静聴雨読

歴史文化を読み解く

「公費購入」の改めるべき点

2011-02-27 07:58:58 | 社会斜め読み

1 「公費購入」を適用する際には、一件あたり2000円の手数料を納入業者に支払う。
  こうすれば、少額の取引に「公費購入」を適用しようという馬鹿げた発想はなくなるでしょう。

2 「公費購入」を適用する際には、納入先と請求先がともに公的機関であることを順守する。
  こうすれば、勝手に注文だけして、ツケは公的機関に回すという非常識な振舞いはなくなるでしょう。

3 「公費購入」を適用する取引の決済は納入後10日以内とする。
  現在は、「納入日の翌月25日に支払う」というケースが多い。これは、公的機関の自己都合だけに基づく決まりで、「公費購入」の本質(「透明性の確保」)からの要請ではありません。納入業者のことを考えれば、公的機関が決済を速やかに行うのは当然の義務です。

少なくとも、以上の点は早急に改善すべきです。 (2011/2)

「公費購入」の悪用

2011-02-25 07:16:53 | 社会斜め読み

公的機関が物品の購入にあたって、透明性を確保する(つまり、不正をなくす)ために、「公費購入」の制度を作って運用していることを以前紹介しました。「透明性を確保する」一点では立派な制度ですが、この制度を運用する上で必要な手間をすべて納入業者側に押し付けている点では天下の悪法、いや、悪制度といえるとも述べました。

さて、最近、ある東京の大学の研究所の先生から、書籍の注文を受けました。注文には、見積書・納品書・請求書が必要、と書いてありました。いわゆる「公費購入」のもくろみなのでしょう。そして、書籍の納品先には、先生の個人宅らしき住所が指定されていました。ここで、不審に思いました。「公費購入」でものを購入するのであれば、ものは公的機関にまず納入させるのが筋でしょう。

上のケースから、以下のような推測をたくましくしました。

この先生は、まず、希望する書籍を早く入手したいのでしょう。しかし、自分では支払いたくない。ここは、自分の「顔」で公的機関にツケを回そう。そう考えたのでしょう。先生と公的機関との間で事前にこの購入について合意があったか、まだ、協議していないか、はわかりません。先生の先走りであれば、公的機関が実際に支払いを実施するまでに時間がかかるかもしれません。そして、支払いの完了するまで、業者は心配とストレスをかかえることになります。

先生はこのような事情を承知の上で、「公費購入」を悪用してまで、求める書籍を早く入手しようと考えたわけです。それほど急いで入手したい書籍ならば、なぜ自費で購入しないのでしょう。

ものを先に入手して、支払いは後回し、という「公費購入」制度を改めない限り、この制度を悪用する人の出現も防げません。 (2011/2)

「公費購入」とは何だろう?

2011-02-23 07:11:06 | 社会斜め読み

第一のケース。

三重県の短期大学の人から「BIBLOSの本棚」に3万円ほどの書籍の注文が入りました(6月23日)。注文確認メールを差し上げると、「公費で購入したい」と返ってきました。「公費購入」とは何だろう? 薄々承知していましたが、聞いてみました。

・まず、書籍を送りなさい。
・納品書と請求書を同封しなさい。
・納品書と請求書には日付を入れないように。
・納品書と請求書には、書店の公印と代表者の印が必要。
・別に、代金振込方法を指示しなさい。

確か、これだけの指示がありました。納得のいかない事項もありましたが、ともかく書籍を送付しました(6月25日)。納品書と請求書は6月27日に送付しました。

その後、書籍到着のメールは入ったものの、ほかは沈黙が続きました。
一瞬、インターネット取引詐欺に引っかかったか、と疑心がよぎりました。

経過の問い合わせをすると(7月10日)、どうやら、内部の決裁でつまずいているようです。納品書と請求書に、代表者の印はあるが、書店の公印がないのがその原因のようです。
ようやく、代金が振り込まれたのは、7月17日でした。

第二のケース。

三重県の短期大学との取引の継続中に、兵庫県の大学の人から問い合わせが入りました。
・支払いが納品の翌月25日になるが、それでいいか?

翌日のメールでは、
・「公費購入」の対象が、600円の書籍であることが判明。

さらに、次の日のメールで「公費購入」の詳細な「条件」が書かれていました。
・見積書・納品書・請求書を同封せよ。
・日付は入れるな。
・社印と代表者印が必要。
・「古書価格認定書」を寄こせ。
・大学の指定する「振込依頼書」に必要事項を書き込んで、送れ。
・振込手数料は業者が負担せよ。

もちろん、この大学との取引はお断りしました。

2つのケースを合わせると、「公費購入」がどんなものか、理解できました。

さて、「公費購入」の「条件」は理解しましたが、納得のいかない点がいくつかあります。

1.もともと「公費購入」とは、例えば、30台のパソコン設備を購入するのを想定した手続きなのではないか? それを、「600円の書籍」に適用するとは!

2.「日付は入れるな」という指示が理解できません。書籍を送付した日には、書店から見れば債権が、大学から見れば債務が発生するはずで、それを明らかにしない意図が分かりません。

3.納品に伴う書類には公印と代表者印が必要とありますが、一方、大学の注文書はメールだけです。

4.「古書価格認定書」を納品業者に作らせるとは! 第三者に作らせなければ、「認定」の客観的効力がないでしょう。

5.振込手数料を購入相手に負担させるというのは、民間の商慣行にはありません。

以上、書籍の「公費購入」には様々な矛盾が見られます。

ここで、役所風のことばで「公費購入」を定義すると、次のようになるのではないでしょうか?
「公費購入」とは:「公費の適正な支出を確保するため、購入に要する手続きを明確にし、購入に伴う不透明さをなくすようにすること。その際、購入先の業者がたとえ零細業者であっても、厳格な手続きを求め、それにより生ずる、業者側の手間の増大・コストの増大・入金の遅延・ストレスの蓄積には、眼をつぶること。」 

2つのケースとも、窓口となった担当者はごく普通の人で、問題が「公費購入」という制度にあることは明らかです。

例えば、図書館開設にあたり、大量の図書を購入する場合に、「公費購入」を適用するのは妥当でしょう。しかし、これは稀なケースです。

一方、例えば、10万円以下の書籍購入の場合のような日常的なケースでは、簡易購入制度を適用するなどの改善を施さない限り、古書店は大学を相手にしなくなりかねません。 (2007/7)

この経験を踏まえ、その後は、「10万円以下の取引では、『公費購入』のお取り扱いをしておりません。」と答えるようにしました。
それに対して、あきらめるのが半数、残りの半数は「では、私費で購入します。」と方針を切り替えていただいています。 (2008/7)

リアル古書店のご案内(告知)

2011-02-15 07:13:40 | BIBLOSの本棚

このたび、「スーパー源氏」ならびに三省堂書店のご好意により、「BIBLOSの本棚」はリアル古書店を期間限定で開設いたします。

 期 間:2011年2月15日(火)-3月31日(木)
 場 所:三省堂書店神保町本店1階
 時 間:10時-20時

出品する古書は、セット物の文庫です。

東京にお越しの節は、よろしかったら、神保町まで足をお運びください。

2月いっぱいは、開催中の三省堂書店下北沢店との並行開催となります。
(2011/2)

国技かスポーツか、はたまた見世物か?

2011-02-13 07:04:29 | スポーツあれこれ

相撲を「国技」としてとらえるか、「スポーツ」と見做すか、二通りの考え方が国民にあることを紹介したのは、2007年のことでした。相撲がわが国の古来の「神事」であることを主張するのであれば、外国人力士を制限する「鎖国化」もやむをえません。一方、相撲は、アスリートの極限の身体能力を楽しむものだと主張するのであれば、外国人力士を制限するのはナンセンスで、「国際化」を推進せざるをえません。日本相撲協会はどちらの道を進むのか、というのが当時の関心事でした。

ところが、その後、日本相撲協会は、報道されたように、数々の不祥事を引き起こし、「鎖国化」か「国際化」か、という論を立てることさえ、無意味になりました。そこに来て、今回の「八百長相撲」のスキャンダルです。

「八百長相撲」に関与したとされる一人が、ほかにも大勢「八百長相撲」に関与しているといっていると報ぜられ、さらに、「八百長相撲」に関与した力士を糾合して「相撲レスラー協会」を設立する動きがあると、まことしやかに報ぜられてもいます。ここで、はたと膝をたたきました。そうか、その道があったか?

相撲の力士が日本相撲協会から離れて、プロレスに身を転じた例は過去にもあります。力道山、北尾、曙(現、ボノ)など。何十人ともいわれる「八百長相撲」に関与した力士が集まれば、一大プロレス勢力を形成できます。そして、そこでは、もう「八百長」をする必要もありません。プロレスとは「見世物」だからです。「見世物」が悪いイメージを引きずっているならば、「エンタテインメント」と言い換えても構いません。

ケーブル・テレビでアメリカのプロレス興行を見ることがあります。そこには、筋骨隆々たるレスラーがいて、華麗なプロレス技を繰り広げ、「ヒール」役のレスラーもいて、ヒーロー役のレスラーとの対決を演出し、悪徳マネージャーが観客の反発を煽り立て、色気たっぷりの女子レスラーや女子マネージャーが花を添える、という具合に完璧な「エンタテインメント」に仕上がっています。そこでは、観客の誰も、真剣勝負を求めたり、「八百長」を疑ったりしません。

「相撲レスラー協会」はこのアメリカのプロレス興行に範を求めればいいのではないか? 日本のプロレス興行がいま一つ面白みに欠けるのは、登場人物が完全な「エンタテイナー」に成りきれていないからだと思います。ここは、アメリカのプロレス興行のいいところを吸収すべきです。

相撲は、古来の「神事」を伝承する「国技」であり、身体能力を見せ付ける「スポーツ」でもありますが、そのほかに、相撲をベースにした「エンタテインメント」でもありうる、ということが、図らずも今回の「八百長相撲」がもたらした醒めた相撲観です。 (2011/2)

モンゴル力士の教え=相撲の話=

2011-02-11 07:37:13 | スポーツあれこれ
(1)奥が深い話

大相撲夏場所は、いよいよ白鵬が単独トップに立ち、横綱が視野に入ってきました。

白鵬の強さは独特で、朝青龍の強さとは別のものです。

朝青龍の相撲は速く・鋭くというものですが、白鵬の相撲は、相手の攻勢を受け止め、相手の力を吸収してしまうものです。相撲用語では「懐が深い」と称するものです。背が高く、腕が長い力士は「懐が深い」力士になる「素質」がありますが、背が高く、腕が長い力士すべてが「懐が深い」力士となれるわけではありません。それが不思議なところです。

おそらく、相手との間合いを計るタイミングとか感覚とかに特別の才能を必要とするのでしょう。白鵬はものすごく背が高いわけでもなく、ものすごく腕が長いわけでもないのに、「懐の深さ」が余計目立ちます。

白鵬の直接の先輩を探せば、昭和の大横綱・大鵬に行き着きます。相手の突進の勢いを吸収して何もさせない、という「懐の深さ」の点で、白鵬は大鵬と瓜二つです。

さて、これからは世間どこでも使われることばを紹介します。「奥が深い」ということばを耳にしたことがあると思います。例えば、「テニスはずいぶん長く続けているけれど、続ければ続けるほど、奥が深いことがわかってきました。」というように。こういうセリフをよどみなくいえるようになれば、その人はその道(この場合は、テニス)の達人だといえます。

よく見ると、この人は「奥が深い」ということばを使って自分の技量を自慢しているのですが、そのいやみが表に出ません。「奥が深い」ということばには「いやみ消し」の効用があります。

一度このことばを使ってみることをお勧めします。
「料理は毎日の日課だけれど、なかなか奥が深いのよ。」
「マージャンに運がつきものといいますが、実際は奥の深いゲームだと思います。」
「ブログはただ書き散らすものだと思われがちですが、実は奥の深いコミュニケーション手段だとわかってきました。」、などなど。

私は料理の達人です、私はマージャンのプロです、私は一端(いっぱし)のブロガーです、ということをいやみなく婉曲に表現することばが「奥が深い」ということばです。

横綱昇進が決まったときに、白鵬がインタビューに答えることばに注目しています。「日々稽古していますが、ますます相撲の『奥の深さ』に驚かされています。ますます精進してまいります。」
このようなセリフが出てくれば、この力士は横綱の自覚が備わっていると判断して間違いないでしょう。 

本当に日本語は奥が深いですね。エヘン。  (2007/5)

(2)スピードと「キレ」

朝青龍がついに休場しました。近いうちに引退に追い込まれそうです。残念なことです。

朝青龍の相撲は速く・鋭くという特徴がありましたが、別のことばでいえば、スピードと「キレ」が朝青龍の相撲の最大の特徴です。

立ち合いの速さ、相手をいなす技がスピードと「キレ」の本性ですが、朝青龍ほどのスピードと「キレ」を兼ね備えた力士を探せば、直近では、千代の富士でしょうか。朝青龍と千代の富士、どちらが偉大な力士であったか、という疑問には、どちらともいえないと答えるよりほかありません。

さらにルーツをたどれば、「栃若時代」の栃錦と若乃花の二人に行き着きますが、朝青龍と千代の富士の2力士は、スピードと「キレ」の面では、栃錦と若乃花を凌駕しています。

さて、話変わって、ボストン・レッドソックスの松坂大輔投手が18勝目を賭けた試合での投球には目を見張りました。ストレートのスピードが素晴らしいのみならず、球が打者の前でホップするように見えたのです。ソフトボールにおける「ライズボール」のように、打者の前で「浮き上がって」いました。これが球の「キレ」なのかと分かりました。

相撲においても野球においても、スピードだけでなく、「キレ」がいかに重要かということを知らされました。 (2008/9)

(3)国際化と鎖国化

大相撲秋場所は白鵬の優勝で幕を閉じました。朝青龍の休場後、孤軍奮闘して土俵を盛り上げていた、その姿に頭が下がります。白鵬も朝青龍もモンゴル出身の力士です。

大相撲に外国人力士が増えてきました。増えすぎると困るというので、日本相撲協会は外国人力士をすでに制限していると聞きます。何とおかしな規制でしょう。

外国人力士が増えてきた背景には、優れた身体能力を持つ外国のアスリートを手っ取り早く相撲に導入したいという相撲界の考えがあります。それが成功すると、今度は、外国人力士の数を抑制する。まるで、日本相撲協会は外国人力士を「琵琶湖のブラック・バス」のように扱い始めました。

日本相撲協会のもう一つの「錦の御旗」は、「相撲は日本の神事」だというわが国古来の考えです。それはその通りかもしれませんが、外国人力士に「日本の神事」を押し付けようとしても無理があります。外国人力士から見れば、相撲はスポーツの一競技であって、そこで自らの身体能力を発揮することで、ファンを引き付けているわけです。

「スポーツ」か「神事」か。どちらを取るか、日本相撲協会は迫られています。別のことばで表わすと、「国際化」か「鎖国化」か、となりましょうか。「国際化」を推進するのであれば、外国人力士の制限は撤廃しなければなりません。一方、「日本の神事」を尊重するのであれば、「鎖国化」する方が良いでしょう。

相撲界はそのどちらかを選ばなくてはなりません。私の考えは、どちらでもいい、ただし、どちらかに徹底してもらいたい、というものです。

柔道の例があります。
国際化を進めた結果、柔道は完全に国際スポーツとして認知されるに至りました。フランスの柔道人口はわが国のそれを凌ぐほどだといいます。
しかし、「国際化」とは、日本の言い分がそのままでは通りにくくなることでもあります。青色の柔道着などは、日本が反対しても、採用されました。

「スポーツ」と「神事」は互いに矛盾することを肝に銘ずるべきでしょう。 (2007/9)

二度目のリアル古書店・1

2011-02-09 07:29:48 | BIBLOSの本棚

(1)悩んだ末

私の加盟している「スーパー源氏」から再びリアル古書店への出品のお誘いをいただきました。東京・下北沢の三省堂書店下北沢店で2011年1月5日(水)-2月28日(月)の2ヶ月間開催される「古書フェア」です。

昨年夏に同様のフェアに参加させていただいた時に、在庫圧縮の効果の大きいこと(つまり、よく売れること)に満足を覚える一方、お客様との触れ合いのないことにフラストレーションを覚えたことがありましたので、再び参加するかどうか、悩みました。結局、参加することにしました。

参加するにあたり、昨年夏に物足りなく感じた部分を解消するよう努めることにしました。それは、「会場に頻繁に足を運ぶ」ことです。

三省堂は新刊書店で、「古書フェア」で扱うのは古書です。この間にギャップがあります。
古書フェアの棚は、売り切れの本の跡の空きがたちまち広がります。それほど、古書の動きは早いのです。それを、補充するのに、店員の手が回らないことがあります。

また、お客様の物色で、棚の中の本の配列が乱れることがしばしばあります。

以上のことが重なると、売上に影響が出ます。

そこで、古書店が直接会場に出向いて、棚の整理のお手伝いをすることがいいのでは・・・。昨年夏のフェアの後半で、このことに気づき、会場に足を運び、店員の了解をいただいた上で、棚の整理をしました。岩波文庫は岩波文庫だけでまとめたり、空いた棚に、予備の本を補充したりして、棚の見栄えをよくしました。ある時は、大幅な配置換えまでしました。

このように、棚に息吹を吹き込むことが重要だということを実感しました。それで、今回は、会期の最初から、会場に足を運ぶことにしたわけです。   (2011/2)

十三階段・続

2011-02-05 07:07:44 | 社会斜め読み

さて、以下に述べるのは、もう一つの「十三階段」のことだ。

東京を張りめぐらしている地下鉄の駅の改札から地上までの階段に興味がある。具体的には、何段あるのだろう、ということ。

少し、調べてみた。

東京・神田神保町駅の場合:14段・9段・22段。中黒(・)は踊り場であると思ってほしい。試しに実地に登ってみると、最後の22段の途中で息切れしてしまった。

つくばエクスプレスのつくば駅の場合:14段・12段・14段。これは息切れすることなく登りきれた。
つくば駅のもう一つの階段の場合:18段・17段。これは、最初の18段でギブアップだ。

以上から興味あることがわかった。
息切れを感ずることなく登れる階段数は「十三階段」近辺らしいということ。「十三階段」を登りきった後に踊り場で一息ついて、次の階段に備える。これがスマートな階段の登り方らしいのだ。

こういう仮説に基づいて、上記の各駅の階段設計を見比べてみると、共通した設計思想が見出せないことがわかる。

東京・神田神保町駅の場合、最後の22段を分割して、もう一つ踊り場をつくればいいことだ。
また、つくば駅のもう一つの階段の場合、18段・17段を合わせて3分割して、踊り場を2つ作れば解決することだ。

それができない背景は、建物の構造上の制約に屈服して、人間工学的な配慮(人間は何段登ったら踊り場を欲しがるか?)に及ばないというわが国社会の病理が慢延しているためだ。

東京拘置所には処刑台に向かう「十三階段」が存在しないことについて、訳知り雀が、「世の中が高齢化している中で、死刑囚も例外ではないのですよ。それで階段を登る負担を取り除くよう配慮されているのです。」という。本当だろうか? そんな訳ない。 (2011/2)

十三階段

2011-02-03 07:09:43 | Weblog

以前、ドイツ映画の『十三階段への道』を見たことを覚えている。具体的な状況はすべて忘れてしまったが、「十三階段」とは死刑囚が死刑台に向かう階段を指していたことは鮮明に記憶している。そう、死刑囚は最後の気力を振り絞って十三段の階段を登らなければならない。この処刑場の構造はヨーロッパ諸国に共通しているのではなかったか? それほど、「十三階段」は生を断ち切る装置として象徴的な意味が与えられている。

さて、ひるがえって、わが国ではどうだろうか?
元法務大臣の千葉景子さんの「英断」で、東京・巣鴨の東京拘置所の処刑施設が公開された。それでわかったことは、東京拘置所の処刑施設には「十三階段」などないことだった。死刑台とそれをモニターする関係者の部屋とはフラットな位置関係にあり、どうやら、死刑囚は「十三階段」を登る苦痛を味わう必要がないらしい。どうも、拍子抜けしてしまった。 (2011/2)