静聴雨読

歴史文化を読み解く

歴史文化論の試み

2010-09-25 07:17:19 | 歴史文化論の試み
ブログのタイトルが「歴史文化を読み解く -民族・宗教・エコロジー・芸術-」で、自己紹介の欄に「とくに、中世以降の『文明の衝突』と十九世紀以降の『文明への懐疑』に興味があります。」と謳っているわりには、その香りが乏しいのではないか、というお叱りが聞こえてきます。ここで、関心のありかを説明したいと思います。

* * * * *

まず、「歴史文化」ですが、このことばは一般に「文明」と称されるものとほぼ同じものを指しています。「文明」ということばを使わないのは、このことばが新興宗教の雰囲気を帯びているためです。

古代から連綿と続く歴史文化。その古い部分は「世界遺産」として世界的に認知されています。そのグローバルな広がりは驚くほどで、地球上のあらゆる地域で、歴史文化が興り、その多くが廃れています。古代の歴史文化は自然と闘い敗れて廃れていったものが多いのはやむを得ないところです。砂漠や山上や水辺に世界遺産が分布していることが古代の歴史文化の特徴を表わしています。しかし、私の関心はあまりここにはありません。

中世に入り、民族の移動が繰り広げられるようになりました。その最も大規模な例はシルクロードでの東西文明の交流でした。そこでは、民族間の交流とともに対立も起こりました。また、民族間に加えて宗教間の交流・対立が台頭してきます。その最大の例が、イスラム社会とキリスト教社会との交流・対立でした。地中海をベースにしたイスラム社会とキリスト教社会との交流・対立は「文明の衝突」として広く知られています。

スペインのアンダルシアとポルトガルで見た中世の遺構(城砦や教会)は「文明の衝突」の跡を如実に示していました。また、スペインのパラドールやポルトガルのポーサーダなどの宿泊施設は、中世の遺構を利用した趣のあるものです。
イスラム社会とキリスト教社会との交流・対立が現代にも微妙な影を落としていることは、アフガニスタンやイラク・イランをめぐるアメリカ合衆国などの外交政策に照らすと明らかです。関心を寄せざるを得ない所以です。 

16世紀はキリスト教社会の中における宗派間の対立(宗教戦争)で彩られています。その細かいことはよくわからないので、あまり関心がありません。

17世紀の産業革命以降、大量生産に伴う格差社会の発生がイデオロギーの対立を生み出していきます。さらに19世紀に顕著になった大量消費の風潮は歴史文化に対する深刻な懐疑を生み出していきます。

イギリスの思想家ウィリアム・モリス William Morris は、このような大量生産・大量消費への反発を思想化しました。彼は、社会主義の教導者として名を成しただけでなく、手作りの工芸運動 Arts and Crafts や印刷出版運動 Kelmscott Press により、大量生産・大量消費ではない「もう一つの道」を実践して見せました。

モリスの「もう一つの道」はユートピア探しとしても表現されました。トーマス・モアの『ユートピア』以来、現世に欠けた理想の社会をユートピアとして構想する動きが陸続として興りますが、モリスは『ユートピアだより News from Nowhere 』という名の書物で彼の理想郷を描きました。モリスのユートピアは、ラファエル前派に似て、中世への里帰りの感がないこともありません。
モリスの書物のタイトルからわかるように、ユートピアとは「どこにもない理想郷」です。逆にいえば、理想の社会を手に入れてしまうと、その社会はユートピアではありません。そういう本質的矛盾を
「ユートピア」は秘めています。

19世紀以降、思想家以外にも、ユートピアを求める集団が数多くありました。とくに、芸術家や宗教集団がユートピアを目指しました。一般に「コロニー」と呼ばれる根拠地に拠った人たちで、すでに私のブログに登場したヴォルプスヴェーデに拠った芸術家集団は一つの典型です。彼らは大量生産・大量消費に順応できない純粋な人たちでした。わが国では、武者小路実篤の提唱した「美しい村」が一つの「コロニー」といえるでしょう。

宗教集団でいえば、これは20世紀になりますが、ガイアナの人民寺院のようなカルト集団の中に極端な形のユートピア願望が見られます。わが国にあてはめれば、山梨県上九一色村にこもったカルト集団でしょうか。 

19世紀以降の「文明への懐疑」は自然との付き合い方の反省をももたらしました。アメリカのヘンリー・D・ソロー Henry D. Thoreau はウォールデン湖畔の小屋で一人暮らしをしながら、人間と自然、自然の摂理、自然と経済、などに関する思索を『ウォールデン-森の生活 Walden ; or, Life in the Woods』にまとめて発表しました。
ソローはアメリカにおける自然保護思想の始祖といわれますが、ソロー以降も、ジョン・ミューア、セオドア・ルーズベルト(大統領)、レイチェル・カーソンなどなど、自然保護の伝統はアメリカに息づいています。しかし、その自然保護思想と19世紀の西部開拓史とはどう整合するのでしょうか? アメリカについての疑問の一つです。

19世紀から20世紀にかけての歴史文化を俯瞰する上で、エコロジー思想とともに重要なのがジェンダーの思想です。何しろ、20世紀も終わろうとするときになって、「男女共同参画」を施策として打ち出す国があるほどですから。
ジェンダー思想の源流は18世紀イギリスのメアリー・ウルストンクラフト Mary Wollstonecraft の女性解放思想に求められるかもしれません。以来、女性の従属状態の改善と、男女の性差に基づく不平等の解消に、19世紀から20世紀までの200年を要したというのが実情です。シモーヌ・ド・ボーヴォワールのいう『第二の性』はこの問題の根本を衝くことばです。

これまでの文明が産業の発展を推進力にした工業文明であったのに対して、現代を情報のネットワーク化を基盤にした情報文明だと捉える見方があります(公文俊平『情報文明論』など)。確かに一理ある現代歴史文化の捉え方ですが、議論が拡散してしまいそうなので、ここまでは踏み込まないつもりです。

問題は「その先」に何を見通すか、にあります。
例えば、情報のネットワーク化の先には、均質化した人間群が生まれるのか、また、それが幸せなことなのか、という疑問が生じますし、情報のネットワーク化の暁には、国家とか国境とかにどういう意味が残るのか、という難問が立ちふさがります。 

* * * * *

というわけで、人類の歴史文化を縦に読み解く上で、「民族・宗教・エコロジー・芸術」をキーワードにしていきたい、というのがとりあえずの私の「関心のありか」です。風呂敷が大きすぎることは承知しています。また、この風呂敷でも包みきれないテーマが多々出現しそうなことも予感していますが、まずはこれで出発してみようと思います。 (2006/7)

私のバックボーン(現代日本人編)

2010-09-23 07:22:15 | 歴史文化論の試み
歴史文化論を始めるにあたって、私の「関心のありか」を説明してきましたが、これから、私の歴史文化論を支えるバックボーンを明かしたいと思います。

話を広げると、古今東西すべてにわたって、影響を受けた人、ためになった人、気になる人、を挙げていかねばなりませんので、際限がありません。そこで、ここでは、現代日本人に絞って、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を挙げたいと思います。すでに亡くなった人も含みますが、戦後に活躍した・または現在も活躍している、ほぼ同世代の人たちです。

(1) 思想分野

まずは加藤周一。西洋・東洋・日本の文化に普く通じている評論家です。「近代日本の文明史的位置」「芸術の精神史的考察」など、私の問題関心にフルに重なる仕事を残しています。ただし、私はまだ加藤周一を十分読みこなしていません。これから、「加藤周一著作集 全24巻」、平凡社、を精読したいと思います。

鶴見俊輔。私の最も尊敬する哲学者です。アメリカの分析哲学から研究生活を始めたようですが、これはよく分かりません。本人も分からないようですから気にすることはないでしょう。
目線の低さが誰も真似できないところです。庶民・常民・おばさん・がきデカ、誰とでも意見を交わすことができ、誰からもそのいいところを吸収できるという特技は余人を許しません。戦後、雑誌「思想の科学」を興し、「限界芸術」(専門家でないものによる、芸術か芸術でないかはっきりしないような芸術)論を唱え、漫画を読んで「ムフフの哲学」を唱えたのも、目線の低さの然らしめるところでした。「鶴見俊輔集 全17巻」、筑摩書房、と、「鶴見俊輔座談 全10巻」、晶文社、は(アメリカの分析哲学を除いて)読破しました。

丸山真男。有名なエリート政治学者です。「幕末における視座の変革」「超国家主義の論理と心理」など、政治状況の分析に卓抜した才能を発揮しています。私は彼のレトリックの巧みさに惹かれます。「丸山真男集 全17巻」、岩波書店、は読破しました。「丸山真男座談 全10巻」、岩波書店、「丸山真男講義集 全7巻」、東京大学出版会、「丸山真男書簡集 全6巻」、みすず書房、が残っていますが、読み通す時間があるかどうか? (2006/8)

(2)芸術分野

吉田秀和。大学時代に音楽好きの友人がほれ込んでいました。その頃は、私は映画に夢中でしたし、その後は演劇に興味が移行していましたので、私が吉田秀和を読み始めたのはずっと後です。そして、初めて、音楽(作曲と演奏)を批評する方法を教えられました。クラシック音楽を素人にもわかるように解いてくれます。また、美術評論も分りやすく、私は重宝しています。「吉田秀和全集 全24巻」、白水社、を読みました。

美術の分野では、残念ながら、これという大物に出会いませんでした。オランダ・フランドル美術については土方定一、イコノロジーについては若桑みどり・辻佐保子など、個別のテーマについては学ぶべき人がいますが、美術全般について意見を傾けるべき人は見当たりません。美術評論家の多くが、講壇的・権威主義的色合いが強くて、ついていけません。むしろ、専門外の吉田秀和の
発想に共感します。「調和の幻想」「トゥ-ルーズ・ロートレック」「セザンヌ物語」など。

木下順二。「夕鶴」など民話を題材にした戯曲から、現代史に題材をとった重厚な戯曲まで、圧倒的な存在感があります。「山脈」「蛙昇天」「沖縄」「オットーと呼ばれる日本人」「白い夜の宴」「審判」などは、劇場で見ました。
オーソドックスな作劇法で、その後の唐十郎・野田秀樹・寺山修司などとは、自ずと別の立場に立っています。

佐藤忠男。鶴見俊輔と「思想の科学」つながりの映画評論家です。蓮見重彦などには評判がよくありませんが、私は佐藤忠男を支持しています。初期の「斬られ方の美学」から近作の「日本映画史」まで、評論の質・量とも圧倒的です。溝口健二・黒澤明・小津安二郎・木下恵介・今村昌平・大島渚。この6人のモノグラフをすべて物した映画評論家がほかにいるでしょうか?
教育評論にも活躍しています。  (2006/8)

(3)創作分野

埴谷雄高。最近「死霊」を読み終えました。良くも悪くもこの小説の中に、埴谷宇宙学のすべてが凝集されています。「虚体」「自同律の不快」「死滅する国家」などなど。最初に読んだのは、「兜と冥府」「鐘と蜉蝣」など奇妙なタイトルのついたエッセー集でしたが、そこで語られていたことが、そのまま小説「死霊」にも現われていることは現代の不思議の一つです。

大江健三郎。「個人的な体験」以降のファンで、ほぼ全点読んでいると思います。「洪水はわが魂に及び」「万延元年のフットボール」などがお気に入りですが、その後時々現われる私小説もどきの作品は支持しません。

井上ひさし。小説・エッセー、どれをとっても面白いこと請け合いです。劇作家としても一流で、多作であるにもかかわらず、遅筆で演劇関係者に迷惑をかけることがしばしばあるのは解せません。

井上光晴。胡散くささ一杯の小説家です。登場人物のネーミング(紙咲道夫少年など)の特異性、フォークナーばりの3場面同時進行の小説つくり、などに特徴があります。多作で本も多く出版された割には人気がありませんでした。いまでもありません。ある出版社から、娘の井上荒野と同時に本を出すことになり、井上荒野は初刷5000部だったのに対し、井上光晴は初刷2000部だったというエピソードを、井上荒野が「ひどい感じ 父・井上光晴」、講談社、で紹介しています。私の推測ではもっと少なく、1500部程度だったのではないかと思っています。

ほかに、木下順二の劇作がありますが、上で触れました。

以上、思想分野・芸術分野・創作分野で、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を10人挙げました。私の思想形成のバックボーンとなっている人たちです。  (2006/9)


私のバックボーン(近現代外国人編)

2010-09-21 07:25:09 | 歴史文化論の試み
私の歴史文化論を支えるバックボーンを、現代日本人と近現代外国人に分けて紹介していますが、今回は、19世紀以降の近現代外国人に絞って、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を10人挙げたいと思います。並びは生年順です。

(1) ヘンリー・D・ソロー(1817-62)
近代の歴史文化に対して深刻な懐疑を抱き、その思索を日記や紀行文などで表現した19世紀アメリカの思想家です。後述のウィリアム・モリスとともに、「ソローとモリス-共通する側面」と題するコラムで紹介しました。
http://blog.goo.ne.jp/ozekia/e/5612eda87827e744eb57e71d867eb1b4

(2)ドストエフスキー(1821-81)
とても読んで面白いロシアの大小説家です。長編が多いのですが、彼の長編小説をスラスラ読めるかどうかが、身体と精神の健全さの「リトマス試験紙」になっているように思います。私は、小沼文彦訳で読みました。

最近、亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」(古典新訳文庫、光文社)が話題を集めました。「BIBLOSの本棚」に置いていたのですが、すぐに誰かに求めていかれました。新訳の玩味はしばし「お預け」です。

(3)ウィリアム・モリス(1834-96)
モリスは、生涯の前半では、画家の道を捨て工芸家になることで深刻に悩み、妻とダンテ・ガブリエル・ロセッティとの間でやはり深刻に悩み、生涯の後半では、社会主義グループ内の抗争や覇権争いに深刻に悩みました。
しかし、彼の生涯は悲劇性を伴いません。そこが気に入るところです。
 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/e/5612eda87827e744eb57e71d867eb1b4   

(4)魯迅(1881-1936)
近代中国が外国の列強の植民地になってしまったことを強く悲しみ、その憤りを文学と評論で表現したのが魯迅です。

現在の上海・魯迅公園は、お年寄りと熟年おばさんの社交場となっていて、中国将棋(象棋)指す人たち、ダンスに興じる人たち、などが見受けられますが、そこから、19世紀後半から20世紀にかけて、独立の精神を自虐的に訴えた魯迅の面影を探すことは難しいようです。

(5)ベルトルト・ブレヒト(1896-1956)
ドイツの劇作家です。近代演劇を超越した劇作法を何に例えたらいいのか、と考えるのですが、あるいは日本の能に類似点を見出せるかもしれません。

「場の聖ヨハンナ」「おさえればとまるアルトゥーロ・ウィの興隆」「コーカサスの白墨の輪」などを日本の新劇の劇団が演じるのを観ました。いずれも新劇くささに染まってはいますが、ブレヒトの象徴性・狂気性などはひしひしと伝わってきました。ブレヒトは間違いなくシェークスピア以来の演劇の鬼才です。

(6)ジャン・ポール・サルトル(1905-80)
大学生になってから、人文書院から出ていたサルトル全集をよく読みました。主に、小説・戯曲・評論で、哲学にまでは及びませんでした。「存在と無」・「弁証法的理性批判」などは読み残しです。また、フローベール論「家の馬鹿息子 全3巻」は読む機会はないでしょう。

知識人の政治参加・社会参加(アンガージュマン)がもっともわかりやすいサルトル像ですが、晩年のマオイスム(毛沢東主義)への傾倒は理解を超えています。  

(7)ジャクソン・ポロック(1912-56)
アメリカの即興主義の画家です。
大きな画布の上にまたがって絵具をたっぷり含んだ絵筆を自在に振り回すポロックを写真で見ましたが、そこから生まれる絵はみずみずしい精気をたたえています。本当に奇跡のような画家です。

ポロックの画法が誰から受け継いだものなのか、また、誰がそれを受け継いだのかわかりませんが、少なくとも、アンディ・ウォーホルとは異質だと想います。つまり、ウォーホルにある一種の「てらい」はポロックにはありません。

(8)マルグリット・デュラス(1914-96)
現代フランスの小説家で、映画のシナリオや監督、戯曲なども手がける多才な人です。私の最も好きな作品は「太平洋の防波堤」で、十代に過ごしたベトナムでの経験を織り込んだ小説です。
「愛人」が大ベスト・セラーになりましたが、その背景にあるのが若い男との性愛であることはよく知られています。彼女は齢を重ねてからアルコール中毒に悩みました。

実は、デュラスとサルトルには共通点があると私は考えています。
・アルコール中毒(デュラス)と大食い(サルトル)
・異性との交遊ぶり
・戯曲への偏愛ぶり、など。

(9)ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007)
アゼルバイジャン(旧ソ連)出身のチェリスト・指揮者。
今年4月に亡くなった際に、ブログに以下の追悼文を載せました。
 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/e/a9eb73184c2d0dee6edf331f5c6cd67b

ロストロポーヴィチは、はっきりとした日付を覚えていませんが、1959年(昭和34年)ごろ、レニングラード交響楽団のソリストとして、初来日しました。指揮者も記憶にありませんが、東京・新宿のコマ劇場で公演したことは覚えています。私は、そのコンサートを聴いています。誰かから入場券を譲ってもらったのでした。ロストロポーヴィチの演奏した曲目も定かではありませんが、懐かしい思い出です。

(10)フランソワ・トリュフォー(1932-84)
映画人から一人挙げるのはなかなか難しく、ヌーヴェル・ヴァーグの代表としてトリュフォーを挙げることにしました。ジャン・リュック・ゴダール、クロード・シャブロルと並んでヌーヴェル・ヴァーグの旗手といわれますが、三人の映画手法はまったく異なります。ゴダール=破壊的・前衛的、トリュフォー=伝統継承的かつ前衛的、シャブロル=伝統継承的かつ家族的、という違いがあります。

トリュフォーの映画では、カメラは流れるように、シークエンスも流れるように、主題も家族・仲間・同志などが多いのが特徴です。代表作を一作だけ挙げるのは難しく、「突然炎のごとく」「アメリカの夜」「ピアニストを打て」「華氏451」などみな傑作です。
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以上、近現代の外国人で、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を10人挙げました。私の思想形成のバックボーンとなっている人たちです。 (2007/11)



フォンターネを読む

2010-09-17 07:57:26 | 文学をめぐるエッセー
テオドール・フォンターネ Theodor Fontane(1819年-98年)を知っている人は少ないだろう。かくいう私も最近までその名を聞いたこともなかったのだから。

フォンターネは、シュティフターと同じく、19世紀ドイツの作家だ。
その姓から憶測すると、イタリア人と間違えるが、父親は南フランスの生まれ、母親はやはり南フランスから移住した両親の元でドイツのベルリンで生まれたという。つまり、南フランスにルーツを持つ家系で、フォンターネ自身はベルリン近郊で生まれ、生涯、ベルリンで生活した。
だから、彼は、ドイツの作家に数えられる。

フォンターネの作家デビューは遅く、1878年、58歳の時だ。以降、20年間に17作の小説を発表したという。
作風はリアリズム(自然主義)と評されている。つまり、日常の出来事を淡々と綴るのがフォンターネの持ち味だ。

さて、フォンターネの作品が2点岩波文庫にあることを最近発見した。
 『迷路』(伊藤武雄訳、1937年初版)
 『罪なき罪 全2巻』(加藤一郎訳、1941年・42年初版)
戦前に刊行されたこれら二作が、2005年に久しぶりに復刊して、私の目に触れるようになったわけだ。

このうち、 『迷路』を読んでみた。最初の感想は、通俗小説のよう、というものだ。
伊藤武雄の解説に従えば、「大都市の平凡な人間の日常的な運命を愛した」結果がこの小説に実っている。

また、加藤一郎の解説に従えば、「彼は、作中人物の気分や感情を描述するよりも、それらの人物が遭遇する単純で、ありふれた日常的な経験を、軽妙な諧謔に包み、そつのない対話の口調にのせ、語られる言葉によって情景なり性格なりをそっくり写し出そうとする。・・浅薄などころか、それゆえに一そう切実に悲劇的な効果を生み、真に詩的な雰囲気を醸し出しているのである。」
こちらはかなり買いかぶりだ。後半の部分についていえば、作中人物の会話は浅薄さを免れないし、詩的な雰囲気からはほど遠い。私が「通俗小説のよう」と感じたのは、ストーリーの展開のほかに、会話重視の小説作法にあった。

わが国で、戦後の舟橋聖一や丹羽邦雄が忘れ去られたように、19世紀ドイツの通俗小説作家が忘れられるのもむべなるかな、と思う。 (2010/9)

悪夢から醒める

2010-09-15 09:28:11 | 社会斜め読み
民主党代表選挙が終り、悪夢から解放された。

メディアなどの事前予測では、世論は、(二人の中では)菅 直人氏が小沢一郎氏を圧倒しているとのことであったが、その世論通り、「党員・サポーター」票は菅氏に流れた。

一方、国会議員票は、二人の間で拮抗した。国会議員がいかに世論からかけ離れているかを実証しているようだ。まるで、かつての自民党の総裁選びを見ているようだ、という評が出るのも不思議ではない。

「党員・サポーター」が辛うじて世論を受け止めて、民主党が生き恥をさらすことから防いだ格好だ。

民主党代表選挙の候補者たるべき政治家は、その(候補者としての)正当性 authenticity が問われて当然だ。ここ数年の来歴から、小沢一郎氏に(候補者としての)正当性が欠けていることは誰が見ても明らかであるのに、ご本人はそれに気づいていない。これほどの喜劇があるだろうか?  (2009/9)


二週間の憂鬱

2010-09-13 07:46:16 | 社会斜め読み
9月1日の民主党代表選挙の告示から14日の投票日まで2週間。この2週間を極めて憂鬱な気分で過ごしている。代表選挙そのものは決まった手続きに基づくものだから、異を唱えるつもりはない。問題は、二人の候補者のうち、小沢一郎氏が選ばれたらどうしよう。それが憂鬱の種だ。

小沢氏は、言うまでもなく、今年の6月に、鳩山由紀夫氏の首相辞任に伴って、民主党の幹事長職を退いた当の本人である。その辞めた理由が、自らの政治資金の不透明さの説明が足りないことで国民の信頼を損ねたことにあったはずだ。

鳩山氏は辞任発表の場で、「私も総理大臣の座を退くが、小沢さん、あなたも、どうぞ、民主党の幹事長職を退いていただきたい。」と述べて、両者は握手を交わした。その時のテレビ映像では、鳩山氏は小沢氏に申し訳なさそうなそぶりを見せ、小沢氏は無念やるかたない、という風情だった。

その小沢氏の表情を見て、「これは、ひょっとして、小沢さんは、自らの政治資金問題について、反省していないようだ。いずれ、近いうちに、政治活動を再開させる気だな。」と思った。その現われが、わずか3ヶ月後の民主党代表選挙への出馬であったとは。

民主党代表選挙の期間中、小沢氏は、自らの政治資金問題については、検察の判断は既に出ている。私(小沢氏)が次期総理になれば、国会の場で、毎日、説明することになる、と嘯(うそぶ)いたという。総理大臣になってからではなく、総理大臣になるまでに十分説明して、国民の不信感を取り除くべきなのに。

このように、民意を理解しない政治家が次期総理大臣になるかもしれない。それが憂鬱を増幅している。 (2009/9)


蝉(セミ)百態

2010-09-09 06:48:34 | わが博物誌
(1)アブラゼミの不器用さを愛す

マンションのベランダで、裏返しに腹を見せているアブラゼミがいました。しばらく見ていましたが、動きそうにないので、つかまえようと手を伸ばしたところ、アブラゼミはあわてて羽をばたばたさせて飛び立ってしまいました。それはそれでいいのですが、何だ、それなら、初めから自力で飛んでいけばいいのに、ベランダの床は熱くてかなわないだろうに、と思いました。

セミは図体が大きくて羽が軽いので、体のバランスをとるのが難しいのか、飛ぶ範囲はごく狭く、また、飛ぶのに失敗して地面に裏返しで寝そべっていることがしょっちゅうあります。とくに、大柄なアブラゼミとミンミンゼミが不器用です。というよりも、アブラゼミが、その不器用さでは断然トップです。しかし、そのしぐさが愛らしくて同情を買います。

アブラゼミとほかのセミを比べてみると;

アブラゼミは、ニイニイゼミと並んで、くすんだ茶色をしていて地味です。透明な羽を持つミンミンゼミやツクツクボウシのような、華やかさはありません。

アブラゼミの鳴き声は、ただジージー鳴くだけで、ミンミンゼミやツクツクボウシのように、メロディーやリズムを伴う鳴き方ではありません。

このように、アブラゼミは、図体が大きいのに、装飾が地味で、鳴き声にも特徴がない。その上、飛ぶのが苦手で、まったく不器用さの典型を見ている気がします。

大相撲の「栃若時代」に、大内山という力士がいて、その不器用さを慈しんだ記憶がありますが、アブラゼミを見ていると、大内山を彷彿とさせます。

「それでいいのだ。アブラゼミ、がんばれ。」-アブラゼミへのメッセージです。 (2007/7)

(2)遠い記憶

小学生・中学生の時代に、いじめにあった方がおられるかもしれません。

「ほら、その木に止まって、セミになれ。」
「ミーン・ミンミンミーン。」
「おまえは小さいけえ、ツクツクボウシを演(や)ってみい。」
「オイシー・ツクツク、オイシー・ツクツク。」
「それでええ。」
何とも残酷ないじめです。しかし、ユーモラスなところもあります。 

ここでも、アブラゼミの出番はありません。その鳴き声が、ただジージー鳴くだけで、あまり特徴がないので、真似する対象にもならないわけです。 (2007/7)

(3)初鳴き日

まだ8月初旬ですが、今年は、すべてのセミの初鳴きをすでに聞きました。

7月16日-ニイニイゼミ
7月19日-ミンミンゼミ
7月22日-アブラゼミ

はすでに報告しましたが、続けて、

8月1日-ツクツクボウシ
8月3日-ヒグラシ

が鳴きました。ツクツクボウシの初鳴きは、平年は8月10日-15日なので、今年はかなり早く鳴いたことになります。ヒグラシは昨年聞いた記憶がないほど、絶滅に近い状態でしたが、今年は、早くも、明け方4時と夕刻に別々の場所で鳴くのを聞きました。

さらに、驚くことに、本日(8月6日)朝8時に、聞きなれない鳴き声に遭遇しました。バスのクラクションがシュワン・シュワン・シュワンと鳴っているような音で、大音量です。これは「クマゼミ」ではないか? 

関東ではクマゼミに馴染みがありません。
早速、インターネットで「クマゼミ」を検索し、「クマゼミの鳴き声」を聞いてみると、果たせるかな、私の今朝聞いた鳴き声そのものでした。何と、首都圏にまで、クマゼミが東漸していたのです。さらに、インターネットで「クマゼミの分布」を調べてみると、近年、クマゼミが首都圏の海岸部で観測されていると書いてあります。

インターネットでは、福島県でのクマゼミの観測例も報告されています。首都圏で鳴いても何の不思議もないわけです。

今年は暑さが厳しいので、どのセミの活動も活発なようですが、ただ一つ、アブラゼミに勢いがなくなっていることが気がかりです。ここ数年、その傾向が顕著です。 (2010/8)

(4)セミの博物誌

さて、セミは昆虫の中でも庶民的で、独特の存在感があります。貴婦人然とした蝶や貴公子然としたカブトムシとは一線を画しています。そのセミが人気者かというと、いささか疑わしい面があります。

蝶やカブトムシには熱烈な収集マニアがいますし、それぞれ立派な写真集があります。それに比べて、セミの収集マニアとは聞いたことがありませんし、セミの写真集も見たことがありません。

そもそも、セミに関する文献が乏しいのです。

研究書では、
 加藤正世『蝉の研究』(昭和7年、三省堂)
が白眉ですが、戦前の出版で、今、手に入れることは難しい代物です。

一般読者を想定した解説書も極めて乏しいのが現状です。

私が推奨するのは、
 中尾舜一『セミの自然誌』(1990年、中公新書)
ですが、この本も既に絶版です。訳あって、この本を古本屋で見かけるたびに買い求めるのですが、どの本も、1990年7月発行のものです。つまり、この本は増刷も再版もされずに埋もれているようです。

この本には、セミの鳴き声について70ページにわたって解説がありますが、セミの鳴く時間については、詳しい記述がありません。それをここで述べますと;

セミは昼間鳴くのは当然として、夜間でも鳴きます。(アブラゼミとミンミンゼミ)
特定の時間帯だけ鳴くセミもいます。
ヒグラシは、夜明けとたそがれ時だけ鳴くので知られています。
クマゼミは午前中だけ鳴くという説をどこかで見ましたが、先日午後3時にクマゼミが鳴くのを観測しました。(「クマゼミは午前中によく鳴く」くらいが正解でしょう。)

17年ゼミや13年ゼミの「周期ゼミ」に関する知識も中尾舜一氏の本から得ました。周期ゼミが大発生する原因は、天敵が少ないことだと中尾氏はいいます。周期ゼミと同じような生態をとる虫がいない、いたとしても、周期ゼミを取りつくすまでには至らない、ということだそうです。

この「周期ゼミ」については、
 吉村 仁『17年と13年だけ大発生? 素数ゼミの秘密に迫る!』(2008年、サイエンス・ アイ新書)
というおどろおどろしいタイトルの本が刊行されているようです。まだ読んでいません。吉村氏は「周期ゼミ」を「素数ゼミ」と言い換えています。17年と13年という「素数年」ごとに大発生することに神秘さを認めているようです。

いずれにしても、セミに関する書物の異常な少なさが目に付きます。 (2010/9)



至福の八年間[母を送る]・7

2010-09-07 06:45:12 | 介護は楽しい
(8)九十九折の坂道

1996年に左ひざを痛めてから、2010年に亡くなるまで、母の歩みは、例えてみれば、長く緩やかな九十九折の坂道を下るようであった。とくに、脳梗塞で自活できなくなった2002年からは、その様を目前にした。歩みは考えられる最も遅い歩みだったが、坂道だから、止まることも許されないものであった。

その間、身近で母を世話することができたことは幸せであった。まさに、「至福の八年間」であった。 (終わる。2010/9)

至福の八年間[母を送る]・6

2010-09-05 06:37:22 | 介護は楽しい
(7)歌に寄せる

母は自分の趣味を、絵を描くこと、歌をうたうこと、ツルを折ること、の3つだと絶えず口にしていた。右手が不自由になってからは、絵を描くこととツルを折ることがままならなくなり、歌をうたうことが残った。
戦前の歌から戦後の歌謡曲までレパートリーは広く、こんな歌も知っているのかと人を驚かせるほどだった。

母の十八番に「お菓子の好きなパリ娘」がある。正しい題はわからないが、シャンソン風の歌だ。なぜこの歌をうたうのかは薄々わかる。糖尿病でお菓子にありつけない不自由をかこっているのだ。

「お菓子の好きなパリ娘
 二人そろえばいそいそと
 角の菓子屋へ『ボンジュール』」

最初の一連だ。最後の「ボンジュール」の後、しっかりと休止符を置くのがこだわりだ。

「選(よ)る間も遅しエクレール(エクレアのこと)
 腰もかけずにむしゃむしゃと
 食べて口拭くパリ娘」

第二連のメロディーは第一連の繰り返し。

「人が見ようと笑おうと
 小唄まじりで街を行く
 ラ・マルチーヌの銅像の
 肩でツバメの宙返り」

第三連で転調し、牧歌的な情景が閉じるのだが、最後の「宙返り」の節が難しいようだ。まず、速度を遅くしなくてはならない。次に、ツバメが本当に宙返りしているように音符を舞わせる必要がある。ここをうたい切ると母は満足を示す。

このところ、この歌を正確にうたうことが難しくなり、「私はまだ歌を覚えているの」と主張するように、第一連から第三連まで駆け足で節もつけずにうたうようになった。うたう歓びを味わう余裕のなくなりつつあるのがさびしいところだ。(2007年9月のこと)
(2010/9)


至福の八年間[母を送る]・5

2010-09-03 06:36:53 | Weblog
(6)画家として

母は、子育てが一段落した40歳代から、絵を描き始めた。
初めは、デッサンに励み、地域の絵のクラブなどに参加していた。
やがて、ある団体の会友になり、以後、会員・委員というようにキャリアを積んでいった。

2002年に脳梗塞を発症してから、自宅アトリエで個展を2回開いた。そして、2005年8月に、東京・京橋の画廊で個展を開くことになった。

母は大層張り切って、会場にずうっと詰めるといって聞かない。暑い中なので、一日2時間に限って会場で接客するよう母を説得した。
個展が無事に終わり、母に代わって次のようなお礼状を客に送った。

***
 
お 礼

このたびは、炎暑の中、「第40回個展 -花・はな・華-」に足をお運びいただき、まことにありがとうございました。

1960年代から90年代にかけて描いた「花」を中心に29点を展示いたしましたが、多くの皆様から、「クレパスによるデッサンが大胆だ」、「色彩が華やかでみずみずしい」、「花の生気が伝わってくる」などのお言葉をいただき、絵を描いてきてよかったとつくづく思いました。

機会がありましたら、次回は「風景」をテーマに個展を開催できれば、と考えております。

今後も、皆様の励ましを糧に、絵一筋に邁進する所存です。

***

母にこの文案を見せると、「私の考えていた通りのことを書いてくれて、ありがとう。」と言われた。初めて、親孝行をした気持になった。

2008年、母の参加している会の展覧会が開かれることになり、2点出品することにした。そして、思いついて、母を会場に連れ出すことにした。久しぶりの外出だ。ホームのヘルパーに入念に準備していただいて、タクシーで会場に向かった。

会場に着き、会の仲間から挨拶を受けるのだが、誰が誰だか識別はつかないようだ。それでも、会場を一周するうちに、会の展覧会に来ていることを理解した。水彩の「がくあじさい」の絵の前で、「これ、誰が描いた?」と聞くと、「あ・た・し。」と答え、回りがわっと沸いた。

やがて、会の仲間の女性の手を握り、離さなくなった。次の女性の手も握り、同じく手を離さない。完全に会の雰囲気になじんだようだ。

15分経過したころ、母が「疲れた。帰る。」という。それで、タクシーでホームに帰った。
一時間の遠足だった。

会の仲間とともに撮った記念写真をプリントしてみると、母は、大きく口を開けて、収まっていた。興奮していたのだと思う。

翌2009年にも、母を展覧会場に連れ出して、母の絵の前で、「これ、誰が描いた?」と聞いた。すると、母は、左手で自分の鼻を指す。「あたしが描いたの。」ということだろう。
(2010/9)       
  

至福の八年間[母を送る]・4

2010-09-01 07:12:18 | Weblog
(5)ある日の会話

老健から特養にかけて母の過ごした時間は、より穏やかに、より覇気の乏しいものに、というものだった。これはやむを得ないことだ。

ある日、昼食時に特別養護老人ホームに見舞いに行ったときの母との会話を以下に記す。

「また来たよ」
「来たの」
(少し顔を上げ、喜びを示す。最近は喜びの度合いが少なくなっているのが気がかりだ。元気な時は、まわりの人に、「わたしの息子なの」というのが口癖だったが。)

「腹がペコペコなの。何ぞ持ってにゃー?」
「いちじくを持ってきたよ」
「それ、ちょう。早うちょう」
「お昼食(ひる)の後に食べよう」
「いいから、すぐにちょう」
(最近、とみに、名古屋弁を使う。)

昼食が運ばれてくる。
「食べさせて」
「スプーンを右手に持って、自分で食べるんだよ。うまい?」
「うみゃー」
(食欲があるのが救いだ。)

あっという間に食べ終わる。仲間の中で一番早いようだ。
「いちじくを食べるか?」
「食べる。うみゃー。今までで一番うみゃー」
(これは口癖。)

食後は車椅子で館内を散歩する。
「うまかったよ。あの、ぶどう」
「ぶどうじゃない、いちじくだよ」
(最近は名詞を思いださないことが多くなっている。ぶどうが母の大好物なので、うまいものはすべて「ぶどう」になるようだ。)

口をすすいで、トイレに入って、部屋に戻る。
「ベッドでひと休みするか?」
「うん」
ここで、ヘルパーに寝かしつけてもらう。このところ、足がしっかりしていて、車椅子からベッドに移るのがスムーズだ。

ヘルパーが退室すると、母が独り言、というよりは、一人叫び、を始める。それを聞きながら、そーっと退室する。2007年7月のこと。 (2010/9)