静聴雨読

歴史文化を読み解く

メール文字の大きさ

2011-10-31 11:16:30 | Weblog

 

最近目が悪くなって、小さな文字を読むのがますますつらくなった。

 

私の発行しているブックレットの本文の文字の大きさは、当初、10.5Pだった。ところが、それをご覧になった先輩から、「文字が小さくてかなわん。」というクレームをいただいた。そこで、あわてて、文字の大きさを12Pに変更した。

 

さて、メール文では、大きな文字(12P)を使う人と小さな文字(10.5P)を使う人とがいる。

若い人には小さな文字の方が快適だろう。また、年配の人でも、やせ我慢かもしれないが、小さな文字を使っている人が少なからずいる。それで快適なら、それもよかろう。

 

しかし、考えてみてほしい。メールとは相手方に読んでもらうための道具だ。相手方には小さな文字に苦痛を感ずる人も多くいるのだ。そうであれば、相手方を慮って、自分の趣味は押し殺して、大きな文字でメールを打つべきなのだ。「大は小を兼ねる」が、「小は大の代わりにならない」。  (2011/10

 


バイエルン紀行・Ⅴ 旅の終わり

2011-10-27 07:32:37 | 異文化紀行

 

(15)再びナチスの影

ミュンヘンには4泊したが、ノイシュヴァンシュタイン城やシュタルンベルガー湖など、ルートヴィヒ二世を偲ぶ遠出に時間を割いたので、ミュンヘン市内の見物の時間が少なくなった。それに加え、バイロイトからミュンヘンへと続いた長旅で、旅の終末期特有の「無感動症候群」にも襲われ始めていた。

当初の予定では、アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテーク、モダーン・ピナコテークの3大美術館には足を運ぶつもりだった。ところが、アルテ・ピナコテークだけで4時間もかかってしまい、ほかの美術館に足を向ける気力は残らなかった。また、別の機会に取っておこう。

フランツ・ハルスという肖像画家がいて、高位の人の陽気な肖像画を多く残しているのだが、アルテ・ピナコテークにも1点フランツ・ハルスの絵があった。だが、それは、側廊の端に掲げられており、かつ、壊れかかった額縁に収まっていたのが痛ましかった。アムステルダム国立美術館では、主役級の扱いを受けている画家なのだが。

口直しというか、ミュンヘン見物の締めくくりに、ミュンヘン大学にある「白バラ博物館」を訪れた。

「白バラ」とは、ナチス・ドイツに抵抗した末に虐殺された、大学教授と大学生とその家族のグループの名前で、その存在はわが国にも知られている。最近、映画にもなったという。

彼ら一人一人の写真や手紙(読めるわけではないが)を眺めているだけで、ミュンヘンの地に影を落とすナチスの大きな負の遺産に気づかされる。ミュンヘンの西北の近郊にはダッハウ収容所跡もある。バイロイト音楽祭の『パルジファル』(中世スペインとナチスの時代とを重ね合わせる演出で驚かされた)といい、ミュンヘンの「白バラ博物館」といい、今でも、ナチスと対峙することがドイツ人の宿命になっていることを感じた。 

(16)15日間の休暇

15日間のバイエルンの旅は終わった。

今回の経験を踏まえ、再びバイエルンを旅する機会があれば、以下のことに注意したい:
1 日本から直接ニュルンベルクに飛び、ニュルンベルクに一泊する。
2 ホーエンシュヴァンガウに一泊して、南ドイツの「上高地」を堪能する。
3 高地用の羽織るものを用意する。
4 ビタミンCの錠剤を用意する。
5 独和辞典を持参する。

15日間というのは私にとって特別の意味がある。これまで、仕事上の出張でもプライベートの旅行でも、最長が15日間だった。それ以上になると、「無感動症候群」に襲われることが確実なのだ。

今回の旅行は、昨年の12月に計画して、今年の8月に終わったものだが、実は、その間、一つ、気がかりなことがあった。老人ホームに入所している母に何か起こったらどうしよう。幸い、この間、母は元気に過ごした。

帰国後、老人ホームに母を見舞うと、いつものように無表情で迎えられたが、一瞬、口元がわずかに緩んだ。これが、現在の母の最大の意思表示だ。「お昼を食べるか?」と聞くと、頷く。
ほっとして、老人ホームを後にした。15日間の休暇が明けて、再び、日常に戻った。 (2009/10)

参考資料:
『地球の歩き方 南ドイツ 07-08 』、2008年8月改訂第2版第2刷、ダイヤモンド社
ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ 夢の王国の黄昏』、三保 元訳、1987年、中公文庫
『王の夢・ルートヴィヒⅡ世』、撮影・篠山紀信、文・多木浩二、昭和58年、小学館
C・ペトリ『白バラ抵抗運動の記録 処刑される学生たち』、関 楠生訳、1971年、未来社



バイエルン紀行・Ⅳ カルチャー・ギャップ

2011-10-25 07:36:22 | 異文化紀行

 

(12)サイクリング文化

シュタルンベルガー湖のルートヴィヒ二世入水の地に建つチャペルの前はサイクリストで溢れていた。いずれも、サイクリング用のスパッツに身を包み、ヘルメットを被った本格的ないでたちだ。チャペルの前に大きな看板があり、「Konig Lutwig Weg 」とある。日本語にすれば、「ルートヴィヒ王の道」だ。はて、これも、わが国に同類があるではないか。そう、「おくの細道」だ。

「王の細道」は、ルートヴィヒ二世ゆかりの地を結ぶ道で、ノイシュヴァンシュタイン城、ホーエンシュヴァンガウ城、リンダーホーフ城、ベルク、ヘーレンキームゼー城、ミュンヘンなどを自転車で巡るのがこの国の流行らしい。丘から森へ、森から湖へ、湖から丘へとたどる「王の細道」は、ドイツ人の「さすらい」好きの現われのように思える。

ドイツ人の「さすらい」の伝統は古い。
親方・徒弟制度では、徒弟が技能を磨くために各地に赴くのが習慣になっていた。

シューベルトが曲を付けたウィルヘルム・ミュラーの『冬の旅』も、失恋した若者が冬の凍てつく各地をさすらう物語詩だ。

ワーグナーの『ニーベルングの指輪』では、神々の王ヴォータンが「さすらい人」に身をやつして各地の民情を探る。

「ワンダーフォーゲル」は若者が徒歩で旅行するという言葉として知られている。

現代では、この「さすらい」を自転車で実行する文化がドイツに根付いているらしい。サイクリストは若者だけでなく、30歳代から50歳代までの男女に、拡がっている。彼らの多くは高性能車に乗っている。新聞広告で見ると、1台2000ユーロ(27万円)ほどだ。半端な金額ではない。

サイクリング文化を支える環境も出来上がっている。
ミュンヘンの市街で、何度か、道行く人に注意された。「そこは、自転車道ですよ。」歩道の一部分が色分けされて、自転車専用道になっているのだ。

列車に自転車を持ち込むこともできる。何しろ、改札はないし、「自転車を折りたため」などという規制もない。気兼ねなく、自転車で遠出ができる。これはうらやましく感じた。 

(13)休日の列車内

ニュルンベルクからバイロイトに向かった日は、たまたま、日曜日であった。「さすらい人」のドイツ人がここにも多くいた。休日をどこかに出かけて過ごすのだろう。

ニュルンベルク駅に停車中の列車内も大分込んできたが、座席を大きなリュックサックやボストンバッグで占拠している乗客がいる。ドイツ人の持ち込む荷物は大きい。おそらく、中国人の乗客と並んで、ドイツ人の乗客は列車内に荷物を多く持ち込むようだ。

やがて、社内がさらに込んできた。入って来た一人の青年が、荷物で座席を塞いでいる中年の男性乗客に向かって話しかけた。「 Frei ? 」 フライ、空いてますか、という意味だろう。中年の男性乗客は何か言ったか言わなかったかわからない程度の反応だった。青年はそんなことではへこたれない。「お荷物を網棚に載せてもよろしいですか?」と言ったに違いない。中年の男性乗客は、それでも反応しない。すると、青年はさっさと中年の男性乗客の荷物を網棚に載せて、空いた席に腰掛けた。見事な掛け合い漫才だった。

主張すべきは主張するという気風が気持ちよかった。

ミュンヘンのSバーンでは、乗車してきた女性が、座席に座っている男性に向かって何やら話しかけ、男性は席を立ち、女性が腰掛けた。女性は妊婦らしい。「妊婦には席を譲るべし」という決まりがあって、女性はその決まりに基づいて、男性と交渉したのだろう。ここでも、主張すべきは主張するという考え方が根付いていて、それを実行に移す風潮が出来上がっている。

それに引き換え、荷物で座席を塞いで平気でいる中年の男性乗客はどう理解すればいいのだろう。単にこの男性にとどまらず、進んで座席を空けようとしない乗客が、男女とも、30歳代から50歳代にかけて、数多くいた。これは大きなショックだった。これまでドイツ人に抱いていたイメージは、公衆道徳をよく守る、というものだったが、今回その正反対の事態に遭遇したわけだ。

この中年の男性乗客の振舞いが、この日この列車でたまたまあったことなのか、南ドイツに漫延しつつある公衆道徳の乱れなのか、ドイツ全般に一般化したマナー崩壊の一端なのか、この事例だけでは測りがたい。しかし、注目すべき事象だとは言える。

ノイシュヴァンシュタイン城からの帰り、カウフボイレン駅では、ミュンヘンに向かう乗客で混雑していた。車内に乗り込むと、3人掛けの座席の一つにバッグが置いてある。そこで、私は、バッグの持ち主らしい隣席の青年に、座席を指して、「 Frei ? 」と聞いてみた。青年はすぐにバッグを自分の膝上に引き上げた。「 Danke schon. 」 これで、私もドイツ人の仲間入りをした気分になった。

旅に出て初めて気づくことがあるものだ。それが旅の効用でもある。

(14)英語が通じない!

英語が通じない、ということが、今回の南ドイツ紀行での最大の発見であり、驚きであった。
「スペインやイタリアの田舎町では英語が通じないから、気をつけなさい」とはガイドブックでよく目にするフレーズだ。スペインやイタリアだけではない。ドイツでも英語が通じないのだ。田舎町だけではない。ミュンヘンの街中でも英語が通じないのを経験した。

ホテルやレストランで決まり文句の英語が通じるのは当たりまえだが、決まり文句を少しはずれると、皆、キョトンとした顔つきになる。

街中で案内を請うために英語で話しかけると、こちらの言葉は理解されることが多いが、答えは決まってドイツ語だった。(独和辞典を持参しなかったのは失敗だった。Dienstag が火曜日だというのがわからないくらいなのだから。)

ドイツ人は学校で英語を学んでいないのだろうか? そう疑いたくなるような事態だ。
もちろん、英語が絶対的な外国語だというつもりはないが、ドイツの学校での外国語教育はどうなっているのだろう。同じEU内の同盟国のフランスのフランス語を第一外国語としているのであれば、とりあえず、納得がいく。しかし、そのようなことがあるのか?

ドイツ人は、フランス人のように尊大になってほしくないし、外国語としての英語を尊重してほしいと思う。

今回の旅行で最も英語が通じたのは、ニュルンベルクのクーヘン(菓子)のみやげ物店のおばさんだった。
「これら二つのクーヘンはずいぶん値段に差がありますが、なぜですか?」
「生地が生に近いか、乾かしているかが違います。ほら、こちらが生に近いクーヘンで、ミルクの量も多くなっています。それで、高額になっています。」
「なるほど。それで、どちらがお勧めですか?」
「それは、場合によりけりです。お客様が、すぐに食したいのであれば、こちらの生に近いクーヘンをお勧めします。また、日本に持って帰られるのであれば、こちらの乾いたクーヘンの方がいいでしょう。」
「わかりました。じゃあ、こちらをもらいます。」
このような会話は普段あまりしていないと思うが、こちらの質問に的確に答えてくれた。
 (2009/10)


バイエルン紀行・Ⅲ ドイツ食事情

2011-10-21 07:53:36 | 異文化紀行

 

(9)朝食の定番

旅行先で食事に悩むのはいつものことだが、とくに朝食が重要だと気づくようになった。
今回、バイロイトとミュンヘンで泊まったホテルはどちらも中級ホテルだったが、その朝食は驚くほど互いに似通っていた。それを紹介しよう。

共に、ビュッフェ形式。
共に、用意されるのは;
・パン数種類(いずれもおいしい)
・バター、ジャムの類
・セリアル
・ハム数種類、ソーセージ
・チーズ数種類
・ヨーグルト
・果物数種類
・コーヒー、紅茶など
・ジュースなど。

種類も量も十分だ。だが、一つだけ欠けているものがある。それは野菜だ。こちらでは、野菜を摂る習慣がないのだろうか? そんなことはあるまい。おそらく、野菜のコストが高いのだと思う。果物とジュースだけでは、ビタミンCが不足してしまう。その影響はてきめんで、日本に帰った後、唇に吹き出物が出て困った。ドイツを旅行する時はビタミンCの錠剤を携行する必要がある。

朝食は毎日同じところで同じものを食べることになるので、飽きのこないのが一番だと思う。パンさえおいしければ、朝食に飽きはこない。  

(10)巨人族の食事

以前、「大食い世界一周」というコラムを記した。その中で、イタリアとフランスの大食いぶりを紹介したのだが、ドイツについてははっきりとした印象がなく、深く触れなかった。今回、2週間のドイツの旅で、ドイツも明らかに大食いの国だということがわかった。

ワーグナーの『ニーベルングの指輪』には、巨人族と小人族とが出てくるが、それに擬えると、こと食事に関しては、イタリア・フランス・ドイツの人々は巨人族で、日本人は小人族であることを実感する。小人族は巨人族と同じように食事に接することが無謀なのだ。例えば、一皿の肉料理を注文しても、私はせいぜいその60%しか平らげられなかった。

あるレストランに「少食の人のためのメニュー」があり、その一つはスパゲッティであった。それにヒントを得て、何軒かのレストランでスパゲッティだけを試した。その結果、スパゲッティの量が少ない店が確かにあった。困った時にはスパゲッティに逃げ込むというのが、ドイツで得た一つの知恵だ。

ここで、巨人族の国で食事をするための留意事項を記しておこう。

1 コース料理の呪縛から脱すること。前菜、主菜、デザートのコースは忘れること。一品だけ注文しても何ら恥ずかしくない。

2 気のあった人との二人連れであれば、二人で一皿の料理を注文すること。この場合、どちらかの好みを抑える必要があるが、それができれば、これはいい解決法だ。取り皿を1枚余分に取り寄せればいい。それで、少し物足らなければ、デザートを、これも、二人で一皿注文すること。デザートだからといって侮ってはいけない。たっぷり、2人前のものが出てくるのだから。

3 昼食時などで軽い食事が取れる場合は、迷わずそうすること。その後の空腹を恐れてはいけない。

私の経験した「軽い食事」でおいしかったのは、デナー・ケバブのサンドウィッチ。ドイツにはトルコからの出稼ぎの人が多いようで、羊肉を焼いて薄くスライスし、それを、たっぷりの野菜とヨーグルトと一緒にパンに挟んだものがよく売られている。日本で見るものよりはやや大きいが、昼の腹の足しにちょうどいい。

夜食では、地中海料理(つまりイタリア料理)のレストランで食べたスパゲッティ。量は日本のそれの2割増しくらいで、無理すれば、完食できた。とくに、ホウレン草をパテ状にして、春巻きのように生地で包んで蒸し焼いたスパゲッティは新たな発見だった。 

(11)究極はソーセージ

デナー・ケバブもスパゲッティもドイツの料理とはいえない。バイエルンの料理では、やはり、ソーセージを挙げないわけにはいかない。そして、ソーセージは私の食の悩みを解決する料理でもあった。

ニュルンベルク・ソーセージは、直径1cm 、長さ10cm ほどのソーセージを客の目の前で焼いてサーブしてくれる。わが国の「焼き鳥屋」感覚だ。6本のソーセージにザワー・クラウトまたはポテト・サラダを付け合せて食すれば、幸せな気分になる。これは、少食の小人族にもぴったりの料理だ。
ニュルンベルクでも味わったが、ミュンヘンのフラウエン教会前にもニュルンベルク・ソーセージを食べさせる店があり、そこでも味わった。

ミュンヘンには白ソーセージなるものがある。タール通りにヴァイセス・ブロイハウスというビアホールがある。日本語に訳せば、「白ビール醸造所」だ。そこで食べた白ソーセージはことのほか旨かった。

生の白ソーセージがボイルされてサーブされる。直径2.5cm 、長さ10cm ほどで、それが2本単位で注文できる。付け合せは何もない。ソーセージの肉は甘みがあり、からしをつけて食べると絶品の味だ。これが、今回の南ドイツの旅で味わった最高の味だ。量も多すぎず、少食の私にぴったりだ。

ビアホールの中は午前中から賑わっている。グループで騒いでいる男たちの隣には一人で新聞を読む男がいる。皆、ビール片手に白ソーセージを啄んでいる。また、プレーツェルというミュンヘン独特のパンを食べている人もいる。
この白ソーセージは鮮度が命で、昼12時には注文ストップになるという。 (2009/10)



バイエルン紀行・Ⅱ ルートヴィヒ二世を偲ぶ

2011-10-19 07:58:20 | 異文化紀行

(4)フュッセンまで

翌日は、ノイシュヴァンシュタイン城まで、日帰りの観光を試みた。
前日、ミュンヘン中央駅で、時刻表を調べた。出発と到着の時刻が全紙大の紙にびっしりと書き込まれている。この時刻表は優れもので、例えば、出発の時刻表には、始発駅とその始発時刻、主要駅とその経過時刻、当駅の出発時刻と番線、終着駅までの主要駅とその到着時刻が一目でわかる。

その出発の時刻表を見る限り、フュッセン駅まで行く列車は朝に一本あるだけだ。
一方、私のガイドブック(『地球の歩き方 南ドイツ 07-08 』、2008年8月改訂第2版第2刷、ダイヤモンド社)によると、「ミュンヘンから直通のRER快速が平日の日中は1時間に1本運行」とある。さて、どちらが正しいか?

日本に帰り、『トーマスクック ヨーロッパ鉄道時刻表 2001初夏』をひも解くと、ミュンヘンからフュッセンまで行く列車が一日に7本あった。私のガイドブックの情報とピタリ符合する。何のことはない、私のガイドブックの情報が古かったのだ。ガイドブックを頼りすぎてはいけない一例だ。

さて、朝一本だけあるフュッセン駅行き直通列車を捕まえるため、ミュンヘン中央駅の隣のパージン Pasing 駅に赴いた。プラットフォームの表示板には、「7:59 MEMMINGEN」とあり、フュッセンの文字がない。不安になり、近くで乳母車を引く女性に尋ねた。「この列車はフュッセンに行かないのですか?」「行くと思いますが・・・」「では、なぜ表示がないのでしょう?」

しばらくやりとりをしている間に、彼女のことばの中に「バック」という音が入ったように感じた。ドイツ語か英語かはわからない。英語だとすると、「後ろの車両がフュッセンに行くようです。」と言っているのではないか。彼女に礼を述べて、プラットフォームの後ろに移動した。入って来た列車は想像通り、2編成を連結したものであった。車内で女車掌に「フュッセンに行くのですが、乗り換える必要がありますか?」と聞くと、にきび面の彼女は「あなたは、このまま座っていればいいのよ。」と答えた。それで、安心した。すると、パージン駅のプラットフォームの表示板には、「7:59 MEMMINGEN(前の4両)、FUSSEN(後ろの4両)」のように表示すればいいのではないか。

列車は途中のブッフローエ駅(2編成の切り離し)とカウフボイレン駅(アウグスブルク方面からの列車の待ち合わせ)で長い停車をした後、単線区間に入った。緩い勾配の坂道を上って行く。車窓には、一面に牧場が広がり、牛がのんびりと草を食んだり、寝そべったりしている光景が続く。やがて、列車はフュッセン駅に着いた。 

(5)ノイシュヴァンシュタイン城

フュッセン駅に着いたのが10時40分。かなり涼しい。今回は、この涼しさを想定した準備をしていなかったのが大きな間違いであった。そのため、バイロイトで着用したスーツに再びお役を務めていただく破目になった。

フュッセン駅からホーエンシュヴァンガウまでバスで行く。ところが、その先にまだ難関が待ち構えていた。ノイシュヴァンシュタイン城に入るチケットを購入しなくてはならない。その購入者の列が長蛇の列だ。結局、チケットを入手するまでに1時間を浪費し、時刻は12時30分だ。そして、ホーエンシュヴァンガウ城の入場時刻が13時40分、ノイシュヴァンシュタイン城の入場時刻が15時40分と決まった。何と、朝7時にホテルを出て、ノイシュヴァンシュタイン城に入場するまでに、8時間40分かかることになった。

道路に面したレストランのテラスで、この日初めての食事にありつき、ホーエンシュヴァンガウ城を見学し、ノイシュヴァンシュタイン城に向かう。といって、それは簡単ではない。登り道を歩いて40分かかるという。ほかに、馬車とシャトルバスが出ているとのことで、シャトルバスを利用した。シャトルバスはノイシュヴァンシュタイン城の裏側のマリーエン橋まで連絡している。マリーエン橋は深さ100メートルほどある峡谷に架けられた木のつり橋で、その上に立つと足がすくむ。また、マリーエン橋から望むノイシュヴァンシュタイン城は優雅なたたずまいを見せている。この日は、外装の修復のため、幕がかけられていたが、城の優美さは想像できる。

定刻の15時40分に入場が始まった。日本語のイヤフォン・ガイドを貸してくれる。城内は夢想家ルートヴィヒ二世の趣向をこらした内装の部屋が続く。この点は、これまで、テレビの映像や文献で紹介されていた通りだ。王は、自らを、ワーグナーの楽劇の主人公に擬して疑わなかったという。例えば、『ローエングリン』の白鳥の騎士や『トリスタンとイゾルデ』のトリスタンなど。ノイシュヴァンシュタイン城の内部は、ルートヴィヒ二世のワーグナー狂いをそのまま具現化するための装置だった。

しかし、その王が本当に「狂って」いたかどうかは別の話だ。世の中には夢想家は数多くいる。芸術家は夢想家であることがむしろ普通だ。「ペテルブルグの夢想家」と称されたのはドストエフスキーだが、彼を「狂人」扱いにする人は少ない。ルートヴィヒ二世はワーグナーの楽劇に入れ込んだが、ドストエフスキーは賭博に入れ込んだ。どっちもどっちだ。ノイシュヴァンシュタイン城で確認できるのは、ルートヴィヒ二世の「夢想家」ぶりのとてつもない大きさだ。 

(6)ホーエンシュヴァンガウ

ノイシュヴァンシュタイン城のあるホーエンシュヴァンガウは、シュヴァンガウ(市だか町だか村だか知らないが)の一部だ。ガイドブックによると、シュヴァンガウは「白鳥の高原」の意味で、「ホーエン」は「高い」という意味だから、ホーエンシュヴァンガウは「白鳥の高原のうちでさらに高い地」という意味になる。はて、どこかで聞いたような? そう、「上高地」と同じではないか。

松本-新島々-上高地の位置関係は、そのまま、カウフボイレン-フュッセン-ホーエンシュヴァンガウの位置関係に重なるのだ。上高地に大正池があるように、ホーエンシュヴァンガウにノイシュヴァンシュタイン城がある。こう考えるとわかりやすい。

この日は帰りの列車の都合も考えて、ホーエンシュヴァンガウを早々に脱出したが、惜しいことをした。ホーエンシュヴァンガウはノイシュヴァンシュタイン城観光の基地としてのみならず、ほかにも魅力のありそうな土地なのだ。

まず、ホーエンシュヴァンガウ城。この城は内部は一度見れば十分だが、外観が素晴らしい。周りの山麓を背にした城のたたずまいには威厳がある。また、夏の夜には、城がライトアップされるという。
次に、アルプ湖。ここには今回行けなったが、山間にたたずむ湖は神秘的らしい。

再訪する機会があれば、ホーエンシュヴァンガウに入ったらアルプ湖を訪れ、夜は、ホーエンシュヴァンガウ城のライトアップされた姿を鑑賞するために、ホーエンシュヴァンガウに一泊する。これが、理想だ。ノイシュヴァンシュタイン城のライトアップした姿も拝めるかもしれない。  

(7)シュタルンベルガー湖

ノイシュヴァンシュタイン城から帰った翌日、シュタルンベルガー湖を訪れた。ノイシュヴァンシュタイン城と並んで、今回のバイエルン紀行の目玉の一つと考えていた場所だ。
前日とは打って変わり、空は晴れわたっている。それでも、朝はひんやりとした冷気が身を包む。

私の宿のあるガウティンからシュタルンベルクまで2駅。シュタルンベルク駅がシュタルンベルガー湖畔に面している。
3階建ての大きな観光客船が停泊している。乗船チケット売り場は船内にあった。いかにも、ドイツらしい。

2階のデッキで出発を待つと、日差しがまぶしい。目指すは対岸のベルク Berg 。
ベルクには、ルートヴィヒ二世が幼少期を過ごしたベルク城があるとともに、王が入水した場所がある。それで、是非、訪れたいと思っていた。

シュタルンベルクからベルクまでの航程はわずか10分。ベルクの船着場の脇にあるレストランでルートヴィヒ二世が入水した場所を尋ねる。「あっちよ。」とウェイトレスが南を指した。周りを見回したが案内標識はない。でも、南を指して歩き始めた。10分ほど歩くと、木戸から藪に入る道があった。自転車に乗った人たちが、木戸から中に入っていく。私も、後に続いた。鬱蒼とした木立ちの中を歩くこと10分、ある建物に到達した。

そして、その建物の前に、本などで見覚えがある十字架の建つ庭があり、さらに、その前の藪が幅10m ほど切り開かれて、湖が望める。そして、そして、湖の中、湖畔からわずか5m ほどの位置に、もう一つの十字架が建てられているのが見えた。これも、本などで馴染みのものだ。これが、ルートヴィヒ二世が入水したという場所であった。

深い感動が身を駆け抜けた。
まず、すべてがとても簡素であること。2つの十字架に飾りは何もない。
次に、湖の十字架-庭の十字架-後ろの建物(これは、後世に建てられたチャペルであった。)と並ぶ線の一直線の素晴らしさ。
そして、周りの静寂。
ここはルートヴィヒ二世を偲ぶにふさわしい場所だ。 

(8)王の入水

ルートヴィヒ二世は、侍医グッデンから「パラノイア。不治の病。王権の維持不能。」の診断を受け、ノイシュヴァンシュタイン城に幽閉される(1886年)。そして、すぐに、ベルク城に移送された。ジャン・デ・カール『狂王ルートヴィヒ 夢の王国の黄昏』、三保 元訳、1987年、中公文庫、によると、馬車で8時間の行程であったそうだ。

その数日後に王は入水して果てた。侍医グッデンが行を共にした。一応ここでは「入水」と表現したが、王の死因を深く詮索することは当時なかったようだ。だが、普通に考えれば、3つの可能性がある。

1 自殺説。この場合、侍医グッデンも「殉死」となろう。
2 事故説。死ぬつもりはなかったが、何らかの事故で溺死した。
3 他殺説。誰かに殺された。この場合、犯人は侍医グッデンしかありえない。

ジャン・デ・カールは、ノイシュヴァンシュタイン城における王と侍医グッデンとのやりとりを記録している。次の王の言葉。「診察したわけでもないのに、どうして私が精神に異常をきたしているといえるのかね。」この言葉は重い。王は、人一倍の夢想家ではあったが、決して、狂人とはいえない、というのが私の感想だ。

しかし、湖畔からわずか5m ほどの位置で人は死ねるのだろうか。謎は永遠に残る。

ミュンヘンのミヒャエル教会の地下室は墓地となっていて、王室の人たち二十数人の柩が安置されている。中に、ルートヴィヒ二世の柩があり、献花に包まれていた。

脇に、もう一つ、ルートヴィヒ二世のものよりやや小ぶりの柩があり、オットー一世の標識がある。そう、ルートヴィヒ二世の死後、弟であるオットー一世はその跡を形式的に継いだものの、本物の狂人であった彼は一度も王権を揮うことなく、30年間、叔父ルイトポルト公に摂政を委ねた後、亡くなった。これももう一つの悲劇だった。 (2009/9)


私家版文集出版裏ばなし・3

2011-10-17 07:44:32 | Weblog

 

コラムの選択が終われば、後は制作にかかるだけです。

 

原稿整理・編集・製版は順調に進み、本文の製版を終えました。表紙の原稿整理・編集も終え、印刷屋さんに表紙の製版と印刷をお願いしました。

 

後は一気に本文を印刷するだけ、と思ったところで、思わぬ事態に遭遇しました。印刷が半ば過ぎたところで、プリンターが故障してしまったのです。「思わぬ事態」と書きましたが、心のどこかでは、プリンターがハードワークに耐えられるか、と危惧していたことも確かでした。

 

プリンターはメカ部分が多いので、故障が多くあります。以前のDell のプリンターは1年に一回は故障し、その都度代品交換を受けました。いつも、決まって、紙送り系の故障で、用紙がジャムるというものでした。

 

現在の CANON MP630 は使用開始後2年半経ちましたが、今回が初めての故障でした。本体下部にある用紙トレイが抜き出せなくなるというトラブルです。用紙トレイが熱を帯びたか何かで変形したのでしょう。

 

プリンターが修理から戻ってきたのは2週間後でした。思わぬ頓挫でしたが、プリンターの快復後は残りの印刷を一気に完了して、印刷屋さんに製本委託し、108日に完成本が届きました。

 

企画から完成まで4ヶ月でした。 (2011/10

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『歴史文化ふたたび』は、

 「BIBLOSの本棚」のホームページ http://enjoy1.bb-east.ne.jp/~biblos/

からお求めいただけます。「書籍名」に「歴史文化ふたたび」と入れて検索してください。

また、「三省堂古書館」(三省堂書店神保町本店4階左奥)の「BIBLOSの本棚」の棚でもお求めいただけます。

 


私家版文集出版裏ばなし・2

2011-10-13 07:43:24 | Weblog

 

オリジナルのブックレットは全部で343ページありますが、最終的に120ページに圧縮したいと思いました。しかし、ブックレットに収載したコラムの分量を 1/3 に減らして『歴史文化ふたたび』を作ると決めた時点では、減量の自信がまったくありませんでした。すべてのコラムがかわいいからです。それで、第三者の力を借りることにしました。

 

レビューアを4人選び、「いい」と思うコラムに投票していただくことを思いつきました。一度そう決めた以上、レビューアの取捨選択にすべてまかせることにしました。すべてのコラムがかわいい私自身から見れば、どのコラムが選ばれようと、「良かった」となります。

 

レビューアには、「全くの主観に基づく取捨選択で結構です。」と断って、取捨選択をお願いしました。この方法は、われながら、よくできた依頼の仕方だと思いました。レビューアは自分なりの方法で、コラムを読み解いたり、よいと思うコラムを選んだりして、取捨選択を楽しんでくれました。

 

レビューア4人の4票と私自身の1票を加えて満票5票で各コラムの得票を集計することにしました。一人ひとりの取捨選択結果が届く都度、「えんま帳」に○を入れていきました。2人からの取捨選択結果が届いた時には、すでに投票を済ませた私自身の取捨選択結果と併せて、3人の取捨選択結果が「えんま帳」に並びました。それで、3票満票のコラムに「当確」を打ったのですが、この見通しは甘かったことがやがてわかりました。

 

5票と4票のコラム(13編)は文句なく採用となりましたが、最終的には、3票のコラムのうち7編は迷った末採用し、残り8編は次集まで繰越しの扱いとなりました。

 

テレビの開票速報での「当確の打ち間違い」はこのように生まれるのか、を実感しました。

 

最終的に採用した20編を改めて読みますと、自分でいうのも何ですが、「読みやすい」と感じました。4人のレビューアの方々は驚くべき「批評眼」を備えていると思いました。エッセイはわかりやすさが何よりも重要だということをこの4人のレビューアの方々は理解しています。

 

内容の深さ、つまり「思考の成熟度」についてはまったく自信がありません。これは読者の判断に任せるよりありません。 (2011/10

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『歴史文化ふたたび』は、

 「BIBLOSの本棚」のホームページ http://enjoy1.bb-east.ne.jp/~biblos/

からお求めいただけます。「書籍名」に「歴史文化ふたたび」と入れて検索してください。

また、「三省堂古書館」(三省堂書店神保町本店4階左奥)の「BIBLOSの本棚」の棚でもお求めいただけます。

 

 


私家版文集出版裏ばなし・1

2011-10-09 07:40:45 | Weblog

 

私家版文集『歴史文化ふたたび』を出版するまでの経緯を記します。

 

私のブログのコラムを抜き出して編集したブックレット『歴史文化を読み解く』を始めたのが20074月。以来、このブックレットは第16集まで発行しました。

 

ブックレットに収載したコラムをさらに取捨選択・再編集して、私家版文集を発行することを計画したのは今年6月でした。

 

まず、私家版文集の書名を『歴史文化ふたたび』と決めた理由をお話しします。

 

元になったブックレットのタイトルが『歴史文化を読み解く』でした。かといって、ブックレットのタイトル通りにするのは、大人気なく感じていました。「歴史文化」は是非残したいと考えましたが、この言葉が厳つい響きがあるため、それにふさわしい言葉を添えるというのがなかなか難しかったのです。それで、「ふたたび」という添え言葉を思いついた、というのが実際です。

 

この「ふたたび」という言葉には、いわれがあります。

 

イーヴリン・ウォーの作品に『 Brideshead  Revisited 』というのがあります。『ブライズヘッド再訪』とでも訳すのでしょうか? これを、訳者の吉田健一が『ブライヅヘッドふたたび』と訳して発表しました(現在は「ちくま文庫」)。この訳語が、日本語らしい柔らかさと「あいまいさ」を持っていて評判になりました。

 

種村季弘は、19世紀末から20世紀初頭にかけてブレーメン近郊のヴォルプスヴェーデ村に住み着いた芸術家群像を跡付けた著作のタイトルを、吉田健一のひそみに倣って、『ヴォルプスヴェーデふたたび』(筑摩書房)と名付けたのでした。

この場合も「再訪」の意を込めて、「ふたたび」としたのでしょう。

 

このような吉田健一と種村季弘の伏線があって、「ふたたび」という言葉を使わせてもらうことを思いついたのでした。

私の場合は、「再考」という意味です。「歴史文化について語ることは今は流行らないが、もう一度考えてみよう」ということです。 (2011/10

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『歴史文化ふたたび』は、

 「BIBLOSの本棚」のホームページ http://enjoy1.bb-east.ne.jp/~biblos/

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また、「三省堂古書館」(三省堂書店神保町本店4階左奥)の「BIBLOSの本棚」の棚でもお求めいただけます。

 

 

 


[告知]私家版文集出版のご挨拶

2011-10-07 07:39:05 | Weblog

 

このたび、私家版文集『歴史文化ふたたび』を出版いたしました。

 

最近6年間のブログに発表したコラム20編をまとめました。

 

コラムの一部:

 石橋湛山の魅力

 女性画家の宿命

 チョウセンアサガオの不思議

 バイエルン紀行

 宵闇のニューヨーク

 噺家になりたかった

 

ご覧いただければ幸いです。

 

『歴史文化ふたたび』は、

 「BIBLOSの本棚」 http://enjoy1.bb-east.ne.jp/~biblos/

からお求めいただけます。「書籍名」に「歴史文化ふたたび」と入れて検索してください。

また、「三省堂古書館」(三省堂書店神保町本店4階左奥)の「BIBLOSの本棚」の棚でもお求めいただけます。

                                  2011101

 


バイエルン紀行・Ⅰ ニュルンベルクからミュンヘンまで

2011-10-05 07:40:01 | 異文化紀行

 

2009年の夏、ドイツ南部を旅した。主目的は、バイロイト音楽祭に参加することだった。その記録は、「バイロイト詣で」と題するコラムにまとめた。ここでは、バイロイト以外での体験を綴ってみようと思う。

これから触れる内容を箇条書きにすると以下のようになる:
・ ルートヴィヒ二世
・ 鉄道の旅
・ 食事情
・ サイクリング文化
・ 英語が通じない

(1)ニュルンベルク

バイロイト音楽祭で『パルジファル』の公演を観た翌朝、ミュンヘンに向け、バイロイトを後にした。途中、ニュルンベルクを観光する予定だ。疲れが残り、体がだるい。あまり、無理な行動はできなかろう。

バイロイトからニュルンベルクまで列車で1時間20分。ニュルンベルク駅で、夕方のミュンヘン行きICE(都市間超特急)を手配し、スーツ・ケースをコイン・ロッカーに預け、さあ、市内見物に出発だ。

駅前から、ケーニヒ通りを通り、中央広場を経て、カイザーブルクまでの道が、ニュルンベルクの中心街だ。端から端まで歩いて1時間の行程。その道筋がなかなか趣きがある。中世以来の街並みを実感できる。広場にも、通りにも、露店が出ている。果物屋、野菜屋が多いが、中には、チーズ専門店も出ている。

カイザーブルクまで登り、デューラーの家を通って、坂道を下ると、ヘンカー・シュテークという運河に出る。ここは、ベルギーのブリュージュを彷彿とさせるところで、古い家並みと運河が調和する景観が広がる。

そこから中心街に戻る途中で、ある、室内装飾店の前で立ち止まった。ちょうど、セールの最中で、ショウウィンドウに、素敵なテーブルクロスがあるのが目に入った。大きなテーブルクロスがセールで54ユーロ、お買い得だ。中に入り、店員と交渉に入った。「セールで安くなっているのはわかるが、2枚買うのでさらにディスカウントしてもらえないか。」店員は私の英語が分からないらしく、「これは、54ユーロ。」の一点張りだ。無論、私も、値切り交渉に拘っていたわけではないので、1点だけ54ユーロの買い物をして、店を出た。

ニュルンベルクの街は、バイロイトに比べればはるかに大きいが、後に経験するミュンヘンの街に比べたらはるかに小さい。その中くらいさが気に入った。
また、清潔一辺倒のバイロイトに比べ、ニュルンベルクにはどことなく猥雑なところがあり、夜この街を訪れたら別の顔を見せるのではないか、と思われた。

ニュルンベルクの名物である「ニュルンベルク・ソーセージ」を味わった。直径1cm、長さ10cmほどのソーセージを目の前で焼いてサーブしてくれる。注文単位は、6本、8本、10本、12本と自由に選べる。付け合せは、ザワー・クラウトかポテト・サラダを選ぶ仕来りだ。少食の人は6本注文すればよい。このソーセージは聞きしに優る旨さだった。

ニュルンベルクがこれほど心地よい街なら、日本からバイロイトに向かう時に、この街を経由すればよかった、と後悔するほどだった。 

(2)ICE(都市間超特急)

ニュルンベルクからミュンヘンまでは、ICE(都市間超特急)を利用した。ICEとは Inter City Express の略で、日本語では、「都市間超特急」の名が当てられている。なぜ、「超特急」なのか?
それは乗ってみると分かる。

ドイツは、弧状の日本とは違って、国土が真四角といっていいほどだ。その中を鉄道網が張り巡らされている。ドイツは鉄道王国なのだ。ちなみに、ドイツ鉄道(ドイチェ・バーン)は国有だ。

そのドイツの主要都市間を結ぶのが、ICE。北はハンブルグ、東はベルリン、西はケルン、南はミュンヘン。いずれの都市間をも高速で結ぶのが、ICEの役割だ。

ニュルンベルクからミュンヘンまでは、ICEで1時間強。わが国に例えると、東京―静岡間の新幹線と同じ行程だ。途中、大きなトンネルを2回通過したところから考えると、おそらく、専用の線路を敷いたものと思われる。最大時速228kmを出していたので、日本の新幹線と比べても遜色ない。

並行して走るアウトバーンをものすごい勢いでICEを追いかける車がいた。さすがに、ICEには負けていたが、それでも時速160kmを超えるスピードで疾走していたようだ。この国のスピード・マニア恐るべし、だ。

ニュルンベルク-ミュンヘン間、ICE2等車座席指定で、49ユーロ(6860円)。
東京-静岡間の新幹線2等車座席指定で、6180円だから、ドイツと日本の超高速列車の運賃は同じようなものだ。 

(3)ミュンヘンの宿

ミュンヘンには4泊する予定だった。事前に調べたところ、リーズナブルで便利な宿を市内で見つけるのはなかなか難しいらしい。
それで、以前「旅チャンネル」の「日本人が経営するもてなし宿」で見たホテルを当たってみることにした。オーナーが日本人で、日本人の旅客によくしてくれるという触れ込みのその宿は、
 ホテル・ガウティンガーホーフ Hotel Gautingerhof
という。ミュンヘン西南の郊外にあるガウティン Gauting という街にあるらしい。
ガウティンは、ルートヴィヒ二世が入水したシュタルンベルガー湖にも近いので、今回のルートヴィヒ二世を偲ぶ旅にふさわしいロケーションだということがわかった。

夜、ミュンヘン中央駅からSバーン(郊外電車)6号線で25分のガウティンに着く。
プラットフォームを出て、自転車をいじっていたおばさんに聞く。
「すみません。Hotel Gautingerhof はどちらですか?」
おばさんは、私の袖を引いて、「こちらに来てごらん。ほら、そこにホテルがある。2軒もある。」と宣(のたま)う。だめだ、こりゃ。どうやら、Gautingerhof が引っかからなかったらしい。

次に、自転車で通りかかった若者に、「すみません。Hotel Gautingerhof はどちらですか?」と聞くと、彼はしばらく頭をひねった後、「わかりません。」と走り去った。

次に自転車で通りかかった若い女性に同じ質問をぶつけてみた。ただし、このホテルがピピン通りに面していることを思い出したので、「すみません。Pippinstrasse に面したHotel Gautingerhof はどちらですか?」と聞いた。「Pippinstrasse なら、その通りを左に真直ぐ行ったところです。」「ありがとうございます。それで、Hotel Gautingerhof は道の右側にありますか、左側にありますか?」
「Straight です。」「???」

言われた通りに道をたどると、細長いロータリーに出た。Pippin Platz (ピピン広場)と標識が出ている。そして、そのロータリーの右でも左でもなく、正に正面に「 Hotel 」の文字の建物があった。彼女の「Straight です。」の意味がようやく飲み込めた。

ホテル・ガウティンガーホーフは20室ほどの小さなホテルで、アット・ホームな雰囲気を醸している。音楽家の日本人女性が一人勤めている。久しぶりに聞く日本語に心和む思いだ。彼女は、フュッセン近郊のヴィース教会でのコンサートを2回終えたところだという。  (2009/9)


URとは何だろう?

2011-10-03 07:40:08 | 社会斜め読み

 

(1)名前をめぐって

 

首都圏・関西圏・福岡県の人には馴染みかもしれないが、URとは「都市再生機構」という独立行政法人だ。上記以外の地域の人にとっては縁のうすい機構かもしれない。賃貸住宅の供給を主たる事業としている。URは Urban Renaissance の略だ。

 

昔の「住宅公団」は広く知られた名前だった。戦後の住宅不足を補うために国策として住宅を大量に供給する使命を担って大いに名を馳せた。首都圏では、多摩ニュータウン・高島平団地・千葉ニュータウンなどの大規模な集合住宅のコミュニティーが形成されたのは、ちょうど高度成長時代の最中のことだった。「団地」のことばが一気にポピュラーになった。

 

その後、「住宅公団」は「住宅・都市整備公団」→「都市基盤整備機構」→「都市再生機構」とめまぐるしく名前を変え、現在にいたっている。名称変更の理由は定かでないが、主管である国土交通省の方針に沿ったものであることは間違いない。

 

ところが、都市再生機構の面々はこの組織名を嫌っているらしいのだ。

賃貸借契約書には、さすがに、「独立行政法人 都市再生機構」の名称が使われている。しかし、この正式名称はそこにしか現われない。

 

例えば、URの発行している入居者向けの「住まいのしおり」の表紙には、「UR賃貸住宅」・「UR都市機構」の名称とともにURのロゴが印刷されている。どこにも「再生」の二字は見えない。また、「はじめに」のページを開けると、「この度は、UR賃貸住宅にご入居いただき、誠にありがとうございます。UR都市機構」とあり、ここでも「再生」の二字を無視する徹底ぶりだ。

 

「再生」を嫌う一方、「UR」を重用する。これが都市再生機構の基本スタンスのようだ。これが国土交通省の指導によるものとは考えにくい。

むしろ、JR→旧日本国有鉄道、NTT→旧日本電信電話公社などと同じく、UR→旧住宅公団を想起させるための、都市再生機構のイメージ戦略のようにみえる。 

 

(2)申込み

 

さて、都市再生機構(UR)の賃貸住宅に入居するには、2回、その事務所に赴かなければならない。申込み時と契約時だ。

 

URは募集・契約業務を担当する事務所を、首都圏でいえば、新宿・大宮・横浜などに構えている。そのどれかに入居希望者は赴いて、申込みと契約の手続きをする。私は近くの横浜の事務所を利用した。

 

入ると、ずらっと、40歳代か50歳代かの窓口係員が並んで出迎える。この人たち、給料は高いし、退職金の負担があってURは大変だろうな、と余計な感想を持つ。

 

申込み時に、契約書の原案と「修理細目通知書」を渡され、次回の契約時までに目を通すように言われた。また、次回の契約までに、前払い金を銀行に納めて、その領収証を持参するように言われた。 

 

(3)賃貸借契約書・第12条

 

前払い金を銀行に納め、その領収証を持参して、横浜の事務所を再び訪れた。契約するためだ。

事前に契約書の原案と「修理細目通知書」をチェックしたところ、不明な点があって、それを明らかにしたいと思った。

 

まず、契約書第12条(賃借人の修理義務)にはこうある:

「賃貸住宅について、次の各号に掲げるものの修理又は取替えは、賃借人の負担において賃借人が行うものとする。

 一 畳

 二 障子、ふすま等外回り建具以外の建具及び外回り建具のガラス

 三 その他別に機構が定める小修理に属するもの

2 機構は、前項各号に掲げるものの細目については、あらかじめ、賃借人に通知するものとする。

3 (略)」

 

これだけの文言では、賃借人の修理義務とは何か、をにわかに判定しがたい。

 

ところが、「修理細目通知書」がこれにリンクしているらしいことがわかった。

「賃借人各位 独立行政法人都市再生機構」と題する「修理細目通知書」は、契約書と同じA4判の紙の表裏にびっしりと「修理細目」が記載されている。その項目を掲げれば、「畳」「建具」「壁」「床」「浴槽等」「放熱器・エアコン」「備品その他」「給排水設備」「電気設備」「換気設備」「ガス設備」「換気乾燥設備」に渡っており、それぞれの項目ごとに修理の細目が書き込まれている。

 

初め、この「修理細目通知書」は、機構が賃貸するにあたり、これらの修理を実施しました、という通知書かと思った。ところが違うらしい。賃借人が賃借期間中にこれらの修理の細目を実施する必要を認めたら、賃借人の費用負担で修理を実施しなければならない、ということらしい。

 

例えば、10年も住んでいたら、「給排水設備」のうち、「各種給水・給湯栓」がへたってくることも当然起こってくる。その修理も賃借人負担だという。これには驚いた。

「民間の賃貸契約とずいぶん違いますね。」と聞くと、係員は「はい、違います。」と涼しい顔して答える。

 

「それで、私の借りる部屋は、この多くある細目のうち、どれとどれを気にする必要があるのでしょう?」「そういう(情報提供)サービスは行っておりません。」これにも驚いた。自分の部屋に、どの設備があるのか、ないのかは自分で判断しなさい、ということらしい。結局、「修理細目通知書」に関して、係員の説明を一切受けられなかった。

 

(4)賃貸借契約書・第13条

 

契約書第13条(原状回復義務)にはこうある:

「賃借人は、賃借人の責に帰すべき理由により、賃貸住宅を汚損し、破損し、若しくは滅失したとき又は機構に無断で賃貸住宅の原状を変更したときは、第12条の規定にかかわらず、直ちに、これを原状に回復しなければならない。」

 

例えば、入居後、エアコンを取り付けたならば、退去時に、それを撤去して部屋を明け渡さなければならない、ということだ。その限りでは理解できる条項だ。

 

「しかし、個々の事案で、本当に賃借人の責に帰すべき理由にあてはまるかどうかは、判断が難しいのではないですか?」

「いいえ、大丈夫です。ここにある『原状回復等のご案内』というパンフレットをご覧いただければ、お判りになると思います。」

 

壁(クロス張)では、「傷・破れ」「クレヨン、マジック等による落書き」「タバコのヤニによる甚だしい黄ばみ」は入居者負担で、「テレビの放熱跡(電気焼け)」「ポスター跡(日焼け)」は機構負担となっている。

 

「それでは、このパンフレットを契約書の付属文書にしてください。」

「それは、できません。」

「???」

「パンフレットに書いてあるのは、あくまで『例示』であって、実際は、機構の査定員が個々に査定いたします。」

「査定員は何を基準に査定するのですか?」

「・・・」  

 

(5)押し問答

 

ここから、延々と押し問答が始まった。

 

こちらの言い分は、賃貸借契約書だけ読んでも、抽象的であいまいなので、「修理細目通知書」と「原状回復等のご案内」を契約書の付属文書としてほしい、というものだ。

 

応対者が窓口の係員から「責任者」と称する人に代わった。名刺を求めた。

「所属 UR都市機構 募集業務受託者 財団法人住宅管理協会東京支部

 受託業務従事場所 UR都市機構 募集販売本部 UR横浜営業センター

 受託責任者 xxxx」

とあって、下欄に所在地・電話番号・FAX番号が書いてある。

 

ずいぶんいろいろ書いてある名刺だが、要するに、都市再生機構が募集販売業務(の一部)を外部委託しており、その委託先の責任者というわけだろう。「上は?」と聞いたら、「新宿の・・・」と言っていたから、「UR都市機構 募集販売本部」のことだろう。

 

なぜ、押し問答になったか?

 

1.「修理細目通知書」に重要な意味があるのだが、その細目の説明をしようとしない。

 

2.「修理細目通知書」と「原状回復等のご案内」を契約書の付属文書とする要求については、窓口の一存ではできない、という。「それはわかります。上の方と協議してください。」「でも、すぐには無理ですよ。」「しかるべき速さで協議してください。」「そうすると、本日の契約はできないことになります。」「それは困ります。すでに、前払い金を払ったことでもありますし。」「なんとか、現状のままで、ご契約いただけないでしょうか?」「上の方と協議するという確約をください。」「それは、もう、協議しますよ。」「その言葉ぶりでは、信用できません。この名刺の裏に、『賃借人からあった契約書変更についての申し入れを、誠意をもって上に伝え、その結果を速やかにご回答します。』と書いてください。」「弱ったな。そんなこと、できないですよ。」「それでは、私は、『修理細目通知書』に捺印できません。」「弱ったな。そんなこといわれる賃借人は初めてですよ。それでは、『電話させていただきます。』と書きましょう。」「わかりました。それでは、『修理細目通知書』に捺印します。よろしくお願いいたします。」

 

数日後、この責任者から電話があった。「お客様のご要望を上に伝えて検討してもらったのですが、お客様のご要望にお応えするのは難しい、とのことでした。誠に、申し訳ございません。」こういう回答が来るのはわかっていた。これ以上、窓口の責任者を責めるつもりもない。

 

ところで、最初に応対した係員も次の責任者も、「宅地建物取引主任者証」を提示しなかったが、これは法律違反ではないか?  

 

(6)その存在価値

 

都市再生機構の前身の住宅公団は、戦後の住宅不足を補うために国策として住宅を大量に供給する使命を担って、それなりに意味があった。今はどうであろうか?

 

LDK(65)の住宅の家賃が月額134,100円。

基準月収額が330,000円または基準貯蓄額が13,020,000円。

 

これがUR賃貸住宅の入居条件だ。明らかに、低所得層は相手にしていないことがわかる。

発足当時の住宅公団は低所得層でも手が届くところに存在価値があったが、今やその存在価値は変質している。中産階級しか相手にしていないのだ。それに対して、多額の国の補助金が投入されている。これはおかしいではないか? ということで、「事業仕分け」に取り上げられた。「民間でできることは民間に」という理念からすれば、中産階級相手の住宅供給は民間の最も得意とするところだ。なぜ、あえてこれに国が関与しなくてはいけないのか? 国(国土交通省)と都市再生機構がどう答え、「事業仕分け」の結果がどうなったかは知らない。

 

少なくとも、私の経験からいえば、窓口係員の重要事項の説明能力不足や横柄な態度など、同種の民間不動産業の足元にも及ばないことは明らかだ。窓口業務の委託先への丸投げや契約相手との真摯な交渉の拒絶などは、国の出先機関(独立行政法人)の最も悪いところを忠実に踏襲している感がする。ここに戦後官僚制の悪しき残渣が露呈しているという思いを抱いた。   2011/6-7