静聴雨読

歴史文化を読み解く

ホルムアルデヒド

2012-05-25 07:58:02 | 社会斜め読み

 

利根川水系から取水している関東各県の浄水場で、基準値以上のホルムアルデヒドが検出されて大騒ぎになった。一時、広域にわたる上水道の断水を引き起こした。

原因はまだ特定されていないが、沿線の化学工場からの漏出が最も疑われている。

化学会社に勤めていた友人から面白いことを聞いた。

水源地から流れ下る川は、扇状地に入るとゆっくりとした流れに変わる。そのため、扇状地の要の地点に化学工場を立地する、というのだ。そのため、彼は、現役時代には、ある扇状地の要から他の扇状地の要へと転勤を繰り返した、という。

彼の観測では、利根川水系に立地している化学会社は内々では自らの「加害性」を自覚しているはずだ、とのこと。名乗り出る勇気と社会的責任に欠けているだけなのだ。ここでも、わが国に特有の企業風土が垣間見えて残念に思う。  (2012/5)


ガッツリ系

2012-05-23 07:16:37 | Weblog

 

東京・神田神保町。昔は多くの大学が集まる学生街だった。今は大学の多くが郊外に移転してしまい、大学生の数は大幅に減っている。しかし、いまだに、昔の学生街の雰囲気を残しているものがある。それが「食堂」だ。

神田神保町には多くの食堂がある。

神保町交差点近くに2店ある「さぼうる」は古くからある喫茶店・食堂だ。ここで、スパゲティ・ナポリタンを頼んで驚いた。普通の店に比べ、パスタが1.5倍ほどあるのだ。そう、ここは、神保町の食堂の「ガッツリ系」の伝統を忠実に墨守しているのだ。(ただし、味はお勧めしない。)

スパゲティ屋の「パパ・ミラノ」もパスタの量が多い。

カレー屋はどうかといえば、神保町交差点近くの「ボンディ」も「カヴィアル」も同じように、カレーにゆでジャガイモを添えてサーブされる。全部を食べると、腹がくちくなる。

すずらん通りには、有名な「キッチン南海」があり、いつも行列ができている。ここで食べた「ひらめフライしょうが焼き定食」には驚いた。ひらめフライと豚のしょうが焼きのそれぞれがボリュームたっぷりなのだ。値段は750円。豚のしょうが焼きは結構いける。(ただし、この店の売りのカレーはいただけない。カレールウが焦げていた。)

このように、どの食堂も「ガッツリ系」で統一されているらしい。昔の学生に代わって今は近所のOLやサラリーマンの食欲を満たしているようだ。 (2012/5)


多作家の悲哀

2012-05-21 07:44:33 | 私の本棚

 

明治以降の近代の文学者は恵まれていました。経済的に恵まれていたかはさて措いて、その死後、その業績を偲ぶ「全集」が必ず編まれたからです。25歳で亡くなった樋口一葉の業績は、筑摩書房版『樋口一葉全集 全4巻6冊』にまとめられていますし、同じく25歳で亡くなった石川啄木の業績も、筑摩書房版『石川啄木全集 全8巻』にもれなく収録されています。これらの文学者は「死後、幸せになった」例であるといえるでしょう。

近代の文学者のうちでも、大家と称される人は、その全集も大部なものになります。例を挙げれば;

『漱石全集 四六判、全28巻+別巻』(岩波書店)

『鴎外全集 菊判、全38巻』(岩波書店)

『三島由紀夫全集 四六判、全42+別巻+補遺』(新潮社)

などは、本棚の2段分を優に占めるボリュームです。

国民文学畑で例を挙げれば;

 『司馬遼太郎全集 四六判、全68巻』(文藝春秋)

 『松本清張全集 四六判、全66巻+「黒の回廊」』(文藝春秋)

 『吉川英治全集 四六判、全56巻』(講談社)

 『山岡荘八全集 四六判、全46巻』(講談社)

なども、本棚2段以上を占める口です。

これらの近代文学の大家もまた幸せでした。

一方、現代作家の中で、死後になかなか全集が編まれない人たちが出てきました。私の愛好した井上光晴・井上ひさし・寺山修司には、全集編纂の動きが見られません。なぜでしょう? それは、これらの作家が残した著作が膨大なため、全集にまとめると百巻前後になるという事情が大きいようです。作家の全集ですから、厳密にいえば、詩・小説・戯曲・評論・エッセー・翻訳・日記・書簡・その他、のすべてを収めなければなりません。その方針を忠実に守れば百巻前後になり、そのため出版社が二の足を踏むようなのです。

最早、現代では、全集を求めることが高望みなのかもしれません。

『井上光晴長編小説全集 全15巻』(福武書店)・『井上ひさし全芝居 全7巻』(新潮社)・『寺山修司著作集 全5巻』(クインテッセンス出版)など、ジャンル別の集成や選集で我慢するしかないのかもしれません。 (2012/5)

 


アジのビシ釣り

2012-05-17 07:05:54 | 海釣り

 

(1)アジの釣法

再開した海釣りの第二弾として、「アジのビシ釣り」を選んだ。

アジは東北地方以南に広く分布する魚で、魚屋で一年中その姿を見るポピュラーな魚だ。

遊漁船でも人気の対象魚で、多くの釣り宿が遊漁船を出している。

アジの釣法は大きく分けて3つある。

その1。サビキ釣り。コマセ(寄せ餌)の下に5-10本のサビキ針(魚皮のような薄くて柔らかい皮を付けた針)を付ける釣法。

その2。ビシ釣り。行灯ビシにコマセと2-3本の針を付け、針には身餌(イカの小さな身を紅に染めたものがよく使われる)を付ける釣法。

行灯ビシとは、漢字の「心」を想像していただくと分かりやすい。左の「はね」の部分にコマセ籠(兼錘)をぶらさげ、中央の弓形の心棒の先に針を付ける。それが、右の点々だ。

その3。ライトタックル(LT)釣り。最近流行っている釣法で、ビシ釣りと同じく行灯ビシを使うらしいが、錘はごく軽い。身餌は青イソメ。川釣りのように、軽いタックルを振ってアジを誘うようだ。私はこの釣法を経験していない。

さて、今回のビシ釣りだが、その中にまた二通りの釣法がある。「棹ビシ」と「手ビシ」がそれだ。

「棹ビシ」は棹とリールで糸を取り込み、「手ビシ」は手で糸を手繰って取り込む。私は「手ビシ派」なのだが、これが思わぬ障害になるとはつゆ知らなかった。 

(2)苦戦の出だし

今回お世話になったのは、横須賀・新安浦港の義和丸。

東京湾のアジ釣りの釣り場は、水深30-100メートルだが、当然、東京湾口などの深いところは糸を手繰るのが大変だ。その点、義和丸は近場の水深の浅い所(30メートルほど)を漁場にしているので、「手ビシ派」にはピッタリだ。

釣り宿に着いて様子を伺うと、なんと、「手ビシ」を禁止しているという。「手ビシ」をする人が少なくなった上に、「棹ビシ」の人と混じると、「オマツリ」(釣り人同士の糸や仕掛けが絡まってしまうこと)が生じやすいので、「手ビシ」を禁止したのだという。これには驚いた。

この日は平日で釣り人が少ないため、特別に許しを得て、「手ビシ」で釣ることにした。

朝7時半に河岸払いして、15分で釣り場に到着。猿島の傍で、遠くに、この前、「メバルの夜釣り」で馴染みになった、「SUMITOMO YOKOSUKA」が見晴らせる地点だ。

行灯ビシが海底に着いたら、釣り糸のフケ(遊び)を取り、3メートル見当糸を上げ、コマセを撒くために数回糸を引き、さらに、糸を1mほど上げてアジの当たりを待つ。これがアジ釣りの基本動作だ。

最初の一投からアジの「クイッ、クイッ」という当たりがあり、20cmの中アジが上がった。幸先よかった。が、その後がいけなかった。当たりのない状態が五投・六投と続いた。その時、船長の檄が飛んだ。「じっとしていたら、アジは寄ってこないよ!」 

(3)水深40メートルから25メートルまで

船長のことばは短かったが、これを翻訳すると次のようになる:

「(コマセを撒かずに)じっとしていたら、アジは寄ってこないよ!(新しい釣り場に着いたら、まず、アジを寄せることを考えないと。釣るのはその後だよ。)」

確かに言うことはわかる。でも、それならそれで、最初から指示してくれてもよさそうなものだが。

釣り場に着いて船長の発したことばは:「ボー(開始の合図のラッパの音)。底から3メートル。」これだけだった。

以後釣り場を何ヶ所か変えた。水深は、40メートルから始まって、35メートル、30メートル、25メートルと変わった。

最もよく釣れたのは、水深30メートルと25メートルの釣り場だった。3本針に3尾掛かる「パーフェクト」もあり、2尾掛けも数回あった。

11時にコマセが底をついたところで納竿となり、数えたところ24尾の釣果だった。以前の勘を取り戻すまでには至ってないが、まずまずの釣果だ。型は皆20cm-25cmの「中アジ」だった。上に掲げた写真がそれである。 

(4)アジを食べる

アジはポピュラーな魚なので、調理法も様々だ。

生食では、「たたき」や「なめろう」が有名だ。プロの板前は、「中アジ」をみごとに捌いて、「たたき」や「なめろう」を作る。しかし、素人では、「中アジ」を捌いて、十分な身肉を取ることが難しい。

アジは煮るのに適していない。これは、アジが水気の多い魚だからだろう。

一方、アジは焼くとうまい。ぜいご(尾の部分から伸びているとげのあるうろこ)を除き、尾びれと背びれに塩を振り、4尾まとめて串に打ち、網で焼く。こうすると、皮が網に触れないので、皮が付いたまた姿良くアジが焼ける。見ていると、水分と油がポタポタと垂れ落ちる。アジの水気が適度に抜けるため、アジは焼くとうまいのだとわかる。

4尾をまたたく間に平らげ、次の4尾をまた焼いて食べた。

街の食堂でアジのフライの揚げたて定食を食べると、ことのほかうまいのも同じ理屈だろう。

アジの干物がうまいのもこれで納得だ。次回は「アジの一夜干し」に挑戦してみよう。

(5)データ

今回の釣行のデータを記録しておく。

ビシ錘: 120号

枝糸 : 2号。60cm間隔で枝糸を3本出す。

針 : ムツ針10号。

料金:5500円。

 (2008/11)


芭蕉論考

2012-05-15 07:26:16 | 文学をめぐるエッセー

 

(1)『おくのほそ道』と虚構

芭蕉は元禄2年に奥羽・北陸などを旅して、元禄6年ころに『おくのほそ道』を著した。わが国における最も有名な紀行文の一つであり、最も有名な詩文の一つでもある。

この紀行文または詩文の性格について、多くのことがいわれている。

ここでは、井本農一について見てみよう(「おくのほそ道論」、『芭蕉の本6 漂泊の魂』、昭和45年、角川書店、*)。

井本によれば、この紀行文は旅行記ではない。つまり、元禄2年の旅の記録とはいえない。元禄2年の旅は紀行文の素材とはなっているが、紀行文は旅をそのまま写すことを慎重に避けている。

その証拠に、旅をしてから紀行文が成るまで4年ほどの月日を必要とした。その間、芭蕉は何をしようとしたか?

井本によれば、芭蕉は古来の紀行文(『東関紀行』・『十六夜日記』など)の様式を踏襲している。

それは、(1)古来の歌枕・名所・旧跡への訪問であること、(2)都から地方への旅であること、(3)各部の末尾を和歌(または発句)で結ぶこと、である。これだけの約束事を守る一方、具体的事実には言及しない原則を貫いている。訪れた場所の詳細や会った人の印象などは、『おくのほそ道』にはほとんど書かれていない。

今回、改めて『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫)を読んでみて、その通りだとわかった。

また、旅行記的事実が省かれているのみならず、実際の旅と紀行文の記述の間に食い違いがある、と井本はいう。

例えば、有名な平泉のくだりでは、「『国敗れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」という詞があって、「夏草や侍どもが夢の跡」という発句を掲げている。ところが、随行した曽良の『旅日記』によると、その日の旅程は大変あわただしく、5時間の間に、高館・衣川・中尊寺・光堂・さくら川・秀衡屋敷・無量光院跡などなどを見てまわったという。藤原三代の栄華をゆっくり偲ぶ時間の余裕はなかったはずだと、井本は指摘している。 

芭蕉の『おくのほそ道』と曽良の『旅日記』と間の食い違いはほかにも数多くあるらしい。もちろん、曽良もすべての旅程をソラで覚えて記録したとは限らないから、どちらが正確だということを議論しても始まらない。

注目すべきは、芭蕉が旅の記録を記すつもりはなかったことである。旅を素材に紀行文を執筆したのだが、その紀行文は虚実織り交ぜた詩文だった。これが芸術的感興を増すために芭蕉が構えた虚構であった。井本は、これを、事実に「風雅のまこと」を付け加えたと解している。『おくの細道』が完成するまでの4年の年月は、「風雅のまこと」を発酵・熟成させて詩文を創造するための時間であった。

『おくのほそ道』の虚構について初めて知ったのは、高校の古文の授業でだった。教師は得々として、ここも食い違う、そこも違う、と講義をした。生徒の中には、芭蕉を胡散臭い俳人だと思ったものもいたようだ。私もどちらかといえばその組であった。

しかし、その後、いわゆる「芸術的虚構」に徐々に親しむようになるにつれ、芭蕉への嫌悪感はなくなった。ドストエフスキーの延々と続く神学問答(『カラマーゾフの兄弟』)やジョイスの一夜の出来事を綴った小説(『フィネガンス・ウェイク』)に親しめば、芭蕉の虚構などは小さいことのように思われた。要は、虚構を構築するための技巧が目立たないですませられるか、である。

その後、胡散臭い筒井康隆や井上ひさしに出会い、また、さらに胡散臭い井上光晴に傾倒したのは、芭蕉の虚構の種まきがあったからだと今では考えている。 (2006/6)

(2)月日は百代の過客にして

芭蕉の『おくのほそ道』の冒頭は次のようである。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」(『芭蕉 おくのほそ道』、萩原恭男校注、岩波文庫)

初老の芭蕉が、旅の途中で死んでも本望だという決意を述べた文章ととらえられているが、これが、美文なのか、私にはわからない。とくに最初の一文が謎だ。萩原恭男は校注をつけていないが、この一文は理解がむつかしい。

文字通り解釈すると、「歳月は旅人であり、歳月も旅人である。」となるのではないか?

『芭蕉 おくのほそ道』に併載されている『奥細道菅菰抄』(蓑笠庵梨一著)によれば、中国の『古文後集』を踏まえた文章だという。

まず、「月日(つきひ)」「百代(ひゃくたい)」「過客(かきゃく)」という漢字の連なりが違和感を覚える。そのゴツゴツした発音が引っかかる。後半の「行かふ年も又旅人也」とは対照的だ。『おくのほそ道』のリズムと異なるのは明らかだ。

芭蕉は旅を素材に紀行文を執筆したのだが、その紀行文は虚実織り交ぜた詩文だった、というのはよく知られた事実だ。これが芸術的感興を増すために芭蕉が構えた虚構である。「おくのほそ道」が完成するまでの4年の年月は、紀行の事実を発酵・熟成させて詩文を創造するための時間であった、ともいわれている。

その4年間の推敲の過程で、詩文全体のリズムを乱してまで、「月日は百代の過客にして」を冒頭に定着させた芭蕉の真意が理解できない。

次に、「歳月は旅人であり、歳月も旅人である。」という同義反復をなぜ敢えて行ったのか、という疑問がある。

中国の古文を引用したい、という欲求が強くあったことまでは理解できるが、そのために無駄な同義反復を自分に許した心性がわからない。

『おくのほそ道』の詩文は簡潔さを旨としているのに、冒頭の一文だけがそれに反旗を翻している格好だ。「虚実織り交ぜた詩文」の落とし穴に芭蕉がはまった感がある。 (2007/7)

 


将棋の「感想戦」

2012-05-03 07:06:54 | 将棋二段、やりくり算段

 

将棋の世界では、対局後に対局を振り返って、両者が悪かった点・こうすればよかった点などを検討する「感想戦」がある。勝者はまだしも、対局に敗れた側にとっては、悔しさをかみ殺しながらの「儀式」となり、心が据わっていないとやり遂げられない「儀式」ではある。

人によっては、そそくさと感想戦を済ませ脱兎のごとく対局場を後にする棋士もいる一方、明け方まで2時間も3時間も感想戦に没頭する棋士もいる。人さまざまだ。

さて、5月1日の「達人戦」は加藤一二三九段対高橋道雄九段の戦いだった。角換わりの将棋で熱戦となり、高橋九段が優勢となった。しかし、そこから、加藤九段が粘りながら勝負手を連発して、とうとう逆転勝ちしてしまった。加藤九段72歳、恐るべき将棋魂の持ち主だ。

ところが、対局後、高橋九段は加藤九段に一礼して、さっさと帰っていってしまった、ということだ。どうしてそれを知ったかといえば、ネット中継があって、対局後の両者の動静を写真付きで報じていたのだ。加藤九段の感想戦の相手方は、ネット中継の解説役の高田尚平六段が勤めた。

上記のように、両者が悪かった点・こうすればよかった点などを検討することに加えて、観戦記を書く記者に対しての局面解説サービスの面も感想戦にはある。つまり、感想戦を行うことは、「プロ棋士」としての義務なのだ。

余りに悔しくて、感想戦まで付き合っていられない、というのでは、小学生棋士にも劣る振舞いだ。おっと、小学生棋士に失礼なことをいってしまった。

高橋九段52歳、願わくば、「達人」にふさわしい振舞いをお願いしたい。  (2012/5)