静聴雨読

歴史文化を読み解く

灰たたき権

2011-09-29 07:18:38 | 社会斜め読み

 

21世紀も20年を経過したというのに、わが国の喫煙率は20%を維持している。男性25%、女性15%だそうだ。公共禁煙の条例を制定している自治体は70%。しかし、道路や公園を「公共区域」と定義している条例は数えるほどだ。

 

このような事態に業を煮やした厚生労働省は、「灰たたき権」なるものの創設に踏み切った。道路や公園などの「公共区域」で喫煙している者に対して、誰でもタバコの灰を叩き潰す権利があることを認めるものだ。

 

「灰たたき権」を取得するためには、コンビニなどで販売されている「ハエたたき」を1000円で購入する。この「ハエたたき」は、四国のある業者の倉庫に眠っている100万本を国が買い取ったということだ。外務省のODA予算でアフリカの某国に輸出する予定だったものが、ODA予算の行き違いでキャンセルになったものだという。

 

この「ハエたたき」を「灰たたき権」に活用するというアイディアは中央官庁の役人のものとしては出色のものだ。「ハエたたき」の売上代金1000円から仕入れ原価と販売経費を指し引いた800円が、循環器・呼吸器系統の医療施設の拡充資金として地方自治体に交付されるという。喫煙者の「更正」のために、非喫煙者の協力をも仰ぐというこのユニーク制度は国民に迎えられた。

 

「ハエたたき」を購入した者は誰でも、道路や公園などの「公共区域」で喫煙している者のタバコめがけて「ハエたたき」を打ちふるうことができる。

 

ところが、喫煙者から訴訟が提起された。「ハエたたきでタバコを払われたが、ヤケドする危険があった。」というのがその提起理由だ。

 

それに対して裁判所が下した判決は、「原告がハエたたきを浴びたためにヤケドする危険を感じたのは事実でしょう。しかし、考えてください。原告が公共区域で喫煙している時には、いつも、第三者にタバコの火を押し付ける危険を冒しているのです。その点を考えれば、非喫煙者の灰たたき権は当然の権利として認められるべきです。」 ・・・これをもって「大岡裁き」というのであろう。

 

以上は、2020年の未来物語でした。  (2011/9

 


バイロイト詣で(19-20) 道草

2011-09-19 07:03:41 | 音楽の慰め

 

19)『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 

 

ケーブル・テレビの「クラシカ・ジャパン」チャンネルで、ウィーン国立歌劇場公演『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が放映された。2008年の公演を収録したもので、指揮は、ドイツ・オーストリアなどドイツ語圏で圧倒的な人気を誇るクリスティアン・ティーレマン。今年のバイロイト音楽祭で『ニーベルングの指輪』を振ったのを、私も目撃した指揮者だ。

 

バイロイト音楽祭の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』はチケットが取れなかったので、ちょうどいい埋め合わせになった。

 

演出はオットー・シェンク。1980年代から続いている演出だそうだ。バイロイト音楽祭で流行りの「二つの時代の二重写し」などはまったくなく、17世紀-18世紀のニュルンベルクのマイスターの組合を舞台にしたものだ。

 

ワーグナーの楽劇には珍しく、この作品では、善玉・悪玉の区分がはっきりしている。善玉=騎士ヴァルターや靴職人ハンス・ザックス。悪玉=書記ベックメッサーや何人かのマイスターたち。

 

騎士ヴァルターの表わす「無垢」の類型は『パルジファル』のパルジファルなどに共通するが、ハンス・ザックスの表わす「市民」の類型は、ワーグナーのほかの楽劇には見られないものだ。

 

マイスターの組合では、マイスタージンガーになれるための「条件」が細かく定められ、守られている。例えば、詩は数行からなる「連」の積み重なりからなり、各連は脚韻を踏まねばならない、だとか、歌いだしが明確でなければならないし歌い終わりもまた明確でなければならない、だとかの「規則」を順守するのが、マイスターの組合の大原則となっている。

 

これに対して、ハンス・ザックスは、「規則」を踏み外した歌いぶりでも、歌い手の感性が届くのであれば、認めるべきだという主張を展開する。これは、陋習に囚われない近代的「市民」の考え方である。

 

善玉・悪玉劇の中に「開明派」の近代的人間類型を描き出したところが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の新しさだ。

 

テレビでは、全3幕を通しで放映した。4時間45分の間、テレビの前に座り続けることは滅多にないことだ。

 

 

20)『トリスタンとイゾルデ』

 

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を観た翌日、NHK・BSハイビジョンで『トリスタンとイゾルデ』が放映されるのを観た。メトロポリタン歌劇場での2008年の公演だ。「ワーグナーの楽劇はドイツ語圏で観なければ意味がない。」というのは正論だが、たまには、メトロポリタン歌劇場のワーグナーもいいものだ。ちょうど、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』同様、『トリスタンとイゾルデ』も、バイロイト音楽祭で見損なったので、このテレビ放映に期待した。

 

『トリスタンとイゾルデ』はワーグナーの楽劇の中でも、とりわけ、難しいものだ。何が難しいかというと、台本と歌曲との融合が難しいといえばいいのだろうか。

 

ほかの楽劇と同じように、中世の神話と伝説の土地が舞台となっている。イゾルデは、訳あって、トリスタンを憎んでいる。それで、トリスタンに毒杯を飲ませ、自分もそれを飲んで、果てようと試みるが、侍女ブランゲーネの気転で、毒杯がほれ薬(媚薬)にすりかえられ、その結果、トリスタンとイゾルデは共に媚薬の効果で、互いに愛し合うことになる。(第1幕)

 

以後、二人は、イゾルデの嫁ぎ先であったマルケ王を裏切り、愛に没頭する。(第2幕)

 

マルケ王の手下に傷を負わされたトリスタンは予後の甲斐なく、亡くなる。かけつけたイゾルデもトリスタンを追うように息絶える。(第3幕)

 

このように、台本は単純といっていい。「薬のすりかえ」などは、オペラではお馴染みの道具立てで、『ジークフリート』で、ジークフリートがブリュンヒルデを裏切るのもヘルムヴィーゲのもたらした媚薬だった。ドニゼッティなどのイタリア・オペラでもありふれた道具立てだ。

 

この「薬のすりかえ」だけで、「憎しみ」が「愛」に変わっていく、というのは、安易すぎる気がする。

 

だが、そこで展開される、嫋々とした「愛の歌」(第2幕)と切ない「愛の死」(第3幕)の歌唱は、まさしく空前絶後だ。この絶唱があるために、『トリスタンとイゾルデ』をワーグナーの最高傑作と位置づける批評家も多いという。この意見には、今のところ、留保を付けざるをえない。

 

今回放映されたメトロポリタン歌劇場の『トリスタンとイゾルデ』では、トリスタン役のテノール歌手が急病で、代役が急遽ベルリンから呼び寄せられ、リハーサルなしの「ぶっつけ本番」で、あの長丁場を勤めたという。

 

演出(ディーター・ドルン)は、抽象度の高い大道具と照明の効果的使用で、観客を厭きさせない。

指揮はジェームズ・レヴァイン。 

 

この日も4時間30分テレビの前に釘付けになった。二日連続で、バイロイトの体験を再び味わうこととなった。 (2009

 

 


メールの書体

2011-09-07 07:01:02 | Weblog

 

私はいまだにメールソフトは Outlook Express を使っている。この Outlook Express の標準書体が MS UI ゴシック だ。多くの方が、このMS UI ゴシック を不平も言わずに使っている。これが不思議でならない。

 

たかが書体というなかれ。

試みに、今このコラムで使っている MS Pゴシック と比較してみよう。

 

「どじょうの好きな野田首相」をひらがなで書いてみる。

 

「どじょうのすきなのだしゅしょう」 (MS Pゴシック)

 

「どじょうのすきなのだしゅしょう」 (MS UI ゴシック)

 

人目で違いがおわかりいただけよう。そう、MS UI ゴシック のひらがなは、うなぎのぬたくったような書体で、品がない。これを品がいい、という人がいたら顔が見たい。 (2011/9