トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』(川村二郎訳)(*)を読み終えた。四六版・8ポイント・二段組みで576ページの大作である。
北ドイツのリューベックに住む商人一家の1835年から1875年までの年代記で、その間の没落の過程をつぶさに見つめたものだ。
土地で信望の篤い古い商家が、時代の流れに乗り切れず、次第に没落の渦に飲み込まれていく、というストーリーは、島崎藤村『夜明け前』や映画『山猫』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)に似ている、と一読して感じた。没落する家族への温かい視線が共通だ。トーマス・マンはブッデンブローク家のモデルに自らのマン家を充てたという。
裕福な商家を見る視点は俯瞰的・客観的であるが、随所に皮肉を利かせてところは何かに似ていると思った。そう、『失われた時を求めて』において、プルーストが貴族階級を描写する際の皮肉にも共通するところがあるのだ。プルーストの場合は、俯瞰的・客観的でなく、内在的・主観的であるのだが。
トーマス・マンは22歳から25歳にかけてこの作品を執筆し、26歳(1901年)の時に出版したという。恐るべき「若書き」である。その俯瞰的・客観的な描写力や人を見る皮肉さは到底20歳代の若者のものとは思えないし、全576ページの小説の構成力も老成した人間の手になるといっても通用するほどだ。
若いころ『魔の山』(1924年)を読んだのが私のトーマス・マン体験のすべてであったが、ほかにも興味を引く小説がありそうである。『ヨゼフとその兄弟』など。いつか、読む機会ができるであろうか? (2006/12)
北ドイツのリューベックに住む商人一家の1835年から1875年までの年代記で、その間の没落の過程をつぶさに見つめたものだ。
土地で信望の篤い古い商家が、時代の流れに乗り切れず、次第に没落の渦に飲み込まれていく、というストーリーは、島崎藤村『夜明け前』や映画『山猫』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)に似ている、と一読して感じた。没落する家族への温かい視線が共通だ。トーマス・マンはブッデンブローク家のモデルに自らのマン家を充てたという。
裕福な商家を見る視点は俯瞰的・客観的であるが、随所に皮肉を利かせてところは何かに似ていると思った。そう、『失われた時を求めて』において、プルーストが貴族階級を描写する際の皮肉にも共通するところがあるのだ。プルーストの場合は、俯瞰的・客観的でなく、内在的・主観的であるのだが。
トーマス・マンは22歳から25歳にかけてこの作品を執筆し、26歳(1901年)の時に出版したという。恐るべき「若書き」である。その俯瞰的・客観的な描写力や人を見る皮肉さは到底20歳代の若者のものとは思えないし、全576ページの小説の構成力も老成した人間の手になるといっても通用するほどだ。
若いころ『魔の山』(1924年)を読んだのが私のトーマス・マン体験のすべてであったが、ほかにも興味を引く小説がありそうである。『ヨゼフとその兄弟』など。いつか、読む機会ができるであろうか? (2006/12)