亡くなった須賀敦子の著書に「遠い朝の本たち」(ちくま文庫)というのがある。本を擬人化した「本たち」のことばが新鮮な衝撃を与える。今回のタイトルはそれを真似してみた。手元にあったが今はなくなっている本のことを書いてみよう。
なくなった原因は、古本屋に持っていってもらったのと、ネットに出品して利用者に渡ったのと、である。いずれにしても、次の利用者・読者に受け渡されたのだから満足している一方、愛惜の念も消しがたい。それで「遠くに旅立った」と表現してみた。
このブログを始めてみて気がついたことは、それぞれのコラムが何らかの本からの知識に拠っていることだ。それらの本の多くは以前手元の本棚にあったものだ。ところが、今では、それらの本の一部はすでに手元にない。「遠くに旅立って」しまったのだ。
例えば、フェルディナント・ホードラー論は吉田秀和「調和の幻想」(*)を参考にしているが、この本は古本屋に処分した口だ。また、ベルト・モリゾのコラムで参照した長谷川智恵子「世界美術館めぐりの旅」(*)は、正・続あわせて、新しい読者のもとに行ってしまった。
手元になくなった本を参照する必要がある場合は、古本屋の店頭で立ち読みするか、図書館に出向いて調べることになる。貴重書ではなく、普通の本がほとんどなので、上の二つの方法で大体用を足せる。
東京・港区には図書館が多く、区の図書館だけで6館ある。それらが互いにつながっていて、本の検索システムで探せば、求める本がどこの図書館のどこの棚にあるかの所在情報が入手でき、さらに、貸出中か否かまでわかる。そこで得た情報を頼りに2、3館をはしごすれば、調べ物が驚くほど捗ることを発見した。もはや、手元に本を置いておかなくても大丈夫である。
このブログに登場した「本たち」で、以前手元にあって今はないものに、感謝と敬意を込めて(*)印を付すことにした。 (2006/9)
なくなった原因は、古本屋に持っていってもらったのと、ネットに出品して利用者に渡ったのと、である。いずれにしても、次の利用者・読者に受け渡されたのだから満足している一方、愛惜の念も消しがたい。それで「遠くに旅立った」と表現してみた。
このブログを始めてみて気がついたことは、それぞれのコラムが何らかの本からの知識に拠っていることだ。それらの本の多くは以前手元の本棚にあったものだ。ところが、今では、それらの本の一部はすでに手元にない。「遠くに旅立って」しまったのだ。
例えば、フェルディナント・ホードラー論は吉田秀和「調和の幻想」(*)を参考にしているが、この本は古本屋に処分した口だ。また、ベルト・モリゾのコラムで参照した長谷川智恵子「世界美術館めぐりの旅」(*)は、正・続あわせて、新しい読者のもとに行ってしまった。
手元になくなった本を参照する必要がある場合は、古本屋の店頭で立ち読みするか、図書館に出向いて調べることになる。貴重書ではなく、普通の本がほとんどなので、上の二つの方法で大体用を足せる。
東京・港区には図書館が多く、区の図書館だけで6館ある。それらが互いにつながっていて、本の検索システムで探せば、求める本がどこの図書館のどこの棚にあるかの所在情報が入手でき、さらに、貸出中か否かまでわかる。そこで得た情報を頼りに2、3館をはしごすれば、調べ物が驚くほど捗ることを発見した。もはや、手元に本を置いておかなくても大丈夫である。
このブログに登場した「本たち」で、以前手元にあって今はないものに、感謝と敬意を込めて(*)印を付すことにした。 (2006/9)