静聴雨読

歴史文化を読み解く

粘着質の功罪・1

2007-08-22 06:17:36 | 現代を生きる
ブログを始めて続けていくうちに、思わぬ発見をすることがあります。それを書いてみます。

その1。
最も意外な発見は、私がかなり粘着質な性格を有していることでした。
これまでは、逆に、淡白であっさりした性格だと自覚していましたので、自分に粘着質なところがあるという発見はかなりのショックでした。

粘着質は、別のことばに直せば「しつこい」性格だということです。
下世話な場面では、異性に「あなた、しつこいのよ」といわれれば一巻の終わりでしょうし、それ以上つきまとえば、「ストーカー」とみなされかねません。

粘着質な性格が私のブログにどう影響しているかを検証してみます。

例えば、「プルーストの翻訳」についてコラムを始めた時は、これほど長く続くコラムになるとは想定していませんでした。

初めは、「失われた時を求めて」について、なぜ井上究一郎と鈴木道彦とが、同時期に競い合うようにして、その全訳に取り組むのか、という疑問でした。鈴木の側から井上の翻訳への批判が出ていることは承知していましたので、両者の翻訳を比較してみようと思いつきました。それで、第1篇「スワン家の方へ」・第1部「コンブレー」の冒頭の一文で、井上訳と鈴木訳とを比較したのが始まりでした。

ここから、「粘着質な性格」がむくむくと目覚めました。
鈴木の翻訳史を調べてみよう。すると、何回かの訳文の変遷があり、その変遷の理由が謎として残りました。では、井上の方は? というわけで、井上の翻訳史を調べてみると、同じく何回か翻訳を変えています。その理由も謎です。

それで、原文のフランス語の読解にまで手を伸ばすことになりました。辞書や文法書を参考にして原文を読解すると、プルーストがわずか8語のフランス語で、現在と過去とを対比する形で、過去の習慣を述べているのだと確信するに至りました。それで、おこがましくも、私なりの試訳を提示することにしました。「長いあいだ、早めに床に就くのが私の習わしだった。」というのが拙訳です。

結局、最初、井上訳と鈴木訳との比較に取りかかってから、最後に私なりの試訳を提示するまでに、7ヶ月かかるという長期作業になったのでした。  (つづく。2007/8)

悼友書簡

2007-08-20 06:16:25 | Weblog
分載していた「悼友書簡」をまとめて再掲載します。(長文)

(1)ozekia からMTへ

MT様

突然、お手紙をさしあげますことをお許しください。
私はMKさんの高校時代の同学年生の ozekia と申します。
入学時は違うキャンパスでしたが、3年の時のキャンパス統合により、ともに下馬の校舎で学びました。
MKさんとはなんとなくウマがあい、もう一人、TM君を交えて友達付き合いをしていました。

3人それぞれ別の大学へ進みましたが、交流は続きました。MKさんが京都にある大学の大学院に進んでからも、一度は、TM君とともに京都を訪れ、MKさんの下宿(銀閣寺の門前にありました)に泊めていただいて、夏の祇園祭を見たことがありました。
サルトルとボーヴォワールが来日して、京都で講演したときには、二人で聞きにいきました。
冬、MKさんの留守の間の下宿を貸してもらって、芯から冷える京都を体験したこともあります。

その後、何年か後、お二人が結婚された旨の通知を頂いた記憶があります。

さて、先日、プルーストについて調べるため、ある図書館を訪れ、フランス文学の棚に眼をやったところ、「MK論集」と背に書かれた本が眼に入りました。もしやと思い手にとり、岩崎力さんのまえがきを読むと、これはまぎれもなく私の知っているMKさんの著書であることがわかりました。そして、彼が亡くなっていたとは。

MKさんとの交流が絶えたあとも、彼の動静は気にしていました。例えば、フランス文学の翻訳者として登場しないだろうか、など。スタンダリアンだったMKさんですが、先輩の大物に要所を既に押さえられていて、翻訳者として名を連ねることができなかったのかもしれないと思っていました。
プルーストとクロード・シモンについては、この著書で初めてMKさんの研究対象となっていることを知りました。文体構造の分析は私には難しすぎてわかりませんが。

私はサラリーマン生活を定年退職し、今年から、「歴史文化を読み解く」というタイトルのブログを立ち上げ、長年蓄えてきた思いを披露し始めました。その中にはプルーストも入っており、そのプルーストを調べる過程でMKさんの訃報に遭遇するとは、不思議な縁だという思いが募ります。

仏前に志を手向けさせてください。
改めて、お訪ねした折に、ご挨拶させていただければと思っています。

(2)MTから ozekiaへ

ozekia 様

久しぶりにMKに会えたような気持になりました。嬉しいのか、寂しいのか、なつかしいのか、よくわからないしんみりとした涙が出そうになって、お手紙を読ませて頂きました。
ごていねいな、そして心のこもったお言葉と志を本当にありがとうございました。

実は、先日から砂漠歩きの旅に出ていて、昨夜遅く日本に帰ってまいりました。そして、ozekia 様が書いて下さったお手紙を読んだのです。そのうえ、今日はまさにMKの命日なのです。たった今、お墓参りから帰ってきて、さっそくこの手紙を書いております。ozekia 様との不思議な縁を感じました。心より御礼申しあげます。

MKの交友関係をあまり知らなかったことと、四国での突然の死でしたので、とても寂しいお葬式でございました。でも、このような形でMKの友達だった方と縁がつながって行くことが、少し私の心を明るくしてくれます。
二年前にお送りできなかった「MK論集」を同封させて頂きます。おそばに置いて頂けるだけでも嬉しく思います。どうか本箱の片すみに置いてやってくださいませ。

お電話でozekia 様のお声を直接お聞きしたい気持にかられておりますが、とりあえずお手紙を書きました。
いつかお目にかかれて、直接御礼を申しあげ、また若い頃のMKのことを少しでも聞かせて頂ける機会に恵まれますことを心より念じております。
                                 MT

追伸
お手紙に書いてあったTM様にも本をお送りしたいのですが、もしお差しつかえなければ住所をお教え下さいますでしょうか。

(3)ozekia からMTへ

MT様: ozekia です。

ご丁寧なお手紙をありがとうございました。また、「MK論集」をご恵贈いただき、恐縮に存じます。この著書で展開されている文体構造の分析は私には難しすぎてわかりませんが、読み続けてまいりたいと思います。

MKさんの大学時代には、学園祭で、アヌイかジロドゥの「オンディーヌ」をフランス語で上演して、彼がその主役を演じたことを思い起こします。
あ、そうそう、私は高校の第二外国語にフランス語を選び、そのつながりでMKさんと親しくなったのかもしれません。

ともに渋谷の街をさまよった後にかならず立ち寄るのが、今も東急本店通りにある立ち食いそば屋でした。そんな細かなことが記憶の断片に残っています。

私にとって、MKさんは一つの理想像でした。私は、何の変哲もないサラリーマン生活に入りましたが、MKさんは、初志貫徹、研究生活に邁進して倦むところがありませんでした。うらやましく思いました。

私は大学で日本経済史を学び、指導教官から大学に残らないかと誘われたことがあり、父もそれを期待しておりましたが、研究生活を続けることに十分な自信を持つことができず、大学に残る道を断念した経緯がありました。それに比べ、MKさんは、ライバルが多いという厳しい環境の中で、早くから研究生活を続けることを決意されていたことが驚異であるとともに、尊敬しておりました。

MKさんが四国の大学に奉職された以降については、何も存じ上げません。雑誌やメディアに登場されなかったことは、MKさんの「矜持」のしからしめた結果といえるかもしれません。ここに大部の「MK論集」を前にして、そんな思いにとらわれます。

私はサラリーマン生活を定年退職し、ようやく自由な気持で、長年蓄えてきた思いをブログに披露し始めました。そのときの指針というか、バックボーンというか、の一つがMKさんに見られる「矜持」なのだと、改めて確認した次第です。

改めて、お訪ねした折に、ご挨拶させていただければと思っていますが、今はメールで失礼をいたします。

追記: TM君は、大学を卒業し、就職し、結婚し、子供を2人もうけましたが、精神に障害が生じ、仕事をやめ、離婚し、ここ20年ほど消息がわかりません。そのため、住所をお知らせすることができませんことをご了承ください。  

(4)MTから ozekiaへ

ozekia 様

早速のご返事有難うございました。
直接お電話してお声を聞きたいところでしたが、煩わしく思われるかもしれないとご遠慮してとりあえずお手紙だけにしておりました。でもすぐにこのようにご丁寧なご返事を下さって、大変嬉しく思いました。

メールを読みながら、MKの若いころの様子を垣間見た気がしまして、ちょっとだけ心弾みました。彼の生前は、単身赴任でした。わたし達は普段一緒に生活していたわけでなく、彼が他界してしまっても、私の生活はさほど昔と違いがないはずなのですけれど、彼がこの世に居ないのと居るのとではものすごい違いがあって、お恥ずかしいのですが、3年経った今でもますます会いたくなるばかりです。悲しさが募るというのはだらしない事です。彼に関して話が聞けるだけでも、私にとっては彼に会えた気がして、ちょっとだけ嬉しいのです。ありがとうございました。

TMさんの事は、とても残念です。この世の中には、ほんとにたくさん苦しい事があるのですね。

ozekia様のメールの文章によると、もしかしたら直接ozekia様にお目にかからせて頂ける機会がありそうなので、楽しみに心待ちさせていただきます。私は勤めがありますが、授業がない日は大抵は自宅に居ります。いつでもご連絡をお待ち申し上げております。
                               MT

(追伸)
今、ふと思い出しました。ozekia様は高校でフランス語を取っていらしたとの事、私が勤めている大学にNKという同僚が居ますが、彼も同じ高校でMKと一緒にフランス語を取っていた仲間だという事です。ご存知でしょうか。現在は映像学科の教授です。しかし学生時代にMKとはあまり親しくお話した事はなかったそうですが。

(5)ozekia からMTへ

MT様: ozekia です。

メールありがとうございました。

まず、NKさんについて記しますと、名前は聞いたことがありますが、どの人だったか、顔は覚えていません。手元にある1993年版同窓会名簿によると、MKさんとNKさんは同じクラスだったようです。(戦時中の生まれのわれわれの世代には、クニという名前の男が多いようです。)NKさんは、間違いなくMTさんのご同僚だと思います。

MKさんについて覚えていることは多くありませんが、思い出すことを脈絡なく記しています。

彼はスタンダリアンでしたが、私はスタンダールをほとんど読んでいません。
彼の読書で記憶にあるのは、ローベルト・ムジール「特性のない男」です。とてつもなく難解な小説で、6冊1万円ぐらいの価格もあって、私は手を出しませんでした。その後、ムジールの短編「静かなヴェロニカの誘惑」などを読みましたが、これも難解でした。

私は、大学時代のある教師の影響で、フランスのサルトル・ボーヴォワール・ニザン・ファノンなどをよく読みました。サルトルとボーヴォワールの来日は私にとって事件で、大変興奮して、MKさんを誘い講演会に出かけたものです。

大学時代の教師はプルーストの翻訳も手がけていましたので、解らないながら、「失われた時を求めて」を少しずつ読んでいました。プルーストについてMKさんと話を交わした記憶はありません。

クロード・シモンについては、まったく触ったことがありません。

そうそう、彼の大学院時代に、戦前版の「漱石全集」を4000円ぐらいで購入して悦に入っているMKさんもいました。

MKさんの下宿は銀閣寺の門前にありました。京都ならではの立地です。私は、「蓮華寺では下宿を兼ねた」という、島崎藤村「破戒」の書き出しとの共通点を見出していました。
私は漱石派というよりも藤村派でした。

MKさんが四国の大学に奉職されてから、何がきっかけで文体構造論に没入していったのか、彼が生きていたら聞いてみたいことです。

近々お訪ねして、ご挨拶をさせていただければと思っています。 (2007/6)
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フランス文学者・松尾国彦の遺稿集「松尾国彦論集(スタンダール プルースト クロード・シモン)」を紹介するホームページがあります。http://kmatsuo.seesaa.net/ を訪問してみてください。