静聴雨読

歴史文化を読み解く

ベルト・モリゾをご存知ですか?

2009-05-11 00:10:12 | 美術三昧
ベルト・モリゾ Berthe Morisot は印象派の女性画家である。「印象派」と「女性画家」という二つのキーワードがこの画家のすべてを表している。

初めて彼女の名を知ったのは何を介してだったか、はっきりとした記憶がない。
長谷川智恵子『世界美術館めぐりの旅』(求龍堂)(*)のマルモッタン美術館の項で知ったのかもしれない。パリ16区にあるこの美術館は、モネのコレクションとともにモリゾのコレクションでも有名だ、と紹介されていたのではなかったか?

1995年にアメリカ・ボストンからフランス・パリに回る機会があった。ちょうど、ボストン美術館でモネの特集にぶつかり、パリのマルモッタン美術館でもモネを見てみたいと考えた。

パリ16区は高級住宅街として知られている。マルモッタン美術館は高級アパルトマンの一角を占めていた。そこでモネに満腹するとともに、モリゾの艶々と輝かしい作品群に出くわした。予期せぬ発見だった。マネのようであり、ドガのようでもあり、ルノワールの趣きも持つこの画家の絵は確かに「印象派」そのものだった。

日本に帰り、『新潮世界美術辞典』で「ベルト・モリゾ」の項を当たると、十数行の解説があった。そこで、モリゾの結婚相手がマネの弟であることを知った。生活面でも、印象派と強くつながっているのがわかった。
その後、外国のどこかで、

Stucky & Scott ”Berthe Morisot – Impressionist”, Hudson Hills Press, New York, 1987

という画集を入手した。以上がモリゾとの係わりのすべてだった。 

近年になり、ベルト・モリゾの話題がわが国の美術界をにぎわすことになった。NHKの「世界美術館紀行」でマルモッタン美術館が採り上げられ、また、マルモッタン美術館展が開催され、この美術館の収蔵品の一方の頭であるモリゾの存在が広く知られるようになった。私はこのいずれも見逃したが、ようやくモリゾがわが国に紹介されたことに満足の念を禁じえなかった。

そして、今年(2006年)になり、日本語による初めてのモノグラフが刊行された。

坂上桂子『ベルト・モリゾ ある女性作家の生きた近代』、小学館

ブルジョワジーの家庭の女性として生を享け、当時としては珍しいプロの女性画家として頭角を現すベルト・モリゾの姿が女性らしい筆致で描かれている。また、モリゾが印象派の活動の中心であったことが跡付けられている。1875年の競売会では、モリゾの作品が平均250フランで売れたのに比べ、モネの作品は平均233フラン、ルノワールの作品は平均100フラン以下だったということが紹介されている。まさに、モリゾは絵の実力の面でも、また、印象派の運営面でも、中心的役割を担っていたことがわかる。

20世紀になり、モリゾは後景に退き、代わって、マネ・ドガ・モネ・ルノワール・セザンヌが風靡したが、ここに来て再びモリゾが脚光を浴びようとしている。
今年から刊行の始まった小学館版『西洋絵画の巨匠』のシリーズの一冊としてベルト・モリゾが割り当てられている。モリゾの正しい位置づけと評価がまさに始まったといえるだろう。注目していきたいと思う。  (2006/3-4)

小学館版『西洋絵画の巨匠 ベルト・モリゾ』が、坂上桂子の解説付きで、刊行された。彼女の本当の実力がよくわかる画集だ。 (2006/10)

「クリーブランド美術館展」にベルト・モリゾの「読書、または緑色の日傘」、1873年、が出展されていた。姉エドマを描いた小さな油彩だ。ふんわりとしたタッチのデザインはモリゾの特色を表わしているが、絵から受けるインパクトはやや弱かった。 (2006/11)


ハインリッヒ・フォーゲラー

2008-10-25 06:35:44 | 美術三昧
19世紀末に北ドイツ・ブレーメン近郊のヴォルプスヴェーデ村に集まった芸術家集団があり、その中に、フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハインリッヒ・フォーゲラー、パウラ・モーダーゾーン・ベッカー、クララ・ヴェストホフなどがおり、詩人ライナー・マリア・リルケがこの集団を援助し世に喧伝するのに貢献した、ということを、種村季弘『ヴォルプスヴェーデふたたび』、1980、筑摩書房、を引きながら、「パウラ・モーダーゾーン・ベッカー」と題するコラムで述べた。
 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20081023

今回は、このヴォルプスヴェーデ村に集まった芸術家集団のうち、ハインリッヒ・フォーゲラーに焦点をあてて紹介してみたい。

ハインリッヒ・フォーゲラー(1872-1942)は、ブレーメンで商人の子として生まれ、デュッセルドルフ美術学校で学んだ。1895年には、23歳の若さでヴォルプスヴェーデに移住している。

フォーゲラーは多才で、エッチング、装飾、工芸、団地設計など、活躍の場を拡げていった。
もちろん、油彩にも長けていて、白樺の林を背景にして女性のたたずむ姿を描いた「春」、1897年、や、バルケンホフの玄関前の中庭にヴォルプスヴェーデ村の芸術家集団の面々を配した「夏の夕べ」、1905年、などの傑作を残している。

特に、「夏の夕べ」は、芸術家集団のつかの間の団欒を写しとっていて、身につまされる。以後、芸術家集団は散り散りになるのだが、その運命の予兆があるのだろうか、ないのだろうか。芸術家集団は個性の強い人たちの集まりだから、いずれ、個々が独立するのは避けがたい。

フォーゲラーの場合は、その芸術上の主張とともに、社会改革への激しい姿勢が、自己の立場を一層困難にした。以後、彼は、ヴォルプスヴェーデを離れるだけでなく、ソ連の社会主義建設に自らを賭ける。社会主義建設と民衆の姿を重ね合わせた多くのプロパガンダ絵画はフォーゲラーの理想を実現しているはずであった。

ところが、社会主義建設に貢献すれどもすれども、ソ連から疎外されることになる。理想に裏切られることを身をもって感じても、なおも理想を信じる彼の心境は痛々しい限りだ。

晩年には、ソ連政府からの年金の支給を絶たれ、生活物資に困窮し、物乞いに歩き、栄養失調にかかり、北カフカズのコルホーズで亡くなった。

芸術の理想とは何か、芸術が社会に貢献する道は、と愚直に突き進むフォーゲラーには、ソ連とその社会主義は余りにも冷たく写ったのではなかろうか。

2000年に大規模な「ハインリッヒ・フォーゲラー展」が東京駅ステーション・ギャラリーで開かれた。私はそこでかれの生涯と芸術のすさまじい相克を見て、息を詰めたものである。

参考文献:
ジークフリート・ブレスラー『ハインリッヒ・フォーゲラー伝』、2007年、土曜美術社出版販売
『ハインリッヒ・フォーゲラー展』、2000年(*)
 (2007/9)

パウラ・モーダーゾーン・ベッカー

2008-10-23 00:07:33 | 美術三昧
神奈川県立近代美術館葉山(フー、長い!)で開かれていた「パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 時代に先駆けた女性画家」(これも長い)を観て来た。春の嵐の荒れくれた日の翌日で、葉山湾に白い大きな波頭が残り、強風が雲を吹き払ったあとに富士山がくっきりと見えた。陽は明るく、まさに湘南の趣きを現出していた。

(1) 北ドイツの女性画家

パウラ・モーダーゾーン・ベッカー Paula Modersohn-Becker について知ることは多くない。その絵画を見たこともない。亡くなった種村季弘の最高傑作(と私の信ずる)『ヴォルプスヴェーデふたたび』(1980年、筑摩書房)が唯一の導きだ。19世紀末に北ドイツ・ブレーメン近郊のヴォルプスヴェーデ村に集まった芸術家集団にパウラの名前は刻まれていた。フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハインリッヒ・フォーゲラー、クララ・ヴェストホフなどと並んでパウラはこの芸術家集団のアクティブな一員であった。大量生産・大量消費の19世紀文明に対応することのできない不器用で純粋な芸術家魂を拠りどころにして創作に励む集団のなかで、パウラはひときわその芸道に忠実であったらしい。

ヴォルプスヴェーデ村の芸術家集団が一層の光彩を放ったのには、詩人ライナー・マリア・リルケの力も与っていた。彼はこの集団を鼓舞するとともに、作品を買い上げるなど、パトロンとしてもこの集団を応援していた。パウラもリルケから励ましを受けた一人だ。リルケは一時期クララ・ヴェストホフとパウラの両方に思いを寄せ、結局クララと結婚したのだが、その後もパウラとリルケ、パウラとクララの厚情はともに変わりなく続いたらしい。リルケの『美術書簡』(塚越敏編訳、1997年、みすず書房)には、パウラあての書簡が2通収録されている。ロダンとセザンヌを媒介にして自らの思いを述べたものだが、極めて慎み深い行間から、二人の関係を推し量ることは難しい。

さて、パウラについては、日本人によるモノグラフがあった。

佐藤洋子『パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 表現主義先駆けの女性画家』、2003年、中央公論美術出版

早速取り寄せて読んでみた。
ドイツの上流階級の家庭の女性として恵まれた前半生を送ったパウラはベルリン・ロンドンで絵の勉強をし、次いでマッケンゼンについて本格的に修行を進め、ヴォルプスヴェーデ村に移り住む。オットー・モーダーゾーンと結婚した後にも絵心は亢進し、パリに出ては身を削るようにデッサンに励む。その間、オットーとの間で心の疎隔が生じたこともあったようだが、オットーは精神的にも経済的にもパウラを支え続けたようだ。また、パウラのベッカー家の家族もパウラに理解を示し続けたようである。

ヴォルプスヴェーデ村とパリ。二つの拠点で養分を吸い取りながら、パウラの画業は形成されていった。
ヴォルプスヴェーデ村は泥炭地と白樺が象徴するように、寒々とした印象を受けるところである。パウラの絵も暗い色調で一貫している。対象は、風景・子ども・老婆など。
パリでは、セザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンやエジプト彫刻・日本の浮世絵などをむさぼるように吸収した。対象は静物に拡がっている。パウラの静物画を点検すると、面白いことに、構図にはセザンヌの影響が見られるが、色調はゴーギャンを彷彿とさせるものとなっている。

パウラの特徴をよく示す代表作を挙げるならば、ヴォルプスヴェーデ村で制作した子どもや老婆、パリで制作した静物、そして、ヴォルプスヴェーデ村でもパリでも制作した多くの自画像、の三つになるだろうか?
絵の巧拙はわからない。しかし、それは、ゴーギャンやアンリ・ルソーについてもいえることだ。

パウラの暗い色調の絵画と葉山の陽光とはなにかしらそぐわない。葉山美術館(と略してしまおう)のあと、栃木県立美術館に巡回しているが、北関東の地でパウラとまみえたならば、また別の印象を受けるかもしれない。時間があったら行ってみよう。 

(2)パウラのイニシアル

パウラ・モーダーゾーン・ベッカーについてもう一回書いてみたい。

彼女の名前は、ベッカー家からモーダーゾーン家に嫁いだパウラを表わしている。パウラとオットーの婚約は1900年9月、結婚は1901年5月である。

さて、パウラが絵に残したイニシアルに注目してみたい。彼女のイニシアルは一定しない。大きく分けて4通りある。(1)無署名:55点。(2)PMまたはPMB:9点。(3)PMBまたはP.Modersohn Beckerの下にOMの副署があるもの:6点。(4)PMBの下にTMまたはT.Modersohnの副署があるもの:20点。

パウラのイニシアルの特徴を挙げると:
(a)一定しないこと(上記の通り)
(b)無署名が多いこと(半数以上。完成作品・未完成作品を問わない)
(c)副署のあるものがあること(OMまたはTM。OMがオットー・モーダーゾーンであることは間違いないが、TMは誰? また、何のための副署か?)

いくつかの疑問が湧く。
なぜ無署名が多いのか? 一般には、未完成のためにイニシアルを入れない、ということが考えられるが、パウラの場合、堂々たる完成作品にも無署名が多い。会場に展示された1897年から1907年までのどの年の作品にも無署名のものがある。自らに厳格なパウラの心性が窺える。

副署の意味するものは? 佐藤洋子の評伝によると、パウラの絵の最も厳格な批評者がオットーであることがわかる。つまり、オットーのチェックを通ったもの、という推測が成り立たないだろうか? TMのTは、あるいは、oTto のつもりではなかろうか? パウラ自身が納得しオットーも評価した作品が、世にも珍しい副署付きイニシアルを刻印されたのではないだろうか?
しかし、1901年のパウラとオットーの結婚(あるいは1900年の両者の婚約)より前(1898年および99年)の作品に副署付きのもの6点あるのはどう説明すれがいいのだろうか? そう、後日、遡ってイニシアルを入れたのだ。

PMだけまたはPMBだけのイニシアルを持つ絵は、1903年(2点)・05年(2点)・06年(5点)に分布している。1905年から06年にかけて、パウラとオットーとの間に疎隔が進行し、パウラは一時離婚を決意するまでになっている。そのことと関係がありそうである。

パウラは知人の忠告を容れて離婚を回避し、1907年11月に一児を儲けるものの、その後すぐ、産褥熱からの塞栓症で他界する。まことに自らに厳しい女性画家の一生といわねばならない。
イニシアルを調べるために、宇都宮市の栃木県立美術館を訪れた。そこでパウラの一生を振り返りつつ、その暗く重い絵に魅せられるひとときを過ごした。パウラの絵が広く受け入れられることを望んでやまない。   (2006/5-7)

(3) 補足

パウラ・モーダーゾーン・ベッカーに関する論考を収録した個人誌「歴史文化を読み解く 第3集」を佐藤洋子先生に献呈した。先生から、パウラのイニシアルについて、いくつかのご教示をいただいたので、紹介したい。

その1。パウラは署名に熱心な画家ではなかったこと。残された絵の多くが無署名であること。

その2。PM、PMB、P.Modersohn Becker の署名の中には、無論パウラのものもあるが、明らかに他人が入れた署名もあること。したがって、「筆跡鑑定」をして誰の署名か確定する必要があること。

その3。OMはオットー・モーダーゾーン、TMは、パウラの遺児ティレ・モーダーゾーンだろうということ。

その4。オットー・モーダーゾーンにしても、ティレ・モーダーゾーンにしても、副署した理由は、散逸を防ぐための「所有表示」の趣きが強く、必ずしも、その絵に対するオットーまたはティレの評価を示しているわけではないこと。この点、私は考えすぎていたことになる。

このように、パウラのイニシアルについてはなかなか奥が深く、今後の研究は専門の先生に委ねたいと思う。

なお、佐藤先生は、パウラ・モーダーゾーン・ベッカーの研究をさらに深化させておられ、最近も先生の称する「パウラ詣で」のため、ブレーメン(クンストハレにパウラの絵が多く展示されている)などを訪れて帰られたとのこと。先生のパウラについての著書の2冊目が『いのちの泉を描いた画家 パウラ・モーダーゾーン=ベッカーの絵画世界』の題で、中央公論美術出版から刊行されている(2008年4月刊)。
(2008/10)


女性画家の宿命

2007-01-01 06:16:55 | 美術三昧
分載していた「女性画家の宿命」を一本にまとめました。
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(1)若桑みどりによると・・・

長いあいだ気にしていながら読めなかった若桑みどり「女性画家列伝」、岩波新書、を古本屋で見つけ、早速買ってきて読んだ。
採り上げられている画家は、シュザンヌ・ヴァラドン、アルテミジア・ジェンティレスキ、エリザベート・ヴィジェ・ルブラン、アンゲリカ・カウフマン、ケーテ・コルヴィッツ、上村松園、ラグーサ・玉、山下りん、マリー・ローランサン、レオノール・フィニ、ナターリャ・ゴンチャローヴァ、多田美波、の十二人。
洋の東西、歴史の古今にまたがる画家が広く取り上げられている。

十九世紀から二十世紀にかけての女性画家に関心のある私は、とくにシュザンヌ・ヴァラドンとケーテ・コルヴィッツに注目した。

シュザンヌ・ヴァラドン(1865年-1938年)はモーリス・ユトリロの母親として知られているが、彼女自身はあるお針子の私生児として生まれ、18歳でモーリスを生む。その前から、そしてそれ以後も、モンマルトルでモデルをしながら絵を描いていた。

モデルとしてのシュザンヌは超一流で、ルノワール・ドガなどの描いた「シュザンヌの肉体の、堂々とした調和は、健全で、知的な精神をもった女性を暗示している」という。
絵を描き始めたのが9歳。独学で、初めはデッサンで知られ、後、44歳になって、ゴッホ・ゴーガンを知り、「三次元表現を断念したために、画面は象徴派の趣きを具えた」。

若桑みどりは、シュザンヌの母・シュザンヌ・モーリスに一貫する「父性の欠如」を指摘している。

ケーテ・コルヴィッツ(1867年-1945年)は、父が版画をも手がける室内加工業の工房の主だったために、娘の才能を育てるのに努力を惜しまぬ環境で育った。父は彼女をベルリン、ミュンヘンなどに送り、絵の勉強をさせた。ケーテ自身は生まれも育ちもブルジョアであった。

しかし、彼女は、一貫して、悲惨な「人間」を描いた。とくに、「献身的な貧民街の医師である夫カールとの生活の中で、はじめて『描くべきもの』が何であるかを発見した」という。
ケーテの絵を特徴づける「手」は、「貧しい者の苦悩と生命力と、労働の人生のすべてを象徴している」ともいう。

しかし、ケーテは、古いヨーロッパの絵画(カラヴァッジオ、ミケランジェロ、ドラクロワ、レンブラント、ゴヤなど)の伝統の中から、形態(フォルム)のもつ象徴の価値を学びとった。これが、プロパガンダだけの社会主義絵画と一線を画している所以だと、若桑みどりはいっている。

ケーテの絵にほれ込んで自国に紹介したのが、魯迅(中国)と宮本百合子(日本)だったというのは、なるほどと思わせる話である。  

(2)修業での障壁

さて、「女性画家」の特徴は何だろう? それがここのテーマだ。
これまで、十九世紀から二十世紀にかけての女性画家を4人取り上げた。
 ベルト・モリゾ(1841年-1895年)
 パウラ・モーダーゾーン・ベッカー(1876年-1907年)
 シュザンヌ・ヴァラドン(1865年-1938年)
 ケーテ・コルヴィッツ(1867年-1945年)

4人のうちでは、シュザンヌ・ヴァラドンだけが異色である。シュザンヌは、お針子の私生児として生まれ、自身で家族(母親と息子)を養いながら、独学で画業に勤しんだ。十九世紀から二十世紀にかけての女性画家としては、異例中の異例である。

ほかの3人は、ブルジョアジーの娘として生まれ、親から画家になるための専門教育の機会を授けられ、それを活用して画家として一家を成した点で共通している。

もちろん、画家になる過程で、それぞれの努力があったことは間違いない。
ベルト・モリゾでいえば、ルーヴル美術館での模写の日々があった。
パウラ・モーダーゾーン・ベッカーは、パリに出てデッサンに明け暮れる日々が後の大成の礎になった。
また、ケーテ・コルヴィッツでいえば、古いヨーロッパの絵画(カラヴァッジオ、ミケランジェロ、ドラクロワ、レンブラント、ゴヤなど)の伝統の中から、形態(フォルム)のもつ象徴の価値を学びとる努力をしていた。
このような修業が一人前の画家として認められるための必修科目であった。ただし、これは「女性画家」に限られたことではなかろう。

一方、女性画家の修業を妨げる因習が十九世紀から二十世紀にかけて存在した。それは、女性には裸体デッサンが許されていなかったという驚くべき事実である。坂上桂子が「ベルト・モリゾ ある女性作家の生きた近代」で紹介しているが、ベルト・モリゾもその障壁に苦しんだ一人である。
対象の質感を表現する技法を習得するためには、裸体デッサンは不可欠である。それが許されない社会とは、男性社会の残渣が連綿として残っていたことの現われであろう。
 
(3)職業画家になるにあたっての障壁

さて、人一倍修業して、立派な成果を結実させた女性画家が、等しく「画家」として認知されてきたかはもう一つの問題である。絵を「職業」としようとする瞬間、男性の障壁にぶつからざるを得ない。

佐藤洋子はその著書「パウラ・モーダーゾーン・ベッカー 表現主義先駆けの女性画家」で一つのエピソードを紹介している。
詩人のライナー・マリア・リルケがロダンの秘書のような仕事に携わっていたときのことだが、リルケが仲介の労をとって、パウラ・モーダーゾーン・ベッカーをロダンに引き合わせたことがある。そのとき、リルケは「この女性はある有名な画家の妻です」と紹介したそうである。リルケといえども、「この女性は才能のある画家です」と紹介する勇気をもっていなかった。これが二十世紀初頭のヨーロッパの知的社会の水準だった。(なお、リルケの妻となったクララ・ヴェストホフはロダンに師事していた。ロダンの側には、女性を差別する意識はなかった。)

現代の日本でも、例えば、女性画家が賞を獲得したり、批評家・業界紙などで賞賛されたりすると、周りの男性の嫉妬・怨嗟にさらされるということである。

「男性社会」、男性優位の幻想が支配しているのが、十九世紀から二十世紀にかけての美術界の姿であった。「お稽古事」の範囲であれば女性を自由にふるまわせるが、女性が絵を職業としようとすると、突然男性が前に立ちはだかるのである。

これを「女性画家の宿命」と呼んでしまっていいのかどうかわからないが、この宿命に立ち向かうことが女性に課せられたもう一つの課題になっていたことは疑いない。
シュザンヌ・ヴァラドンは男性に頼らないことで女性の弱さを乗り越えた。
ベルト・モリゾ、パウラ・モーダーゾーン・ベッカー、ケーテ・コルヴィッツの3人は、誰にも文句をいわせないほど抜きんでた画業で男性をも納得させた。 

いずれも、バリバリ働くことで男性陣に伍している、現代社会の女性を髣髴とさせるエピソードである。若桑みどりもそうかもしれない。  (2006年10月)