静聴雨読

歴史文化を読み解く

「公共禁煙」と「断煙」の先にあるものは

2007-01-17 08:02:05 | 社会斜め読み
「公共区域」での喫煙を禁ずる「公共禁煙」の法律・条例が整備され、喫煙のもたらす受動喫煙の機会を完全に排除する「断煙」の発想が広く普及した暁には、それで「事終われり」でしょうか? そうではありません。それまでに喫煙がもたらした負の社会的遺産を取り除くことが残されています。

負の社会的遺産の排除のためには、大きく分けて、喫煙によって汚された施設の大クリーニングと喫煙に起因する疾病に対処する医療施設の建設・維持が必要でしょう。

汚れた施設の大クリーニングには、シラク氏が市長の時代に、パリで行われた建築物の大クリーニングの例を参考にするといいと思います。クリーニングに要する工数・期間・費用などがわかります。

喫煙に起因する疾病に対処する医療施設の建設・維持にはどれほどの工数・期間・費用などが必要かは予測できません。例えば、各県に、循環器・呼吸器専門病院を一ヶ所ないし数ケ所建設し、医師を雇い、病院を運営するのですから、並大抵のことではありません。

とくに、その財源の確保が課題です。誰が財源を負担するか? 
タバコ製造・販売会社と喫煙者に負担を求めるのが適当でしょう。過去の喫煙者を特定することは不可能でしょうから、これからの喫煙者に負担を求める。すると、タバコ税の増税が必要になります。増税の幅は予測もできません。

タバコ製造・販売会社は負担の増大に悲鳴をあげて廃業するところがでるかもしれません。また、タバコ税の増税によりタバコ価格が高騰して、タバコを止める人が激増するかもしれません。それはそれで結構なことです。廃業も自由ですし、タバコを止めるのも自由ですから。

アメリカでは、各州とタバコ製造・販売会社との間で和解が成立して、これから将来にわたって長期的に、驚くべき金額をタバコ製造・販売会社が拠出して、喫煙に起因する疾病に対処する医療費に充てるということがすでに決まっています。(伊佐山芳郎「現代たばこ戦争」、1999年、岩波新書)
「タバコ製造・販売会社」の一員に日本たばこ産業(JT)も入っていることは、ご存知でしょうか?

さて、日本で、ここで述べたようなユートピアが実現するのはいつのことでしょうか? 予測の難しい問題です。  (2007年1月)

偉大なるマンネリズム

2007-01-03 07:17:28 | 音楽の慰め

1月1日の夜はウィーン・フィルハーモニーのニューイヤー・コンサートがある。現地ウィーンの昼12時がわが国では夜8時になり、絶好の時間帯にライブ放送が聴ける。ありがたいことである。このウィーン・昼12時、日本・夜8時に始まるのが、実はコンサートの第二部だということは、BS放送でコンサートの第一部から完全ライブ中継を始めるようになって初めて知ったことである。

今年は第一部を聴きそびれ、夜8時の第二部から楽しんだ。今年の指揮はズビン・メータ、インド出身のマエストロだ。テレビで拝見すると、ずいぶん老けたものだ、また、ずいぶん貫禄が出てきたものだ。タイガー・ジェット・シンを彷彿とさせる精悍さは影をひそめた。

さて、プログラムは、第一部・第二部を通して、ヨハン・シュトラウスやヨーゼフ・シュトラウスなどのワルツやポルカで、19世紀末以来、ウィーンの人たちにとっては、知り尽くした曲目である。

第一部・第二部が終わって、お開きかというと、そうではない。前菜・主菜が終わっても、まだデザートが残っている。「アンコール」の始まりだ。
「アンコール」は本来偶発的なもので、聴衆の歓呼が抑えきれない時に行う追加の演奏だが、ここではそうではない。聴衆はアンコールのあることを承知しており、さらに、アンコールの曲目まで事前に承知している。

今年は、「アンコール」として、ポルカ一曲から始まって、おなじみ「美しき青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」が演奏された。
「美しき青きドナウ」の始まる前に指揮者と楽団員とが「新年おめでとう!」と吠えるところや、「ラデツキー行進曲」で聴衆の手拍子を誘うところなど、毎年見られる光景だ。

聴衆は50歳から70歳までの年齢層の人がほとんどと見受けられる。それが、心から楽しんで、(悪くいえば、幼稚園児のように、)手拍子の合奏に参加している姿は、連綿として続いているニューイヤー・コンサートの象徴として映る。これを「偉大なるマンネリズム」と呼んだら、叱られるだろうか?  (2007年1月)


女性画家の宿命

2007-01-01 06:16:55 | 美術三昧
分載していた「女性画家の宿命」を一本にまとめました。
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(1)若桑みどりによると・・・

長いあいだ気にしていながら読めなかった若桑みどり「女性画家列伝」、岩波新書、を古本屋で見つけ、早速買ってきて読んだ。
採り上げられている画家は、シュザンヌ・ヴァラドン、アルテミジア・ジェンティレスキ、エリザベート・ヴィジェ・ルブラン、アンゲリカ・カウフマン、ケーテ・コルヴィッツ、上村松園、ラグーサ・玉、山下りん、マリー・ローランサン、レオノール・フィニ、ナターリャ・ゴンチャローヴァ、多田美波、の十二人。
洋の東西、歴史の古今にまたがる画家が広く取り上げられている。

十九世紀から二十世紀にかけての女性画家に関心のある私は、とくにシュザンヌ・ヴァラドンとケーテ・コルヴィッツに注目した。

シュザンヌ・ヴァラドン(1865年-1938年)はモーリス・ユトリロの母親として知られているが、彼女自身はあるお針子の私生児として生まれ、18歳でモーリスを生む。その前から、そしてそれ以後も、モンマルトルでモデルをしながら絵を描いていた。

モデルとしてのシュザンヌは超一流で、ルノワール・ドガなどの描いた「シュザンヌの肉体の、堂々とした調和は、健全で、知的な精神をもった女性を暗示している」という。
絵を描き始めたのが9歳。独学で、初めはデッサンで知られ、後、44歳になって、ゴッホ・ゴーガンを知り、「三次元表現を断念したために、画面は象徴派の趣きを具えた」。

若桑みどりは、シュザンヌの母・シュザンヌ・モーリスに一貫する「父性の欠如」を指摘している。

ケーテ・コルヴィッツ(1867年-1945年)は、父が版画をも手がける室内加工業の工房の主だったために、娘の才能を育てるのに努力を惜しまぬ環境で育った。父は彼女をベルリン、ミュンヘンなどに送り、絵の勉強をさせた。ケーテ自身は生まれも育ちもブルジョアであった。

しかし、彼女は、一貫して、悲惨な「人間」を描いた。とくに、「献身的な貧民街の医師である夫カールとの生活の中で、はじめて『描くべきもの』が何であるかを発見した」という。
ケーテの絵を特徴づける「手」は、「貧しい者の苦悩と生命力と、労働の人生のすべてを象徴している」ともいう。

しかし、ケーテは、古いヨーロッパの絵画(カラヴァッジオ、ミケランジェロ、ドラクロワ、レンブラント、ゴヤなど)の伝統の中から、形態(フォルム)のもつ象徴の価値を学びとった。これが、プロパガンダだけの社会主義絵画と一線を画している所以だと、若桑みどりはいっている。

ケーテの絵にほれ込んで自国に紹介したのが、魯迅(中国)と宮本百合子(日本)だったというのは、なるほどと思わせる話である。  

(2)修業での障壁

さて、「女性画家」の特徴は何だろう? それがここのテーマだ。
これまで、十九世紀から二十世紀にかけての女性画家を4人取り上げた。
 ベルト・モリゾ(1841年-1895年)
 パウラ・モーダーゾーン・ベッカー(1876年-1907年)
 シュザンヌ・ヴァラドン(1865年-1938年)
 ケーテ・コルヴィッツ(1867年-1945年)

4人のうちでは、シュザンヌ・ヴァラドンだけが異色である。シュザンヌは、お針子の私生児として生まれ、自身で家族(母親と息子)を養いながら、独学で画業に勤しんだ。十九世紀から二十世紀にかけての女性画家としては、異例中の異例である。

ほかの3人は、ブルジョアジーの娘として生まれ、親から画家になるための専門教育の機会を授けられ、それを活用して画家として一家を成した点で共通している。

もちろん、画家になる過程で、それぞれの努力があったことは間違いない。
ベルト・モリゾでいえば、ルーヴル美術館での模写の日々があった。
パウラ・モーダーゾーン・ベッカーは、パリに出てデッサンに明け暮れる日々が後の大成の礎になった。
また、ケーテ・コルヴィッツでいえば、古いヨーロッパの絵画(カラヴァッジオ、ミケランジェロ、ドラクロワ、レンブラント、ゴヤなど)の伝統の中から、形態(フォルム)のもつ象徴の価値を学びとる努力をしていた。
このような修業が一人前の画家として認められるための必修科目であった。ただし、これは「女性画家」に限られたことではなかろう。

一方、女性画家の修業を妨げる因習が十九世紀から二十世紀にかけて存在した。それは、女性には裸体デッサンが許されていなかったという驚くべき事実である。坂上桂子が「ベルト・モリゾ ある女性作家の生きた近代」で紹介しているが、ベルト・モリゾもその障壁に苦しんだ一人である。
対象の質感を表現する技法を習得するためには、裸体デッサンは不可欠である。それが許されない社会とは、男性社会の残渣が連綿として残っていたことの現われであろう。
 
(3)職業画家になるにあたっての障壁

さて、人一倍修業して、立派な成果を結実させた女性画家が、等しく「画家」として認知されてきたかはもう一つの問題である。絵を「職業」としようとする瞬間、男性の障壁にぶつからざるを得ない。

佐藤洋子はその著書「パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 表現主義先駆けの女性画家」で一つのエピソードを紹介している。
詩人のライナー・マリア・リルケがロダンの秘書のような仕事に携わっていたときのことだが、リルケが仲介の労をとって、パウラ・モーダーゾーン・ベッカーをロダンに引き合わせたことがある。そのとき、リルケは「この女性はある有名な画家の妻です」と紹介したそうである。リルケといえども、「この女性は才能のある画家です」と紹介する勇気をもっていなかった。これが二十世紀初頭のヨーロッパの知的社会の水準だった。(なお、リルケの妻となったクララ・ヴェストホフはロダンに師事していた。ロダンの側には、女性を差別する意識はなかった。)

現代の日本でも、例えば、女性画家が賞を獲得したり、批評家・業界紙などで賞賛されたりすると、周りの男性の嫉妬・怨嗟にさらされるということである。

「男性社会」、男性優位の幻想が支配しているのが、十九世紀から二十世紀にかけての美術界の姿であった。「お稽古事」の範囲であれば女性を自由にふるまわせるが、女性が絵を職業としようとすると、突然男性が前に立ちはだかるのである。

これを「女性画家の宿命」と呼んでしまっていいのかどうかわからないが、この宿命に立ち向かうことが女性に課せられたもう一つの課題になっていたことは疑いない。
シュザンヌ・ヴァラドンは男性に頼らないことで女性の弱さを乗り越えた。
ベルト・モリゾ、パウラ・モーダーゾーン・ベッカー、ケーテ・コルヴィッツの3人は、誰にも文句をいわせないほど抜きんでた画業で男性をも納得させた。 

いずれも、バリバリ働くことで男性陣に伍している、現代社会の女性を髣髴とさせるエピソードである。若桑みどりもそうかもしれない。  (2006年10月)