほど左様に、イタリアの食事は豪華だ。

同じような事情がフランスでも見られる。
哲学者ジャン・ポール・サルトルの晩年のこと、すでに歩様もままならなくなっていた彼が、アパルトマンから出てレストランに入り、普通の昼の定食を食べきったということを誰かの回想で読んだことがある。
ここで、「定食」とは、前菜、スープ、肉の主菜、デザート、コーヒーから成るコース料理のことだ。主菜の肉料理の量も多い。晩年のサルトルは、(自宅で食事する習慣がないせいもあって)必ずレストランに赴き、定食を注文して完食したそうだ。

もう一つ、私の経験を述べる。
仕事相手と魚料理屋に入って、私は「ムール貝」を注文した。出てきたものを見て、びっくりした。小さなバケツほどの容器にムール貝の蒸したものが入っている。一つ一つ貝殻から身をはがして食べたのだが、全部で108個のムール貝が入っていた。初めの30個くらいまでは旨いと思って食べたが、以後は惰性で食べ終わったようなものだ。
この話には余談があり、仕事相手も「私もそれにしよう。」といって、「ムール貝」を注文したのだ。それで、二人してムール貝と悪戦苦闘したわけだ。

フランスでもイタリアのように皆よく食べる。
他の国のことは詳しく知らないが、例えば、ドイツでは、主菜に添えられる山のようなジャガイモの蒸して漉したものなどを見ると、やはり、彼らも「大食い」なのだろう。
ヨーロッパでも、「大食い」が一つの文化になっている、といえる。 

(3)アジア

ヨーロッパからアジアに飛ぶ。

アジアでは、大食いの様相は一律ではないようだ。

韓国ソウルでのこと。
韓定食ではずらっと並ぶ皿にびっくりするが、普通の食事でも、主菜のほかに小鉢が多くつく。これは別に注文したものではなく、付け合せの小鉢なのだ。多くは野菜を唐辛子で味付けしたもので、キムチはその代表だ。辛味は食欲を刺激するし、野菜は主菜の肉・魚とのバランスを取る役割があって、それなりに合理的だ。それにしても、皿の数が多いし、量も多い。現地人の食べぶりを観察すると、必ずしも小鉢を全部平らげているわけではないようだ。好きなものを好きなだけ摂り、後は残すというのが韓国人の流儀のようだ。

さて、ある庶民的魚料理屋でのこと。
フグのちり鍋がリーズナブルな価格で食べられるということで、注文してみた。すると、お馴染み、テーブル一杯になるほど、小鉢が並べられた。さらに驚くことに、大きな皿に、「サンマの焼き物」が一尾ドーンと鎮座していた。さて、「サンマの焼き物」は注文した覚えがないのだが。どうやらこれも付け合せの一品のようだ。

「フグちり」の付け合せに「サンマの焼き物」とは!すぐに配膳されたところを見ると、この「サンマの焼き物」は作り置きのようだ。熱も冷めていて、うまくない。
何も、「サンマ」を貶めるつもりはない。熱々のサンマの塩焼きに大根おろしが添えてあれば、それだけで、主菜を張れるほどの立派な料理だ。しかし、冷めたサンマを付け合せで出されては、サンマの有難みが吹き飛んでしまう。

韓国では、料理の量を多くして、客をもてなす文化が根付いているのだろう。

アジアのほかの国の大食い事情はどうか?  

韓国以外のアジアの国に大食いの文化はあるのだろうか?

中国では、一つの皿の量が日本などと比べてやや多いが、これは注文する皿の数を調節することで、大食いは回避できる。つまり、誰でもたくさん食べなければならないわけではない。
また、多人数の会席では、多くの皿を取り分ける習慣があるので、これは、大食いにも少食の人にも便利なシステムだ。

もちろん、中国にも、「満漢全席」という贅沢な会席料理があるが、これは一部富裕層向けの料理で、一般の人々には縁のない料理だ。

他に、タイの例がある。ここでは、一つの皿の量もリーズナブルで、注文する皿の数も自由に選べる。日本の食習慣と似ているようだ。バンコクの街中で、極端に肥満した人間を見ることは滅多にない。 

(4)日本

さて、わが国に戻ってみよう。

一度だけ、築地・治作の会席料理を味わったことがある。
そのメニューは次のようだ。

食前酒
先付
前菜
小茶碗
おつくり
焼き物

煮物
揚げ物
酢の物
ご飯
止め椀
香の物
水菓子

これでは、中国の「満漢全席」と同じで、全部を味わうことなど到底できない。日本料理の会席とは、所詮富裕層向けの料理にすぎない。

一方、普通の人が日常食べる料理は、世界の中でも珍しいほど、量が少ないといえる。
また、多くの人が囲む鍋料理では、中国の例と同じで、基本的に「取り分け」を前提にしたシステムなので、誰もが好きなだけ食べることができるようになっている。

以上、アジアでは、韓国のように大食いが普通になっている国と、中国・タイ・日本のように大食いが常態となっていない国とに分かれている。

(5)大食いの背後にあるもの

世界の「大食い」事情を見てきたわけだが、なぜ大食いの習慣が発達してきたのだろうか? それを考えてみたい。

もともとは、大食いができたのは限られた富裕層だけだった。フランスやロシアの宮廷料理や中国の満漢全席に象徴されるように、大食いは富裕層特有の生活形態だった。

それが、なぜ、普通の庶民にまで、大食いの習慣が広がってきたのか? 実は答えをまだ持っていない。一つだけ、ヒントがある。

大食いの習慣が広く一般の人々にまで広がっているアメリカ・イタリア・フランスに共通している食事習慣がある。それは、各人のメニューが各人に閉じていることだ。難しくいわなければ、「取り分け」の習慣ができていないのだ。
「私は、鴨料理を頼もう。」「私は、『海の幸 Fruits de Mer 』にするわ。」
二人はそれぞれ自分の注文した料理に専念する。

「その牡蠣おいしそうだね。一つもらっていいかな?」「どうぞ。私にも鴨をいただける?」このような会話がアメリカ・イタリア・フランスの食卓では成り立たない。これが個人主義の賜物だとしたら、考え込んでしまう。

一方中国や日本では「取り分け」文化が浸透している。「取り分け」でいいところは、各人の食事量を各人が自由に決められることだ。これで、「食べろ、食べろ。」の押し付けがなければいうことなし、だ。

実は、「大食い」について考えてみようと思った訳は: 「メガ牛丼」や「メガ・プリン」がはやっていると聞き、なぜだろう? というところから来ている。これらの大盛りメニューを注文する人たちがすべて富裕層とは考えにくい。「ヤケの大食い」のことばがあるが、あるいは、ここらあたりに真実があるのではないか。つまり「ストレス解消」のための大食いなのではないか?

「大食い」がストレス解消の方策だとしたら、まさしく、大食いは「文明の病」の表徴ではないだろうか? (2008/1-2)

メバルの夜釣り

2008-09-03 07:33:25 | 海釣り
(1)久しぶりの釣行

長い間止めていた釣りを再開することにした。私の場合、釣りとは「海釣り」のことである。遊漁船に乗せてもらって、半日か一日、近場の海上で釣りを楽しむ。いたって気楽で、手漕ぎボートでの釣りのように労力を要することもない。

釣り場はもっぱら浅場で、水深は5m-50mくらい。対象となる魚は、シロギス、メバル、アジなど。

さて、釣り再開の手始めにとりあげた魚は「メバル」である。
メバルは浅場の海底近くに生息していて、頭を上に(つまり、海面に)向けて餌を漁る習性がある。
また、「目張」と漢字が充てられるように、目がよく利き、夜でも餌を漁る。そのため、「メバルの夜釣り」という釣法が開発された。

メバル釣りの餌は、昼間の釣りの場合は、生きイワシ、生きエビ、アミなどが使われるが、夜釣りの場合は青イソメが普通だ。長いミミズに似た虫だ。これを、2-3本の釣り針に掛けて、水に落とす。これだけの操作だ。

夜釣りの釣り場は水深が浅く、5m-15mだから、錘が海底に着くのに時間がかからない。錘が海底に届いたら、釣り糸のフケ(遊び)を取るためリールを少し巻き、さらに、錘を海底から1mほど引き離すためにリールを少し巻く。これで準備完了だ。

メバルの生息する海底は、岩礁帯で岩がゴツゴツしていて、錘や釣り針がこれに引っかかってしまうことがよくある。それで、錘や釣り針を失う。その可能性を下げるために、錘を海底から1mほど引き離すのだ。ただ、錘や釣り針を失うのを恐れて、あまりリールを巻き過ぎると、肝心の釣り針がメバルの生息帯の上に出てしまうので、メバルは釣れない。ある程度、錘や釣り針を失う覚悟をして釣りに臨むのがいいようだ。 

(2)準備から出港まで

久しぶりの釣行のために、準備を始めた。

棹とリールの金属部分に錆が浮き出ている。5年間さわっていなかったので、仕方がない。棹にリールを取り付けて、リールの巻き取り動作を確認してみる。巻き取りがスムーズでなく、時々ごつごつと巻き取りに邪魔が入る。
今回は、この棹とリールで挑戦してみよう。いずれ、棹もリールも更新せねばなるまい。

装備では、合羽と帽子が見当たらない。降雨確率の低い日を選んで出漁せねばならない。

さて、東京湾の多くの釣宿で、5月から9月にかけて、「メバルの夜釣り」の船を出している。週末と祝日の限定で、17時30分に岸を出て21時30分に帰ってくるのが一般的だ。

以前お世話になっていた釣宿は夜釣りを止めたという。それで、金沢漁港の鴨下丸にお世話になることにした。
私の出漁した日は、5月17日(土)。幸い、天気予報では、雨の降る確率は極めて低い。

金沢漁港には15時30分に着いてしまった。別に予定した用件をキャンセルしたために、悠々の到着だ。それから、出港までの2時間が、とてつもなく贅沢なものであった。釣宿の人たちの準備作業を眺めたり、港に憩うカモメを追ったり、仕掛けの準備をしたり、乗り合い客と挨拶したり、堤防の夕景をぼんやり眺めたり。こうして、2時間が過ぎていった。

17時30分出港。乗り合い客は10人。予想より少ない。
5月だけあって、厚手のシャツとウィンド・ブレーカーだけではやや寒い。あわてて、セーターを1枚着込む。そういえば、今までの夜釣りは7月か8月であった。その時に比べて寒いのは当たり前だ。

釣宿を出て20分で最初の釣り場に着く。「SUMITOMO よこすか」の標識のあるドックの先だ。
船長の合図で仕掛けを投入した。
だが、ここでは苦戦した。たまに魚信があって、仕掛けを上げてみれば、10cmに満たないミニサイズのメバルばかり。結局、1時間で、キープしたメバルは1尾のみ。ここで船長が場所代えをすることにした。 

(3)思わぬ釣果

次の釣り場は、「SUMITOMO よこすか」に浮かぶ2艘のタンカーの船腹を真横に眺める場所だ。この釣り場が「当たり」だった。2時間の間、ほぼコンスタントに釣れ続いた。

メバルの魚信は明確だ。ゴツゴツとした当たりがあって、釣り糸がグッグッグッと持っていかれる。そこで、棹先を上に張るようにすれば、後は、釣り糸を巻くだけ。

メバルの魚信は明確だが、それで、メバルの大きさまで測ることはできない。小さなメバルでもいっぱしの当たりがあり、釣り上げてみて拍子抜けすることがしばしばある。大きなメバルは、釣り上げる時にリールの手ごたえが大きいので、それとわかる。

メバル釣りでは、一つの原則を作っている。
大型(20cm以上)・中型(15cm-20cm)・小型(10cm-15cm)はキープして持ち帰り、ミニサイズ(10cm以下)は放流するという原則だ。

今回、この原則通りに実行し、最初の1時間ではキープしたメバルが1尾だったが、後半の2時間で14尾追加してキープすることができた。放流したミニサイズが10尾あったから、計25尾釣れたことになる。我ながら、上出来だ。

船長に釣果を報告した後、「週刊つりニュース」のレポーターのインタビューを受けた。
「何尾釣りました?」
「25尾でした。」
「私は20尾でしたよ。初めはなかなか出ませんでしたね。」
「はい。2番目の釣り場で、一挙に挽回しました。」
「何か、良く釣れた秘訣はありますか?」
「さあ、わかりません。5年ほど釣りから遠ざかっていましたので、棹もリールも、ほら、この通り、錆付いているのですよ。」
「でも、腕は錆付いていなかった訳ですね。」

更新を考えていた棹とリールにはもう少し現役を続行してもらうことにした。 

(4)メバルを食べる

冒頭の写真が今回キープして持ち帰ったものだ。
内訳は:大型1尾(写真の一番右)、中型6尾、小型8尾。ほかに、外道のシロギス1尾(写真の下に途切れているもの)。

釣った魚はどうするか? 料理して食べる。

中型2尾とシロギスのウロコを取り、尾びれと背びれに塩を振り、網で焼いた。
酢3:しょうゆ1の酢醤油で食べる。
メバルは脂分が少なく、あっさりした味わいだ。身の離れがよく、食べやすい。
シロギスは小柄の割りにしっかりした歯ごたえがあり、食味はメバルを上回る。これが外道で釣れるのだから、釣りは止められない。

残ったメバルのウロコを取り、はらわたも除いた。出刃包丁が、大きな鮭を捌くものしかなく、はらわたを除くのが上首尾とはいかなった。小さな出刃包丁を用意せねばなるまい。

翌日、冷凍保存したメバルを煮付けにした。
酒2、しょうゆ1、みりん1で味付けする。水は適当。砂糖としょうがを少々。今回は水が多めだったので、薄味の煮付けに仕上がった。食べてみると、なかなかいける。やはり、メバルの淡白な味が生きている。

残りのメバルも順次塩焼きと煮付けで味わった。
メバルは食べておいしいのがうれしい。

ところで、ここで賞味したのは、「クロメバル」で、市場では滅多に目にしない種類だ。
たまに大きな魚屋で目にするのは「アカメバル」で、「クロメバル」とは異なる。一言でいえば、「クロメバル」の方が食味は数段上だ。

では、なぜ、「クロメバル」が市場に出ないのか? それは、「クロメバル」の生息域が狭く、職漁船の対象になりにくいからだ。それで、遊漁船の釣り客だけが「クロメバル」の恩恵に与っている、というわけだ。

(5)データと格言

今回の釣行のデータを記録しておく。

棹 : カレイ釣り用の軟調子の棹で、長さ3m。
リール : 小型スピニング・リール。
道糸 : ナイロン3号。
幹糸 : 2号、長さ1.5m。45cm間隔で枝糸を3本出す。
枝糸 : 1.5号、長さ20cm。
針 : 10号。
錘 : 20号。

失った錘2個、仕掛け2組。

料金:6000円。5年前は5000円だった。重油の値上がりの影響があるようだ。

さて、メバル釣りにはいくつかの格言がある。

その1。「メバルは根を釣れ。」
メバルは岩礁帯に生息しているので、根に掛かるのを恐れず果敢にアタックすべきだ、という格言。

その2。「メバルは凪ぎを釣れ。」
荒天で海が波立つと、潮が濁り、メバルの目が利かなくなる。それで、好天で凪の日を選んで釣行すべし、という格言。

その3。「メバルは船頭を釣れ。」
メバルの生息する岩礁帯は狭く、それを熟知する船長に就くのが有利だ、という格言。

今回の釣行で、これらの格言が生きていることを実感した。  (2008/5-6)


「公共禁煙」再説

2008-09-01 00:04:54 | 社会斜め読み
(1)新橋にて

東京・新橋はサラリーマンの街です。
昼休み時には、食事を終えた彼らが、爪楊枝をせせりながら道路を闊歩しています。中に、爪楊枝よりも太いものをくわえているものがいます。煙草をくゆらせているのです。そのような喫煙者とすれ違う時には、いやおうなく、煙を吸わされます。東京都港区は「路上禁煙」の条例を制定していないのでしょうか?

新橋5丁目に「塩竈神社」があります。おそらく、宮城県塩釜市の「塩竈神社」の流れを汲む神社でしょう。安産祈願に訪れる女性が多いそうです。

この神社の前が公園になっていて、昼休み時には、多くの人が憩っています。

ある日の午後1時過ぎに、この公園に通りかかったところ、22人が憩っていて、そのうち、4人が煙草を吸っていました。
日本人の喫煙人口は50%弱ですから、この公園の喫煙者は平均より少ないことになります。中には、喫煙者だが喫煙を抑えている人がいるのでしょう。「公共禁煙を励行する喫煙者」は見上げた存在だといえます。

別の日の12時45分に、またこの公園に通りかかりました。35人が憩っていて、そのうち、14人が煙草を吸っていました。ここでは、この公園の喫煙者が40%だったということより、14人も煙草を吸っていたら、非喫煙者の居場所がない、ということが問題でしょう。最早、公園の公共的機能は失われているといって言い過ぎではありません。

路上や公園で「公共禁煙」を励行する喫煙者はまだ少ないというのが現実です。 

(2)JTの欺瞞

新橋駅前の「SL広場」の一角に、喫煙スペースがあります。
冒頭の写真は、そこに掲げられている標識です。おそらく、日本たばこ産業(JT)が寄贈したのでしょう。この標識の前に、写真で見るような大きな吸殻入れが6台ほど設置されていて、その前にたくさんの喫煙者が群れています。塩竈神社の前の公園の比ではありません。

さて、標識に戻ります。
「好きな町だから マナーです!」 なんだか、わかったようでわからない標語です。
「好きな町だから 公共喫煙は慎みましょう。」なら理解できますが、この標語はそういっているのではなさそうです。
「好きな町だから 煙草は吸殻入れのあるところで吸いましょう。」 こういっているのでしょう。

近くのNTTドコモのお店の前に、吸殻入れが置いてあり、それに次のようなJT名のプレートがついています。
「たばこを持つ手は、子供の顔の高さだった。」 これには驚き入りました。
だから、よく気をつけましょう、とでもいいたいのでしょうか?
それほど危険なので、公共喫煙は絶対に慎みましょう、というべきでしょう。
これに続くことばが、「あなたが気づけば マナーは変わる。」 開いた口が塞がりません。

以上、2つのケースからわかることは、JTが公共禁煙に極めて不熱心だということ、さらにいえば、公共喫煙を容認していることです。
そういえば、テレビ・コマーシャルで、携帯吸殻入れの携行を呼びかけているのもJTでした。「それがマナーです。マナーに気付けば、社会は変わる。」という内容でした。

もはや、JTの欺瞞は明らかです。

マナーを説くのであれば、「非喫煙者の受動喫煙の害を失くすため、不特定多数の集まる公共空間では喫煙を慎みましょう。」というべきでしょう。JTはそこから逃げて、「煙草を持つ高さ」とか、「携帯吸殻入れの携行」とかに焦点を矮小化しています。そのようなJTにマナーを説かれたくはありません。  

(3)神奈川県の条例制定の動き

ここ5年ほど、「公共禁煙」をめぐる状況は停滞しています。

ファミリー・レストランは、「緩い分煙」のまま。
食堂は、「昼食時禁煙」。これは、席の回転率を上げたいという切実な要請から来ています。夜になれば、吸いたい放題。
居酒屋は、良くて「分煙」、ひどいところは、吸いたい放題。

喫煙者の「マナー」はすでに述べた通り。
JTの欺瞞性も変わらず、むしろ高まっているかもしれません。

このような状況では、行政の側から、対策を講じざるを得ません。

神奈川県が「公共禁煙」の条例の制定を目指しているそうです(産経新聞、2008年4月16日)。
「公共的施設における禁煙条例(仮称)」といいます。

「公共的施設」には、病院・学校・役所などの「伝統的」公共施設に加えて、喫茶店・居酒屋・パチンコ店なども含めることを検討しているとのこと。
また、駅や野球スタジアムなどの野外施設も「公共的施設」に含める、とのこと。

つまり、不特定多数の人々が集まる施設を「公共的施設」とするという考え方を打ち出しています。この考え方が条例に実現したら、わが国では画期的なことです。

これから、条例制定に向けて種々の意見聴取や検討が行われるでしょうが、飲食店経営者や喫煙派からの骨抜きや例外設定のロビイング活動が活発化するでしょう。それらの抵抗を潜り抜けて、どのような「公共禁煙条例」が陽の目を見るか、注目に値します。

初め、私はこの条例が横浜市で計画しているものだと思っていましたが、神奈川県が計画しているとのことです。ということは、大和市も相模原市も、この条例の適用区域に入っています。

もう一つ、国のレベルでは、「たばこ税」の増税で、喫煙人口を無理やり減らそうという案が浮上しています。1箱1000円だそうです。要注目です。 

(4)外国では

アメリカのニューヨーク州では、かなり前から、レストランでの禁煙が実施されています。「分煙」ではなく「完全禁煙」です。

観光地では、アメリカのハワイ州や香港で「公共禁煙」が実施されるようになりました。

最近、最も驚いたのが、今年初めから、フランスで「公共禁煙」が施行されたことです。
フランスは以前から喫煙に寛容な国というイメージが定着していました。
私はフランス映画のファンですが、例えば、映画『望郷(ペペ・ル・モコ)』でジャン・ギャバンが煙草をくゆらすシーンなどに遭遇すると、なんとなく違和感を覚えたものです。

15年か20年ほど前、パリに行くのに、エール・フランス機を利用したことがあります。事前に禁煙席を予約していたのですが、当日のチェック・イン・カウンターで、「禁煙席は満席です。」といって、強制的に喫煙席を割り当てられたことがありました。当時は、禁煙席と喫煙席の境はプレートの目印だけでしたが、その境界プレートを変更して禁煙席を広げる配慮さえしないというエール・フランスの対応に怒りがこみ上げたものです。

それほど喫煙に寛容な国が、突然、「公共禁煙」に踏み切ったので驚いたわけです。その真意はわかりません。
そして、違反した場合の罰則が、覚えていませんが、かなり高額な罰金だということがフランスの特徴です。いかにも、強権主義国らしい法律の制定ぶりと施行ぶりです。いずれ、10年後か15年後に中国がフランスを見習うでしょう。

このような世界の趨勢のなかで、わが国の「公共禁煙」がどのように成熟していくか、世界に注視されているといって過言ではありません。 

(5)究極の姿は「断煙」

神奈川県が検討中の「公共禁煙条例」に関して、煙草メーカーのフィリップ・モリスが「意見書」を
神奈川県に提出したそうです。

その骨子は、レストランなどが、主体的に、自分の店を、「喫煙可」か「分煙」か「禁煙」か、宣言することを認めてほしい、というものです。これは、一つの考え方で、一考の余地があります。ただ、慎重に考えなければならないことも事実です。

まず、「分煙」を認めることには大いに疑問があります。「分煙」とは、喫煙スペースと禁煙スペースを「緩やかに」分かっているにすぎず、非喫煙者は受動喫煙の被害から免れることができません。

喫煙者を優遇して、「喫煙可」の店にすることは、喫煙者と非喫煙者の混在を認めることになりますので、望ましくありません。むしろ、次回述べるように、「喫煙者専用施設」として公認するほうが、喫煙者にとっても非喫煙者にとっても幸いだと思います。

こう考えてくると、「公共禁煙」を実現するためには、喫煙者と非喫煙者とを完全に分離する「断煙」の考え方を普及していくしかないことがわかります。

フィリップ・モリスの「意見書」には、「断煙」を推進する姿勢はまったく見出せません。  

(6)近未来のユートピア

このコラムの最初の回で、「日本の喫煙人口が50%弱」と記したのは誤りでした。
「スポーツ・ニッポン」紙(2008年6月24日)によると、喫煙者数が約2600万人だそうです。すると、日本の人口が約1億3000万人ですから、「日本の喫煙人口は約20%」が正解です。

ずいぶん、喫煙者が減っています。こうなると、行政から見ると、「少数者保護」の施策が必要になるのでは、という冗談が出てきます。

数年前、この状況を見越して、次のような一つのユートピアを描きました:
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スモーキング・バーの隆盛(20年後のユートピア)

公共の場における喫煙を禁ずる法律が施行されて久しいが、2020年代に入って、フラストレーションの募る喫煙派が考案したのが、喫煙者専用の施設である。アルコールを供するスモーキング・バー、コーヒー・紅茶・ケーキをそろえた喫煙カフェ、本格的なスモーキング・フレンチ・レストランなど、それぞれ個性を主張している。

これら喫煙者専用施設は役所への届出により開設できる。施設に求められる条件は、開放面を持たないこと・扉や窓は二重以上のサッシをはめ込むこと・扉に「喫煙者専用施設」の表示をすること、だ。

スモーキング・バーのアイデアの源は、どうやら、19世紀イギリスで繁盛した排他的な「クラブ」にあるようだ。入会にはメンバーの紹介が必要だが、一旦メンバーとなれば、同好の士と濃密な時間を楽しむことができるのである。

喫煙派が聖域を確保して満足している一方、禁煙派は、中世以来の「監獄」や「施療院」とどこが違うのだろう、と揶揄している。不思議な箱舟の風景だ。
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少数派に陥った「喫煙者」が自己防衛のために「スモーキング・バー」を作って、そこに閉じこもる、という戯画を描いたものでしだが、現実は着実にこのユートピアに向かいつつあるようです。 (2008/6-7)