静聴雨読

歴史文化を読み解く

海と狂気

2011-05-26 07:44:36 | 芸術談義

 

(1)「月」・「花」・「海」-狂気を誘うもの

 

「月」・「花」・「海」の3つと「狂気」との間柄がかねてから気になっていた。「月」も「花」も「海」も狂気との親密性があるのではないか?

 

この3つのうちでは、「月」と狂気の関係が最もポピュラーだ。

「月見れば千々に物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」と詠んだ中世の歌人・大江千里は、月に自身の狂気を写しこんでいるにちがいない。

 

また、「月」はヨーロッパの神話・伝説の世界でも、狂気との親密な関係を言い伝えられている。英語の「月の女神 Luna 」と「狂気じみた lunatic 」が同根の語彙同士であることはよく知られている。

 

わが国では、「花」に狂気を感じる人も多い。

とくに、桜と狂気の親近性が広くいわれている。坂口安吾の『桜の花の満開の下』では、「桜の木の下には死人が埋まっている」というような例えで、桜と狂気との関係を描いている。

 

確かに、満開の桜を目にすると、その余りに濃密な存在にクラクラする気分に陥ることがある。桜は葉が出る前に、花が一斉に咲く。文字通り、びっしりと咲く。その様を凝視するのが耐え難いほどだ。

 

桜のほかには、例えば、夏に咲く「サルスベリ」にも怪しい狂気の匂いが漂う。

水上 勉の小説を田坂具隆が映画化した『五番町夕霧楼』に、一斉に赤い花をつけるサルスベリのショットがあって、それを見た時、クラクラっとした。娼婦の悲しい定めの象徴としてサルスベリを使ったことは容易に想像できたが、燃えるようなサルスベリには狂気に誘う妖気が漂っていた。

 

同じく、夏に一斉に咲く「ひまわり」にも胸を締め付けるような狂気を感じるのは私だけだろうか? いえいえ、あの「ひまわり」の画家・ゴッホがいるではないか。ヨーロッパにも、花と狂気の親密性を感じる人たちがいるに違いない。 

 

(2)     岡倉天心とその仲間

 

さて、今回の大震災で最もショックを受けたことの一つに、「五浦の六角堂の消失」がある。

 

「五浦」といっても、「それはどこずら?」という方が多いと思うので、説明しよう。

五浦は茨城県北茨城市にある景勝地で、ここから見晴るかす太平洋の姿は一度目にしたら忘れられない壮観だ。

 

五浦が人に知られるようになったのは、岡倉天心率いる一派が、日本美術院に反旗を翻して、この地を活動の拠点に選んでからではないだろうか?

そして、私が五浦に引き付けられたきっかけも、そこに「茨城県天心記念五浦美術館」が開館すると聞いたことだった。ある年の晩秋にこの地を訪れた。

 

JR常磐線の特急が1本か2本停まるだけの大津港駅が最寄り駅だ。大津港や平潟港の漁港が海際にあって、そこからさらに海岸線を南に下ったところに五浦の地がある。人により、また、資料により、「イヅラ」とも「イツウラ」とも呼ばれる五浦は、断崖に張り出した狭い土地で、その一角に新しく美術館が建てられたわけだ。開館記念の展示は「天心と五浦の作家たち」で、岡倉天心とその仲間の作品が一同に展示されていた。 

 

天心の仲間の名前を挙げれば、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山など錚々たる顔ぶれだ。この面々が、一室に集まって、画業に勤しむ姿を写した写真も展示されていた。この写真を見て驚愕を覚えた。

 

細長い二間続きの制作室があり、奥の6畳間に天心が座り、手前の20畳ほどの部屋に横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山が一列に並んで座って、皆一心に絵筆をとっている。この4名の並びは記憶に定かでないが、天心を含めて5人が醸し出す美術への熱情と仲間との調和は鬼気迫るものがあった。

 

私は明治時代の画壇の情勢には疎く、岡倉天心とその仲間が日本美術院に反旗を翻した行動の正当性を評価する材料を持たない。しかし、この一葉の写真から、岡倉天心率いる一派の美術への奉仕の純粋さが十分に読み取れると思った。この純粋さは「狂気」と紙一重ではなかろうか?

 

(3)六角堂

 

茨城県天心記念五浦美術館を出た私は、さらに断崖に迫った「六角堂」に赴いた。「六角堂」とは、六角形の小さな東屋で、広さは2畳か3畳、屋根が付き、壁にはガラスがはまっている。中で、畳(だと思った)に座って、太平洋を観望することができるようになっている。私も、天心に倣って、畳に座って太平洋を見ていた。はるか遠くの水平線まで展望できて、気が壮大になってゆくのを実感した。

 

しかし、15分ほど経って、気分がおかしくなってきた。これ以上、海を見続けることは難しいと思った。海から照らされる狂気に曝されているようなのだ。天心は、海に向き合って、私と同じように、狂気を感じたのではなかろうか? これが私の推測だ。

 

六角堂は断崖に建っている。その断崖は10m 20m ではきかない高さだったと記憶しているのだが、今回の大地震に伴う大津波がその断崖を駆け上ったのだろうか? 六角堂はもっていかれたという。まことに信じがたいことだ。時々示される自然の凶暴さは筆舌に尽くしがたい。

 

天心は六角堂に籠って、あるいは瞑想に耽ったこともあったかもしれない。一方で、自身や仲間の美術にかける気持の純粋さが狂気と隣り合わせだという自覚を持ちながら、海の醸し出す狂気と向き合っていたのではないか。そんなことを考えた。

 

五浦では、六角堂が流失し、五浦美術館も安全が確保できないという理由で展示は中止されている。再開は7月らしい。再開の頃を見計らって、再び、五浦の地を訪れてみようと考えている。  (2011/4

 


「悲しみ本線日本海」

2008-03-01 07:17:38 | 芸術談義
森昌子の歌った「悲しみ本線日本海」は、八代亜紀の歌った「愛の終着駅」と鏡の表裏の関係にある。

比較点:「悲しみ本線日本海」:「愛の終着駅」、の順に並べると:
旅をするのは:女:男
手紙を認めるのは:女:男
気持ちを綴るのは:女:女
感情表出:ストレート:ひねりを加えている

ともに、汽車で北を旅する女(男)とその相手の男(女)との交情を歌ったものだが、このように違いがある。

さて、「悲しみ本線日本海」は、森昌子のキャラクターを生かした歌詞・曲になっており、ストレートに女の情感を表すことに傾注している。ただし、「もしも死んだら、あなた、泣いてくれますか?」ということばは余りにストレートすぎる。
「窓にわたしの幻が映ったら、つらさをわかってほしい」と歌う「愛の終着駅」の歌詞の方が奥が深いといえるのではないか。 (2008/3)

「愛の終着駅」

2008-02-28 06:42:54 | 芸術談義
八代亜紀が歌った「愛の終着駅」は、伝統的な歌謡曲の「型」から踏み出す冒険をしている歌だと紹介したが、この歌の歌詞をさらに見てみよう。

男が、北に向かって旅をしながら、女あてに手紙をしたためる。寒さのせいか、列車のゆれのせいか、文字が乱れている。それを読んだ女が、男に「迷い心」が生じているのではないか、と邪推する、というのが第1番だ。

ところが、第2番の冒頭に、唐突に次のような歌詞が置かれる:

 君の幸せ 考えてみたい
 あなたなぜなの 教えてよ

男が「このまま関係を続けていけば、君を傷つけることになる。君の幸せを考えると、・・・」と女にもちかけると、女は、鋭く男の「迷い心」に気がつき、「なぜ別れようなどと考えるの?」となじる。こんな情景が目に浮かぶ。普通の男と女との関係かもしれないし、不倫愛の関係かもしれない。

以後の歌詞は第1番の歌詞の続きに戻り、手紙から香る海に匂いを嗅ぐと泣けてくる、と歌う。

ということは、第2番の冒頭の歌詞が、男と女との関係の伏線になっていて、それがほかの歌詞の部分に影響しているのだ。

男が汽車の中で手紙を認め、どこかの駅で投函し、女のもとに届くまでには、少なくとも2-3日かかる。今なら、メールでたちどころにやりとりできることだ。でも、それでは、この歌に込められた情感は吹き飛んでしまう。

この歌詞を作ったのが、プロの作詞家ではなく、どこかの会社の役員だと知って驚いてしまった。凄絶を極める「愛の機微」を体験した者でなければ、書けない歌詞だからだ。 (終わる。2008/2)


北へ

2008-02-26 07:36:58 | 芸術談義
2月に入り、珍しく寒い日が続いている。表に出るのが億劫になるが、部屋にいて口ずさむのは冬をテーマにした歌謡曲だ。

A.「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)
B.「悲しみ本線日本海」(森昌子)
C.「北帰行」(小林旭)
D.「函館本線」(山川豊)
こんな歌が思い浮かぶ。

これらの歌には共通する要素がある。
まず、冬が背景にあること。(A.B.Dに共通。Cは季節を明示していない。)
次に、主人公が「北に帰る」こと。(A.C.Dに共通。Bでは主人公は北を旅する。)
三番目に、主人公の独白を歌にしている。

何だ、歌謡曲のステレオタイプじゃないか、というのは簡単だが、むしろ、これらの歌には、共通の「型」があって、それを踏襲していると解釈した方がわかりやすいだろう。

八代亜紀が歌った「愛の終着駅」という歌も思い出される。
この歌が上述の「型」にどれだけ当てはまるか、検証してみる。

「寒い夜汽車」とあるので、冬か晩秋が歌われていることに違いはない。
主人公(女)が、男が汽車でしたためた手紙を読むという構成になっていて、ほかの歌とは情景が大きく違って、ひねりを加えている。
旅する主人公の独白ではなく、(見えない)旅する男との対話という形式も珍しい。

「愛の終着駅」は伝統的な歌謡曲の「型」から踏み出す冒険をしている歌だといえる。 (つづく。2008/2)

秋川雅史と美空ひばり

2007-11-07 04:15:52 | 芸術談義
フレーズの終わりを極限まで伸ばし、すぐ、次のフレーズにつなげる秋川雅史の歌い方には専門用語があるはずだが、それがわからない。とりあえず、「引き延ばし唱法」と名付けておこう。この「引き延ばし唱法」は、秋川の工夫ではあるが、発明や独創とは違う。歌謡曲、とくに演歌の歌手の多くが取り入れている歌い方だ。もっとも成功した例として、美空ひばりを挙げたい。

「悲しい酒」はひばりの絶唱といえるものだが、ひばりはこの歌を歌うのに「引き延ばし唱法」を取り入れている。それは次のようだ。

第一フレーズから第二フレーズにかけて、「飲む酒は」の「は」のところが長くなり、「の~むうさ~けは~~~」となる。後半は息が細くなり、ほとんど休止しているといってもよい。伴奏は付き合いきれずに、先を進む。そのため、「別れ涙の」の最初が詰まり、「わかれな~みいだ~の」と歌い継いでいくことになる。音符通り歌うと、「わ~~か~れな~みいだ~の」となる部分だ。他のフレーズ間の受け渡しでも同様の事態が起こる。

ひばりは、全体を極めてゆっくりと、余韻嫋々と歌う。テレビで見たときには、ひばりの眼から涙が伝わっていたことを思い出す。それほど、ひばりはこの歌を「作って」いるのだが、技巧のいやらしさを感じさせない。

ひばりは「引き延ばし唱法」の大家だが、どの歌も同じように「引き延ばし唱法」で歌っているのではないことに注目したい。例えば、「港町十三番地」では、「引き延ばし唱法」を抑えて、航海から戻ったマドロスの心浮く姿を想起させるように、弾むようなメロディを刻むのだ。同じ、酒場と酒を主題にした歌でありながら、状況に応じた歌い分けを試みていることがわかる。

秋川雅史が歌った「波浮の港」に違和感を覚えた訳を考えているのだが、なかなか難しい。この歌も「引き延ばし唱法」になじむはずなのだが。第四フレーズに「ヤレホンニサ」という掛け声を取り込んでいる(野口雨情作詞)のだが、このことばが「引き延ばし唱法」を拒んでいることに気付いた。
どう歌っても、「ヤレホンニサ~~~」とはならないではないか。

秋川雅史が歌ってうまくいきそうなのが、例えば、「荒城の月」だ。これは朗々と歌い上げればいいのだから、「引き延ばし唱法」にピッタリだ。  (2007/11)

秋川雅史のテノール

2007-10-25 04:44:00 | 芸術談義
秋川雅史の「千の風に乗って」が、クラシック歌手のCDとしては、大ヒットとなった。
その秋川が本当にテノールであるか、ということが話題になっている。ある週刊誌の電車中吊り広告で見出しだけを見たのだが、記事は見ていない。おそらく、「2ちゃんねる」の掲示板でも、話題になっていることだろう。

男声には、上から、テノール・バリトン・バスがあるが、多くの歌手の声はバリトンで、テノールとバスは少ない。そのため、テノールには、希少価値をつけられているきらいがある。「三大テノール」といわれる、ルチアーノ・パヴァロッティ(最近亡くなった)、プラシード・ドミンゴ、ホセ・カレーラスは、世界各地で公演して、喝采を博している。わが国では、藤原良江、五十嵐喜芳などが女性を恍惚とさせてきた。

そんなわけで、秋川もテノールを名乗ったのだろうか?
実際に聞いてみて、秋川の声がテノールであるかどうかはよくわからない。わかるのは、秋川の声が美声であることで、それが多くの女性を虜にしていることは納得がいく。

秋川が本当にテノールであるかという、週刊誌や「2ちゃんねる」の議論は、秋川が脚光を浴びたことに対する、ねたみ・ひそみ・ひがみ・やっかみの類であろう。

秋川が、あるテレビ局で、「千の風に乗って」の歌い方を研究して、様々なバリエーションを作ってきたことを話していたのが興味深い。彼が成功したと思う歌い方の一つが、フレーズの終わりを極限まで伸ばし、すぐ、次のフレーズにつなげる歌い方であるという。なるほど、と思った。

しかし、この歌い方がどの歌曲にもマッチするものではない。同じ技法で秋川が歌った「波浮の港」では、技巧が目立って失敗していた。歌唱技法の開発は結構奥の深いもののようである。 (2007/10)


木下順二が亡くなった

2006-12-02 06:18:33 | 芸術談義
木下順二が10月30日に亡くなったと11月30日に報道された。
木下順二は「私のバックボーン」で挙げた「十人衆」の一人であり、哀惜の念に耐えない。
「私のバックボーン」の中で、彼について、以下のように述べた:

「『夕鶴』など民話を題材にした戯曲から、現代史に題材をとった重厚な戯曲まで、圧倒的な存在感があります。『山脈』『蛙昇天』『沖縄』『オットーと呼ばれる日本人』『白い夜の宴』『審判』などは、劇場で見ました。
オーソドックスな作劇法で、その後の唐十郎・野田秀樹・寺山修司などとは、自ずと別の立場に立っています。」

ここでいった「オーソドックスな作劇法」とは、劇作の題材・対象などにつかず離れず(不即不離)の立場をとる作劇法のことを指す。この劇作のスタンスは、「蛙昇天」「沖縄」「オットーと呼ばれる日本人」「審判」などの現代史に題材をとった戯曲で効果を発揮する。対象となる人物に抱く共感や親近感をストレートに出すことを抑え、やや距離を置いて描くことによって、対象人物の大きさやリアリティを表現することができる。この作劇法を愚直なまでに貫いたのが木下順二の劇作家としての一生だった。

木下順二は劇作家として以外にも、平和運動家として、また、ことばの探求者としても多くの足跡を残す巨人だった。それらについては今述べないが、木下順二のさらに別の面を紹介しておく。

一つは、「ウマキチガイ」の面。といっても、競馬ではなく、馬術である。前駆の動きと後駆の動きが、ある一瞬だけ、調和して「無」の時間が生まれる、というような哲学的な文章があったように思う。この「ウマキチガイ」の様は、「ぜんぶ馬の話」、文藝春秋、にまとめられているが、今手元にないので正確に引くことができない。

もう一つは、東大での学友だった哲学者・森有正を悼んで編んだ「随筆集 寥廓」、筑摩書房、という書物だ。ともにYMCAのアパートに住み着いて、年がら年中交友する様がビビッドに描かれている。木下順二は大学卒業後もこのYMCAのアパートに居候して、最初の戯曲となる民話劇群を書き続けたという。  (2006年12月)