静聴雨読

歴史文化を読み解く

チョウセンアサガオ・その後

2007-11-21 04:34:35 | わが博物誌
1.開花時期について
近くのお宅のキダチチョウセンアサガオを1年間観察してきた。
その結果、わかったことは:
開花は6月から11月にかけて、毎月見られた。前回紹介した写真は6月のもので、最初に開花した一輪だ。6月の開花は少なく、10輪程度。7月と8月はそれぞれ30輪程度。9月と10月は、それぞれ、30輪の開花が二回見られた。そして、11月の開花では、開花のピーク時に撮影する機を逸してしまったのだが、60輪以上、100輪近くが一斉に開花していた。その様は壮絶で、気味が悪いほどだ。

図鑑の中には、「夏に開花」とか「6月から9月にかけて開花」とか書いてあるものがあるが、正しくは、「夏から初冬にかけて開花シーズンは長い」のだ。近くのお宅のキダチチョウセンアサガオの例では、後半の9月から11月にかけてが開花の最盛期だ。

2.花の色について
近くのお宅のキダチチョウセンアサガオの黄色のほかに、写真の白色(東京都内、11月撮影)と、ほかにピンク色(神奈川県内)を現認した。

3.香りについて
近くのお宅のキダチチョウセンアサガオの一番下の花に鼻をつけて、香りを嗅ぐことができた。いわゆる香水の香りとは隔たっている。お香の香りとも違う。もっと高貴な香りだ。誰かの本で「麝香のような香り」と表現していたが、私は肝心の麝香の香りを知らないので、そうだ、とも、そうでない、ともいえない。香りを表現することばを持たないので、もどかしい。

前回の報告以降わかったことの報告はこれで終わる。 (2007/11)

「冬の旅」はテノール向けに書かれた

2007-11-16 07:05:50 | Weblog
男性歌手の声が、上から、テノール・バリトン・バスと呼ばれることは既に述べた。その相互の境界はあるのだろうが、「あれはバリトンだ。」「いや、テノールだ。」と論議することにはあまり意味がない。

シューベルトの有名な連作歌曲集「冬の旅」は、現在では、バリトンやバスの歌手のレパートリと思われているが、シューベルトはテノールを指定していることもまた有名な話だ。

この「冬の旅」は、失恋した若者が冬の各地をさまようという主題で、「旅」というよりは「彷徨」という方が適切な内容だ。この暗い主題を表現するには、バスやバリトンが合っているのかもしれない。実際、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウとヘルマン・プライ(ともにバリトン)の歌う「冬の旅」は、冬の荒野に展開される若者の挫折・絶望などを紡ぎ出すことに成功していた。

一方、少数派ではあるが、テノールの歌手が「冬の旅」を歌った例として、エルンスト・ヘフリガーとペーター・シュライアーのものがある。彼らの表現する「冬の旅」には、バリトン歌手のそれとは別の趣きが漂っている。同じく若者の挫折・絶望を表現しているのはもちろんだが、それに加えて、希望や(春への)憧れがみずみずしく歌われているのだ。曲目でいえば、「春の夢」「最後の希望」「勇気」などがそれに当てはまる。

こうやって、バリトン歌手の歌う「冬の旅」とテノール歌手の歌う「冬の旅」とを聴き比べてみて、どちらも捨てたものではないな、という感想を持つ。それぞれが得意とする情感表現があることも実感できる。

もう一つ。演奏会では、「冬の旅」全24曲を、休憩なしに、歌い切るのが通例になっている。時間にして、約65分、ちょうど、ベートーヴェン「第九交響曲 合唱付き」全曲の長さに等しい。これが歌手に大変な苦行を強いることは想像に難くない。高音域のテノールより、中音域のバリトンの方が有利だということが窺える。完璧に抑制した声で歌うディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの演奏会は、今まで聴いた中では、群を抜いた完成度を実現していたように思う。  (2007/11)

秋川雅史と美空ひばり

2007-11-07 04:15:52 | 芸術談義
フレーズの終わりを極限まで伸ばし、すぐ、次のフレーズにつなげる秋川雅史の歌い方には専門用語があるはずだが、それがわからない。とりあえず、「引き延ばし唱法」と名付けておこう。この「引き延ばし唱法」は、秋川の工夫ではあるが、発明や独創とは違う。歌謡曲、とくに演歌の歌手の多くが取り入れている歌い方だ。もっとも成功した例として、美空ひばりを挙げたい。

「悲しい酒」はひばりの絶唱といえるものだが、ひばりはこの歌を歌うのに「引き延ばし唱法」を取り入れている。それは次のようだ。

第一フレーズから第二フレーズにかけて、「飲む酒は」の「は」のところが長くなり、「の~むうさ~けは~~~」となる。後半は息が細くなり、ほとんど休止しているといってもよい。伴奏は付き合いきれずに、先を進む。そのため、「別れ涙の」の最初が詰まり、「わかれな~みいだ~の」と歌い継いでいくことになる。音符通り歌うと、「わ~~か~れな~みいだ~の」となる部分だ。他のフレーズ間の受け渡しでも同様の事態が起こる。

ひばりは、全体を極めてゆっくりと、余韻嫋々と歌う。テレビで見たときには、ひばりの眼から涙が伝わっていたことを思い出す。それほど、ひばりはこの歌を「作って」いるのだが、技巧のいやらしさを感じさせない。

ひばりは「引き延ばし唱法」の大家だが、どの歌も同じように「引き延ばし唱法」で歌っているのではないことに注目したい。例えば、「港町十三番地」では、「引き延ばし唱法」を抑えて、航海から戻ったマドロスの心浮く姿を想起させるように、弾むようなメロディを刻むのだ。同じ、酒場と酒を主題にした歌でありながら、状況に応じた歌い分けを試みていることがわかる。

秋川雅史が歌った「波浮の港」に違和感を覚えた訳を考えているのだが、なかなか難しい。この歌も「引き延ばし唱法」になじむはずなのだが。第四フレーズに「ヤレホンニサ」という掛け声を取り込んでいる(野口雨情作詞)のだが、このことばが「引き延ばし唱法」を拒んでいることに気付いた。
どう歌っても、「ヤレホンニサ~~~」とはならないではないか。

秋川雅史が歌ってうまくいきそうなのが、例えば、「荒城の月」だ。これは朗々と歌い上げればいいのだから、「引き延ばし唱法」にピッタリだ。  (2007/11)