今夏、ポーランドを旅した。主目的は、クラクフで開催される「世界オープン将棋選手権」に参加することだった。
ポーランドといって思い出すのは、ピアノの詩人・ショパン、映画監督アンジェイ・ワイダ、そのワイダ監督の『灰とダイアモンド』に主演したズビグニエフ・チブルスキーなど。
また、政治の分野では、自主管理労組「連帯」のワレサ氏、遡って、冷戦時代に北大西洋条約機構(NATO)と対抗したワルシャワ条約機構、さらに遡って、1939年のナチスによるポーランド侵攻やアウシュビッツ強制収容所など。
歴史をさらにさらに遡れば、18世紀のロシア・プロシア・オーストリアによる「ポーランド分割」。絶えず周辺の強大国に翻弄されてきた国がポーランドだ。
滅多にない機会なので、わがポーランド像を形成する旅にしたいと思った。まずは、将棋の体験から。
(1) ワルシャワ将棋クラブ
羽田空港0:40発パリ行き。羽田発の深夜便を利用するのは初めての経験だった。パリ着6:15。そこで乗り換えて、ワルシャワに着いたのが11:45。ヨーロッパ(の僻地)に真昼に着くというのは画期的で、便利なフライトが出来たものだ。
ただし、羽田に早く着くと、時間をつぶすのに苦労する。また、深夜便では軽食しか出ない、というのが予想外だった。しっかりと夕食をとってから乗り込むのが深夜便の賢い利用法のようだ。
ポーランドは2006年にEUに加盟したが、通貨はユーロを採用せず、旧来のズウォティ(zt)がそのまま使われている。1zt=22円。空港で両替をして、タクシーでワルシャワ市内に向かった。空港に着陸してから、ターミナル→バッゲージ・クレーム→両替→タクシー乗り場→旧市街のホテルまで、1時間しかかからなかった。
ワルシャワは暑かった。前日から猛暑に襲われているそうで、25℃ある。湿度はあまり高くなく、日差しがきつい。素足をさらした女性がまぶしい。
夕方から、「ワルシャワ将棋クラブ」の例会に顔を出した。KM女流初段に紹介いただいたものだ。
市内のカフェに11人ほど集まった。クラクフの大会の幹事役を引き受けているアドリアン、高群女流三段を破って一躍人気者になったカロリーナ、ワルシャワ将棋クラブの肝煎り役を務める弱冠18歳の学生ピョートルの三人が主役だ。これに、ワルシャワ在住の日本人3名が加わった。それぞれ、四段、二段、二段の実力とお見受けした。それに、KM女史と私が客人として参加した。
「ワルシャワ将棋クラブ」は最近できたものらしく、その名称は私が勝手につけたものだ。
まだ、将棋盤や将棋駒の道具が不十分で、手書きの将棋盤を広げているのには微笑を誘われた。(クラクフの大会後、ビニール将棋盤と木製の将棋駒一式と、プラスティック将棋セット一式を「ワルシャワ将棋クラブ」に寄贈した。)
KM女史は指導将棋をしたり、「どうぶつしょうぎ」の相手をしたり、九路盤で囲碁の相手を務めたりと、サービス精神豊かに振舞っている。
私はカロリーナと一局指した。カロリーナの先手三間飛車の対抗型になり、途中までうまく捌いたつもりだったのだが、肝心な局面で受けすぎて形勢を損じて、以降はなすすべもなく破れた。カロリーナは中盤の読みがしっかりとしているように見受けられた。
続けて、アドリアンと一局指した。中盤まで有利に指し進めたのだが、終盤決めに出た手が「指しすぎ」で、形勢を悪くした。相手の入玉を辛うじて阻止して勝ったが、ほめられた勝利ではなかった。これでは、クラクフの大会が思いやられると思った。
「ワルシャワ将棋クラブ」は恵まれているように思った。なにしろ、三名もの強力な日本人の対戦相手がいるのだから。どうぞ、三名の日本人の方々は、ワルシャワの将棋指しの相手になっていただきたい。なにしろ、カロリーナという伸びしろ豊かな将棋指しが現われたのだから、彼女の棋力を伸ばすのに協力いただきたい。併せて、ワルシャワの将棋人口の拡大を祈念したい。
(2) 「世界オープン将棋選手権」
ワルシャワからクラクフまで、鉄道の「マリア・キュリー・スクウォドフスカ号」で3時間の道程だった。ノン・ストップで、林・畑・牧場の間を駆け抜ける。クラクフはワルシャワの南西にあたる中世以来の古都だ。
クラクフの大会の会場は、旧市街からヴィスワ川を渡った対岸にある「日本美術・技術センター」のホールだ。「ヨーロッパ将棋選手権」「世界オープン将棋選手権」「Blitz(早指し選手権)」「どうぶつしょうぎ選手権」「京都将棋選手権」「チーム選手権」が行われた。大会後の集計では、参加者は87名。40面以上が一堂に並ぶのは壮観だ。
同時進行する「ヨーロッパ将棋選手権」と「世界オープン将棋選手権」との関係が分かりづらいので、少し説明しよう。実は、この2つの選手権、実体は1つで看板が2つの選手権なのだ。ちょうど、国際飛行便の「コード・シェア便」に似ている。
ヨーロッパの国の国籍を持ち、ELOというレーティングの上位32名が「ヨーロッパ将棋選手権」への参加資格を有し、トーナメント戦を戦う。トーナメント戦の敗者は直ちに「世界オープン将棋選手権」へと合流するわけだ。実に考えられた対戦システムだと思う。
「ヨーロッパ将棋選手権」は、昨年と一昨年の3位だったドイツのトマス(ELO2012)が優勝した。準々決勝でカロリーナ(ELO1805)に逆転勝ちして、決勝ではベラルーシのセルゲイ(ELO1964)に終始リードして勝ちきった。昨年まで3年連続優勝のフランスのジャン(ELO2009)は振るわず、ベスト4に入らなかった。
「世界オープン将棋選手権」は、スイス方式で8ラウンド戦う。「ヨーロッパ将棋選手権」の参加者も8戦になるまで戦う。トップはまれに見る混戦となり、日本人3名が7勝1敗で並んだ。3名は3つ巴になったので、「対戦相手に勝った方が上」という決着方式では決着せず、その他の要素を入れた決着になったようだ。そして、優勝は昨年3位だったUYさん(ELO2438)。おそらく大会参加者最年長者の優勝に会場が沸いた。2位は昨年2位・一昨年優勝のTKさん(ELO2120)。3位は昨年優勝のKMさん(ELO2570)。上位3名は昨年の上位3名の順位が入れ替わった結果となった。
(3) 私の戦績と交流
私は「Blitz(早指し選手権)」と「世界オープン将棋選手権」に参加した。
「Blitz(早指し選手権)」はスイス方式で8ラウンド戦う。1局1人8分、切れ負けだ。早指しを否定するつもりはないが、切れ負けルールは邪道だ。ストレスがたまってしまう。少なくとも、10秒の秒読み時間が欲しい。運営上、時間管理が必要なら、開始時間を早めるなり、対局数を6局程度に減らすなりすれば実現可能な案だ。
「Blitz(早指し選手権)」は6勝2敗で4位となり、思いがけぬ成績だった。
「Blitz(早指し選手権)」では、「世界オープン将棋選手権」と異なり、相がかりの将棋が多かった。
早指しに向いた戦法を意識的に採用する将棋指しがヨーロッパには多いのかもしれない。
「世界オープン将棋選手権」はスイス方式で8ラウンド戦う。1局1人45分、切れたら40秒の秒読み。ゆったりとした時間の組み方だ。この時間を生かせるかどうかが試金石だったが、結果は、せいぜい考えて30分。中盤の岐路で腰を落として考える力が決定的に不足していることを思い知らされた。
対戦成績は5勝3敗。
負けた相手は日本のIKさん(ELO2200)、フランスのジャン、ハンガリーのゲルゲリー(ELO1661)。ELOから見てゲルゲリーに負けたのが痛かった。何と、この将棋では、大会中の最短終了時間を記録してしまったのだ。それは、私の「王手」の見落とし。
私が後手で「ゴキゲン中飛車」を採用したのだが、最初から棋譜を並べてみよう。
7六歩、3四歩、2六歩、5四歩、2五歩、5二飛、5八金と進み、先手が超急戦を見せた。ここで、後手は6二玉か3三角と指すのが「定跡」なのだが、何と、私は王を5一に置いたままで、角換わりを強要した。何手か進み、先手から「3三角」と打たれた。これに対して、「4四銀」と応じてしまったのだ。「王手」の放置でゲーム・エンド。隣りの対局者までびっくりしていた。
さて、クラクフの大会で対戦した相手の国籍を記すと以下のようになる;
「Blitz(早指し選手権)」:ロシア、ロシア、ロシア、ノルウェー、ハンガリー、日本、日本、ドイツ
「世界オープン将棋選手権」:ポーランド、スウェーデン、日本、ノルウェー、ウクライナ、フランス、ハンガリー、ロシア
思った以上にヨーロッパの将棋指しと対戦することができた。
棋力通りの対戦結果が多かったが、うち、2人にだけは「取りこぼし」だった。
1人はすでに述べた「王手」を見落としたハンガリーのゲルゲリー、もう一人は「Blitz(早指し選手権)」で負けたロシアのマクシム(ELO1596)。彼には、相がかりからの受け損じで負けてしまった。マクシムとは「世界オープン将棋選手権」でも当たり、彼の三間飛車を受けてじりじりと寄せて勝った。
「世界オープン将棋選手権」で当たったフランスのジャンは、序盤の駒組みがぎこちなく感じたが、中盤からあっという間に寄せられた。理論派というより実戦派という印象を受けた。
ウクライナのボリス(ELO1476)は棋力はまだまだだが、そのマナーの良さが群を抜いていた。日本からの参加者に敬意を表わし、何でも吸収したいという姿勢が見えた。「キエフ将棋クラブ」で例会を持っているらしい。
さて、今回の大会で交流した相手で最も印象に残ったのが、「ヨーロッパ将棋選手権」で優勝したドイツのトマスだ。彼は根っからの理論派だ。他人の将棋にも自分の将棋にも的確な批評を下す。対局ではよく考える。また、対局の棋譜まで取っているのには驚いた。終盤の入口までそれが続くのだ。振り飛車の相穴熊戦が得意らしい。「ヨーロッパ将棋選手権」の決勝でもこの戦法で快勝している。
実は、私は、大会前の練習将棋でトマスと対戦して勝ってしまったのだ。戦型は私が居飛車、トマスが振り飛車の相穴熊だ。中盤の模様の取り合いで押され、猛攻を受けることになった。しかし、彼の寄せにわずかに緩みが生じ、形勢が少し戻った。
下段に飛車を成り込まれたが、私の玉は、飛車か金を渡さなければ「詰めろ」がかからない形。そこで、「4五角」という攻防の一手を放ち、勝負形に持ち込んだと感じた。そして、彼の守りにわずかに乱れが出て、押し切ることができた。
互いに悪手らしい悪手のない、自分でいうのもおかしいが「好局」だったと思う。
そして、このトマスとの対局がクラクフの大会での最大の収穫となった。
詳しくは聞きそびれたが、トマスはドイツ中部を拠点に活動しているようだ。また、対局ができるといいと思う。
(4) 甦る将棋文化
クラクフの大会には、MN七段、TS六段、KM女流初段が派遣されて、指導に当たっておられた。大会中の4日間で、MN七段とTS六段は二人合わせて計200局以上の指導対局をこなしておられた。まったく頭の下がる思いだ。
指導を受ける側も、本で読んだ定跡からの変化を持参して教えを請うなど、その熱心さも相当なものだ。
「日本語の定跡書を読んで、理解できるのか」と問うと、「指し手(move)を追っている」とのこと。なるほど。すると、定跡書に次のような工夫をこらすと、外国人にも近づきやすくなるのではないか。すなわち、指し手に、◎(良い手)、×(悪い手)、!(勝負手)、?(疑問手)を付けるのだ。これだけで、誰でも、棋譜の読み込みが深くなるというものだ。実は、この方法は、毎日新聞の将棋欄の棋譜解説ですでに採用している。その例に倣うといい。
ヨーロッパの将棋指しは一様にマナーが良い。
例を挙げれば;
・対局開始時に挨拶する。負ければ「負けました。」という。
・瞬発を入れず指したりしない。
・時間をよく使う。
・対局終了後には「感想戦」を行う。周りに気をつかい、小声でする。
・「感想戦」が終わると、対局開始時の駒の配置に戻す。
これらすべてを実行している日本人はどれだけいるだろう。
わが国の街の将棋道場では、
・駒を盤の腹にパチパチと打ち鳴らす。
・相手が考えると「早く指さんかい」という風情を見せる。
・対局終了後に「感想戦」などしない。
・タバコをプカプカ吸う。
などが横行していることはよく知られている。
また、インターネットでの対局では、
・挨拶もしない。
・早指しが主流。
・負けそうになると、切断してしまう。
など、本当に将棋を楽しむ気風はすでに失せているのだ。
「わが国で失われてしまった将棋文化がヨーロッパで甦りつつある」というのが、おおげさではなく、今回のクラクフの大会に参加して得た私の実感だ。
なお、来年の大会には2つの国が立候補していて、そのうちの1つにいずれ決まるとのこと。
今回参加した日本人は12名。この数が多いのか少ないのか、評価が分かれるかもしれない。以前は、「ヨーロッパ将棋選手権」に日本人が参加して優勝をさらっていくのに違和感を抱くヨーロッパの人がいたそうだが、今は、「ヨーロッパ将棋選手権」と分離した「世界オープン将棋選手権」ができているので、「日本人が出しゃばり過ぎる」という批判はなくなったようだ。むしろ、さらに日本人が参加して、ヨーロッパの将棋指しに「胸を貸してほしい」というのが主催者側の希望のようだ。その際、強豪はもちろんだが、街の将棋道場で初段か1級で指している将棋好きの方々が参加されることを私は推奨したい。おそらく、参加する日本人にとっても「目からウロコ」の体験をすること請け合いだから。 (2012/8)