(1)「月」・「花」・「海」-狂気を誘うもの
「月」・「花」・「海」の3つと「狂気」との間柄がかねてから気になっていた。「月」も「花」も「海」も狂気との親密性があるのではないか?
この3つのうちでは、「月」と狂気の関係が最もポピュラーだ。
「月見れば千々に物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」と詠んだ中世の歌人・大江千里は、月に自身の狂気を写しこんでいるにちがいない。
また、「月」はヨーロッパの神話・伝説の世界でも、狂気との親密な関係を言い伝えられている。英語の「月の女神 Luna 」と「狂気じみた lunatic 」が同根の語彙同士であることはよく知られている。
わが国では、「花」に狂気を感じる人も多い。
とくに、桜と狂気の親近性が広くいわれている。坂口安吾の『桜の花の満開の下』では、「桜の木の下には死人が埋まっている」というような例えで、桜と狂気との関係を描いている。
確かに、満開の桜を目にすると、その余りに濃密な存在にクラクラする気分に陥ることがある。桜は葉が出る前に、花が一斉に咲く。文字通り、びっしりと咲く。その様を凝視するのが耐え難いほどだ。
桜のほかには、例えば、夏に咲く「サルスベリ」にも怪しい狂気の匂いが漂う。
水上 勉の小説を田坂具隆が映画化した『五番町夕霧楼』に、一斉に赤い花をつけるサルスベリのショットがあって、それを見た時、クラクラっとした。娼婦の悲しい定めの象徴としてサルスベリを使ったことは容易に想像できたが、燃えるようなサルスベリには狂気に誘う妖気が漂っていた。
同じく、夏に一斉に咲く「ひまわり」にも胸を締め付けるような狂気を感じるのは私だけだろうか? いえいえ、あの「ひまわり」の画家・ゴッホがいるではないか。ヨーロッパにも、花と狂気の親密性を感じる人たちがいるに違いない。
(2) 岡倉天心とその仲間
さて、今回の大震災で最もショックを受けたことの一つに、「五浦の六角堂の消失」がある。
「五浦」といっても、「それはどこずら?」という方が多いと思うので、説明しよう。
五浦は茨城県北茨城市にある景勝地で、ここから見晴るかす太平洋の姿は一度目にしたら忘れられない壮観だ。
五浦が人に知られるようになったのは、岡倉天心率いる一派が、日本美術院に反旗を翻して、この地を活動の拠点に選んでからではないだろうか?
そして、私が五浦に引き付けられたきっかけも、そこに「茨城県天心記念五浦美術館」が開館すると聞いたことだった。ある年の晩秋にこの地を訪れた。
JR常磐線の特急が1本か2本停まるだけの大津港駅が最寄り駅だ。大津港や平潟港の漁港が海際にあって、そこからさらに海岸線を南に下ったところに五浦の地がある。人により、また、資料により、「イヅラ」とも「イツウラ」とも呼ばれる五浦は、断崖に張り出した狭い土地で、その一角に新しく美術館が建てられたわけだ。開館記念の展示は「天心と五浦の作家たち」で、岡倉天心とその仲間の作品が一同に展示されていた。
天心の仲間の名前を挙げれば、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山など錚々たる顔ぶれだ。この面々が、一室に集まって、画業に勤しむ姿を写した写真も展示されていた。この写真を見て驚愕を覚えた。
細長い二間続きの制作室があり、奥の6畳間に天心が座り、手前の20畳ほどの部屋に横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山が一列に並んで座って、皆一心に絵筆をとっている。この4名の並びは記憶に定かでないが、天心を含めて5人が醸し出す美術への熱情と仲間との調和は鬼気迫るものがあった。
私は明治時代の画壇の情勢には疎く、岡倉天心とその仲間が日本美術院に反旗を翻した行動の正当性を評価する材料を持たない。しかし、この一葉の写真から、岡倉天心率いる一派の美術への奉仕の純粋さが十分に読み取れると思った。この純粋さは「狂気」と紙一重ではなかろうか?
(3)六角堂
茨城県天心記念五浦美術館を出た私は、さらに断崖に迫った「六角堂」に赴いた。「六角堂」とは、六角形の小さな東屋で、広さは2畳か3畳、屋根が付き、壁にはガラスがはまっている。中で、畳(だと思った)に座って、太平洋を観望することができるようになっている。私も、天心に倣って、畳に座って太平洋を見ていた。はるか遠くの水平線まで展望できて、気が壮大になってゆくのを実感した。
しかし、15分ほど経って、気分がおかしくなってきた。これ以上、海を見続けることは難しいと思った。海から照らされる狂気に曝されているようなのだ。天心は、海に向き合って、私と同じように、狂気を感じたのではなかろうか? これが私の推測だ。
六角堂は断崖に建っている。その断崖は10m や20m ではきかない高さだったと記憶しているのだが、今回の大地震に伴う大津波がその断崖を駆け上ったのだろうか? 六角堂はもっていかれたという。まことに信じがたいことだ。時々示される自然の凶暴さは筆舌に尽くしがたい。
天心は六角堂に籠って、あるいは瞑想に耽ったこともあったかもしれない。一方で、自身や仲間の美術にかける気持の純粋さが狂気と隣り合わせだという自覚を持ちながら、海の醸し出す狂気と向き合っていたのではないか。そんなことを考えた。
五浦では、六角堂が流失し、五浦美術館も安全が確保できないという理由で展示は中止されている。再開は7月らしい。再開の頃を見計らって、再び、五浦の地を訪れてみようと考えている。 (2011/4)