静聴雨読

歴史文化を読み解く

老いたる覇権主義(60歳台の半ばで・3)

2007-12-27 08:21:16 | 現代を生きる
「定年後」の人生を、(2.趣味に生きる。)(3.ボランティア活動に参加する。)(4.家族の世話をする。)を組み合わせて設計するとした場合、それまでの人生とは違った心構えが必要になる。

一つの例を挙げる。
勤め先のOBが集まって、中小企業のIT化支援のNPOを立ち上げる、という話が沸き起こったという。大企業に比べ、中小企業はどうしても、資力・能力の面で、IT化に立ち遅れ勝ちである。それを解決するために、大企業のOBが一肌脱いで、非営利組織で、中小企業のIT化支援に乗り出すという。素晴らしい話だ。

だが、そのNPOに、大企業の元役員が大勢、顧問として名を連ねているということを聞いて、首をかしげた。NPOに、大企業のヒエラルヒー(位階主義)を持ち込んでどうしようというのだろう。

「定年後」の人生を生きるにあたって、最も重要なことは、それまでのヒエラルヒーをひきずらないことではなかろうか。これは、それまで、特に高い地位にあったものにとっては、難しい要求となる。どうしても、昔の覇権を捨てきれないのだ。それが、NPOの活動、NGOの活動、広く、ボランティア活動にまで浸透して、あたかもそれまでの人生(仕事に生きる)をなぞるようなことになるのだ。これを「老いたる覇権主義」と呼びたい。「老いたる覇権主義」を脱却することを、「定年後」の人生の最大の心構えとしたい。

以上に少し関係することだが、「忙しくしない。また、忙しく見せない。」ことも、心構えの一つとして付け加えたい。忙しくしていると、なんとなく自分に満足するが、周りの人から見ると、その人が忙しいのか、忙しくないのかは、どうでもいいことだ。その人が、(2.趣味に生きる。)(3.ボランティア活動に参加する。)(4.家族の世話をする。)に満足していれば、それでいいのだ、と思う。忙しいことを人に見せる、つまり、「忙しい、忙しい」と吹聴するのは、もう一つの「老いたる覇権主義」の表れといえないだろうか?

少し硬いコラムになってしまった。
なお、ここでいったのは、仕事を退役して、「定年後」の人生を送っている人間の心構えであって、なお現役の仕事人にはあてはまらないことを改めてお断りしておきたい。 (終わる。2007/12)

「キミユケリ」はどう読む?

2007-12-17 06:02:42 | 文学をめぐるエッセー
日本の俳句は、口に出して明快に理解できるのが特徴だ。「ナノハナヤツキハヒガシニヒハニシニ」から「菜の花や月は東に陽は西に」を導くのは容易だ。

現代俳句ではこの原則が必ずしもあてはまらないものがある。昭和期の俳人の句に次のようなものがある。

 キミユケリトオキヒトツノフニニタリ

漢字を伏して、この句の読みを推理してみたい。「キミ」は「君」、「トオキ」は「遠き」、「ヒトツノ」は「一つの」、「ニタリ」は「似たり」と読むのに異論は出ないだろう。問題は、「ユケリ」と「フ」の読み方だ。「ユケリ」は「行けり」だろうか、「逝けり」だろうか? 「フ」は何だろう。「負」?「富」? 

答えを明かすと: 

 君嫁けり遠き一つの訃に似たり

「前々から気になっていた君が嫁いでいったことを人伝に聞きました。あたかも訃報に遭ったときのような喪失感に襲われています。」・・・30歳代後半の男性が30歳前後の女性を思いやって詠った句と解釈したい。

文字で読むと理解できるが、音読みではなかなかこの背景の深さまで思い浮かばないだろう。「嫁けり」の当て字に無理があるかもしれないが、下し言葉を利用した、いかにも現代俳句らしい一句である。季語も見当たらない。

この句では、「嫁けり」と「訃に似たり」という二つの直截的なことばに挟まって、「遠き一つの」という、ゆったりとしたことばが絶妙な効果を発揮している。室内楽の緩徐楽章に似ている。伝統的な俳句の技法も生かしているといえようか?

朝日文庫で出ていた「現代俳句の世界」シリーズ(*)の一冊で読んだ記憶があるのだが、この俳句の作者の名は失念した。 (2007/1)

長らく不明だったこの俳句の作者が判明した。
大岡信「新・折々の歌 全9巻」、岩波新書(*)、が完結し、同時に索引が刊行された(2007年11月)。その中に、「初句索引」があり、「きみ嫁けり」が載っていた。
作者は「高柳重信」。

大岡の解説では、「感傷におちいる寸前で高然とそれを遠ざけ、青春を葬り去る姿勢を保っている。」(「新・折々の歌 3」、1997年)  

「現代俳句の世界」(朝日文庫)では、第14巻に高柳重信の句が収載されている。  (2007/12)


「便利屋」礼賛(60歳台の半ばで・続)

2007-12-15 07:26:32 | 現代を生きる
「定年後」に何をするか? 大きく分けて、4つある。
1.別の仕事に就く。
2.趣味に生きる。
3.ボランティア活動に参加する。
4.家族の世話をする。

この4つの活動をどう組み合わせて「定年後」の人生設計を行うか? 
私の場合は、今のところ、(2.趣味に生きる)と(4.家族の世話をする)の組み合わせで過ごしている。

趣味の中には、19世紀歴史文化の研究、ブログ「歴史文化を読み解く」の運営、ホームページ「BIBLOSの本棚」の運営、将棋、などがある。
家族の世話とは母の世話のことだ。

今のところ、以上の活動で一杯で、(3.ボランティア活動に参加する)には目が向かない。しかし、ボランティア活動に興味がないわけではない。

私の考えるボランティア活動はあまり高尚なものではなく、自分の得意とすること、を提供することがボランティア活動だと思っている。

今の世の中は、物やサービスがあふれていて、便利になっている。
一方、誰でも経験していることだが、あふれている物やサービスを使い切っているかというと、そうではない。使い方がわからない物やサービス、故障したままの物、仕様通りに動かないサービスが至るところにあるというのが現実だ。とくに、お年寄りの世帯でこの傾向が著しい。

試みに近くのお年寄りの世帯で尋ねてみるといい。
「天井の蛍光灯が切れたまま」、「洗濯機の水もれが止まらない」、「留守電のメッセージの吹き込み方がわからない」、「クローゼットの入口に段ボール箱を積んでしまったために、クローゼットに入れない」、「タンスのレイアウトを変えたいが、重くて動かない」、「Outlook Express の『連絡先』からメールアドレスを拾う方法がわからない」、などなどの答えが返ってくるはずだ。枚挙にいとまがないほどだ。

一件一件の悩みを分析すると、なるほど、とうなずく。少しの知識・ノウハウ・体力・マニュアルの読解力があれば解決する悩みばかりだ。この悩みを解決するのが「便利屋」の仕事だ。ただし、世間の「便利屋」には問題がある。頼むと高いのだ。「蛍光灯の取替えに5,000円」「家具のレイアウト変更に10,000円」では、うかつに頼めないではないか。

ここに、ボランティアの出番があるのではないだろうか。つまり、自分の得意とする作業を進んで提供して相手に喜んでもらう、という考え方だ。
現代はIT社会で、その中で、いわゆる「情報弱者」といわれる、ITに強くない人たちが孤立しがちだ。一方、退役したIT経験者が数多くいる。この「情報弱者」とIT経験者との出会いがうまくいけば、世の中が格段に明るくなる、というのが私の明るい展望だ。

「便利屋」は商売にもなっているが、ボランティア活動の対象としても最適である。悩みが一つ解決するたびに、お客様(ボランティア活動を受ける人)の喜びが伝わってくるのだから。「便利屋」礼賛の所以だ。  (つづく。2007/12)


「利用者」ということばの響き

2007-12-13 03:58:13 | 現代を生きる
介護という体系、あるいは、介護システムは、介護保険制度に則って運用されています。介護保険制度は生まれてまだ日の浅い制度なので、いろいろと未熟なところがあります。その一例が、名前です。

介護をする側は、ケア・マネージャー、訪問介護士(ホーム・ヘルパー)、訪問看護師、などの名前がついています。

一方、介護を受ける側は何と呼ばれているか?
役所から、「あなたは『要介護2』に認定されました」という類の通知が来ます。すると、私は「要介護者」なのか、というわけです。介護保険という制度の利用者は、行政上は、「要介護者」です。しかし、誰も、自分のことを「要介護者」などといいません。

訪問介護の会社の人に聞いてみました。
「介護をうける人のことを何と呼んでいますか?」
「普通は、『利用者さん』とか『利用者様』とか呼んでいます」
やはり、介護保険という制度の利用者という意味合いが強い呼び名です。
しかし、介護を受ける人は、誰も、自分のことを「利用者」などと呼びません。ここにも、介護をする側と介護を受ける側との認識のギャップがあります。

それでは、介護を受ける人は自分のことをどう呼んでいるのでしょうか? そう、「病人」とか「患者」とか、呼ぶことが多いのです。これは、医療システムに擬えているのに違いありません。

省みれば、医療システムは中世の「施療院」以来の伝統ある制度で、この制度が発達する中で、医療を施す側を「医師」「看護師」と呼び、医療を受ける側を「患者」と呼ぶ習慣が確立してきたのでした。
医療を受ける人を「患者」と呼ぶことに、患者自身が何の違和感も抱かないほど、医療システムは成熟しているといっていいでしょう。

それに比べると、介護システムは成熟度の浅い制度といわざるをえません。「利用者」に代わる新しい呼称を、介護システムの利用者に付与するには、まだ時間が必要なのでしょう。 (2007/12)      

60歳台の半ばで

2007-12-06 04:19:14 | 現代を生きる
最近、電車を乗り過ごすことが多い。
乗り過ごしは、都心に向かう電車ではなく、都心から郊外に帰る電車で起こる。都心に向かう電車では、元気で、また、立っているので、乗り過ごすことはない。一方、都心から郊外に帰る電車では、疲れており、また、座席に座ることが多いので、ついつい乗り過ごすことになる。
いずれにしても、老化の現われには抗えない。

乗り過ごしには、もう一つ、思い当たる原因がある。考え事をして、乗り過ごすことがあるのだ。
何を考えているか? それは「ブログのネタを考えているのだ」、というと冗談になってしまうが、実情はそれに近い。

60歳台の半ばを迎えて、考える対象も自ずと変わってくることを自覚している。

一つは、この歳になって、何に生きがいを見つけるか、ということをいやでも考えざるをえない。
自営業者にとって、60歳台は現役の真っただ中で、生きがい探しにはまだ間があるだろう。また、私立大学の教授には70歳定年を享受している人がいて、これも、生きがい探しを考えるには早すぎるかもしれない。

しかし、勤め人の多くは60歳で定年を迎え、以降は「定年後」の人生に入ることになる。60歳台の半ばは、この「定年後の人生」の生きがい探しに悩み始める時期となる。

「定年後」に何をするか?
大きく分けて、4つあるのではないか?
1.別の仕事に就く。
2.趣味に生きる。
3.ボランティア活動に参加する。
4.家族の世話をする。

この4つの活動をどう組み合わせて「定年後」の人生設計を行うか? それが、悩みの中心だ。 (つづく。2007/12)

イギリス民衆文化への共感

2007-12-01 03:30:19 | ソローとモリス
黒田千世子さんの近著「大人のためのやさしい日常英会話事例集50選」、創英社、2007年、を読み終えたところだ。実用英会話の経験豊かな著者の面目躍如だ。

黒田さんには前著「イギリスの丘絵(ヒル・フィギュア)を紹介する本」、講談社出版サービスセンター、2003年、という傑作がある。この本を紹介しよう。

「地上絵」といえば、ペルーの「ナスカの地上絵」が有名だが、「イギリスの丘絵」は地上絵を丘に描いたものといえばわかりやすいかもしれない。イギリス南部のイングランド地方とウェールズ地方の石灰岩地層を有する地帯に点在するという。全部で20余り。その一つ一つを黒田さんは訪ね歩き、出現や制作の由来を土地の人に聞き、記録している。普通の人にはなしえない力業だ。

丘絵の原理は、石灰岩地層の表面の緑の草を剥ぐことによって白い石灰岩が露出することを利用している。写真で見ると、白馬のフィギュアが多いようだ。

誰が、何の目的で、ということが気になるところだ。これだけ大掛かりの絵を描くためには、多くの人の参加があったに違いない。そこに黒田さんは民衆文化の伝統が根付いているのを示唆している。鋭い指摘だと思う。

黒田さんは、土地の人へのヒアリングで、民衆と領主との複雑な葛藤と協力の関係があったことを探り出している。

描かれた白馬などが表徴するものは何か、キリスト教との係わりは合いどうか、土俗信仰の表れではないのか、など興味はつきない。
現代的な関心からいえば、緑の草を剥ぐことは自然保護に反しないか、という疑問もあろう。

ローズマリ・サトクリフに「ケルトの白馬」、2000年、ほるぷ出版、というロマンスがある。バークシャー地方のアフィントンにある丘絵の生成の由来を題材にしたロマンスだ。丘絵はイギリスの人々の想像力を掻き立てる独特の存在であることがわかる。

黒田さんは、ホームページ「イギリスの丘絵」 http://homepage3.nifty.com/okae/ を公開して、丘絵の普及・紹介に努めている。

黒田千世子さんの著作:
「ゴグ・マゴグ:英国の伝説と歴史の接点を求めて」、1994年、近代文芸社
「旅先で出会う 英語の掲示(イギリス編)」、 2000年、創英社
「イギリスの丘絵(ヒル・フィギュア)を紹介する本」、2003年、講談社出版サービスセンター
「大人のためのやさしい日常英会話事例集50選」、2007年、創英社

これらは、例えば、アマゾンで、新刊か古本で求めることができる。私も、このようにして手に入れた。  (2007/12)