静聴雨読

歴史文化を読み解く

「251番地」と「243番地」

2013-03-30 07:38:02 | 音楽の慰め

 

先日、白金台5丁目を歩いてきた。

外苑西通りから松岡美術館の前の通りに入り、右に入る小路を2本見送って、3本目の小路を右に入り、右側のブロックが小路で分断されるところの左にある、3階建ての空色の軍艦調のマンションあたりがKさんとSさんのいう渡辺養父子の旧居だったのだろうか?

Sさんは「その通り」という。これで、場所は確認できた。

 

さて、この渡辺養父子の旧居が旧芝白金三光町の何番地だったかという疑問に移る。

 

今、参照できる昭和の地図が2つある。

一つは、「全住宅地図案内帳 昭和32年度版 港区(南部)」(家主名まで入っている、今でいえば、「ゼンリン住宅地図」のようなもの。)

もう一つは、「昭和の地図(昭和31年)」(毎日jpのweb版)

 

「全住宅地図案内帳」には、渡辺養父子の旧居のところに、「不明」・「原 渡辺」・「渡辺」の3つの区画が見える。やっと、「渡辺」の文字にたどりついた。「原 渡辺」・「渡辺」の2つの区画に「渡辺」の文字があるので、このどちらかが渡辺養父子の旧居だったのだろう。

 

ところが、「原 渡辺」の区画の上に、「243」の文字が表示されているではないか!

渡辺茂夫から両親あてのハガキに「251」とあったのと明らかに違う情報だ。

私は」ここで途方に暮れた。

なお、「全住宅地図案内帳」には、「251」と表示された区画はなく、この案内帳から「251」の区画を特定することができない。

 

「昭和の地図」では、渡辺養父子の旧居と目される区画には番地表示がなく、「253」か「245」の近傍としかわからない。

また、「昭和の地図」では、「251」は、渡辺養父子の旧居と目される区画の2ブロック先に記されている。

 

というわけで、渡辺養父子の旧居と目される区画が旧芝白金三光町「251番地」か「243番地」か確定できずにいる。

それで、この未確定の状態に困惑しているかといえばそうではなく、「困惑を楽しんでいる」のが実際だ。  (2013/1)


渡辺バヨリンさん

2013-03-28 07:30:29 | 音楽の慰め

 

このブログに掲載したコラム「渡辺茂夫と渡辺季彦」には大きな反響があった。このコラムを読んで横浜の放送ライブラリーを訪問した方、渡辺茂夫のヴァイオリンの音色にいまだに魅了されている方、渡辺季彦にヴァイオリンを習っていた方、やはりこのコラムを読んで渡辺季彦の死を知った方、などなど、実に様々な方が渡辺茂夫と渡辺季彦の生涯と事績に関心を持っておられるようなのだ。

最近、KさんとSさんから新たな情報がもたらされた。それを中心に述べてみたい。

茂夫が失意の帰国をしたのが、昭和33年(1958年)。落ち着いたのは、養父宅だ。この養父宅が西鎌倉だと当初思っていたのだが、白金の旧宅が正しいらしい。

Kさんは「5歳(昭和27年=1952年)から10歳(昭和32年=1957年)ころまで、渡辺邸に通って渡辺季彦にヴァイオリンを習っていた」とのこと。これは貴重な直接証言だ。

Kさん「帰国されてパジャマ姿でキッチンのテーブルに座っている姿を拝見しましたが、すっかり面影は消えていました。」

Kさん「私が社会人になって間もないころ(昭和47年=1972年ごろ)、バスで先生ご夫妻と一緒になり、家を売りたいというようなことを言っていました。」

そして、昭和50年(1975年)ごろ、西鎌倉に移住したらしい。

 

さて、白金の旧宅の位置だが、コラム「渡辺茂夫と渡辺季彦」では、テレビ・ドキュメンタリーに「三光町25」とある、と述べた。これに基づいて、旧芝白金三光町の東端、すなわち、現在の白金3丁目あたりだと推定していたのだが、これには、Kさんから異論が出た。Kさんによれば、現在の白金台5丁目だという。

旧芝白金三光町は非常に大きな町で、住居表示の変更(昭和43年)により、現在の白金3丁目・白金4丁目・白金5丁目・白金6丁目に分割されたと認識していたのだが、現在の白金台5丁目の大部分も旧芝白金三光町だったらしい。

 

現在の白金台5丁目に住んでいた知人のSさんにこの辺の事情を聞いてみた。

Sさんは渡辺邸について承知していて、詳しい位置まで教えてくれた。

Sさん「そういえば親から『渡辺バヨリンさん』と聞かされていたのを思い出します。」

ヴァイオリン教師の渡辺季彦と天才ヴァイオリニストの渡辺茂夫、だから「渡辺バヨリンさん」。

昭和の時代を想起させるエピソードではないか。これも、当事者だからこそ覚えている決定的証言だ。

 

以上から、渡辺邸が現白金台5丁目のどこかにあったことが明らかになった。

Kさん説「現白金台5-9」

Sさん説「現白金台5-9-5、旧芝白金三光町253」

 

すると、テレビ・ドキュメンタリーに「三光町25」(現在の白金3丁目あたり)とあったと述べたことと矛盾する。

私は、ふたたび、横浜の放送ライブラリーを訪れ、テレビ・ドキュメンタリーを観てみた。

渡辺茂夫がニューヨークから両親にあてたハガキが映し出されて、その宛書きに「251」「二五一」とあるではないか。私の記憶していた「25」とは明らかに違う。人間の記憶とはいかにあやふやなことか。私は自分の記憶力にあきれた。

 

以上から、渡辺茂夫と渡辺季彦の白金の旧宅は、現白金台5丁目内であることは確かだが、旧芝白金三光町251番地か253番地かは確定できずにいる。 (2013/1)

 


渡辺季彦

2013-03-26 07:50:04 | 音楽の慰め

 

渡辺季彦氏が亡くなった。享年103。先月亡くなった吉田秀和氏に続いて、音楽界の百歳越え超人がまたいなくなった。

渡辺季彦氏はヴァイオリン奏者でオーケストラのコンサート・マスターを務めた後、ヴァイオリン教師として後進の指導に注力した。私たちには、天才ヴァイオリニスト・渡辺茂夫の養父として、渡辺茂夫を世に送り出したことで有名だ。これについては、「渡辺茂夫と渡辺季彦」と題するコラムで詳述した。

このコラムには多くの反響があった。私の紹介したテレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイリニスト渡辺茂夫」(毎日放送)が視聴できる放送ライブラリー(横浜市)に足を運ばれた読者が何人かいた。

また、渡辺季彦氏からヴァイオリンの指導を受けたという方々から、渡辺氏に対する畏敬と感謝を伝えるコメントも届いた。

私自身もこのコラムをまとめたブックレットを渡辺季彦氏に送ったところ、丁重な礼状をいただいた。

渡辺茂夫の評伝『神童』を著した山本茂氏がコメントを寄せてくださった。その中で、氏は、渡辺茂夫の睡眠薬多量服用事件について、渡辺季彦氏がアメリカ人による「謀殺未遂」説を採っていることを批判して、「あれは自殺未遂にほかならない」と述べておられる。私には、真相は判らない。

私はといえば、渡辺茂夫が「神童」として彗星のごとく戦後の日本社会に登場したことに一種の「郷愁」を感ずる気持が強い。時代が渡辺茂夫を生み・育て、そして、時代が渡辺茂夫を押しつぶしたのだ。

1958年       渡辺茂夫、失意の帰国

1999年       渡辺茂夫死去

2012年       渡辺季彦氏死去

この3つの年の間に横たわるギャップをどう解すればいいのだろう? 新たな課題が見えてきた。 (2012/6)


渡辺茂夫と渡辺季彦(12-16)エピローグ

2013-03-24 07:46:44 | 音楽の慰め

 

(12)西鎌倉の休日

「渡辺茂夫と渡辺季彦」と題するコラムを終わるにあたり、書き漏らしたことのいくつかを補足しておきたい。

その1。茂夫の帰国後、季彦の介護を受けながら過ごしたお宅について。

山本茂の『評伝』には「片瀬山」の文字が見える。一方、多くの方は鎌倉ではないか、という。
片瀬山に住む知人にこの矛盾を問い合わせてみた。
すると、こういうことだという。「湘南モノレールの片瀬山駅の西側は藤沢市片瀬山で、東側は鎌倉市西鎌倉なのですよ。」それで納得した。

2007年7月のある日、湘南モノレールの片瀬山駅に降り立った。休日の午前なので、あたりは静まり返り、住宅地の道では犬の散歩をする人とすれ違うばかりであった。目指すお宅はまもなく見つかった。薔薇の季節は終わり、庭には白いむくげの花が咲いていた。私はストーカーではないので、玄関のアーチを眼に刻み付けて、その場を立ち去った。

渡辺季彦の消息についても何人かの方に問い合わせたところ、ご健在で、相変わらずヴァイオリンの弟子を取っておられるとのことであった。

(13)エピローグ2・晩秋の横浜

その2。テレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」

2007年の晩秋、このコラムの締めくくりの意味で、横浜の放送ライブラリーを再度訪れて、テレビ・ドキュメンタリー『よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫』を三度鑑賞した。

茂夫と季彦の「共生ぶり」が描写されるのは、残り12分のところからだと確認した。ほんのわずかな時間の映像であるが、それが1996年以来私の脳裏に刻まれて離れなかったのである。

なぜだろう? 改めて考えると、季彦の茂夫への介護ぶりが強烈に印象に残ったためだと、今になっては推測できる。ちょうど、「放送ライブラリー」を最初に訪れた頃は、私も母の世話に忙しくしていた。

「老・老介護」ということばがある。60歳代や70歳代のものが80歳代や90歳代のものを介護することを指すのが一般的だが、季彦・茂夫の場合は、80歳代が50歳代を介護している。その姿が異様に思えたのである。「介護施設に入所させてもらったら」という周囲の勧めを季彦は頑なに拒否したという。確かに、映像に映し出される季彦は、見るからに頑固親父そのものだ。

(14)エピローグ3・白金のまぼろし

その3。茂夫の渡米前の自宅について。

テレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を見て、東京・白金であったことがわかった。さらに、「三光町25」という番地が、テレビ・ドキュメンタリーに写っていた。

東京都港区は、戦前の麻布区・赤坂区・芝区を統合してできた区で、町の名に、麻布箪笥町、赤坂青山南町、芝白金三光町など、統合前の区名を残している特徴があった。茂夫の自宅は、その芝白金三光町25であった。その後の住居表示変更で、芝白金三光町は白金6丁目などに変わって、現在に至っている。

これを知って、茂夫の自宅を求めて、白金6丁目界隈をさすらってみたが、当然、見つけられなかった。今の茂夫宅(季彦宅)は西鎌倉なのだから。

茂夫の通った小学校は「白金小学校」。
実は、私も、この小学校の同窓で、4年生の途中で転入した時に、茂夫が6年生で在籍していたようなのだ。すでに、茂夫は、「蒼穹」を想起させる「星空」を作曲して、永遠の宇宙に遊んでいたころであった。

不思議なめぐりあわせであった。 

西鎌倉、横浜、白金と、私は、あたかも失われた時を求めるように、歩き回った。やがて、世の中の歩調に合わせるようにして、渡辺茂夫と渡辺季彦の生きてきた時代が私のなかに見えるようになった。 

(15)エピローグ4・「イナバウアー」効果

その4。「イナバウアー」効果

渡辺茂夫の作曲した「星空」を説明するにあたって、それが「蒼穹」に例えられる、と書いたのだが、その「蒼穹」とは何だ、という説明に行き詰まった。

そこで、画家フェルディナント・ホードラーの山岳絵を持ち出して説明を試みた。我ながら、良い例えだと思ったが、如何せん、ホードラーを知っている人は10万人に一人くらいで、誰でも納得する例えとは言いがたかった。

幸い、フィギュア・スケートの荒川静香選手の演じた「イナバウアー」が、「蒼穹」のもう一つの例えとしてピッタリしていることに気付いて、これを使わせてもらった。「イナバウアー」なら5人に1人はなじみだろう。

そこで、これから、夢想の領域に入るのだが、荒川静香選手のフリー演技の曲として、渡辺茂夫の作曲した「星空」を使っていただけないか、ということを考えている。フリー演技は5分ある。「星空」は4分弱なので、少し時間が足りない。しかし、アレンジ次第で、5分に引き延ばすことは可能だろう。

渡辺茂夫と荒川静香選手のコラボレーションが実現すれば、というのは、今でも夢を見ているのだろうか?

(16)エピローグ5・コラムを中断した理由

その5。コラムを中断した理由について。

「渡辺茂夫と渡辺季彦」のコラムは、当初「薔薇の記憶と見出された時」というタイトルで、2006年3月から掲載を始め、2006年8月に第7回を掲載したところで中断に入った。

当時、ブログに書きたいテーマが多くあって、ほかのテーマに浮気をしたことが一つの理由であったが、もう一つの理由は、CD『神童』を聴き始めたことにあった。

茂夫がグラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」を東京フィルハーモニー交響楽団と協演しているのを聴いて、両者の落差に呆然としてしまって、それから先聴き続けることができなくなった。現在の東京フィルハーモニーではそんなことはないが、失礼ながら、当時の東京フィルハーモニーでは茂夫に太刀打ちすることなど到底不可能なことだった、ということを理解した。それで、CDを聴き続けるのを中断することにした。現在ではどうにかその障害を克服して、CDを聴き、茂夫の演奏と作曲について書き続けることができる。

今は、(当時の)渡辺茂夫と(現在の)東京フィルハーモニーが協演したら、どのようなパフォーマンスになるのだろうか、ということを夢想している。
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このコラムにコメントを寄せてくださったり、質問に答えてくださったりした、sugiee さん、フィールドさん、ウッドストックさん、みっちっちさん、俵田武彦氏のご家族、そして、放送ライブラリーの学芸員の方にお礼を申しあげます。  (2008/5-6)


渡辺茂夫と渡辺季彦(10-11)見出された時

2013-03-22 07:12:50 | 音楽の慰め

 

(10)渡辺季彦の事績 

渡辺茂夫と渡辺季彦は二人三脚で「ヴァイオリン道」を歩んできた。
渡辺茂夫が大成(といっていいかどうかためらわれるが)するに当たって、渡辺季彦の果たした役割はとてつもなく大きい。

季彦自身、「ヴァイオリンの音色についてお誉めいただいておりますが、これは・・・レオポルド・アウアー、カール・フレッシュ、そして私の奏法によるものと考えます。」と言い切っている。(『神童』のライナー・ノーツより、1996年)

季彦が茂夫の英才教育を始めた時(1946年ころか)から50年間、季彦のヴァイオリン教授法の信念に揺るぎはない。

それならば、なぜ、季彦は茂夫を手離してアメリカに留学させたのか? これが、1996年にテレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を見た時以来、私の抱いてきた疑問であった。

その疑問は、『神童』『続・神童』に収録されているオーケストラとの協演を聴いて氷解した。茂夫とオーケストラとでは、レベルが違いすぎるのだ。茂夫が自由奔放に弾いているのに対して、オーケストラはつぶやくように、単調な節をつけているだけで、協奏にならない。

日本の中では茂夫の才能をこれ以上伸ばす環境がない。これが、季彦の下した判断だったのだ。

茂夫の教育を誰の手に委ねるか、については、様々な動きがあったようである。
江藤俊哉は、カーティス音楽院でジンバリスト氏に教えてもらうのがいいと進言したらしい(1954年)。
同じく1954年にヤッシャ・ハイフェッツはジュリアード音楽院に入学することを勧める。
1955年には、ダヴィッド・オイストラッフの前で茂夫は演奏を披露している。

結局、茂夫はジュリアード音楽院でイヴァン・ガラミアン教授に師事することになるのだが、奏法を巡り師弟の対立が生じたことはすでに述べた通りだ。

ここで、仮定の話だが、季彦が茂夫に同道してアメリカに行けばよかったのではないか、という荒唐無稽な考えが浮かぶ。「ステージ・ママ」ならぬ「ステージ・パパ」であるが、奏法について季彦がガラミアン教授と徹底的に討論する機会があれば、結果はともあれ、茂夫が一人追い込まれることは避けられたのではないか、と思うのだ。

季彦に後悔があったとすれば、この一点に尽きるように思われる。 (つづく。2008/5)

(11)見出された時

茂夫帰国の1958年から、茂夫の亡くなる1999年まで41年間。この間、茂夫は季彦の介護を受けて余生を送った。あたかも、この間、時が止まったように見える。しかし、時は止まっていなかった。

1988年に「渡辺茂夫ヴァイオリン演奏の記録」というCD(3枚組。非売品)がまとめられた。それに尽力した俵田武彦氏も鬼籍に入られたという。

そして、1996年の「渡辺茂夫現象」とでもいうべき、茂夫の奇跡的復活。
2006年の渡辺茂夫作曲の「ヴァイオリン・ソナタ」2曲のCD発売。

埋もれかけた一人の天才ヴァイオリニストは、48年かけて、確実に見出された。

時はしばしば忘却の味方をするものだが、茂夫の場合は、時の経過が醸成する何かが働いているように思える。それは、戦後の混乱期への郷愁かもしれないし、「蒼穹」を想起させる茂夫の磁力かもしれないし、また、今は忘れられかけているアウアー奏法のもたらす「深くたゆたう」音色のせいかもしれない。

2006年3月にこのコラムを書き始めてから、読者からコメントを寄せていただいた。中には、横浜の放送ライブラリーに足を運んだ方もおられた。茂夫の魅力は今なお失せず、新しいファンを獲得し続けているようだ。現在も、渡辺茂夫は「見出され」続けている、といってよい。
(2008/5)


渡辺茂夫と渡辺季彦(8-9)蒼穹の譜

2013-03-20 07:46:18 | 音楽の慰め

 

(8)渡辺茂夫の演奏

渡辺茂夫の演奏については、「神童(全2枚)」、「続・神童」(以上、東芝EMI)と「グルリット作曲ヴァイオリン協奏曲」(ミッテンヴァルト)の4枚のCDを聴いた。

「神童(全2枚)」のうちの1枚がソロ・アルバムで、14曲の演奏を収録している。

何回か繰り返し聴き、しばらく間をおいて、思い出した曲の順に感想を述べると:

初めに浮かんだのは、意外にも、パガニーニ「魔女たちの踊り」であった。ヴァイオリン演奏の超絶技巧でおなじみのパガニーニにしては、おとなしい練習曲で、それを茂夫は律儀に弾いている。と思ったのだが、藤沼幹雄氏の解説によると、ピチカート、スタッカート、フラジオレット、ダブル・ストッピングなどの難技巧がちりばめられた曲だそうだ。これには驚いた。技巧を感じさせないほどに、技巧を自家薬籠中のものに消化してしまっているのだ。

次に思い出したのは、これも、意外なことだが、タルティーニ「コレルリの主題による変奏曲」であった。クライスラーの編曲になる曲だが、物憂げな春の午後を思わせるような曲を、茂夫は朗々と弾いている。やはり、藤沼氏の解説によると、タルティーニの得意なトリルが至る所に存在しているそうだ。素人にはそれも感じさせない演奏だ。

ほかにも、次から次へと、茂夫の演奏が記憶からよみがえる。サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」やサン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」などの名曲の名演奏も収録されている。

大きく分けて、緩やかなパッセージを朗々と演奏するもの(F・ショパン「ノクターン」がその代表だ)と速いパッセージを疾駆するもの(H・ヴィエニアフスキ「スケルツォ・タランテラ」がその典型だ)とがあり、そのどちらにおいても、いわゆる技巧を感じさせない。すでに、「うまい演奏」の域を超えてしまっている。

これらの演奏が茂夫の13歳と16歳の時のものだと知ると、何という成熟ぶりかと驚嘆させられる。
今でこそ、五嶋龍や庄司紗矢香など、十代前半から才能を開花させたヴァイオリニストは珍しくないが、茂夫の場合、なにしろ、時代が時代だ。1954年(13歳)と1957年(16歳)に時代を変換してみると、茂夫の演奏の先進性や超時代性が判ろうというものだ。

(9)渡辺茂夫の作曲

渡辺茂夫は演奏家として一家を成すとともに、作曲家としても名を馳せていた。
彼の作曲した「ヴァイオリン・ソナタ第1番」と「ヴァイオリン・ソナタ第2番」が、木野雅之(ヴァイオリン)と吉山輝(ピアノ)の演奏で聴くことができるようになった(ミッテンヴァルトの制作)。録音は2005年11月だという。作曲が1953年頃だというから、50年ぶりのCDデビューである。

渡辺季彦によれば、厳しいヴァイオリン演奏の練習の毎日の中で、茂夫がいつ作曲の時間を持っていたか、まったく想像できない、というのだ。厳格な指導者の背後で舌を出している茶目っ気たっぷりの「神童」の姿を髣髴とさせるエピソードだ。

さて、「続・神童」の最後のトラックに、茂夫の作曲した「星空(アンダンテ)~ヴァイオリン協奏曲 作品4 第2楽章」が収録されている。江藤俊哉(ヴァイオリン)とマイケル江藤(ピアノ)が演奏したバージョンだ。茂夫11歳(1952年)の作品だそうだ。わずか4分足らずのこの曲から激しいインスピレーションを受けた体験を述べてみたい。

タイトルは「星空」だ。このことばに導かれるように、私にはある情景が見えるようになった。それは「蒼穹」と称すべきイメージだ。「蒼穹」とは青空の別称で、広辞苑(第4版)でもそれ以上の説明はない。

数年前、吉田秀和に導かれて、フェルディナント・ホードラーの絵を精力的に鑑賞して、次のコラムをまとめた。
スイスの休日  http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20061103

吉田はホードラーの幾何学的パースペクティブの独自性や、具象にもかかわらず、非現実的・非日常的・装飾的高みを獲得している不思議や、類似した形態の反復がもたらすパラレリスム(「平行の原理」)を指摘している。

このようなホードラーの特徴を表わす絵として私の注目したのが、その山岳画であった。幾何学的パースペクティブ、非現実的・非日常的・装飾的高み、パラレリスムのいずれもが彼の山岳画に現われていることは、その後、東京・渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムで開かれた展覧会において確認することができた。

そして、ホードラーの山岳画が喚起するイメージが「蒼穹」であることに思い至った。

山の姿を映す湖(幾何学的パースペクティブ)、山を左右対称に配置する構図(パラレリスム)、天球を想起させる空と雲(非現実的・非日常的・装飾的高み)、そして全体を支配する青色。これらが相俟って、「蒼穹」を作り出しているように思った。

同じころ、フィギュア・スケートの荒川静香選手の演じた「イナバウアー」が話題になっていた。ライト・ブルーのコスチュームをまとった荒川選手が舞う「イナバウアー」にも、同じく「蒼穹」のイメージが現われていたことは記憶に新しい。

江藤俊哉の奏するヴァイオリンの調べは、長く、ゆっくりと音階の上下を繰り返すが、そこに、ホードラーの山岳画や荒川静香選手の「イナバウアー」との類似性を発見して、我ながらびっくりした。

渡辺茂夫が「星空」と名づけているように、彼の中には、夜空が見えていたのかもしれない。
しかし、夜空に限ることはないのではないか。むしろ、私には、「ヴァイオリン協奏曲 作品4 第2楽章」の表象するものは、さらに普遍的な、究極の天球である「蒼穹」であるように思える。そこには、遥かに高い象徴性や無限性が感じられる。

わずか11歳の少年が描いた「永遠」とは、一体何なのだろう? (2008/4-5)


渡辺茂夫と渡辺季彦(6-7)「渡辺茂夫現象」

2013-03-18 07:15:50 | 音楽の慰め

(6)渡辺茂夫に関心を寄せる人々

これまでは、毎日放送が1996年に放映したドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」に則して記述をすすめてきたが、これからの回では、さらにほかからの情報を取り混ぜて、渡辺茂夫・渡辺季彦について述べていきたい。 

放送ライブラリーの学芸員は、私の探索している天才ヴァイオリニストが渡辺茂夫ではないか、と示唆した後、次のようにことばを継いだ。「本も出ているようです。演奏を集めたCDも出ているようです。この毎日放送のドキュメンタリーの他にもテレビの特集があったかも知れません。しかし、このライブラリーで視聴できるのは、毎日放送のものだけです。」

ずいぶん多くの情報を持っておられる。そこで聞いてみた。「ちなみにどのように検索されましたか?」 学芸員の答えは:「お話を伺って、ヴァイオリニスト、留学、自殺、をキーにして検索しました。」 あれれ? 確か私も1年か2年前にインターネットで「ヴァイオリニスト 留学 自殺」をキーにして検索したはずだが、ヒットしなかったではないか。なぞが残った。

帰宅後、インターネットのヤフーのサイトで、再び「ヴァイオリニスト 留学 自殺」で検索をかけたところ、sugieeさんの「BOY‘S VOICE ~永遠の少年たち~」というブログがヒットした。その2005年6月30日の記事は「“神童”と呼ばれた少年ヴァイオリニスト 五嶋龍と渡辺茂夫」と題して二人の少年ヴァイオリニストを紹介している。五嶋龍は現役だから除いて、初めて渡辺茂夫の名が私の前に現れた。記事は悲劇のヴァイオリニストを簡潔に紹介している。
私の検索した2003年か2004年にはヒットしなかった記事である。ここにも、渡辺茂夫に心を寄せる人がいた。

さらに、もう一つ、「音楽の冗談」というホームページもヒットした。その中に、「渡辺茂夫」の項があり、練達の士の手になるとみられる渡辺茂夫の生涯の紹介記事が載っていた。記事の掲載時期は明らかではないが、1999年の渡辺茂夫の訃報(朝日新聞)まで収録している。 

渡辺茂夫に対する関心は伏流のように継続しているようである。 
   
(7)渡辺茂夫の再生

渡辺茂夫という固有名詞を手にしてからは、関連する情報の収集がはかどった。
山本茂「神童」という本(文芸春秋)があると知り、ブックオフを数店まわって入手した。
また、「神童」「続・神童」というCD(東芝EMI)はアマゾンのマーケットプレース(リサイクル市場)で入手することができた。

ここで渡辺茂夫を取り上げた各メディアを時系列に沿って整理すると以下のようになる:

1996年3月  山本茂「神童」、文芸春秋(評伝ドキュメンタリー)[以下、CDと区別するために、「評伝」と呼ぶ]
1996年7月  「神童(全2枚)」、東芝EMI(演奏記録を復刻したCD)
1996年10月 「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」、毎日放送(テレビ・ドキュメンタリー)
1996年11月 「続・神童」、東芝EMI(演奏記録を復刻したCD)

1996年に渡辺茂夫の再生の動きが一挙に噴出したことがわかる。そこに至るまでには、関係者による永年にわたる努力があったようで、その成果が「渡辺茂夫ヴァイオリン演奏の記録」というCD(非売品)にまとめられたという(「評伝」)。 

山本茂の「評伝」は、渡辺茂夫が国内で「神童」の評判をとるまでと、アメリカに留学して失意の帰国をするまでとの二部構成で、この天才ヴァイオリストを詳細に跡付けている。評伝の対象人物がまだ存命で、しかし、本人から事情を聞くことはできないという条件の中で、抑制の利いた筆致で多くの情報を提供している。間違いなく、この「評伝」が渡辺茂夫の再生の導火線になったのである。しかし、私は山本茂の「評伝」の発刊をその当時知らなかった。渡辺茂夫の再生の動きを私がなぜ見落としたか、また、なぜ渡辺茂夫の名前が記憶から消滅したのか、なぞが解けることはない。

以後、渡辺茂夫を取り上げた各メディアは増え続けている。眼にとまったものだけを挙げると:

1998年5月 「驚き桃ノ木20世紀 天才バイオリニスト渡辺茂夫」、テレビ朝日(テレビ・ドキュメンタリー)
2006年6月 「グルリット ヴァイオリン協奏曲」、ミッテンヴァルト(演奏記録を復刻したCD)
2006年7月 「渡辺茂夫 ヴァイオリン・ソナタ」、ミッテンヴァルト(渡辺茂夫の作曲を木野雅之=ヴァイオリン=と吉山輝=ピアノ=が演奏した待望の新譜CD) (2006/7-8)


渡辺茂夫と渡辺季彦(1-5)薔薇の記憶

2013-03-16 07:52:32 | 音楽の慰め


(1) テレビ・ドキュメンタリーを探して

ここ数年、あるテレビ・ドキュメンタリーを探していた。
一人の天才ヴァイオリニストを記録したもので、戦後まもなく国内で「神童」のように活躍し、周りの期待を担ってアメリカに留学し、師匠との軋轢や失恋が原因で自殺を企て、脳に障害を残して失意の帰国をし、以後パトロンの介護を受けながら生活する彼を見つめたドキュメンタリーは、私の琴線を揺さぶるものを持っていた。

彼とは誰か? ところが、彼の名前が私の記憶から欠落してしまっているのだ。
今から10年か15年前、年代でいえば、1990年から95年の間に、確か週末、土曜日か日曜日の午前に、NHKで放映されたはずである。
なんとしても彼の名前を知りたい。できたら、このテレビ・ドキュメンタリーをもう一度見てみたい。こう願っていた。

一通りの探索は試みた。まず、インターネットで、「ヴァイオリニスト 留学 自殺」をキーにして検索したが、ヒットしなかった。
東京・愛宕山にあるNHK放送博物館の図書室で、過去のNHKの番組を調べてみたこともある。少し幅広に、1985年から2000年までチェックしたが、それらしい番組は見当たらなかった。
また、埼玉・川口にあるNHKアーカイブスを訪れて、過去の番組を調べようとしたが、係員のありきたりの応対に、「これはダメだ」とあきらめて早々に退散した。

私の探索は頓挫した。

ところが、2005年秋、偶然にも、私の願いが叶うことになる。 

(2) 放送ライブラリーにて

2005年11月、横浜・中華街から関内・伊勢佐木町に向かう途中で、「放送ライブラリー」という看板のあるビルに出くわした。初めて見る建物だ。「ひょっとしたら」という念が頭をよぎった。一人の天才ヴァイオリニストを記録したテレビ・ドキュメンタリーを探していた私は、ライブラリーの学芸員に私の探し物を伝えて、調査を依頼した。「ダメでもともと」に近い気分だった。15分ほど経った時、学芸員が一枚の紙切れを持って戻って来た。・・・「映像90 よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫 1996.10.13 毎日放送」

学芸員:「お話を伺い、検索してみたところ、候補の一つとして、この番組がヒットしました。こちらで視聴することができます。」
渡辺茂夫という名に心当たりはないものの、この番組が私の探していたものに違いない、と思った。私は学芸員に丁重にお礼を述べ、番組の視聴を申し込んだ。

放送ライブラリーは「財団法人 放送番組センター」が運営する施設で、NHK、民間放送、横浜市が資金を拠出し、加えて宝くじなどからの賛助金により成り立っているらしい。初めて知った施設であるが、ずいぶん有益な事業を営んでいるものだ、と感心した。放送された番組・コマーシャルから収集・保存する価値のあるものを選び出し、編集を施した上で、希望者に公開しているという。パンフレットで場所を確認すると、みなとみらい線の日本大通り駅の前だ。 (2006/4)
 
(3)「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」

毎日放送が1996年に放映した54分のテレビ・ドキュメンタリーを再び見た感動は筆舌に尽くしがたい。その感動はしばらく措いて、まず、以下に、番組から分かった事実を並べてみる:

a.渡辺茂夫は伯父・季彦夫妻の養子である。
b.昭和23年、7歳でリサイタルを開く。
c.ヤッシャ・ハイフェッツに紹介される。
d.ハイフェッツから、ジュリアード音楽院のイヴァン・ガラミアン教授に就いて勉強するように勧められる。
e.自宅は東京・白金。

f.昭和30年(14歳か?)、渡米。初めは、カリフォルニア州サンタ・バーバラにあるミュージック・アカデミー・オブ・ウェストで2ヶ月過ごす。
g.その後、ニューヨークに移り、ジュリアード音楽院に学ぶ。
h.そこで、師事したガラミアン教授と衝突したらしい。
茂夫は、ハイフェッツ流のアウアー奏法(目方のかけ方が「深い」ボウイング法)を信奉しているのに対して、ガラミアン教授は目方のかけ方が「浅い」奏法を強烈に教え込もうとしたようだ。
i.次第に、日本嫌い・孤独が募ってくる。
j.昭和32年、転地療養に向かい、精神科にかかる。カウンセラーの所見は、「権威に対する態度が頑なで、自己制御が効かない」
k.昭和32年9月、ニューヨークに戻る。
l.昭和32年11月、自殺を図るが、未遂に終わる。

m.昭和33年(1958年)、帰国。
n.以後、モノレールの走る郊外の養父宅で、養父の介護を受ける。養父宅には、見事な薔薇が咲き誇っている。現在、養父は80歳代、茂夫55歳。 

(4)天才ヴァイオリニストと養父

毎日放送が1996年に放映した54分のテレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」から受けた感動を分析してみたい。

このドキュメンタリーでは、渡辺茂夫と養父・渡辺季彦との関係が様々に描写されている。
季彦もヴァイオリニストであったが、習い始めたのが遅くて大成しなかった。その経験から、茂夫には幼い時から英才教育を施す。茂夫は期待に応えて「神童」と呼ばれるほどに成長する。まるで、モーツァルト父子の20世紀版である。

アメリカ留学もおそらく季彦のプランを実現させたものだろう。しかし、茂夫の自我は季彦の手の上に収まらないほど大きかった。ヴァイオリン奏法についてはもはや誰の指導も必要と感じていない。音楽以外にもしたいことが多々ある。おっと、これはモーツアルトからの連想だが。季彦の期待との間に徐々にズレが拡がっていった。

自殺を図り未遂に終わるものの、脳に重い障害を残して帰国した茂夫を受け入れた季彦は、それまでの茂夫への過度の期待を悔いつつ、茂夫の介護に自らの余生を捧げる決心をしたのであろう。茂夫17歳、季彦40歳代、新しい二人三脚の始まりだ。

以後、この番組の放映時の1996年(茂夫55歳、季彦80歳代)までの38年は気の遠くなるほどの長い時だ。舞台はモノレールの走る郊外の町の季彦宅だ。
すでに老年の季彦が、老けが目立つもののまだ壮年の茂夫を後ろ抱きにして階段を下りるシーン。茂夫の歯磨きを介助する季彦。奇妙な共生が印象深い。季彦は老人らしい穏やかな表情で、黙々と作業を続ける。一方の茂夫も穏やかな表情で介護を受ける。何年もかかって築いた一種の「調和」なのだろう。

季彦が飾り棚からヴァイオリンを何棹か取り出す。茂夫のヴァイオリンを取り出した時だけ、茂夫がニコニコと笑みを返す。茂夫の数少ない反応だ。
季彦宅に咲く見事な薔薇のアーチが番組を締めくくっている。薔薇は何を意味しているのだろう?

このドキュメンタリーは茂夫だけでなく、茂夫と季彦との関係に照明をあてたために、奥行きのある仕上がりになったといえる。 
   

(5)薔薇の記憶

毎日放送が1996年に放映したドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を2005年に再度視聴したところ、記憶に合致する部分と記憶とは異なる部分があることが分かった。ここで、記憶の確かさと記憶のあいまいさについて検証してみよう。

(a)まず、記憶に完全に合致する部分を記すと、それは渡辺家の表を飾る薔薇のアーチである。
これは、素人のたしなみを超えた立派な造りで、その印象も含めて正確に記憶に残っていた。この薔薇によって、このテレビ・ドキュメンタリーが鮮明に脳裏に残った、といって過言ではない。

(b)次に、このドキュメンタリーはNHKが放映したものだと記憶していたが、実際は毎日放送(首都圏ではTBS)が放映していた。ドキュメンタリーではNHKの実績が抜群なので、ドキュメンタリー=NHKの先入観念が出来上がっていたのかもしれない。この記憶違いは私だけのものではなく、このブログの読者にも同じ取り違えがあることから、よく起こる現象だといえるかもしれない。

(c)次は、茂夫の自宅について。私の記憶では、東京・白金であった。実際は、留学前の自宅は白金だったが、現在(放映時の1996年)はモノレールの走る郊外の街なのだ。ところが、モノレールの映像の記憶が全く欠落して、現在でも自宅が白金だと誤解していた。

(d)次は、養父・渡辺季彦について。私の記憶では、季彦は保護者(パトロン)であって、養父であるとは記憶していなかった。これは記憶違いというよりも記憶の抽象化作用が記憶過程で起こったのだと思う。

(e)次は、茂夫の自殺の原因について。私の記憶では、自殺の原因の一つが彼の失恋にあった、というものだが、実際には、このドキュメンタリーでは彼の失恋については全く触れていないことがわかった。どこでこの失恋話が紛れ込んだのか? おそらく、放映以降に別のソースからの情報を取り込んで記憶したものだろう。そういえば、茂夫のCDが出ていることや、茂夫が亡くなったことも、私の記憶に刷り込まれていた。ドキュメンタリーで得た情報とその後別のソースで得た情報を合成して私の記憶が形成されていったに違いない。

(f)それにしても、これほど関心を抱き続けてきた渡辺茂夫の名を忘れたのはどうしてだろう?
依然として謎のままだ。

薔薇はそれ自体豪華であるが、それを丹精に育てる人をも映す鏡のようである。近くにも、門に薔薇を植えているお宅がある。薄いピンクの花が今6月満開で、道行く人にも優しさを振りまいている。 (2006/3-6)

 


カキと天ぷら

2013-03-11 07:33:17 | 身辺雑録

 

「食に対して貪欲な」父は時々街のレストランに連れていってくれたものだ。東京・有楽町の父の勤務先の近くに「レバンテ」というレストランがあり、父の勤務先がひいきにしていることもあって、時々その門をくぐったことがある。

この店は今でもある。冬には的矢湾産のカキを食べさせることで有名だ。生ガキ・レモン添え、焼きガキ、カキ・フライなど。

ところが、私はカキをあまり食べない。とくに、生ガキはまったくダメだ。そうすると、昔父に連れていかれた時には、何を食べたのだろうか? 今では思い出せない謎になってしまった。

 

父の晩年、入院する半年くらい前に、父が「近くにうまい天ぷら屋があるので、食べに行こう。」と誘ったが、何か理由をつけて誘いに乗らなかった。

父の死後かなり経ってから、その天ぷら屋を初めて訪れて、天ぷらを食した。が、それは、何の変哲もない天ぷらだった。父は、この天ぷら屋の天ぷらのどこに惹かれたのだろう。これも、解くことの叶わぬ謎として残ったままだ。  (2013/3)


食い意地の系譜

2013-03-09 07:29:29 | 身辺雑録

 

フランス語で、gourmet は美食家、gourmand は食いしん坊。似通った言葉だが、その意味するところは大いに違う。

ここでは、卑しい食いしん坊について話をしよう。日本語では、「アイツは食い意地が張っている。」というふうに、食いしん坊は軽蔑されるのが常だ。

私の父は新聞記者だったこともあり、全国各地を回ったので、各地の食については一家言持っていた。とくに魚にはうるさかった。大家族だった家族の夕食は2ラウンドに分けられ、第1ラウンドは子供たちが魚などを食い散らかす。

第2ラウンドに父が登場して、子供たちが食い散らかした魚のアラを集めて、酒をちびちびやりながら、文字通り「骨までしゃぶりつくす」。父のいうには、「魚はアラが一番うまいのだよ。」

確かに、魚の身と皮の間や骨周りの身はうまいに違いない。

そのような父を見て、「何と食い意地が張った男だろう。」と評する人がいてもおかしくない。

だが、私にいわせれば、「食い意地が張る」というフレーズをけなし言葉として使うのがおかしいのだ。「食に対して貪欲だ。」ぐらいに言ってほしいものだ。  (2013/3)