静聴雨読

歴史文化を読み解く

至福の八年間[母を送る]・7

2010-09-07 06:45:12 | 介護は楽しい
(8)九十九折の坂道

1996年に左ひざを痛めてから、2010年に亡くなるまで、母の歩みは、例えてみれば、長く緩やかな九十九折の坂道を下るようであった。とくに、脳梗塞で自活できなくなった2002年からは、その様を目前にした。歩みは考えられる最も遅い歩みだったが、坂道だから、止まることも許されないものであった。

その間、身近で母を世話することができたことは幸せであった。まさに、「至福の八年間」であった。 (終わる。2010/9)

至福の八年間[母を送る]・6

2010-09-05 06:37:22 | 介護は楽しい
(7)歌に寄せる

母は自分の趣味を、絵を描くこと、歌をうたうこと、ツルを折ること、の3つだと絶えず口にしていた。右手が不自由になってからは、絵を描くこととツルを折ることがままならなくなり、歌をうたうことが残った。
戦前の歌から戦後の歌謡曲までレパートリーは広く、こんな歌も知っているのかと人を驚かせるほどだった。

母の十八番に「お菓子の好きなパリ娘」がある。正しい題はわからないが、シャンソン風の歌だ。なぜこの歌をうたうのかは薄々わかる。糖尿病でお菓子にありつけない不自由をかこっているのだ。

「お菓子の好きなパリ娘
 二人そろえばいそいそと
 角の菓子屋へ『ボンジュール』」

最初の一連だ。最後の「ボンジュール」の後、しっかりと休止符を置くのがこだわりだ。

「選(よ)る間も遅しエクレール(エクレアのこと)
 腰もかけずにむしゃむしゃと
 食べて口拭くパリ娘」

第二連のメロディーは第一連の繰り返し。

「人が見ようと笑おうと
 小唄まじりで街を行く
 ラ・マルチーヌの銅像の
 肩でツバメの宙返り」

第三連で転調し、牧歌的な情景が閉じるのだが、最後の「宙返り」の節が難しいようだ。まず、速度を遅くしなくてはならない。次に、ツバメが本当に宙返りしているように音符を舞わせる必要がある。ここをうたい切ると母は満足を示す。

このところ、この歌を正確にうたうことが難しくなり、「私はまだ歌を覚えているの」と主張するように、第一連から第三連まで駆け足で節もつけずにうたうようになった。うたう歓びを味わう余裕のなくなりつつあるのがさびしいところだ。(2007年9月のこと)
(2010/9)


至福の八年間[母を送る]・3

2010-08-24 06:47:32 | 介護は楽しい
(3)介護老人保健施設

2006年3月から入院した母は、褥創の手術を受けて、幸い成功した。そして病院のソーシャル・ワーカーとの相談に入った。
「まもなく退院できますが、退院後のケアの体制はどうなさいますか? 施設を利用されますか?」

それまでは、自宅でホームヘルパーの支援を受けながら、家族で介護していたが、2006年初めから入院がちになるに従い、自宅での介護に限界を感じつつあった。母は、自分の足で踏ん張る力が弱くなり、ベッドからポータブル便座に移動させるにも、一人の介助ではおぼつかなくなってきた。

しかし、施設を利用することは考えていなかった。2005年秋に、母に「施設はどうか?」と聞いてみたことがあったが、「絶対いや。入ったら出られなくなる。」との答えが返ってきた。これは一理ある考えで、自宅で過ごせる間は、そのほうが母にとってよい。そう思い、施設の検討は怠っていた。

しかし、今や、状況は変わった。認知症の兆候も出てきた現在では、母の判断を仰ぐことが難しく、病院のソーシャル・ワーカーのアドバイスを聞いてみることにした。それによると、一般的には、退院後のケアの体制には5通りある、とのこと。

・自宅で介護する(介護保険・ケアマネージャーによるケア)→実際上、困難。

・介護老人保健施設に入所する(介護保険・施設によるケア)→ある程度健康面に不安がないことが条件。

・長期療養型病院に入院する(健康保険・病院によるケア)→十分なケアが受けられるか、不安。

・特別養護老人ホームに入所する(介護保険・施設によるケア)→待ちが多く、なかなか入所できない。

・介護付き老人ホーム(介護保険・ホームによるケア)→費用が高い。

それぞれ一長一短がある。それで、介護老人保健施設と長期療養型病院を集中的に見てまわり、いくつかの介護老人保健施設に申し込みをした。併せて、特別養護老人ホームにも申し込みをした。 

介護老人保健施設(「老健」)は介護保険制度に基づき運営されている施設で、介護の必要な(「要介護1」以上の)老人を受け入れて、リハビリテーションなどを実施して、介護の程度を重くしない(「要介護度」を低くする)ことを目指している。そのため、長期療養型病院(入院期間に制限がない)と異なり、入所期間は原則として3ヶ月に限られている。
国の指針が、長期療養型病院への入院患者を減らして医療費を削減することにあるので、今、介護老人保健施設は続々と建設されている。

ところが、実際に介護老人保健施設を見てまわってわかったのだが、そこでの入所許可条件が「ある程度健康面に不安がないこと」であり、これが大きなネックとなりそうだった。厳密にいえば、「ある程度健康面に不安がない」老人などいない。そこに矛盾が見られる。

介護老人保健施設では入所許可を出す前に、家族との面接、医者からの医療情報の取り寄せ、関係スタッフの合議などを行うのが通例のようだ。
母の場合は、座っていられる時間が確保できるか、と、褥創の手術後の加療が必要ないか、の2点が、入所許可の出る・出ないのポイントだった。申し込みをしたいくつかの介護老人保健施設では、判断が分かれた。入所許可が出ないところ、入所許可を出すところ、入所許可を与えるのに先立ってさらに本人の面接を行うところ、という具合に。

結局、本人の面接を行って入所許可が出たある施設にお世話になることにした。
新築の施設で、明るさ、清潔さ、通路などの広さなど、ハード面は申し分ない。ケアの充実度やスタッフのレベルなどのソフト面は、新設の施設なので、いまひとつわからなかった。

とにかく、入所施設を確保して安堵するとともに、病院に転所を申し入れた。2006年6月のことで、入院から3ヶ月経っていた。 

(4)特別養護老人ホーム

「お申込になっておられた特別養護老人ホーム(「特養」)に今年度中に(2007年3月末までに)入れる見込みになりましたが、希望されますか? 改めてお伺いいたします」と突然あるホームから連絡が入った。

確かに、役所に2006年度下期の特養への申込をしていたが、申込者が非常に多く、役所の係員からも、「今期(2006年度下期)中の入所はまず難しいと思います」と釘を刺されていたので、期待をしていず、申込をしていたことさえ忘れていたので、驚いた。

老健の入所期間の3ヶ月が切れるころから、他の老健への転所を考え、数ケ所の老健から入所許可をいただいていた。しかし、いずれも「空き待ち」で、その状態がずっと続いていた。それで、喜んで、特養に入れていただくことにした。

特養のスタッフに話を伺うと、入所期限に制限はなく、経費は老健に比べて月に数万円ほど安いことがわかった。申込が多いわけだ。これで、転所先を探す煩いがなくなった。

母に、「今度、引っ越すことになったよ」と告げると、「そう」とだけ返ってきた。転所のことは理解したようだが、それ以上、関心は示さない。母は家に帰りたいと思っているからだ。 (2010/8)

至福の八年間[母を送る]・2

2010-08-20 07:01:22 | 介護は楽しい
(2)もう一つの世界

2002年に脳梗塞を発症して、自活ができなくなってからも、母は至って元気だった。近くの特別養護老人ホームにデイサービスに出かけたり、家では、描き溜めた絵を眺めたりして、過ごしていた。生来の「毒舌」も健在だった。

大きな転機は2005年にやって来た。
秋になって、急に眠りに落ちたり、脱力状態に陥ったりするようになった。
母は「もう一つの世界」を知ったのではないか、と思った。
こちら側の世界がいわば「正気の世界」であれば、「もう一つの世界」とは、脱力状態や憑依状態・催眠状態など、こちら側の世界とは異なる世界のことだ。

ある日、病院の予約外来に行った。出かける前から脱力状態に陥り、タクシーに乗せるのが大変だった。病院での診察中もこの状態が続き、帰宅することになったが、そこで、車いすからすべり落ち、大きな声で泣きじゃくり始めた。通りがかった看護師が話しかけると、「そんなこと言ったって、私のこと、何にもわかってないじゃないの。」というようなことを口走った。

前半は典型的な「もう一つの世界」の現われだが、泣きじゃくる後半はこちら側の世界に戻っている証拠だ。

このように、毎日、時間を分けて、こちら側の世界と「もう一つの世界」とを行ったり来たりするのが日常になった。そのような状態が、介護老人保健施設に入所するまで続いた。
(2010/8)


至福の八年間[母を送る]・1

2010-08-18 07:39:43 | 介護は楽しい
母が亡くなった。享年95。大往生であった。

2002年7月中旬に、ホームヘルパーから電話をもらった。母が買い物の途中でろれつがおかしくなり、入院したとのこと。検査の結果、軽い脳梗塞を起こしていることがわかった。幸い重度には至らず、3週間で退院することができた。

以来、一人での生活が不可能になり、子どもが交代で泊りがけの世話をすることになった。
母は独立心が強く、他人の世話になるのを好まなかったが、さすがに脳梗塞を患った後では、生活の不安が高まっていたようだ。

(1)障害の経過

母の障害の進展の経過を以下にまとめる。

1996年 左ひざを痛める。
1998年 要介護1。ホームヘルパーを入れる。
2002年 脳梗塞発症。自活ができなくなる。

2004年 要介護2。杖と介護ベッドを使い始める。

2005年 要介護4。車いすとポータブル便座を使い始める。
     急に眠りに落ちたり、脱力状態に陥ることが起きる。
     室内で転倒して右肩を脱臼する。以後、しばしば、右手・右肩
     の痛みを訴える。右手を使わなくなる。

2006年 要介護5。入院を繰り返す。
    介護老人保健施設に入所。
2007年 特別養護老人ホームに入所。
(2010/8)


「老人らしさ」を感ずる振舞い

2009-05-20 08:12:43 | 介護は楽しい
介護老人保健施設や特別養護老人ホームに通っているうちに、老人に特有の振舞いに気がつくようになりました。以下、アットランダムに箇条書きで記します。(母に当てはまる項目に○を付しました。)

=時々、粗暴なことばを発する(○)
=絶えず、何かを叩いて音を出す
=大声を上げる(○)
=自動発声器のように、同じことばを繰り返す

=表情が乏しくなる(○)
=痛みを訴える(○ 本当に痛い個所があるかどうかは微妙なところ)
=家に帰りたがる(○)
=生まれ育った地域のことばが甦る(○)

=自分の持ち物を盗られたと訴える(○)

=食欲が旺盛(○)
=食が細くなる(食欲が旺盛、と正反対だが、どちらかの兆候が現われるようだ)

=幻視・幻聴(○)
=夢遊状態・憑依状態(○)

これらの振舞いはすべての老人に当てはまるというわけではなく、また、どの振舞いが認知症の兆候かということもわかりません。医師・心療内科の先生・看護師・介護士のだれに聞いても確たる回答は得られません。

しかし、これらの振舞いは、介護老人保健施設や特別養護老人ホームでは経験的に多くの事例を把握しているようで、これらの施設の家族への問診票には、「このような振舞いがありますか?」と列挙されています。こうやって集積された「振舞いのパターン」を分析すれば、より良い介護と看護の指針が出来上がるように思えますが、期待のし過ぎでしょうか?  (2007/5)      

老人と「うつ」

2009-05-18 09:09:10 | 介護は楽しい
老人ホームに母を訪ねると、母の口元がわずかに緩むのがわかります。それが母の歓迎のしぐさですが、それ以上、母が表情を変えることはありません。食事の介助をする私を見る目はクールで、あたかもヘルパーの方を見ているようです。

一般に、老人は笑いません。これは、誰にも共通する特徴です。

食事時に母と同席するおばあさんは、母よりはるかに若く、おそらく70歳代だと思われますが、このおばあさんも笑いません。
私と目が合うと、「ネー」と声を発しますが、それ以上のことばが聞かれることはありません。「ネー」といいつつ、何かを訴えているのですが、その意味は他人にはわかりません。
このおばあさんは、ほかにも、机を叩いて、ひとの関心を引こうとします。

「老人性うつ病」ということばがあります。
老人の表情が乏しくなる症状の嵩じた様をいうのだそうです。
確かに、うつ病と間違えるほどの無表情の老人は多い。

この老人のうつ病の緩和のために、「玩具療法」を試みる動きがあるそうです。
ダーツやジグゾーパズルなどをあてがって、的にあてたり、絵を完成したりする喜びを味わってもらう、という趣旨のようです。
先日テレビで放映されていましたが、確かに、遊びのあと笑顔を見せる老人がいました。

「玩具療法」は始まったばかりで、いろいろ問題点も出てきているようです。
その一つは、おもちゃが老人には使いづらいことです。パズルのピースが小さすぎたり、ピースの切り込みが複雑すぎたり、という問題が指摘されています。
これから、改良が施されていくことでしょう。  (2009/5)      

ほくろがとれた

2009-04-07 06:51:44 | 介護は楽しい
母の左頬に大きなほくろがあります。大きな干しぶどうのようで、皮膚からぶら下がっています。40年くらい養っているものです。ここから血が出るようになり、医者に診てもらったところ、切除した方がいいとのことで、手術を受けることになりました。94歳にして、手術を受けるとは。心配もありましたが、簡単な手術で、入院も必要ないとのことなので、受けさせることにしました。

近くのクリニックでの手術はあっという間に終わりました。
以後はガーゼ交換のための通院を8日間行い、最後に抜糸して、終了です。
最後の日に病理検査の結果を知らせてもらいました。悪性の腫瘍ではない、とのことです。

通院のたびに母は車窓から外を見ています。久しぶりに町の雰囲気を味わっているようです。

老人ホームに帰り、左頬に手を当て、「痛いか?」と聞くと、黙っています。「痛くないか?」と聞くと、うなづきます。つまり、痛くないのです。

母は、ほくろのとれた痕を自分で確認することができません。
しかし、術後はどうやら気分がいいようです。表情がいきいきしている日が多くなったようです。  (2009/4)    


さらに短いことば

2009-04-05 09:39:56 | 介護は楽しい
以前、母のことばがどんどん短くなっていく、と書きましたが、その通りに推移しています。というよりも、発語そのものが少なくなっている、といった方が正しいかもしれません。

食事の時に、「うまいか?」と聞くと、うまいときには以前は「うみゃ」といいましたが、今はうなづくだけです。発語を省略しています。

うまくないときは、「うまいか?」と聞くと、黙っています。
「うまくないか?」と聞くと、うなづきます。

先日、久しぶりに元気のいい日がありました。
食事の後、差し入れのプリンを一口食べた途端、「うまゃあ。」といいました。そして、プリンを食べ終わると、「うまかった。」とはっきり口に出しました。

食事後の散歩の途中、「何か食べたゃあ」といいます。
「今、食べたばかりじゃない。また、明日ね。」というと、激しく顔を横に振り、「今夜、食べる。」といいます。
これには驚きました。最近、否定や拒否の動作が極端に少なくなっていましたので、顔を横に振るしぐさが久しぶりでしたし、明日ではなく今夜、というような論理的発語も近来にないものでした。

このような気分の優れた日が多いといいのですが。  (2009/4)      

短いことば

2008-04-22 06:43:25 | 介護は楽しい
母の最近の関心事はもっぱら食事です。糖尿病で1200kcalの熱量制限を受けているので、絶えず空腹感が襲うようです。

食事の時に、「うまいか?」と聞くと、うまいときには「うみゃ」といいます。デザートなど、特に気に入ったときは、「うまい、うまい!」と重ねます。
母にとって、「うまい」と「甘い」が同義語のようです。そういえば、二つのことばの語呂が似ています。

うまくないときの表現は様々です。
「うまくにゃあ」「まずい」ということもあれば、「普通」ということもあります。
「よう判らん」というときもありますが、これも「うまくない」を表わすことばです。
黙っているときもありますが、これもまた、「うまくない」を表わしています。
うまくないときの表現が豊富なのはなぜでしょう?

元気のいい時は、「まずいけど、食べる。」といいます。「食べないと腹が空いて困るから、無理して食べておく。」という意味です。

私が見舞いに訪れると、以前、元気な時は、まわりの人に、
「これ、わたしの息子なの」
というのが常でした。
その後、
「わたしの息子なの」
となりました。「これ、」が取れたのです。

今は、
「わたしの息子」
というのが普通です。「なの」も取れました。

このままでいくと、いずれ、
「息子」
とだけいうのではないかと思います。

ことばがどんどん短くなっていきます。

食事がうまくなかったときも、いずれは、「まずい。食べる。」というようになるのではないかと推測しています。  (2008/4)