静聴雨読

歴史文化を読み解く

再び静岡へ

2012-07-21 07:03:11 | 足跡ところどころ

 

(1)遠洋漁業の街

先月、静岡県浜松市に旅したのに続き、今月は静岡県焼津市に旅した。将棋の棋王戦第3局(久保利明棋王対郷田真隆九段)が焼津市のホテルで開催されたのだ。将棋観戦の旅にすっかりはまってしまった今日この頃だ。

焼津は初めて行く街だ。焼津といえば遠洋漁業の基地として有名だ。私たちの世代には、1954年に焼津漁港を母港とする「第五福竜丸」が、南太平洋のビキニ環礁で、アメリカの核実験による水素爆弾の「火の灰」を浴び、乗組員の久保山愛吉さんが亡くなる、という出来事が強烈に印象に残っている。

遠洋漁業のほかに、近海漁業も盛んで、街全体が漁業に関係しているといっていいほどだ。

最近は漁師の中には、遠くキリバスから来る出稼ぎもいて、外国人漁師の割合が増加しているとのこと。これはタクシー運転手の話。

そして、旅行者にとっては、うまい魚にありつけるのが一番の魅力だ。 

(2)棋王戦第3局

棋王戦第3局は久保棋王1勝・郷田九段1勝の後を受けて天下分け目の戦いとなった。棋王戦は5番勝負なので、ここで勝った方が一気にタイトルに「王手」をかけることになるのだ。

後手番の久保さんの選んだ戦法は「ゴキゲン中飛車」(角道を通したままの中飛車)で、久保さんは後手番ではこの戦法をよく採用している。ところが、この「ゴキゲン中飛車」の神通力が最近褪せ始めたのだ。それは、先手の対策として、「3七銀」と早く上がり、後手番を押さえ込む戦法が効力を発揮することが証明されてきたからだ。

実際、久保さんの戦っている「王将戦」(対佐藤康光九段)と「棋王戦」(対郷田九段)を見ると、以下のようになる;

 王将戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

 棋王戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)勝ち。

 王将戦第3局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

ほかに順位戦A級の対局でも、久保さんは後手番「ゴキゲン中飛車」で負けている。棋王戦第3局は後手番の久保さんとしては正念場だ。変わらず「ゴキゲン中飛車」を採用するか、ほかの戦法に勝機を見出すか。久保さんの決断は「ゴキゲン中飛車」の再採用だった。

しかし、会場に着いた午後2時には、すでに先手の郷田さんが指しやすいというのが青野九段の見立てだ。郷田さんがやはり「3七銀」戦法を採用して、後手番を押さえ込もうとしているようだ。

どうも、久保さんの仕掛けが無理だったようで、その後の解説では「郷田良し」の変化ばかりが出る始末。結局、午後5時前に対局が終わってしまった。

この対局は、後手番「ゴキゲン中飛車」戦法が生き残れるか死滅するかを占うものになるかもしれない。 

(3)魚の街

初めての土地に行くと、その地のブックオフを訪問するのが最近の習慣だ。今回は、藤枝市と焼津市のブックオフを訪れた。

藤枝市のブックオフは駅から25分歩いたところにあった。歩くことを日課にしている私にとっては、往復50分の歩程は格好の散歩になる。見るべきものはなかった。

焼津市のブックオフも駅から25分歩いたところにあった。こちらも、見るべきものはなかった。

併せて、105円の文庫本を10冊買っただけ。

魚の街・焼津で賞味した魚介類を挙げると;

生シラス(◎):まだ、時期が早いのではと危惧していたのだが、これを置いている店があった。わさびとしょうがで食べる生シラスは絶妙の味だ。

中トロ丼(○):これも旨かった。ただ、高いので、旨くて当たり前ともいえる。

トリ貝の刺身(○):旨かったが、ボリューム感に欠ける。

はまぐりの酒蒸し(△):小粒のはまぐりが12粒ほど。殻が開かないのが1つ混じっていた。

金目鯛のから揚げ(X):金目鯛の味が飛んでしまっていた。これは、から揚げを注文した私の選択ミスだ。

以上、5品は一度に食べたわけではなく、昼と夜に分けて食べたものだ。

焼津みやげは、「焼あなご しょうゆ味」(525円)と「しじみ汁」(525円)。  

(4)「ゴキゲン中飛車」

久保棋王・王将が後手番の時に多く採用しているのが「ゴキゲン中飛車」(角道を通したままの中飛車)だ。角道を止めないまま中飛車に構えるため、角交換などの駒の捌き合いに展開することが多く、現代将棋の一つに典型戦法といわれている。中堅の近藤正和六段がこの戦法を多用して好成績を収めたため、陽気な近藤さんにあやかって、「ゴキゲン中飛車」の名前が付けられた。

この「ゴキゲン中飛車」に苦しめられていた先手番が研究して編み出した戦法が早くに「3七銀」と構える戦法だ。星野良生三段が創案した戦法で、「星野流3七銀戦法」とか「超速3七銀戦法」とか呼ばれている。この戦法は、「ゴキゲン中飛車」側の角の動きをけん制したり押さえ込んだりしようという狙いを持っている。プロのトップ棋士もこぞってこの「超速3七銀戦法」を採用している。

久保さんは、今年に入って、王将戦と棋王戦のタイトル戦をタイトル保持者として迎えたが、そのいずれの後手番でも「ゴキゲン中飛車」を採用している。いわば、久保さんの「エース戦法」なのだ。対する挑戦者は、佐藤康光九段(王将戦)にしても郷田真隆九段にしても、いずれも「超速3七銀戦法」で迎えうった。

結果は、

 王将戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

 棋王戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)勝ち。

 王将戦第3局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

  棋王戦第3局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

と続き、

 王将戦第5局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

となり、久保さんはついに王将位を佐藤さんに明け渡してしまった。つまり、「超速3七銀戦法」に兜を脱いだのだ。棋王位もすでに「カド番」(あと1番負けたら、棋王失冠)となっている。こうなると、「ゴキゲン中飛車」が危急存亡に危機に立っているといって言いすぎではない。  

(5)三島のうなぎ

棋王戦第3局の観戦が終わり、焼津の魚介類を堪能し、翌日帰途につくことにした。あいにく氷雨の落ちる薄ら寒い日よりで、身が縮む。

思い立って、三島に立ち寄ることにした。

そこに、私の経験した最もうまいうなぎを食べさせる店がある。「桜家」という。ここのうなぎをもう一度賞味してみよう。

雨の中、三島から伊豆箱根登山鉄道の修善寺行きに乗って、一駅。三島広小路駅に着く。駅を降りると、早くもうなぎを焼く香ばしい香りが鼻を襲う。「桜家」は駅のすぐそばにある。

表で昔の下足番のようなおじいさんが出迎える。さっぱりとして気風のいい人だ。

中に入ると、店内係りのおばさんが切り盛りしている。

メニューを見せてもらった。や、や、ここでも「うな重」などの価格を改訂したと書いてある。

「うな重」の最も安いもので、3150円。以前は、2310円だった。

メニューにはご丁寧にも、さらに価格改定の予定がある、と書いてある。

うなぎの稚魚の暴騰の影響は計り知れない。大げさではなく、いずれ、近いうちに、うなぎを食べることができなくなるかもしれない。

注文した「うな重」はふっくらと仕上がっていて、この上なくうまい。

ただ、注文して配膳されるまでの時間が短くなったようだ。皮のこげた部分が残っている。やや手間を短く省略していないか? 気になった。  (2012/3)

 


静岡の旅

2012-07-19 07:51:26 | 足跡ところどころ

 

(1)政令指定都市

思い立って、静岡県浜松市に旅した。将棋の王将戦第3局(久保利明王将対佐藤康光九段)が浜松市のホテルで開催されるので、その観戦をしてみよう、ということだった。先月の第2局(栃木県太田原市)に続く将棋観戦の旅だ。

浜松といって思い出すのは、浜名湖、うなぎ、ぎょうざ、ヤマハ発動機、河合楽器などであろうか?もう一つ、政令指定都市を挙げよう。ごく最近、浜松市は政令指定都市に昇格した。以前の政令指定都市は「人口100万人以上」という条件が課せられていたのだが、今では、条件が変わり、「人口50万人以上」となった。そのため、適格する都市が急速に増え、今では19を数える。北から列挙すると;札幌・仙台・新潟・さいたま・千葉・横浜・川崎・相模原・浜松・静岡・名古屋・京都・大阪・堺・神戸・岡山・広島・北九州・福岡。

政令指定都市とほかの市との相違はよくわからないが、一つはっきりしているのは、「区制」が敷けることだ。行政の手続きや権限の多くを市は区に下ろすことができる。

地方の中核都市が政令指定都市となって活性化するのはよいことだ。

(2)佐藤康光九段 

東海道新幹線で小田原から浜松まで1時間20分。浜松駅に降り立つと、空気が冷たく、風がキツい。浜松は遠州で、首都圏よりは温暖な気候を想定していたのだが、あてがはずれた。

さて、今期の王将戦の挑戦者は佐藤康光九段だ。いわゆる「羽生世代」の一人で、42歳。佐藤が最も脂の乗った年は、2005年-06年。05年の棋聖戦でタイトルを防衛した後、王位戦、王座戦、竜王戦、王将戦とたてつづけにタイトルに挑戦したもののすべて敗退。続く棋王戦で森内棋王からタイトルを奪取した。棋聖戦から棋王戦まで、タイトル戦に6つ連続して出場するという快挙を成し遂げた。

その後、棋聖位を失い、次いで棋王位も失い、今は無冠だ。久しぶりのタイトル戦への登場だ。

佐藤の魅力は前例にとらわれない手を好んで指すことだ。今期の王将戦第1局では、玉自ら守備に参加する「5七玉」という手を指して、大向こうを驚嘆させた。

ある年、ある百貨店で開催された「将棋まつり」にゲストとして出演した佐藤に色紙を書いてもらったのだが、その文字は「天衣無縫」。まさに、佐藤の気風を如実に表わす文字だ。

さてさて、ホテルの大盤解説会場に入るとすぐに解説が始まった。神谷広志七段と安食総子女流初段が前日の指し手から順に解説を進める。神谷さんは与太話が好きな人だ。 

(3)王将戦第3局 

王将戦第3局は第1局に引き続いて、久保利明王将が「ゴキゲン中飛車」(角道を空けたままの中飛車)を採用した。だが、第1局とは異なり、持久戦模様になった。

神谷広志七段の解説では、初日終了時点では佐藤康光九段がやや指しやすいのではないか、とのこと。

だが、2日目に入って早々に「佐藤有利」となり、昼食休憩時には「佐藤優勢」に変わった。久保さんの粘りも利かず、午後3時半に終局となった。

全体を通して、久保さんのいいところがまったく出ない将棋だった。

将棋ファンは贅沢なもので、両対局者にはギリギリの勝負を望み、結果としてひいきの棋士が勝てばなおさらよい、と思う。将棋ファンの多くは特定の棋士を応援する以前に、いい対局を見たいと思っているのだ。その意味でこの第3局は物足らないと感じたファンが多いはずだ。

前回の第2局は終盤まで優劣を容易に判定できない勝負になり、大いに堪能したものだ。それに比べると・・・、久保さんに「喝!」を入れておきたい。

久保さんは3連敗。

ここで思い出したが、昔の王将戦では、王将が3連敗か1勝4敗した時点で王将位を失うばかりか、次の対局を「香落ち」の下手として指さなければならない、という規定があった。この規定を「指し込み制」という。

実際に、升田幸三八段が木村義雄王将(名人でもあった)を「指し込み」に追い込んだことがあったし、同じく升田幸三八段が大山康晴王将(名人でもあった)を「指し込み」に追い込み、しかも、「香落ち」将棋も勝ってしまった、という故事もある。

久保さんにそこまで厳しいことは求めないが、1局ぐらいは勝って意地を見せてほしいものだ。これは、将棋ファン全体の声だ。 

(4)うなぎを求めて 

浜松の食で有名なのが、餃子とうなぎ。

餃子は、市民一人当たりの消費量が日本一になったそうだ。これまでの首位は宇都宮。

一方、浜名湖を抱える浜松はうなぎの名所でもある。

両方とも魅力があるが、二つを並べると、どうしてもうなぎに触手が動く。これはやむを得ない。

うなぎの稚魚の取引価格が暴騰しているそうだ。2007年に比べて、今は何と10倍。当然、うなぎ屋で提供する「うな重」などの価格も改訂に次ぐ改訂だ。恐る恐るうなぎ屋を覗いてみた。

浜松で最もポピュラーなのは、「うな茶漬け」らしい。名古屋発祥の「ひつまぶし」と同系のもののようだ。「ひつまぶし」とは、細かく刻んだうなぎの蒲焼をご飯に乗せ、初めは「うな重」風に食べ、次いでねぎなどの薬味も混ぜて食べ、最後にお茶をかけて「お茶漬け」風に食べるもので、一度に3通りの味を味わうことができるというものだ。それを簡略化して、初めからすべてぶち込んだお茶漬けにして食べるのが「うな茶漬け」だ。値段もリーズナブルだ。しかし、試してみたところ、なにやら物足りない。「うな重」のようなボリューム感に乏しいのだ。「うな重」は、熱々のご飯に焼きたてのうなぎの蒲焼が乗ることにより、ご飯とうなぎが交じり合って、ボリューム感が生じるのだが、「うな茶漬け」では、茶漬けが「うな重」のボリューム感を奪ってしまうのだ。

もう一つ、うなぎの「白焼き」を試してみた。タレをつけずに焼いたもので、わさびと醤油で食べる。これはなかなかよかった。蒲焼のコッテリ感に二の足を踏む向きには「白焼き」を勧めたいと思う。

(5)冬の白富士 

王将戦第3局の翌日は浜名湖の遊覧に繰り出す予定だったのだが、予想以上に風が冷たいので、浜名湖は端折って、帰りの新幹線に乗った。

新富士駅から三島駅にかけて、左の窓に雄大な冬の富士山が眺められる。

山頂から何本もの稜線が流れているが、いずれも雪を被って白く輝いている。ふと思った。この稜線は何かを思い出させる。そう、老人の顔のしわに似ているのだ。

山腹には大きな雲がゆったりと左右に流れる。

そして、手前の工場の煙突からは水蒸気がもくもくと上昇して、富士山の山稜と山腹の雲を隠す。3通りの白のコントラストが鮮やかだ。

富士川を渡るあたりの富士山が絶景だ。左側にゆるやかに落ちる稜線の長く豊かな様は筆舌に尽くしがたい。

右側の裾の近くにピラミッドのような四面体の隆起が確認される。

新富士駅を過ぎ、三島駅にかかるまで、富士山は別の角度から眺められる。ここでは、右側の稜線の方がゆるやかで長い。さきほどピラミッドのように見えた隆起には地肌の露出が確認できる。

これらの富士山の景観が今回の「静岡の旅」の最大の収穫だったかもしれない。 (2012/2)


会津紀行

2012-07-05 05:08:17 | 足跡ところどころ


1.只見線の旅

久しぶりに首都圏を離れ、会津地方を旅した。

特別養護老人ホームの母を見舞ったその足で、東北新幹線に飛び乗った。
 東京14:08-(東北新幹線)-15:30郡山
 郡山15:43-(盤越西線)-16:52会津若松
 会津若松17:03-(只見線)-18:09会津柳津

東京から会津柳津まではひたすら列車の乗り継ぎだけに気を使い、途中、白虎隊の史跡を見ることもなく、また、喜多方のラーメンを味わうこともなく、旅路を急いだ。この日のうちにできるだけ距離を稼いでおきたかったのである。

郡山から先は、セメント工場や銅精錬工場などが散見した。ふと、宮澤賢治を思い出した。技師兼営業マン、今でいえば、セールスエンジニアとして活躍した賢治は、大船渡線陸中松川の東北砕石工場で働いていたのだ、それを想起させるセメント工場や銅精錬工場だ。

会津若松から、会津坂下(あいづばんげ)までは、平坦な道が続き、水田の稲穂が見事だ。今年は豊作だ。また、りんご園が目立つ。ここでは、島崎藤村の「初恋」を思い出す。「林檎畠の樹(こ)の下に おのづからなる細道は 誰(た)が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ」

車内は帰宅途中の高校生でにぎやかだ。男子も女子もそれぞれグループになって盛り上がっている。

先日、北海道で起こった「事件」を思い出した。通学の高校生で混み合う朝の列車で、満員で乗り切れない乗客を積み残したというのだ。
車掌「奥に詰めるよう高校生にうながしたのだが、詰めてくれず、やむなく積み残した。」
高校生「いや、詰めるだけ詰めた。今日は通学の高校生以外の乗客が多かった。」

実際、高校生のいうように、通学の高校生以外の乗客が多かったのは事実らしい。
ところが、翌日、高校の先生が現場に出向いて、高校生に詰めるよう「指導」したら、積み残すことなく、全員乗れたというのだ。さらにおまけがあり、先生の指導した日は、前日にも増して、通学の高校生以外の乗客が多かったという証言があるのだ。

ここから、次のようなことがわかる。
高校生の感覚では、前日も十分詰めた。ところが、客観的に見ると、まだ空き、余裕があった。
高校生はグループの中では密着していて十分「詰めた」と思っているのだが、グループとグループの間には空き、余裕があって、それを詰めようという意識は高校生の中にはないのだ。

にぎやかだったさざめきがふっと静まり、高校生が下車支度をしている。会津坂下駅で、多くの高校生が下車していった。 (2007/8)

2.運転打ち切り

列車は、会津坂下を過ぎると、途端に、森林地帯に突入する。緑の木々とつる草との景観が続く。
これが只見線か。

今晩は柳津(やないづ)温泉に泊まることにしていた。列車はさらに先の只見方面まで行くのだが、それだと、夕飯を食いはぐれることになるので、会津柳津で途中下車した。すでに暮れなずむ頃なので、有名な福満虚空像尊を詣でることもなく、宿に入った。

夜は、温泉につかり、クロード・シモンを読んで、寝た。クロード・シモンを持ってきたのは失敗だった。難しすぎるのだ。宮澤賢治・高村光太郎・島崎藤村の詩集くらいが適当だった。

さて、翌朝、雨が地面を打つ音で目が覚めた。テレビによると、会津地方に大雨・洪水・雷注意報が発令されているとのこと。

再び、只見線に乗り、今日の目的地・只見を目指した。
列車は相変わらず森林地帯を縫うように進み、トンネルが多い。
只見線は只見川の渓谷に寄り添うように敷かれていて、ある場所では川をまたぎ、また、ある場所では、国道252号線と平行して走る。只見川には一面に霧がかかっている。

車掌が来て、「景観料300円いただきます。」という。「え、景色を見るだけなのにお金を払うの?」「はい、ただ見せん、ですから。」 それほど見事な景観だ。

しばらくして、車掌のアナウンスが入った。「大雨のため、会津川口から小出までは運転を見合わせております。この列車も会津川口で運転打ち切りとなる見込みです。」 あー、何てことだ。冗談をいっているときではない。只見に行けなくなった。会津川口から只見に通う便は一日に3本しかなく、そのうち1本が運休となってしまった。次の列車がたとえ動いたとしても、7時間後の出発だ。大きな時間の無駄だ。

会津川口で予定通り運転打ち切りとなったが、その先に行く乗客のために代行タクシーを手配すると駅員がいっている。只見まで行く乗客は3人、相乗りで出発した。タクシーは横殴りの雨の中を飛ばし、結果としては、列車で行くよりも早く只見に着いてしまった。この世の中、何が起こるかわからないものだ。 (2007/9)

3.田舎の古本村

只見に来たわけは、ここにある「田舎の古本村」を訪れたかったのだ。正しくは「たもかぶ本の街」という。
ここを本拠にして、古本と森林との交換などの事業を展開しているのが「たもかぶ本の街」だ。
詳しくは下記のホームページを見ていただきたいのだが、このホームページはおそろしくわかりづらい。
  http://www.tamokaku.com/2005/index.html

ここでは、森林との交換の目的で送られてきた古本が山のように集められている。それを見たくて、ここに来たのだ。只見駅から289号線を南に2kmほど行ったところに「たもかぶ本の街」はあった。歩いて30分ほどだろうが、あいにくの雨なので、タクシーで向かった。

「本の街」の入口には普通の古本屋が一軒あり、奥に、倉庫が何軒かある。頼めば、倉庫も自由に見せてくれる。「文芸書」「ビジネス・社会科学」「文庫・新書」などの倉があり、それぞれ、中には大きな本棚が配列されて、本が詰まっている。

初めは興奮したが、見ていくうちに、珍しい本はなく、雑本(ありきたりのコンテンツで、流通価値の乏しい本)がほとんどであることがわかって、興味が減殺した。

ここで感じたことを記すと:
1. 本が分類・配列されていない。そうか、これは文化資産としての「本」ではなく、リサイクル目的の紙資産なのか、と了解した。本が分類・配列されていないわけを店員に尋ねたら、「手が回らない」と返ってきた。そして、専門の古本業者が来て、ごそっと持って行ってもらうのを待っているのが実情らしい。
2.本棚の本が前後2列に収納されているが、当然、後ろの本は見えない。見ようと思ったら、前の本を取り除ける必要がある。
3.売価は定価の半額だが、その価値がある本は極端に少ない。結局、10冊求めて持ち帰った。
当初のもくろみは、多く購入して宅配便で送ってもらうつもりだったが、その必要もなかった。

「本の街」で2時間過ごして、雨が上がったのを幸い、駅方面に歩くことにした。只見線の列車をつかまえるにはまだ時間がたっぷりあるので、「温泉保養センター」に寄っていこうと思ったのだが、行ってみると、「定休日」だ。あー、どこまでもついていない。

あとは、街中でひたすら時間をつぶした。 (2007/9)

4.小出のやきとり屋にて

雨が上がって、列車も動くようだが、早めに会津を脱出するのが良いと思った。帰りは、上越新幹線経由にした。
 只見16:20-(只見線)-17:42小出
 小出18:33-(上越線)-18:42浦佐
 浦佐19:14-(上越新幹線)-21:00東京

途中、乗り継ぎの都合で、小出で大きな空き時間ができた。駅を出て、どこか休めるところがないかと見回したが、うどん屋とやきとり屋が目に入るだけだった。それで、やきとり屋に入った。

私が最初の客のようだった。

二番目の客は、仕事でよくこの地を訪れる「旅がらす」だ。女将が「旅がらす」に説明していたところによると、「上越新幹線が浦佐に停まるようになって、小出はさびれる一方」とのこと。駅前にめぼしい飲食店がないのもそのせいだ、と。

三番目の客は、私と同じく列車の時間待ちをする「おしゃべり」おばさんで、入ってくるなり、「アー、何にしよう。ビール大瓶は飲みきれないし、生ビールはないの、どうしよう」とうるさい。隣の「旅がらす」が「私のビールを一杯いかがですか」と持ちかけ、女将がすかさずグラスを取り出す。「おしゃべり」おばさんは大げさに謝意を表して、「じゃあ、私が一本頼むから、良かったら残りをあけてくださいな。女将さん、これは私につけてよ。」と続け、以後、「おしゃべり」おばさんと「旅がらす」は盛り上がっていた。

四番目の客は、常連らしい。女将が「水割りでいいですか」と確かめて、さっと水割りを出す。「水割り」といっても、焼酎の水割りのことだ。この客は水割り一杯を空けて店を出た。女将がノートにツケを記帳している。 (2007/9)

5.二十歳の美女の素性

五番目の客は、二十歳くらいの美女だ。店内の空気がさっと変わったのがわかった。女将が、「ハツ1本とレバー2本でいいですか?」と確かめているところから見ると、やはり常連らしい。それにしても、やきとり屋には場違いなキャラクターだ。

六番目の客は、やはり、常連らしい。

おかしなことに、以上六人とも、ひとりでやきとり屋に入ってきた。「小出のせつなさ」を見たように思えた。 

勘定を済ませて、駅に戻り、プラットフォームのベンチで列車を待っていると、さきほどの「おしゃべり」おばさんが隣に座って、「さきほどはどうも」と話しかけてきた。ここで、「おしゃべり」おばさんが、二十歳くらいの美女の素性に関して、驚くべき情報をもたらしてくれた。

「旅がらす」が女将に「ここに、キャバレーでもあるのかい?」と聞いたところ、女将がいうところでは、「あの娘は、貧血もちで、毎日、ここでハツ1本とレバー2本を食べて貧血を補っているのよ。お母さんが車で送り迎えしてね。」とのこと。
そういえば、表のワゴン車の運転席におばさんが座っていたのを思い出した。

ハツ1本とレバー2本、計240円の診療所とは、これもまた「小出らしいほほえましさ」だ。

街の寂れていく様を見つめ続けてきた女将、列車の時間待ちの女、仕事を求めて地方を流れさすらう旅がらす、常連客、貧血もちの娘・・・。
新藤兼人(「待ちぼうけの女」)や小津安二郎(「浮草」)にこの素材を預けたならば、一本の映画かテレビ・ドラマが出来上がってもおかしくないような出来事だった。 (2007/9)


栃木の旅

2012-04-02 07:35:17 | 足跡ところどころ

 

(1)芭蕉ゆかりの地

思い立って、栃木県北部の大田原市に旅した。きっかけは、将棋の王将戦第2局(久保利明王将対佐藤康光九段)が大田原市のホテルで開催されるので、その観戦をしてみよう、ということだった。昨年12月の竜王戦第5局(青森県八戸市)に続く将棋観戦の旅だ。

大田原市は、「平成の大合併」で、旧大田原市と湯津上村・黒羽町が合併してできた市で、私は初見参だ。王将戦の開催されるホテルは、黒羽(くろばね)地区にあった。黒羽を流れる那珂川は、そう、鮎釣りの名所ではないか。ホテルは那珂川のほとりに建っている。幅が広い川だが、水量が異常に少ない。

また、黒羽の最大の「売り」は、かの松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で通過して逗留した村だというところにある。井本農一『奥の細道をたどる』(角川選書)をひもとくと、芭蕉は、元禄2年4月3日から16日まで、黒羽とその周辺に遊んでいる。土地に芭蕉の有力な支援者がいたことと長雨に降り込められたためらしい。

今は、横浜から宇都宮まで「湘南新宿ライン」が通じていて、宇都宮で乗り換えて西那須野駅までスムーズに行ける。西那須野駅から黒羽まで路線バスでホテルに向かった。

井本によると、かつては、西那須野駅から黒羽まで軽便鉄道が走っていたらしいが、今は路線バスに代わっている。そのバスも一日に6-7便しかない。土地の人は車で移動して、不便なバスなど利用しないのだ。

王将戦第2局の初日は、解説会がなく、対局室に据えられたモニター・カメラの映像を30分ほど眺めて解説会場を出た。相三間飛車の力将棋の様相で、進行が遅い。第1日の封じ手が30手目というのは滅多に見られない遅さだ。それほど難解な序盤戦なのだろう。 

(2)旧友との再会

夕方6時。ホテルのロビー。

ここで、大学時代のゼミナールのクラスメートのHと待ち合わせをしていた。昨年10月に実現したクラスの同窓会にHと私が出席して、Hが大田原市に居を構えていると知って、そこを訪問しようと思ったわけである。

Hと私は昨年10月が40年ぶりの再会だったが、40年の隔たりを感じさせなかった。互いに相手を評価していることにも変わりがない。

Hは10年前の退役後に、林を切り開いて立てた家に住んでいるという。驚いたことに、壁・天井などの内装がすべて杉材を使っている。まるでログハウスのようだ。山男のHにふさわしい家だ。この杉がやさしい雰囲気を醸している。

酒を酌み交わしての歓談が深夜12時までおよび、いささか飲みすぎた。翌朝、酒気が残っているのがわかった。Hに頼んで、付近を散策することにした。付近はいたるところに木立があるので、その中の散策は実に気持がいい。1時間の散策で酒気が抜けていくのがわかった。

杉材の内装といい、木立の中の散策といい、これこそが最高の贅沢ではなかろうか?

その後、Hに解説会場のホテルまで車で送ってもらった。 

(3)王将戦第2局

今期の王将戦は久保利明王将に佐藤康光九段が挑戦している。久保は振り飛車使いの大家で、「さばきのアーティスト」の異名をもらっている。一方の佐藤は、前例にとらわれない指し手を好んで指す。私の持っている佐藤の色紙は「天衣無縫」と認めてある。まさに、佐藤の指し手は「天衣無縫」だ。

第2局は、先手の久保が得意の三間飛車に構えると、後手の佐藤が負けじと飛車を三間に振った。「相三間飛車」というあまり見かけない出だしの力戦将棋になった。両者の特徴がよく出ている。

1日目の序盤は久保の方が「模様が良く」(形勢が良く)、佐藤はバラバラの陣形をどう立て直すのかと思われた。

2日目の午前10時30分、もう解説が始まっている。解説者は小倉久史七段。いささか心もとない解説者だと思った。指し手に追随するのに四苦八苦なのだ。

と思っていたところ、若手のバリバリの戸部 誠六段が助っ人に現われた。これで救われた。

戸部は久保と同じ振り飛車党であり、解説のうまさも若手の中でもピカ一だ。流れるように、本譜(実際に指された手)と変化(指された手以外の手)を解説してゆく。小倉はそれを「承っている」気配だ。

解説では、久保の攻勢を佐藤がしのげるか、が興味の中心だそうだ。 

(4)昼食休憩

午前の解説が終わり、休憩時間に入った。近くのそば屋でうまいそばを食して、那珂川の近傍を散策した。那珂橋を渡る。かなり長い橋で、川の大きさがわかる。川面を渡る風が冷たい。橋を渡り切った先にある「あゆ」の幟を立てた店に入った。そこでは、鮎漁に使う「おとり鮎」を販売している。

鮎の釣り方の一つに、「鮎の友釣り」がある。鮎は自分の縄張りを作り、その縄張りにほかの鮎が侵入すると、それを追い出すために猛烈に暴れだす習性がある。その習性を利用して、「おとりの鮎」を仕掛けに付けて、鮎の生息していそうな瀬や淵に流すのだ。すると、瀬や淵の主の鮎が暴れて仕掛けにかかる、という寸法だ。何とも高等な釣法だ。私は鮎釣りはやらない。棹が6-8mと長くて、それを扱うのができないし、釣れた鮎をタモに取り込むのにも高等技術が必要だからだ。

さて、その店では、「おとり鮎」を販売するとともに、釣れた生き鮎の買い入れもしているらしい。また、「鮎の塩焼き」や「鮎の甘露煮」の販売もしている。みやげに「鮎の甘露煮」を買い求めた。1尾250円、子持ちが1尾500円。リーズナブルな値段だ。(帰宅後、これを食して、その旨さにたまげた。)

(5)難解な終盤戦

解説会は午後2時に再開した。対局は午後1時30分に再開していて、以後、終局まで休憩はない。午後も、小倉久史七段と戸部誠六段の掛け合いが続く。

久保は馬を作り、竜も作る。一方の佐藤の馬は僻地に幽閉されたままだ。素人目にも久保が指しやすそうだ。やがて、佐藤は焦土戦術で自陣を明け渡し、王様が中段に逃げ出した。「天空の楽園」を求めたのだろうか? これが効を奏し、久保の攻めが渋滞し始めたらしい。

佐藤の持ち時間が先になくなり、次いで久保の持ち時間もなくなった。ともに「1分将棋」(1分未満で手を指さなくてはならない)になった。それでも、解説者はどちらが勝ちといえないという。まさに、「難解な終盤戦」だ。

夕刻、7時を過ぎたころに、久保が指した「1二竜」が自玉の詰みを見損じた手だったようで、以後、佐藤が確実に詰め筋に指していった。23手詰めの詰みで、佐藤が久保玉を討ち取った。解説会場の観戦者から歓声と拍手が沸いた。

佐藤の粘り強い指しまわしが強い印象を残した。佐藤ファンとしては、堪えられない一戦だった。

対局中のモニターに映る佐藤の姿が消え、咳き込む声が聞こえる。これは佐藤の癖で、対局中に緊張すると激しく咳き込むのだ。そんなシーンも何度か見られ(いや、聞かれ、か)、面白かった。

終局後、解説会場に、両対局者が姿を見せた。久保の憔悴し切った表情が痛々しい。佐藤は、詰め手順に入った4手前の「3四香」で勝ちが見えた、と語っていた。一方の久保は、まだ、敗因がわかっていない、と正直に話していた。  

(6)微妙な話題

大田原市は栃木県の北部に位置している。そう、福島県と近接している。場所柄、福島第一原子力発電所の事故に伴う放射性物質の飛散の影響をもろに受けている。落ち葉を踏みしめる散策は快適この上ないが、この落ち葉に放射性セシウムが堆積していないか?

北関東の各県では、この冬、ワカサギ漁を軒並み中止したり自粛したりしている。那珂川で取れる鮎には、放射性セシウムの影響は出ていないか? 気になるところだ。

だが、Hとの会話では、この話題は避けた。外来者が自ら持ち出す話題ではなかろう。

昨年12月の青森の旅も今回の栃木の旅も、直接、東日本大震災の被災地を避けながら、その雰囲気を嗅ぐ目的を持った旅だった。今の私にはそれくらいの冒険しかできない。 (2012/2)


青森の旅

2012-03-31 07:56:49 | 足跡ところどころ

 

(1)「三八」へ

思い立って、青森を旅した。きっかけは、将棋の竜王戦第5局(渡辺 明竜王対丸山忠久九段)が青森県八戸市で開催されるので、その観戦をしてみよう、ということだった。竜王戦は7番勝負で、どちらかが4勝した時点で勝負は打ち切りとなる。第2局を終わった時点で渡辺竜王が2連勝で、はたして第5局が実現するかどうか決まらなかった。第3局で丸山九段が1勝を返し、ようやく、第5局が行われることが決まり、旅の準備を始めた。

八戸市は青森県南東部にあり、三沢市と合わせて「三八」と呼ばれているそうだ。北西部の「津軽」と北東部の「下北」に比べて、寒さは緩く、降雪量も少ないらしい。

今回は、将棋竜王戦第5局の観戦のほかに、三沢にある「寺山修司記念館」を是非訪れたいと思っていた。三沢は寺山修司が青春を過ごした町で、寺山はこの町に愛憎こもった感情を抱いて後年を生きてきた。

また、地図を見ると、おいらせ町も近いようだ。「おいらせ」というと十和田湖方面を連想するが、実際は東海岸にまで延びた大きな町である。ここに、「大山将棋記念館」があるという。十五世名人・大山康晴の肝いりでできた記念館だから、今回の竜王戦観戦の付けたしとしてピッタリだ。

三沢と八戸へ行くには、東北新幹線を利用する手と飛行機で羽田から三沢まで飛ぶ手とがあるが、今回は飛行機にした。朝一番の便はほぼ満員で、驚いたことに、国内便では滅多にないことだが、アメリカ人が半数を占めている。そう、アメリカ空軍三沢基地にいく乗客が多いのだ。体格がよくて、スキンヘッドの乗客が多い。 

(2)寺山修司記念館

朝の三沢空港に降り立つ。空気がキリっと締まった感じで、寒さが身に染む。

空港から「寺山修司記念館」までタクシーで行く。2240円。

寺山修司を特徴付けるのは、昭和のサーカスやバーレスクに見られたギニョールや奇形人間だが、それらのイメージがこの記念館にも溢れている。部屋の中に机をいくつも置き、それぞれの机の引き出しに寺山の断片を詰め込む演出などはなかなかの見ものだ。このようにユニークで飽きない展示をしている記念館を私は知らない。

ロビーでは、寺山と三沢についての記録映像が放映されていた。寺山は、生前、三沢に帰りたがらなかったそうだ。寺山の三沢への愛憎半ばする感情はこれから解かねばならないことだ。

同じように、故郷に対する愛憎の気持を表わした先輩が、そう、太宰治だ。太宰は津軽の旧家に生まれたことのコンプレックスを文学にし続けた。一方、東京での放恣な生活にひたって、旧家に生まれたことのコンプレックスを増殖し続けた。

寺山の場合は、太宰とやや異なり、自らの三沢に対するコンプレックスを諧謔的に表現した。その最も典型的なのが、母・ハツへの感情の表わし方に見られる。寺山は、そのエッセーや短歌の中で、しばしば、母を「殺して」いる。もちろん、それは一種の「諧謔」なのだが、何回も何回も現われる「母殺し」のテーマの執拗さには驚かされる。

(3)大山将棋記念館

「寺山修司記念館」は何時間でも過ごせる施設だが、次の訪問先に行く予定がある。三沢空港から「寺山修司記念館」まで送ってもらったタクシーの運転手が迎えに来てくれて、おいらせ町の「大山将棋記念館」まで再び送ってもらった。5410円。

大山康晴十五世名人とおいらせ町とのつながりの経緯はよくわからない。わかっているのは、この町が将棋で町おこしをしようと企画し、原子力発電施設の誘致による交付金を財源とした「大山将棋記念館」を設立して運営し、将棋大会を開催するなどしてきた、ということだけだ。

現在の記念館には、旧宮家に贈った珍しい書体の将棋駒だとか外国人向けの将棋駒などが展示されている。王(玉)は「K米」と表記してある。「K」はKing で、「米」は駒の動ける範囲を表わしている。王(玉)は前後左右どこにでも動ける、というわけだ。

ほかには余り見るべきものはなく、早々に記念館を辞した。「青い森鉄道」の下田駅までバスに乗った。下田駅は開業130年とかで、古い伝統のある駅なのだが、駅前には商店が一つもない。一軒ある食堂は閉鎖されたままだ。 

東北新幹線が青森まで開通して1年。八戸から青森までの旧東北本線は「青い森鉄道」に移管された。新幹線の停まらない「青い森鉄道」の沿線駅の周辺は寂れるままなのだろうか?  

(4)将棋竜王戦第5局

東北新幹線が八戸駅に停まるので、八戸の街の中心は八戸駅の周辺にあるのかと思っていたのだが、そうではないらしい。八戸駅から八戸線で東に2駅行った「本八戸(ほんはちのへ)駅」周辺が八戸の街の中心なのだ。ちょうど、関東の「本川越(ほんかわごえ)」のような位置関係で、元々の繁華街はこっちにあったのですよと、「本」の字が主張している。

その繁華街は本八戸駅から南に2ブロック行ったところにあった。私のホテルもその近辺にあった。百貨店、飲食店、飲み屋街などが昔ながらの細い道の周辺にひしめいている。

竜王戦の対局は、その繁華街からさらに南下した「スターホテル」で行われた。

ここまで、渡辺竜王が3勝、丸山九段が1勝。この第5局での結果次第で竜王戦が終了するかもしれない。事前の大方の予想は「渡辺竜王有利」で、4勝0敗か4勝1敗という予想が多かった。私も同じような予想をしていた。実際の進行も予想通りだ。渡辺竜王のタイトル防衛の瞬間を現場近くで見てみたいと思ったわけだ。

この第5局は二日目の朝から局面が動き、渡辺竜王が攻勢を続け、ついに勝ちきった。竜王位8連覇の達成だ。

スターホテルのホールでファン向け大盤解説会を聞いた。立会人の中村修九段、先崎 学八段、NHK解説の鈴木大介八段、佐藤和俊五段が入れ替わり解説した。途中、形勢に差がついてしまったのだが、丸山九段が辛抱して盛り返したらしい。しかし、止めの「香打ち」があって、渡辺竜王が寄せきった。解説者の誰も、この「香打ち」を予測していなかった。このあたりに当事者と傍観者の違いが浮き出て面白かった。

さて、将棋界の青森出身棋士としては、この日登場した先崎学八段と行方尚史八段がいる。

先崎八段は棋士には珍しく文才があり、多くのエッセーを出版している。一方、しゃべりの方はあまりうまくない。ということは、青森の先輩、そう、太宰治にそっくりなのだ。先崎八段は十代から二十代にかけて、荒れた生活をしていた(と、本人が言っている)が、その点も太宰に生き写しだ。

行方八段はそのシャイな話しぶりがやはり太宰に似ている。彼は八段になって、今や、地元のアイドルらしい。

先崎八段にしても行方八段にしても、すぐに太宰を思い出させるということは、太宰が青森の人物の原型であり典型であることの証左である。

(5)豊かな魚介類

翌朝、「八戸あさぐる」のサービスを使って、朝市を覗いてきた。タクシーがホテルまで迎えに来てくれて、陸奥湊駅前の朝市会場まで送ってくれ、1時間半後に、ホテルに送り返してくれるサービスで、1200円。

朝市の主役は魚介類と野菜だ。

おばあさんの店で、毛ガニ(800g、2500円)1杯、ウバガレイ(2kg、3000円)1枚、ほっき貝(200円)3個を求めて、自宅まで送ってもらうことにした。

いずれも、品質・価格に取り立ててみるべきものはなかったが、おばあさんとのやりとりが面白かった。

残った時間は、食堂に入り、甘エビをつまみに一杯引っ掛けた。

八戸は魚介類の宝庫で、今回の旅で、さまざまな魚介類を味わった。ホタテ、ツブ貝、イカ焼き、いちご煮、せんべい汁、などなど。中で一番うまかったのはサバの刺身で、その甘味は格別だった。ホヤは時期が終わり、賞味できなかった。 

(6)八戸線の旅

ホテルをチェックアウトして、帰りの飛行機の時刻まで、八戸線に乗ってみようと考えた。

八戸線は八戸から三陸海岸の久慈まで走るローカル線で、東日本大震災で全線不通になった。その後、まず、八戸から鮫まで復旧し、次いで、階上(はしがみ)まで、種市までと復旧して、今は八戸から種市まで通じている。種市から久慈までは未だ不通で、代替バスが運行している。

この八戸線で行けるところまで行ってみようと計画した。幸い、時間はたっぷりある。

前夜の天気予報では、低気圧の通過で風と雨の強い荒天が予報されていた。

八戸から鮫までは住宅地の中を通る平穏な列車旅だった。

鮫を過ぎると、様相が一変した。海を見ると、一面に白波が立っている。恐怖感を催すほどだ。これが冬の東北かと実感する。併せて、3月の大震災が想起された。3月の白波は大津波だったわけだが、そうか、このようにして、大津波は陸地を襲ったのかと、体感することになった。

海岸線と線路の間には、林が敷きつめられるように並んでいる。防風林だが、今では、「防波林」であり「防砂林」でもあることがよくわかる。

冷たい横殴りの雨が強くなる中、種市に着いた。当面の終着だ。久慈まで行く代替バスの時間を駅員に聞いた。「このバスは久慈に何時に着きますか?」「九時です。」だめだ、こりゃ。

種市で20分ほど休憩した後、折り返しの八戸行きに乗車した。雨と風はますます強くなっている。

出発後、列車のスピードが遅くなった。風を警戒しているに違いない。階上を過ぎて、鮫に近づいたところで、列車はノロノロ運転となり、ついに停車してしまった。「風が強くなったため、中央運転指令所の指令で一時停止します。停止解除の指令が出ましたら、運転を再開します。」と車掌のアナウンスが流れる。

さて、今日は羽田に帰らなければならない。時間は大丈夫だろうか? 一抹の不安が胸をよぎる。

窓外を見やると、柵で囲った牧場に、親馬2頭と仔馬2頭が身を寄せ合って草を食んでいる。時に、一斉に駈け出す。馬たちの黒いシルエットが印象的だ。

牧場と線路の間は、葉の落ちた木々が、強風になびいている。その姿は一種のオブジェだ。

20分後、列車が動き出して、すぐに鮫に着いた。鮫から先は市街地を走行するので、もう安心だ。

本八戸に到着して、駅の掲示板を見ると、「種市-鮫間は運転を休止しています。」とあった。私の乗った列車が最後の運転だったらしい。危ないところだった。時間に余裕があったからよかったものの、旅の最終日にしては無謀な八戸線の旅だったかもしれない。

 悪天候のせいか、三沢から羽田までの飛行機は揺れずめで、降りてからも、ギシギシという揺れの体感が残るほどだった。  (2011/12)


西国行脚

2011-11-08 07:52:06 | 足跡ところどころ

 

(1) 芭蕉の心境

 

思い立って、中国を旅することにした。今は「中国」というと隣りの大陸を思い浮かべるが、ここでの「中国」は中国地方だ。

 

世の中への貢献を終え、家族の世話も一段落し、これからは自分自身の生を見つめ直すしかないと思い始めると、しきりに芭蕉の心境が気になり始めた。「おくの細道」への旅を計画した芭蕉は、本当かどうかはさておいて、この旅が人生最後の旅になるかもしれない、あるいは、旅先で野垂れ死にするかもしれないと考え、それでも構わない、と覚悟を決めたのは間違いない。

 

私の場合、それほどまでの深刻さはないが、そろそろこれまでの人生を整理し、お世話になった人には礼をいい、再び会うかわからない人には秘かに最後の別れの挨拶をしたいという気がそぞろに持ち上がった。

 

今回、訪ねる土地は4ヶ所: 倉敷 → 広島 → 美祢 → 山陽小野田 で、3泊4日の旅程を組んだ。 

 

(2)     倉敷

 

初日は岡山県・倉敷に行った。ここには、母の絵の仲間で、母の絵を非常に評価しているHKさんが住んでおられる。

母の最後の個展となった20058月の個展に、HKさんは、そのためだけに、わざわざ東京まで足を運んでくださった。母の絵のどこを評価しているのか? それを知りたかった。

 

HKさんは、勤め先を定年退職して、今は、少々の田を耕したり、畑に野菜を作ったりしながら、画業に勤しんでいる、とのこと。近年、農家の高齢化が進み、田の面倒を見切れなくなった近隣の人から、代わりに田を耕すよう依頼され、結構忙しいらしい。

 

お宅の居間には、幅2間の床の間があり、右半分に仏壇(幅90cm 高さ170cm)が鎮座し、左半分には『天照大神』の大きな掛け軸が掛かっている。神仏同居はこの地では珍しくないらしい。

 

HKさんは20年前か30年前から、母の絵に注目していたそうだ。テーマや色使いが人まねでないことが最も評価する点、だそうだ。

母は、水彩画を描くにあたって、クレパスで輪郭を描くという手法を開発した。クレパスの乗った部分は水をはじくので、絵具が乗らない。この原理を逆手にとって、クレパスの遊びに画想を委ねたのだ。HKさんはこの点を高く評価しておられた。

 

母の絵のテーマは、花・風景・抽象画の3つに分かれるが、実は、クレパスを使った水彩画の花には抽象画に通ずるものがあるのではないか? これは私の見立てだ。

 

これから、母の絵を整理して、人に見てもらえるようにする上で、改めて協力していただきたいとお願いして、倉敷を離れた。 

 

(3)     広島

 

広島には、大学時代のゼミナールのクラスメートSMがいる。サラリーマンを退役して郷里に帰ったそうだ。奥様も広島出身なので、この決定は難なく決まったらしい。

 

SMは40年前の容貌・体躯のまま私の前に現われた。頭髪に白いものが混じっているのだけが変わったところだ。

私はどうか、と聞くと、「少し、ふっくらとなったね。」と言われた。そう、大学時代は53kgだった体重が今では70kgなのだから。

 

広島には大学時代に一度寄ったことがあるだけで、それは山陽新幹線の開通する前のことだ。

その後、町は変貌を重ねたことだろうが、私の関心は変わらないもの、そう、ヒロシマ関連の史跡にある。それで、SMに、原爆資料館と原爆ドームとを案内してもらった。

この春の福島原発の事故以来、ヒロシマを訪れる人が増加しているとSMはいう。

 

ヒロシマ関連の史跡の見学で疲れた後は、旧交を温める酒盛りになった。

ゼミナールのクラスメート(「ゼミテン」といったが、この言葉は今でも生きているのだろうか?)は15名。SMは幹事を勤めていたので、ほとんどのクラスメートを覚えているという。

 

私の場合は、大学卒業後まで付き合いのあったのは一人だけ。それも、数年で途絶えたままだ。

しかし、そぞろ昔のゼミテンに会ってみたいという思いが募っている。

 

本当は、指導教師の恩師が元気だった時にお目にかかる機会をつくるべきだったのだが、7-8年前に恩師は亡くなってしまった。

恩師の生前に一回だけクラス会が開催されたそうだが、そのころ私はクラスメートの誰とも付き合いがなかったので、出席は叶わなかった。

 

そして今、SMにクラス会の開催をもちかけたわけだ。

今年は、大学卒業後45年にあたるので、秋の同窓会の場でゼミナールのクラス会を同時に開催するプランをSMが考えてくれた。久しぶりに旧友の顔が拝めそうだ。 

 

(4) 美祢

 

山口県・美祢市は、秋芳洞・秋吉台のある町として知られている。この町に、高校時代のクラスメートIYさんがいる。Uターンしたご主人に付いてきて二十数年になるという。

 

毎日午後はご主人の経営する工務店の事務の仕事をしているというので、そこにIYさんを訪ねた。高校卒業以来だから、何と49年ぶりの再会だった。IYさんは昔に比べ、少し華やいで見えた。私のことを聞くと、ここでも、「少し、太ったかしら。」と言われた。そう、その通りだ。

 

さて、それからは、クラスの面々や恩師を一人ずつ俎上に上げて、それぞれが知る消息をぶつけ合った。IYさんが卒業アルバムを持ち出し、私が北海道修学旅行の企画冊子を持参して、それらを材料にして、あれこれ話し合った。まったく息つくひまのない言葉の応酬だった。私は口数の少ない方だが、この日の3時間半で、1年分の言葉を発した気分だった。一方、IYさんも、これまでの印象とは異なり、よく話を継いでいたように思う。

 

クラスメートの中にその後結婚したカップルが一組あったのだが、IYさんがいうには、「ほかにも、いろいろ、噂があったのにねえ」とのこと。ここで、ドキッとした。しかし、それ以上聞き出すことは憚られた。次の機会にアルコールを飲ませて、聞き出すことにしよう。

 

山口県といえば、中原中也と金子みすずが思い浮かぶが、今回は二人の名前を出すのを忘れるほど、昔話に熱中してしまった。 

 

来年は高校卒業後50年になるので、そのクラス会で再会しようと約して別れた。  

 

(5) 山陽小野田

 

山口県・山陽小野田市は、小野田市と隣町が合併してできた市で、炭鉱とセメントの町として知られている。ここに、亡くなった兄の嫁が帰って暮らしているので、訪ねてみた。兄は早くに亡くなったので、もう、かれこれ25年になるという。リュウマチの痛みが時々ひどくなり、熱発すると、入院せざるを得ないという。

 

今回訪れた時は、幸い症状が治まっていて、活発に、兄の死後の生活について話してくれた。義姉はよく話す人なので、私は聞き役に回ることが多い。

昨年は左手の骨髄の手術をしたと聞いてびっくりした。悪性のものでないと聞いて、やや安心したが、これからの老後を一人で暮らす不安感が義姉を襲うらしい。

 

3DKの県営住宅の住まいは整頓が行き届いている。この地では、目立つ生活は禁物だと義姉はいう。派手な衣装や装飾品、車の乗り回し、などは要注意らしい。住人は古くからの人が多く、他人の振舞い、とくに他所から越してきた人の振舞いをよく見ていて、心狭い感じを受けるらしい。

 

「お元気で何よりでした。これからも穏やかに過ごしてください。」と挨拶して、山口宇部空港に向かった。 

 

(6)帰ってきて

 

もう二度と来ることはあるまい、また、再び相見(えるまみ)ことは叶わないかもしれない、とやや悲壮な覚悟で出た「西国行脚」であったが、終わってみれば、再会の約束の連続で、いい意味で、予想がはずれた。

 

今回の旅でお目にかかった人たちの年齢は、61歳から70歳まで。

HKさんは、61歳で、サラリーマンを退役したものの、バリバリの農業の現役。

SMは、私と同年で、サラリーマン退役後の生活を楽しむ毎日。

IYさんは、やはり、私と同年で、自営業のご主人(70歳)を手伝う毎日。

義姉は70歳で、老後の生活を守る毎日。

 

未だに仕事に就いている人も、退役した人も、健康に不安を抱きながらも、まずまず、元気で、生活に余裕を見出している。それを確認したのが最大の収穫だった。「再会の約束」も生活の余裕があってこそのことだ。

 

中では、70歳の義姉から聞いた「老後の不安」「一人暮しの不安」が最も身につまされる話題だった。会った人だれもが、まもなく70歳を迎える。迎撃態勢を布くか、協調路線でいくか、それは一人ひとりの老後を迎えるスタンスの問題だ。そのスタンスを決めるのは、やはり、健康状態だろう。

そんなことを、旅から帰ってきて思っている。

 

例えば、5年後に、今回お目にかかった人たちと再会できるかどうかはわからない。私の側に何か起こるかもしれないし、相手側に何かこるかもしれない。そういう微妙な年頃に差し掛かっていることは日々認識していく必要がある。

 

この旅を契機にして、さらに、各地を経巡ってみたいと思う。  (2011/6