静聴雨読

歴史文化を読み解く

プルーストの英訳・2

2012-08-31 07:39:36 | 文学をめぐるエッセー

 

(2)英訳では

最近、英訳版のプルースト『失われた時を求めて』の一つに接する機会がありました。

C・K・スコット・モンクリーフ C. K.. Scott Moncrieff の訳になる「Remembrance of the Things Past」で、初版は1922年に Chatto & Windus Ltd. から刊行されました。私の参照したのは、1973年版。

その第一篇『スワン家の方へ』が「Swann’s Way」のタイトルで訳されています。

その第1部「コンブレー」の冒頭の印象的な一文は英語ではどう表現されているでしょうか?

固唾を呑んでページを繰ると、以下の文言が目に入りました;

「For a long time I used to go to bed early.」

何と、「おそらく、 For a long time I used to go to bed early. とでも表現される」と推定すると上で書いたと同じ文言ではないか! 私はびっくりするとともに、深い満足を感じました。

プルーストの原文を移すにあたって、これほどピッタリした英語表現はほかにありません。それが確認できました。過去の習慣をあらわす used to のフレーズがピッタリなのです。

C・K・スコット・モンクリーフの英訳の評判を私は知りません。また、ほかの訳者が、この冒頭の一文をどう訳しているかも知りません。しかし、C・K・スコット・モンクリーフのこの冒頭の一文の訳文には賛同するとともに、深い敬意を覚えます。 (2012/8)

 


プルーストの英訳・1

2012-08-29 07:35:11 | 文学をめぐるエッセー

 

(1)プルーストの冒頭の一文

以前、「プルーストの翻訳」と題して、プルースト『失われた時を求めて』の冒頭の一文の日本語訳について、鈴木道彦訳と井上究一郎訳を参照しながら議論しました。

プルースト「失われた時を求めて」の第1編「スワン家の方へ」・第1部「コンブレー」の冒頭は、主人公の「私」の回想を導く印象的な一文で始まります。非常に長い文章で有名なこの小説では異例といえるほどの短文です。

フランス語の原文は:(アクサン・テギュ、アクサン・グラーヴ、アクサン・シルコンフレックスは省いています。)

  Longtemps, je me suis couche de bonne heure. (Marcel Proust, Du Cote de chez Swann, 1988, Folio Classique, Editions Gallimard) 

鈴木道彦訳では:「長いあいだ、私は早く寝るのだった。」(2006年、集英社文庫ヘリテージシリーズ版)

井上究一郎訳では:「長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。」(1992年、ちくま文庫版)

病弱な「私」が、親の指示で、早い時刻に就寝することを余儀なくされていたことを示唆する一文です。しかし、就寝がすなわちまどろみではなく、ある時は母親のお休みのキスを待ち焦がれる長い時間があり、またある時は幼い日を回想し追憶する時間があり、このような時間が眠りを妨げる。そのような甘美な時について、以後「私」は延々と語り始めます。

「この印象的な一文のニュアンスが日本訳文で表現されているでしょうか?」 これが私の問題意識でした。そして、英語でどう訳すのだろう、と考え、

「おそらく、

  For a long time I used to go to bed early.

とでも表現される」と推定しました。 For a long time と used to と go to bed とがキーとなる言葉です。

For a long time を「長い時にわたって」(井上訳)と訳すのは、原文の理解とは別に、こなれた日本語とはいえないでしょう。ここは「長いあいだ」(鈴木訳)と訳すのがスマートです。

used to は「私」の習慣を表す重要な言葉です。井上訳は「ものだ」とすることによって辛うじて原文のニュアンスを伝えていますが、鈴木訳の「のだった」では不十分だといわざるを得ません。

また、就寝する(go to bed)のニュアンスが二人の訳文からは伝わりません。作者のねらいは、就寝から実際の眠りまでの時間を語ることにあるのですが。

このように叙述を続けたのですが、実は、この時点では、英訳版のプルースト『失われた時を求めて』には一つもアクセスできていないのでした。 (2012/8)

 


炎天下の古書市・1

2012-08-26 07:54:32 | BIBLOSの本棚

 

(1)恒例の絶版文庫フェア

 

三省堂書店神保町本店で、夏恒例の「絶版文庫フェア」が今年も開催されました。今年は、8月16日-31日の16日間で、昨年の約半分の期間です。場所は、昨年の1階壁の本棚に代わり、今年は玄関表のワゴン販売になりました。出品古書店がワゴン1台ずつを受け持ちます。

今年は、三省堂書店からの要望により、前半(8月16日-23日)と後半(8月24日-31日)で、展示品を入れ替えることになりました。それで、前半は趣味系・文学系を展示し、後半は学術系を展示することにしました。この試みがうまくはまるかどうかが第一の試金石でした。

次に、経験のないワゴン展示で、いかに商品をアピ-ルするかが難問です。ワゴンは、幅150cm   x 奥行き75cm です。これでは、文庫本が4列しか並べられません。「スーパー源氏」に頼んで、3段の木の棚を用意してもらいました。これで、3段の棚と3列の平台を確保しました。棚にどんな本を並べると良いか、とか、平台にどんな本を並べたら見場が良いか、などは、経験がないのでわからず、「出たとこ勝負」でした。  (2012/8)


秋来ぬと目にはさやかに・・・

2012-08-17 07:03:07 | 文学をめぐるエッセー

 

私の住む首都圏で季節の変わり目をはっきり感じる時季が2つある。春、桜の花が散って代わりに藤の花やつつじが咲き始めるころと、夏が終り秋の始まるころである。

きのうの雨があがって、今朝は空高く晴れわたっている。外に出れば、陽差しはなお強いものの、風はやや冷たく感じて、きのうまでの夏の気配とは違う気配が支配しているのがわかる。こんなにもはっきりと季節の断絶があるものだろうか。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」

この歌が思い出される。たしか、平安時代の藤原のナニガシの歌である。手元にある『日本詩歌集』、昭和34年、平凡社、にあたると、藤原敏行が作者であることがわかった。「三十六歌仙」の一人とある。

この歌に出会ったのは、中学の国語の授業の時だった。テストで、「来ぬ」の読みを問うものがあり、「こぬ」ではなく「きぬ」ですよ、との教師の言葉が今も記憶に残る。

視覚では認識できない季節の移り変わりが、「風の音」という聴覚ではっきり知ることができると藤原敏行は歌っていたのだった。実際は、風は「音」だけではなく、むしろそれ以上に、「そよぎ」によって、秋の到来を知らしめてくれるのであるが。

夏から秋への移行は、虫のすだきやつくつくぼうしの鳴き納めでも感じることができるが、最もおだやかでありながら、最もきっぱりとしているのが、風の音やそよぎが教えてくれる空気の変化ではないだろうか?  

 秋来ぬと耳にさやかに鳴くつくつくぼうし  陽西

今年は秋の訪れが例年より1週間ほど早いようだ。 (2006/9)


ポーランドつれづれ

2012-08-14 07:41:49 | 異文化紀行

 

(1)ショパンをめぐって

ポーランドの3大有名人とは、「地動説」を発表したコペルニクス、ピアノの詩人・ショパン、ノーベル賞を受賞した化学者・キュリー夫人を指すそうだ。最近、それに、ローマ教皇に擬せられたヨハネ・パウロⅡ世が加わって、4大有名人といわれている。

中でも、ショパンは国内外で最も有名なポーランド人といっていい。

ショパンは39年の生涯の前半20年をポーランドに過ごし、後半はポーランド国外で過ごした。20歳になった作曲家兼ピアニスト・ショパンは国外に出る。すでにショパンの器を受け入れるような音楽市場は国内になくなっていたのだ。この点は、戦後彗星のように現われたヴァイオリニスト・渡辺茂夫に似ている。渡辺は14歳でアメリカに渡った。

当時のポーランドはプロシア・オーストリア・ロシアの3国に分割され、国内には絶えずそれに対する反乱・蜂起が芽生えていた。ショパンが出国を決意した1830年には、「11月蜂起」が起きて失敗に終わる。ショパンの出国がその直前であったことから、政治的にポーランドにいられない事情があったのではないかと推測されている。その証拠に、出国後、祖国が嫌いであったわけではないショパンは一度も祖国に帰らなかった。この事情を知ると、例えば、ショパンの『英雄ポロネーズ』のかもし出す望郷の念が身にしみるのだ。

ワルシャワには立派なショパン博物館がある。

展示はむしろすっきりしている。ピアニストとして、作曲家として、旅行者としてのショパンが簡潔な展示で理解できるようになっている。そして、さらに詳しく知りたい見学者のために、見学者の入場カードを触れることによって、さらに詳しい解説などを見たりすることができる仕掛けになっている。作曲家としてのショパンのブースでは、該当する曲目の演奏が、同じく、見学者の入場カードを触れることによって、聞ける。これは、素晴らしいアイディアだ。

見学者の意向によって、詳しく観覧できる仕組みは、青森県三沢市の「寺山修司記念館」でも経験した。ここでは、寺山の様々なアクティビティが数多く並んだ「学習机」で表現されており、それぞれの机の引き出しを開けることによって、そのアクティビティの詳細を確かめるようになっている。同じ趣向がショパン博物館でも表わされている。

ポーランドに行ったらショパンを聴かねばならないと思っていた。

クラクフでは、夏のハイ・シーズンには各所で「ショパン・コンサート」が開催されていることがわかった。インフォメーション・センターで調べたところ、多い日には、何と4ヶ所で「ショパン・コンサート」が開かれている。

そのうちの2ヶ所に二晩連続で通った。

一つは、20歳代の女性ピアニスト、もう一つは、30歳代の男性ピアニスト。いずれも、熱演で、満足した。ちなみに、料金は55ztと50zt。1時間のコンサートなので、まず、リーズナブルな価格だ。

実は、私は、ショパンの「偉大さ」はよくわからないのだ。「マズルカ」と「ポロネーズ」との違いもわからない素人だ。しかし、例えば、プログラムの最後に組まれたポロネーズを目の当たりに聴いていると、その激情の所以が自ずから理解できてしまうのを実感する。20歳にして国を出て、39歳で異国に亡くなるまで、国に帰らなかった(あるいは、帰れなかった)ショパンの心情は痛いほどよくわかる。クラクフでの「ショパン・コンサート」はそのような思いを新たにするかけがえのない体験になった。 

(2)車内にて

ワルシャワからクラクフまでの列車「マリア・キュリー・スクウォドフスカ号」では、奮発して、1等車にした。1室6席のコンパートメントだ。

先着の、アメリカ中西部から来たと思われる老人夫婦とその20歳代の孫娘の3人連れ、それに、ニューヨークから来たという黒の衣装に黒のシルクハットを被った中年男性が同室であった。この黒の男は典型的なユダヤ人のいでたちだ。

さて、この黒の男が、窓際の席を占領し、さらに前のテーブルにいろいろなものを展開して、その席を「実効支配」しようとしていた。

「もしもし、その席は私の席ですが。」「ん? 座りたいか?」「当たりまえでしょ。」

座席争いが一段落したところで、車内サービスのアテンダントが来た。「お飲み物はいかがですか?」誰も応えない。「ただですが。」途端に「それなら話は別だ。 It’s another story.」と黒の男が声を発した。一同爆笑した。

さてさて、私は「常識を疑え」というコラムで、「スペイン人はなまけもので、フランス人はケチだというのは、他国の人を面白おかしく批評する俗説だ」と述べたのだが、「ユダヤ人はケチで強欲だというのは、シェイクスピア『ヴェニスの商人』以来の俗説だ」と言い切れるのか、いささか怪しくなってきた。

その後、車内は静かになり、老人夫婦とその20歳代の孫娘の3人連れはそれぞれ舟を漕ぎ始め、黒の男は本に目を落としている。身なりは立派で、教養も申し分なく見える男なのだが。

(3)カジミエシュ地区にて

ポーランドとユダヤ人との「相性」は良く、過去多くのユダヤ人が定住の地を求めてポーランドに渡った。ワルシャワやクラクフには大きなユダヤ人街ができた。

ナチスが政権を取り、ポーランドに侵入すると、ワルシャワやクラクフのユダヤ人街にはユダヤ人を閉じ込めるゲットーが作られ、やがて、ユダヤ人はゲットーから引き出されてアウシュビッツなどの強制収容所に送られ、そこで多くのユダヤ人が命をなくした。ポーランドは、まさにおぞましいホロコースト(大量殺戮)の場になってしまった。

クラクフのカジミエシュ地区はそのような歴史を刻むユダヤ人街だ。旧市街に比べると、カジミエシュ地区では、壁の崩れかかった建物が多く、壁にはいたずら書きが多い。赤銅色のよっぱらいが昼間からうろついている。その一方で、銀行の支店が多いのに気づく。

カジミエシュ地区の奥にユダヤ博物館があり、ユダヤの民俗や風習を示す展示がしてある。それに感銘を受けた後、トイレに行きたくなった。スタッフに「トイレはどこですか?」と聞くと、「トイレはありません。」と返ってきた。トイレのない博物館は初めての経験だ。

博物館見学を早々に済ませ、近くのレストランに入った。「トイレを貸してください。」「ワン・ドリンク!」この返答に驚いた。「トイレを使うには、飲み物を一杯注文していただく必要があります。」ということだろうが、ここまでストレートに表現されると、気持が萎縮する。

ワルシャワでも、レストランでトイレを借りたことがあった。「トイレを貸してください。」「はい。その階段を下りたところよ。テラスに席を用意しておきますね。」これがスマートな接客法というものだ。

カジミエシュ地区のレストランのオーナーやウェイター・ウェイトレスがユダヤ人かどうかわからないが、その余りにもストレートで非スマートな接客法に接すると、ふたたび「ユダヤ人はケチで強欲だ。」という「俗説」が頭をもたげてくるのだった。  

(4)食事情

「ポーランドの食事には期待しない方がいいよ。」 これが、ポーランド経験者の忠告だった。ポーランドの食事情は予想通りだった。

ピエロギ(ポーランド風餃子。皮が厚い。具がたくさん詰まっている。たっぷりのキャベツとニラとひき肉をパリッと揚げた日本の餃子とは違う。具が少ないのはないものか?)

赤カブのスープ(まずまず。酸味が利いている。)

ほかのスープ(やたらに塩辛い。)

ロールキャベツ(大きい。味も大味。)

ピゴス(牛肉とザウアーフラウトを煮込んだものだが、量が多くて、半分残した。)

このように、十分満足した料理に出会わなかった。

クラクフを離れる前日、イタリアン・レストランで食べたパスタがいけた。何より、量が日本で食べるパスタと同じくらいで、それが救いだった。クラクフにはイタリアン・レストランが多い。一方、中華料理店は少なかった。

カジミエシュ地区の「ワン・ドリンク!」のレストランで食べたスープが皮肉にもこの旅で出会った最高の料理となった。わが国のビーフ・シチューのようで、さらにスープを多くして、その上スパイスを効かしてある。ポーランドとユダヤ人との「相性」の良さを実感することとなった。

ビールをよく飲んだが、チェコのピルゼン・ビールには及ばないと感じた。 

(5)琥珀の魅力

ポーランドは琥珀の産地として有名なのだそうだ。琥珀とは、4000万年から6000万年かけて樹液が変化してできたものだそうで、茶色の様々なグラデーションが人を引き付ける。

ポーランドの中でも、バルト海に面したグダンスクが琥珀の一大産地として有名で、そこには、琥珀専門のギャラリーまであるという。今回のポーランドの旅では、残念ながら、グダンスクまで足を延ばすことはかなわなかった。

でも、ワルシャワにもクラクフにも、琥珀を専門に扱うショップが数多くあった。

クラクフのあるショップに入ってみた。左右の壁一面と手前の陳列台に琥珀製品が飾られている。ネックレス、ペンダント、ブレスレット、ピアスなどなど。この店の雰囲気に浸っていると、心が落ち着くのがわかる。茶色は人を穏やかにさせる働きがある。

琥珀の余りの鮮やかさについつい気をとられ、何度左へ右へと店内を移動したろうか? 気がつくと、中央のカウンターにいる三人の若い店員が、私が左に行くと一斉に左に向きを変え、右に行くと、今度は一斉に右に向きを変えているのがわかった。それで、思わず、笑ってしまった。

ここで、勝負あった。ペンダントを一つ求めて、外に出た。

贈るあてのないみやげ物がまた一つ増えてしまった。 (2012/8)

参考資料:

『地球の歩き方 チェコ/ポーランド/スロヴァキア 2012-2013年版』(2012年5月改訂第17版、ダイヤモンド社)

『読んで旅する世界の歴史と文化 中欧 ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』(沼野充義監修、1996年、新潮社)

遠山一行『ショパン カラー版作曲家の生涯』(平成12年、新潮文庫)

V・E・フランクル『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(霜山徳爾訳、1991年、みすず書房)

 

 


ポーランド:将棋の旅

2012-08-01 06:27:43 | 将棋二段、やりくり算段

 

今夏、ポーランドを旅した。主目的は、クラクフで開催される「世界オープン将棋選手権」に参加することだった。

ポーランドといって思い出すのは、ピアノの詩人・ショパン、映画監督アンジェイ・ワイダ、そのワイダ監督の『灰とダイアモンド』に主演したズビグニエフ・チブルスキーなど。

また、政治の分野では、自主管理労組「連帯」のワレサ氏、遡って、冷戦時代に北大西洋条約機構(NATO)と対抗したワルシャワ条約機構、さらに遡って、1939年のナチスによるポーランド侵攻やアウシュビッツ強制収容所など。

歴史をさらにさらに遡れば、18世紀のロシア・プロシア・オーストリアによる「ポーランド分割」。絶えず周辺の強大国に翻弄されてきた国がポーランドだ。

滅多にない機会なので、わがポーランド像を形成する旅にしたいと思った。まずは、将棋の体験から。

(1) ワルシャワ将棋クラブ

羽田空港0:40発パリ行き。羽田発の深夜便を利用するのは初めての経験だった。パリ着6:15。そこで乗り換えて、ワルシャワに着いたのが11:45。ヨーロッパ(の僻地)に真昼に着くというのは画期的で、便利なフライトが出来たものだ。

ただし、羽田に早く着くと、時間をつぶすのに苦労する。また、深夜便では軽食しか出ない、というのが予想外だった。しっかりと夕食をとってから乗り込むのが深夜便の賢い利用法のようだ。

ポーランドは2006年にEUに加盟したが、通貨はユーロを採用せず、旧来のズウォティ(zt)がそのまま使われている。1zt=22円。空港で両替をして、タクシーでワルシャワ市内に向かった。空港に着陸してから、ターミナル→バッゲージ・クレーム→両替→タクシー乗り場→旧市街のホテルまで、1時間しかかからなかった。

ワルシャワは暑かった。前日から猛暑に襲われているそうで、25℃ある。湿度はあまり高くなく、日差しがきつい。素足をさらした女性がまぶしい。

夕方から、「ワルシャワ将棋クラブ」の例会に顔を出した。KM女流初段に紹介いただいたものだ。

市内のカフェに11人ほど集まった。クラクフの大会の幹事役を引き受けているアドリアン、高群女流三段を破って一躍人気者になったカロリーナ、ワルシャワ将棋クラブの肝煎り役を務める弱冠18歳の学生ピョートルの三人が主役だ。これに、ワルシャワ在住の日本人3名が加わった。それぞれ、四段、二段、二段の実力とお見受けした。それに、KM女史と私が客人として参加した。

「ワルシャワ将棋クラブ」は最近できたものらしく、その名称は私が勝手につけたものだ。

まだ、将棋盤や将棋駒の道具が不十分で、手書きの将棋盤を広げているのには微笑を誘われた。(クラクフの大会後、ビニール将棋盤と木製の将棋駒一式と、プラスティック将棋セット一式を「ワルシャワ将棋クラブ」に寄贈した。)

KM女史は指導将棋をしたり、「どうぶつしょうぎ」の相手をしたり、九路盤で囲碁の相手を務めたりと、サービス精神豊かに振舞っている。

私はカロリーナと一局指した。カロリーナの先手三間飛車の対抗型になり、途中までうまく捌いたつもりだったのだが、肝心な局面で受けすぎて形勢を損じて、以降はなすすべもなく破れた。カロリーナは中盤の読みがしっかりとしているように見受けられた。

続けて、アドリアンと一局指した。中盤まで有利に指し進めたのだが、終盤決めに出た手が「指しすぎ」で、形勢を悪くした。相手の入玉を辛うじて阻止して勝ったが、ほめられた勝利ではなかった。これでは、クラクフの大会が思いやられると思った。

「ワルシャワ将棋クラブ」は恵まれているように思った。なにしろ、三名もの強力な日本人の対戦相手がいるのだから。どうぞ、三名の日本人の方々は、ワルシャワの将棋指しの相手になっていただきたい。なにしろ、カロリーナという伸びしろ豊かな将棋指しが現われたのだから、彼女の棋力を伸ばすのに協力いただきたい。併せて、ワルシャワの将棋人口の拡大を祈念したい。 

(2) 「世界オープン将棋選手権」

ワルシャワからクラクフまで、鉄道の「マリア・キュリー・スクウォドフスカ号」で3時間の道程だった。ノン・ストップで、林・畑・牧場の間を駆け抜ける。クラクフはワルシャワの南西にあたる中世以来の古都だ。

クラクフの大会の会場は、旧市街からヴィスワ川を渡った対岸にある「日本美術・技術センター」のホールだ。「ヨーロッパ将棋選手権」「世界オープン将棋選手権」「Blitz(早指し選手権)」「どうぶつしょうぎ選手権」「京都将棋選手権」「チーム選手権」が行われた。大会後の集計では、参加者は87名。40面以上が一堂に並ぶのは壮観だ。

同時進行する「ヨーロッパ将棋選手権」と「世界オープン将棋選手権」との関係が分かりづらいので、少し説明しよう。実は、この2つの選手権、実体は1つで看板が2つの選手権なのだ。ちょうど、国際飛行便の「コード・シェア便」に似ている。

ヨーロッパの国の国籍を持ち、ELOというレーティングの上位32名が「ヨーロッパ将棋選手権」への参加資格を有し、トーナメント戦を戦う。トーナメント戦の敗者は直ちに「世界オープン将棋選手権」へと合流するわけだ。実に考えられた対戦システムだと思う。

「ヨーロッパ将棋選手権」は、昨年と一昨年の3位だったドイツのトマス(ELO2012)が優勝した。準々決勝でカロリーナ(ELO1805)に逆転勝ちして、決勝ではベラルーシのセルゲイ(ELO1964)に終始リードして勝ちきった。昨年まで3年連続優勝のフランスのジャン(ELO2009)は振るわず、ベスト4に入らなかった。

「世界オープン将棋選手権」は、スイス方式で8ラウンド戦う。「ヨーロッパ将棋選手権」の参加者も8戦になるまで戦う。トップはまれに見る混戦となり、日本人3名が7勝1敗で並んだ。3名は3つ巴になったので、「対戦相手に勝った方が上」という決着方式では決着せず、その他の要素を入れた決着になったようだ。そして、優勝は昨年3位だったUYさん(ELO2438)。おそらく大会参加者最年長者の優勝に会場が沸いた。2位は昨年2位・一昨年優勝のTKさん(ELO2120)。3位は昨年優勝のKMさん(ELO2570)。上位3名は昨年の上位3名の順位が入れ替わった結果となった。

(3) 私の戦績と交流

私は「Blitz(早指し選手権)」と「世界オープン将棋選手権」に参加した。

「Blitz(早指し選手権)」はスイス方式で8ラウンド戦う。1局1人8分、切れ負けだ。早指しを否定するつもりはないが、切れ負けルールは邪道だ。ストレスがたまってしまう。少なくとも、10秒の秒読み時間が欲しい。運営上、時間管理が必要なら、開始時間を早めるなり、対局数を6局程度に減らすなりすれば実現可能な案だ。

「Blitz(早指し選手権)」は6勝2敗で4位となり、思いがけぬ成績だった。

「Blitz(早指し選手権)」では、「世界オープン将棋選手権」と異なり、相がかりの将棋が多かった。

早指しに向いた戦法を意識的に採用する将棋指しがヨーロッパには多いのかもしれない。

「世界オープン将棋選手権」はスイス方式で8ラウンド戦う。1局1人45分、切れたら40秒の秒読み。ゆったりとした時間の組み方だ。この時間を生かせるかどうかが試金石だったが、結果は、せいぜい考えて30分。中盤の岐路で腰を落として考える力が決定的に不足していることを思い知らされた。

対戦成績は5勝3敗。

負けた相手は日本のIKさん(ELO2200)、フランスのジャン、ハンガリーのゲルゲリー(ELO1661)。ELOから見てゲルゲリーに負けたのが痛かった。何と、この将棋では、大会中の最短終了時間を記録してしまったのだ。それは、私の「王手」の見落とし。

私が後手で「ゴキゲン中飛車」を採用したのだが、最初から棋譜を並べてみよう。

7六歩、3四歩、2六歩、5四歩、2五歩、5二飛、5八金と進み、先手が超急戦を見せた。ここで、後手は6二玉か3三角と指すのが「定跡」なのだが、何と、私は王を5一に置いたままで、角換わりを強要した。何手か進み、先手から「3三角」と打たれた。これに対して、「4四銀」と応じてしまったのだ。「王手」の放置でゲーム・エンド。隣りの対局者までびっくりしていた。

さて、クラクフの大会で対戦した相手の国籍を記すと以下のようになる;

「Blitz(早指し選手権)」:ロシア、ロシア、ロシア、ノルウェー、ハンガリー、日本、日本、ドイツ

「世界オープン将棋選手権」:ポーランド、スウェーデン、日本、ノルウェー、ウクライナ、フランス、ハンガリー、ロシア

思った以上にヨーロッパの将棋指しと対戦することができた。

棋力通りの対戦結果が多かったが、うち、2人にだけは「取りこぼし」だった。

1人はすでに述べた「王手」を見落としたハンガリーのゲルゲリー、もう一人は「Blitz(早指し選手権)」で負けたロシアのマクシム(ELO1596)。彼には、相がかりからの受け損じで負けてしまった。マクシムとは「世界オープン将棋選手権」でも当たり、彼の三間飛車を受けてじりじりと寄せて勝った。

「世界オープン将棋選手権」で当たったフランスのジャンは、序盤の駒組みがぎこちなく感じたが、中盤からあっという間に寄せられた。理論派というより実戦派という印象を受けた。

ウクライナのボリス(ELO1476)は棋力はまだまだだが、そのマナーの良さが群を抜いていた。日本からの参加者に敬意を表わし、何でも吸収したいという姿勢が見えた。「キエフ将棋クラブ」で例会を持っているらしい。

さて、今回の大会で交流した相手で最も印象に残ったのが、「ヨーロッパ将棋選手権」で優勝したドイツのトマスだ。彼は根っからの理論派だ。他人の将棋にも自分の将棋にも的確な批評を下す。対局ではよく考える。また、対局の棋譜まで取っているのには驚いた。終盤の入口までそれが続くのだ。振り飛車の相穴熊戦が得意らしい。「ヨーロッパ将棋選手権」の決勝でもこの戦法で快勝している。

実は、私は、大会前の練習将棋でトマスと対戦して勝ってしまったのだ。戦型は私が居飛車、トマスが振り飛車の相穴熊だ。中盤の模様の取り合いで押され、猛攻を受けることになった。しかし、彼の寄せにわずかに緩みが生じ、形勢が少し戻った。

下段に飛車を成り込まれたが、私の玉は、飛車か金を渡さなければ「詰めろ」がかからない形。そこで、「4五角」という攻防の一手を放ち、勝負形に持ち込んだと感じた。そして、彼の守りにわずかに乱れが出て、押し切ることができた。

互いに悪手らしい悪手のない、自分でいうのもおかしいが「好局」だったと思う。

そして、このトマスとの対局がクラクフの大会での最大の収穫となった。

詳しくは聞きそびれたが、トマスはドイツ中部を拠点に活動しているようだ。また、対局ができるといいと思う。 

(4) 甦る将棋文化

クラクフの大会には、MN七段、TS六段、KM女流初段が派遣されて、指導に当たっておられた。大会中の4日間で、MN七段とTS六段は二人合わせて計200局以上の指導対局をこなしておられた。まったく頭の下がる思いだ。

指導を受ける側も、本で読んだ定跡からの変化を持参して教えを請うなど、その熱心さも相当なものだ。

「日本語の定跡書を読んで、理解できるのか」と問うと、「指し手(move)を追っている」とのこと。なるほど。すると、定跡書に次のような工夫をこらすと、外国人にも近づきやすくなるのではないか。すなわち、指し手に、◎(良い手)、×(悪い手)、!(勝負手)、?(疑問手)を付けるのだ。これだけで、誰でも、棋譜の読み込みが深くなるというものだ。実は、この方法は、毎日新聞の将棋欄の棋譜解説ですでに採用している。その例に倣うといい。

ヨーロッパの将棋指しは一様にマナーが良い。

例を挙げれば;

・対局開始時に挨拶する。負ければ「負けました。」という。

・瞬発を入れず指したりしない。

・時間をよく使う。

・対局終了後には「感想戦」を行う。周りに気をつかい、小声でする。

・「感想戦」が終わると、対局開始時の駒の配置に戻す。

これらすべてを実行している日本人はどれだけいるだろう。

わが国の街の将棋道場では、

・駒を盤の腹にパチパチと打ち鳴らす。

・相手が考えると「早く指さんかい」という風情を見せる。

・対局終了後に「感想戦」などしない。

・タバコをプカプカ吸う。

などが横行していることはよく知られている。

また、インターネットでの対局では、

・挨拶もしない。

・早指しが主流。

・負けそうになると、切断してしまう。

など、本当に将棋を楽しむ気風はすでに失せているのだ。

「わが国で失われてしまった将棋文化がヨーロッパで甦りつつある」というのが、おおげさではなく、今回のクラクフの大会に参加して得た私の実感だ。 

なお、来年の大会には2つの国が立候補していて、そのうちの1つにいずれ決まるとのこと。

今回参加した日本人は12名。この数が多いのか少ないのか、評価が分かれるかもしれない。以前は、「ヨーロッパ将棋選手権」に日本人が参加して優勝をさらっていくのに違和感を抱くヨーロッパの人がいたそうだが、今は、「ヨーロッパ将棋選手権」と分離した「世界オープン将棋選手権」ができているので、「日本人が出しゃばり過ぎる」という批判はなくなったようだ。むしろ、さらに日本人が参加して、ヨーロッパの将棋指しに「胸を貸してほしい」というのが主催者側の希望のようだ。その際、強豪はもちろんだが、街の将棋道場で初段か1級で指している将棋好きの方々が参加されることを私は推奨したい。おそらく、参加する日本人にとっても「目からウロコ」の体験をすること請け合いだから。 (2012/8)