静聴雨読

歴史文化を読み解く

再び静岡へ

2012-07-21 07:03:11 | 足跡ところどころ

 

(1)遠洋漁業の街

先月、静岡県浜松市に旅したのに続き、今月は静岡県焼津市に旅した。将棋の棋王戦第3局(久保利明棋王対郷田真隆九段)が焼津市のホテルで開催されたのだ。将棋観戦の旅にすっかりはまってしまった今日この頃だ。

焼津は初めて行く街だ。焼津といえば遠洋漁業の基地として有名だ。私たちの世代には、1954年に焼津漁港を母港とする「第五福竜丸」が、南太平洋のビキニ環礁で、アメリカの核実験による水素爆弾の「火の灰」を浴び、乗組員の久保山愛吉さんが亡くなる、という出来事が強烈に印象に残っている。

遠洋漁業のほかに、近海漁業も盛んで、街全体が漁業に関係しているといっていいほどだ。

最近は漁師の中には、遠くキリバスから来る出稼ぎもいて、外国人漁師の割合が増加しているとのこと。これはタクシー運転手の話。

そして、旅行者にとっては、うまい魚にありつけるのが一番の魅力だ。 

(2)棋王戦第3局

棋王戦第3局は久保棋王1勝・郷田九段1勝の後を受けて天下分け目の戦いとなった。棋王戦は5番勝負なので、ここで勝った方が一気にタイトルに「王手」をかけることになるのだ。

後手番の久保さんの選んだ戦法は「ゴキゲン中飛車」(角道を通したままの中飛車)で、久保さんは後手番ではこの戦法をよく採用している。ところが、この「ゴキゲン中飛車」の神通力が最近褪せ始めたのだ。それは、先手の対策として、「3七銀」と早く上がり、後手番を押さえ込む戦法が効力を発揮することが証明されてきたからだ。

実際、久保さんの戦っている「王将戦」(対佐藤康光九段)と「棋王戦」(対郷田九段)を見ると、以下のようになる;

 王将戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

 棋王戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)勝ち。

 王将戦第3局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

ほかに順位戦A級の対局でも、久保さんは後手番「ゴキゲン中飛車」で負けている。棋王戦第3局は後手番の久保さんとしては正念場だ。変わらず「ゴキゲン中飛車」を採用するか、ほかの戦法に勝機を見出すか。久保さんの決断は「ゴキゲン中飛車」の再採用だった。

しかし、会場に着いた午後2時には、すでに先手の郷田さんが指しやすいというのが青野九段の見立てだ。郷田さんがやはり「3七銀」戦法を採用して、後手番を押さえ込もうとしているようだ。

どうも、久保さんの仕掛けが無理だったようで、その後の解説では「郷田良し」の変化ばかりが出る始末。結局、午後5時前に対局が終わってしまった。

この対局は、後手番「ゴキゲン中飛車」戦法が生き残れるか死滅するかを占うものになるかもしれない。 

(3)魚の街

初めての土地に行くと、その地のブックオフを訪問するのが最近の習慣だ。今回は、藤枝市と焼津市のブックオフを訪れた。

藤枝市のブックオフは駅から25分歩いたところにあった。歩くことを日課にしている私にとっては、往復50分の歩程は格好の散歩になる。見るべきものはなかった。

焼津市のブックオフも駅から25分歩いたところにあった。こちらも、見るべきものはなかった。

併せて、105円の文庫本を10冊買っただけ。

魚の街・焼津で賞味した魚介類を挙げると;

生シラス(◎):まだ、時期が早いのではと危惧していたのだが、これを置いている店があった。わさびとしょうがで食べる生シラスは絶妙の味だ。

中トロ丼(○):これも旨かった。ただ、高いので、旨くて当たり前ともいえる。

トリ貝の刺身(○):旨かったが、ボリューム感に欠ける。

はまぐりの酒蒸し(△):小粒のはまぐりが12粒ほど。殻が開かないのが1つ混じっていた。

金目鯛のから揚げ(X):金目鯛の味が飛んでしまっていた。これは、から揚げを注文した私の選択ミスだ。

以上、5品は一度に食べたわけではなく、昼と夜に分けて食べたものだ。

焼津みやげは、「焼あなご しょうゆ味」(525円)と「しじみ汁」(525円)。  

(4)「ゴキゲン中飛車」

久保棋王・王将が後手番の時に多く採用しているのが「ゴキゲン中飛車」(角道を通したままの中飛車)だ。角道を止めないまま中飛車に構えるため、角交換などの駒の捌き合いに展開することが多く、現代将棋の一つに典型戦法といわれている。中堅の近藤正和六段がこの戦法を多用して好成績を収めたため、陽気な近藤さんにあやかって、「ゴキゲン中飛車」の名前が付けられた。

この「ゴキゲン中飛車」に苦しめられていた先手番が研究して編み出した戦法が早くに「3七銀」と構える戦法だ。星野良生三段が創案した戦法で、「星野流3七銀戦法」とか「超速3七銀戦法」とか呼ばれている。この戦法は、「ゴキゲン中飛車」側の角の動きをけん制したり押さえ込んだりしようという狙いを持っている。プロのトップ棋士もこぞってこの「超速3七銀戦法」を採用している。

久保さんは、今年に入って、王将戦と棋王戦のタイトル戦をタイトル保持者として迎えたが、そのいずれの後手番でも「ゴキゲン中飛車」を採用している。いわば、久保さんの「エース戦法」なのだ。対する挑戦者は、佐藤康光九段(王将戦)にしても郷田真隆九段にしても、いずれも「超速3七銀戦法」で迎えうった。

結果は、

 王将戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

 棋王戦第1局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)勝ち。

 王将戦第3局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

  棋王戦第3局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

と続き、

 王将戦第5局:久保さん(後手番「ゴキゲン中飛車」)負け。

となり、久保さんはついに王将位を佐藤さんに明け渡してしまった。つまり、「超速3七銀戦法」に兜を脱いだのだ。棋王位もすでに「カド番」(あと1番負けたら、棋王失冠)となっている。こうなると、「ゴキゲン中飛車」が危急存亡に危機に立っているといって言いすぎではない。  

(5)三島のうなぎ

棋王戦第3局の観戦が終わり、焼津の魚介類を堪能し、翌日帰途につくことにした。あいにく氷雨の落ちる薄ら寒い日よりで、身が縮む。

思い立って、三島に立ち寄ることにした。

そこに、私の経験した最もうまいうなぎを食べさせる店がある。「桜家」という。ここのうなぎをもう一度賞味してみよう。

雨の中、三島から伊豆箱根登山鉄道の修善寺行きに乗って、一駅。三島広小路駅に着く。駅を降りると、早くもうなぎを焼く香ばしい香りが鼻を襲う。「桜家」は駅のすぐそばにある。

表で昔の下足番のようなおじいさんが出迎える。さっぱりとして気風のいい人だ。

中に入ると、店内係りのおばさんが切り盛りしている。

メニューを見せてもらった。や、や、ここでも「うな重」などの価格を改訂したと書いてある。

「うな重」の最も安いもので、3150円。以前は、2310円だった。

メニューにはご丁寧にも、さらに価格改定の予定がある、と書いてある。

うなぎの稚魚の暴騰の影響は計り知れない。大げさではなく、いずれ、近いうちに、うなぎを食べることができなくなるかもしれない。

注文した「うな重」はふっくらと仕上がっていて、この上なくうまい。

ただ、注文して配膳されるまでの時間が短くなったようだ。皮のこげた部分が残っている。やや手間を短く省略していないか? 気になった。  (2012/3)

 


静岡の旅

2012-07-19 07:51:26 | 足跡ところどころ

 

(1)政令指定都市

思い立って、静岡県浜松市に旅した。将棋の王将戦第3局(久保利明王将対佐藤康光九段)が浜松市のホテルで開催されるので、その観戦をしてみよう、ということだった。先月の第2局(栃木県太田原市)に続く将棋観戦の旅だ。

浜松といって思い出すのは、浜名湖、うなぎ、ぎょうざ、ヤマハ発動機、河合楽器などであろうか?もう一つ、政令指定都市を挙げよう。ごく最近、浜松市は政令指定都市に昇格した。以前の政令指定都市は「人口100万人以上」という条件が課せられていたのだが、今では、条件が変わり、「人口50万人以上」となった。そのため、適格する都市が急速に増え、今では19を数える。北から列挙すると;札幌・仙台・新潟・さいたま・千葉・横浜・川崎・相模原・浜松・静岡・名古屋・京都・大阪・堺・神戸・岡山・広島・北九州・福岡。

政令指定都市とほかの市との相違はよくわからないが、一つはっきりしているのは、「区制」が敷けることだ。行政の手続きや権限の多くを市は区に下ろすことができる。

地方の中核都市が政令指定都市となって活性化するのはよいことだ。

(2)佐藤康光九段 

東海道新幹線で小田原から浜松まで1時間20分。浜松駅に降り立つと、空気が冷たく、風がキツい。浜松は遠州で、首都圏よりは温暖な気候を想定していたのだが、あてがはずれた。

さて、今期の王将戦の挑戦者は佐藤康光九段だ。いわゆる「羽生世代」の一人で、42歳。佐藤が最も脂の乗った年は、2005年-06年。05年の棋聖戦でタイトルを防衛した後、王位戦、王座戦、竜王戦、王将戦とたてつづけにタイトルに挑戦したもののすべて敗退。続く棋王戦で森内棋王からタイトルを奪取した。棋聖戦から棋王戦まで、タイトル戦に6つ連続して出場するという快挙を成し遂げた。

その後、棋聖位を失い、次いで棋王位も失い、今は無冠だ。久しぶりのタイトル戦への登場だ。

佐藤の魅力は前例にとらわれない手を好んで指すことだ。今期の王将戦第1局では、玉自ら守備に参加する「5七玉」という手を指して、大向こうを驚嘆させた。

ある年、ある百貨店で開催された「将棋まつり」にゲストとして出演した佐藤に色紙を書いてもらったのだが、その文字は「天衣無縫」。まさに、佐藤の気風を如実に表わす文字だ。

さてさて、ホテルの大盤解説会場に入るとすぐに解説が始まった。神谷広志七段と安食総子女流初段が前日の指し手から順に解説を進める。神谷さんは与太話が好きな人だ。 

(3)王将戦第3局 

王将戦第3局は第1局に引き続いて、久保利明王将が「ゴキゲン中飛車」(角道を空けたままの中飛車)を採用した。だが、第1局とは異なり、持久戦模様になった。

神谷広志七段の解説では、初日終了時点では佐藤康光九段がやや指しやすいのではないか、とのこと。

だが、2日目に入って早々に「佐藤有利」となり、昼食休憩時には「佐藤優勢」に変わった。久保さんの粘りも利かず、午後3時半に終局となった。

全体を通して、久保さんのいいところがまったく出ない将棋だった。

将棋ファンは贅沢なもので、両対局者にはギリギリの勝負を望み、結果としてひいきの棋士が勝てばなおさらよい、と思う。将棋ファンの多くは特定の棋士を応援する以前に、いい対局を見たいと思っているのだ。その意味でこの第3局は物足らないと感じたファンが多いはずだ。

前回の第2局は終盤まで優劣を容易に判定できない勝負になり、大いに堪能したものだ。それに比べると・・・、久保さんに「喝!」を入れておきたい。

久保さんは3連敗。

ここで思い出したが、昔の王将戦では、王将が3連敗か1勝4敗した時点で王将位を失うばかりか、次の対局を「香落ち」の下手として指さなければならない、という規定があった。この規定を「指し込み制」という。

実際に、升田幸三八段が木村義雄王将(名人でもあった)を「指し込み」に追い込んだことがあったし、同じく升田幸三八段が大山康晴王将(名人でもあった)を「指し込み」に追い込み、しかも、「香落ち」将棋も勝ってしまった、という故事もある。

久保さんにそこまで厳しいことは求めないが、1局ぐらいは勝って意地を見せてほしいものだ。これは、将棋ファン全体の声だ。 

(4)うなぎを求めて 

浜松の食で有名なのが、餃子とうなぎ。

餃子は、市民一人当たりの消費量が日本一になったそうだ。これまでの首位は宇都宮。

一方、浜名湖を抱える浜松はうなぎの名所でもある。

両方とも魅力があるが、二つを並べると、どうしてもうなぎに触手が動く。これはやむを得ない。

うなぎの稚魚の取引価格が暴騰しているそうだ。2007年に比べて、今は何と10倍。当然、うなぎ屋で提供する「うな重」などの価格も改訂に次ぐ改訂だ。恐る恐るうなぎ屋を覗いてみた。

浜松で最もポピュラーなのは、「うな茶漬け」らしい。名古屋発祥の「ひつまぶし」と同系のもののようだ。「ひつまぶし」とは、細かく刻んだうなぎの蒲焼をご飯に乗せ、初めは「うな重」風に食べ、次いでねぎなどの薬味も混ぜて食べ、最後にお茶をかけて「お茶漬け」風に食べるもので、一度に3通りの味を味わうことができるというものだ。それを簡略化して、初めからすべてぶち込んだお茶漬けにして食べるのが「うな茶漬け」だ。値段もリーズナブルだ。しかし、試してみたところ、なにやら物足りない。「うな重」のようなボリューム感に乏しいのだ。「うな重」は、熱々のご飯に焼きたてのうなぎの蒲焼が乗ることにより、ご飯とうなぎが交じり合って、ボリューム感が生じるのだが、「うな茶漬け」では、茶漬けが「うな重」のボリューム感を奪ってしまうのだ。

もう一つ、うなぎの「白焼き」を試してみた。タレをつけずに焼いたもので、わさびと醤油で食べる。これはなかなかよかった。蒲焼のコッテリ感に二の足を踏む向きには「白焼き」を勧めたいと思う。

(5)冬の白富士 

王将戦第3局の翌日は浜名湖の遊覧に繰り出す予定だったのだが、予想以上に風が冷たいので、浜名湖は端折って、帰りの新幹線に乗った。

新富士駅から三島駅にかけて、左の窓に雄大な冬の富士山が眺められる。

山頂から何本もの稜線が流れているが、いずれも雪を被って白く輝いている。ふと思った。この稜線は何かを思い出させる。そう、老人の顔のしわに似ているのだ。

山腹には大きな雲がゆったりと左右に流れる。

そして、手前の工場の煙突からは水蒸気がもくもくと上昇して、富士山の山稜と山腹の雲を隠す。3通りの白のコントラストが鮮やかだ。

富士川を渡るあたりの富士山が絶景だ。左側にゆるやかに落ちる稜線の長く豊かな様は筆舌に尽くしがたい。

右側の裾の近くにピラミッドのような四面体の隆起が確認される。

新富士駅を過ぎ、三島駅にかかるまで、富士山は別の角度から眺められる。ここでは、右側の稜線の方がゆるやかで長い。さきほどピラミッドのように見えた隆起には地肌の露出が確認できる。

これらの富士山の景観が今回の「静岡の旅」の最大の収穫だったかもしれない。 (2012/2)


現代語訳「源氏物語」を読む

2012-07-17 07:19:28 | 文学をめぐるエッセー

今、日本では、「源氏物語」生誕一千年を記念する行事が目白押しだ。

さて、「現代語訳『源氏物語』を読む」について、読者からご意見をいただいた。
與謝野晶子訳の引用に誤りがある、というものだ。「深い御寵愛」と私は引用したのだが、正しくは「深い御愛寵」だとのこと。お詫びして訂正したい。

また、與謝野晶子訳には3種類あるらしい、ということも教わった。
1回目の訳は、預けていた出版社が倒産して行方不明になった。
2回目の訳は全訳ではなく、かつ、與謝野鉄幹の筆が入っていること。
3回目の訳は全訳で、かつ、鉄幹死後の訳業なので、これこそが「與謝野晶子訳」だといえること。
また、3回目の訳の完成は1927年で、1910年代とした前回の記述を訂正しなければならない。

私の引用した角川文庫版(*)はこの3回目の訳を収録したもので、現在も版を重ねている。
ところが、これと並行して、『新装版』が同じ角川文庫から、今年刊行された。2つの角川文庫版の相違はどこにあるのか? 調べていないので、よくわからない。

以下は、再録です。 (2008/11)

*************

現代語訳「源氏物語」を読む

来年(2008年)は「源氏物語」生誕一千年だそうである。その機会に、というわけでもないが、「源氏物語」を初めて通して読んでみた。といっても、現代語訳で読んだのである。昨年夏から1年弱をかけてゆっくりと読んだ。

取り上げたのは、谷崎潤一郎の最初の訳になる刊本で、1938年- 41年の発行のものだ。この訳本からも70年経っていて、月日の経過に感慨を覚える。

この本は父の蔵書だったもので、兄に渡り、そして私に来たものだ。すでに中国大陸で戦火が激しくなっている時期に発行されたこの本は、当時の社会情勢から超越したような造りになっている。A5判、函入り、13巻で、各巻には和綴じの冊子が2冊入っている。各冊は、透かし絵入りの紙に文字が印刷されている。透かし絵は長野草風の筆になるもので、今は、残念ながら色あせてしまっているが、当時はさぞ優雅な装丁ぶりであったことだろう。これに、香でも焚きしめてあれば、平安時代の雅な宮廷に誘われること間違いない。

全般を通した感想は:
1.登場人物の系譜などを頭に入れて読まないと、退屈に思うことがある。
全体が、クレッシェンド-ディクレッシェンドの繰り返しになっているためかもしれない。
2.登場人物名の省略と敬語の頻用が隔靴掻痒の感を募らせる。
3.作者(紫式部)の批評・皮肉めいたことばは物語の中核には及んでいない。ほんの「つけたり」
  だ。
4.最後の十帖(宇治十帖)は引き締まった出来で、それまでの中だるみを吹き飛ばしてくれる。
5.全部を一人の作者が書き通したという心証は十分ある。

さて、「源氏物語」の冒頭の一文は次の通りだ。

「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」(『完訳日本の古典14』、小学館(*))

帝の存在は、明示されていないものの、判別できる仕掛けになっている。
「御時」(おほむとき、と読む)=「帝の御代」
「さぶらひ」=「帝に仕える」
「時めき」=「帝の寵愛を得る」

尊敬の対象は女御・更衣に及んでいる。それは、「さぶらひたまひける」・「時めきたまふ」のように、「たまふ」という敬語動詞でわかるようになっている。

主人公の光源氏の母の存在も明示されていないが、「時めきたまふ(お方、が省略されている)ありけり」という形で文脈の中で暗示されている。「いとやむごとなき際にはあらぬ」とあるので、女御ではなく更衣だろうと推測できる仕組みになっているのだ。

以上の前提を置いて、何種類かの現代語訳を見てみよう。古い順に並べる。

與謝野晶子訳(1910年代)
「どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御寵愛を得ている人があった。」

谷崎潤一郎訳(1938年)
「いつ頃の御代のことであったか、女御や更衣が大勢祇候してをられる中に、非常に高貴な家柄の出と云ふのではないが、すぐれて御寵愛を蒙っていらっしゃるお方があった。」

谷崎潤一郎新々訳(1964年)
「何という帝の御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいている方がありました。」

円地文子訳(1972年)
「いつの御代のことであったか、女御更衣たちが数多く御所にあがっていられる中に、さして高貴な身分というではなくて、帝の御寵愛を一身に鐘(あつ)めているひとがあった。」

瀬戸内寂聴訳(1996年)
「いつの御代のことでしたか、女御や更衣が賑々しくお仕えしておりました帝の後宮に、それほど高貴な家柄の御出身ではないのに、帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっしゃる更衣がありました。」 

初めに、訳文の長さに注目したい。
谷崎潤一郎新々訳(1964年)と與謝野晶子訳(1910年代)が短く、瀬戸内寂聴訳(1996年)が圧倒的に長いのがわかる。

谷崎潤一郎新々訳と與謝野晶子訳に共通しているのは、女御・更衣に対する敬語を訳すのを省略していることだ。これが文章の短縮に貢献している。
一方、瀬戸内寂聴訳(1996年)は、「賑々しく」・「帝の後宮」・「帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっしゃる」というように、補足的・説明的な文言を多く挿入しているために、文章が長くなっているのだ。

谷崎潤一郎新々訳(1964年)や與謝野晶子訳(1910年代)か、瀬戸内寂聴訳(1996年)か、どちらを取るかと問われたら、私は谷崎潤一郎新々訳や與謝野晶子訳を取る。文章が引き締まっているのが魅力だ。

次に、帝の存在の表わし方に注目したい。それは、「御寵愛」ということばだ。與謝野晶子訳(1910年代)・谷崎潤一郎訳(1938年)・円地文子訳(1972年)に共通する訳語だ。このことば一つで、帝と光源氏の母との関係が明らかにされている。以降に現われる、他の女御・更衣の嫉妬の記述にストレートにつながる。

谷崎潤一郎新々訳(1964年)が「御寵愛」ということばを止めて、「誰よりも時めいている」ということばを採用したのは、文章を短くするための工夫のようだ。しかし、「時めいて」よりも「御寵愛」の方が優れているのは明らかだろう。

瀬戸内寂聴訳(1996年)は親切心から説明過剰の表現になっている。

帝の存在を示し、女御・更衣にも敬意を表わし、なおかつ短くまとめる訳文は可能か? 與謝野晶子訳をベースに、新しい訳文を考えてみた。

「いずれの帝の御代であったか、女御や更衣が数多くお仕えしていた中に、ものすごく高貴なのではないが、帝の深いご寵愛を得ているお方があった。」(拙訳)

それにしても、與謝野晶子の現代語訳(1910年代)が、百年弱を経過して、なお生命力を保っていることは驚くべきことだ。(以前、現代の日本語は30年か50年で古びる、と述べたことがあったが、ここに例外が現われて、訂正せねばならない。)

源氏物語生誕一千年も素晴らしいが、源氏物語現代語訳百年も同様に素晴らしい事績だと思う。 (2007/6)


「美本」の誘惑

2012-07-15 07:19:54 | BIBLOSの本棚

(1)本の状態が気になる

インターネット上で古本を購入するにあたって気をつけなければならないのは、古本の実物をチェックできないまま取引をすすめなければならない点です。

リアルな世界では、古本を探すために、古書店に出向いて、求めたい本の実物をためつすがめつチェックして、買う・買わないの決断を下すことができます。ところが、インターネット上の取引では、売り手の商品説明だけが頼りで、売り手の中にはいい加減な商品説明でお茶を濁している場合が少なくありません。

特に、売り手と買い手との間で行き違いになりがちなのが「本の状態」です。

最近、あるお客様から次のような質問を受けました:
1.帯付きですか?
2.何刷ですか?
3.天地小口に、シミ、汚れ、研磨はありませんか?
4.ページの開き癖・読み癖はありませんか?

「本の状態」を気にする買い手の不安がよく表われています。
この種の質問にはできるだけ丁寧に回答するようにしています。

このうち、「帯付き?」と「何刷?」と「シミ、汚れは?」には、普通に状態を回答すれば十分でしょう。

残る「研磨は?」「ページの開き癖・読み癖は?」はややマニアックな質問なので、回答には気を使います。

「研磨」とは、本の天地や小口の汚れを取り除くためにやすりをかけることをいいます。ブックオフの店内などでその光景をご覧になったことがあるかもしれません。
しかし、「研磨」をかけた本かどうかの判別は容易ではありません。また、古本ですから、「研磨」をかけた本の価値が減少するという考え方があるとすれば、その考え方も理解できません。「天地小口に汚れはありませんか?」という質問は理解できますが。

「ページの開き癖・読み癖」については、その程度が著しければ目立ちますが、普通はわからないのがほとんどです。しかし、古本ですから、「誰かが読んだであろう本」という前提で検討する必要があります。この質問者はわずかな読み跡も気にする性格かもしれません。

そのようなわけで、 マニアックな質問にはつい構えてしまいます。  

(2)「美本」の探求

古本の状態についてマニアックな関心を寄せる人たちがいますが、その究極のかたちが「美本」の探求となって現われます。 前回の質問者の質問がさらにエスカレートすると、「この古本は『美本』ですか?」となります。

さて、「美本」とは何か? この定義が人さまざまで、すれ違いを起こします。

函に、ヤケ、スレ、痛み、こわれ、シミ、などがないこと。
天地と小口にヤケ、シミ、水ぬれなどがないこと。
本体に書き込みがないこと。
本体にページの開き癖・読み癖がないこと。
読んだ形跡がまったくないこと。
帯が(もしあったのであれば)ついていて、破れ、ヤケ、シミ、などがないこと。
(全集などの場合)月報が(もしあったのであれば)ついていて、破れ、ヤケ、シミ、などがないこと。

ざっと挙げると、以上のような条件が考えられます。
もし、このような条件をクリアする古本があれば、それは「美本」と認定していいでしょう。
しかし、このような条件をすべてクリアする古本は滅多に現われるものではありません。なぜなら、古本とは、何年かの年を経た本ですから。5年か10年、あるいは40年の経年変化を被った古本が多少なりとも「経年」の雰囲気をたたえているのはしょうがないことです。

それで、古本の状態を表わすのに「経年並」ということばが使われます。5年なら5年、40年なら40年に見合う経年の跡が見られる状態をいいます。
これに対して、経年の割に状態の良い古本の場合、私はそれを「良好」と表現しています。決して「美本」とは表現しないように自己規制しています。それは、人により「美本」の定義に開きがあって、時に人に誤解させることがあるからです。 

人により「美本」の定義に開きがあり、それが買い手と売り手の「すれ違いの悲劇」を生み出します。

例えば、上記の「美本の条件」をすべて満たしたものを「美本」という人がいて、その人がインターネット上で「美本」を購入しようとした場合、成功するでしょうか? 失敗します。現物を確認しないで購入するからです。 

(3)「稀購書」の世界

では、「美本」の古本を求めること自体が、かぐや姫ばりの無理難題なのでしょうか? 必ずしもそうではありません。

古書の世界では、古本 used books のほかに、稀購書 rare books と呼ばれるジャンルがあります。文字通り、市場にあまり出現しないので、なかなか買う機会のない古本のことを指します。「美本」といわれる古本は、この「稀購書」の市場で取引されています。そこで探せばいいわけです。

ただし、「美本」を求めるには、条件があります。「美本」の収集は、いわば「旦那の道楽」ですから、お金がかかるのです。「美本」を安く求めようなどと考えてはいけません。

例えば、「古本」の市場で買えば1000円のものが、「稀購書」の市場で買えば10000円払う必要がある、といえばわかりやすいでしょうか? それほど「美本」の数は少ないのです。それでも、「美本」を追求するのであれば、出費を厭わない「覚悟」が必要です。インターネット上の取引に参加している購入者が、そのような覚悟を備えているかどうか疑問に思います。安易に「美本ですか?」と聞きすぎるようにも思います。

「美本」の誘惑は果てしがありません。その泥沼に果敢に踏み込むか、撤退するか、購入者は判断を迫られています。

私自身は、「美本」の争いには参加したくありません。「経年の割に状態の良い古本」(良好)を提供したいという思いは強くあり、そのような良好な状態の古本を入手したお客様の意外な満足感が伝わってきた時の秘かな喜びは何物にも代えがたいものがありますが。  (2007/9)


宵闇のニューヨーク

2012-07-13 07:31:57 | 異文化紀行

 

ニューヨークには行ったことがない。いや、ニューヨークに行ったことがある。私の気持ちはこの両者の間で揺れ動く。

アメリカには仕事の出張で何十回も訪れたが、私の旅程はいつもニューヨークを避けて作られるのだった。
乗り継ぎのために、ジョン・F・ケネディ空港を利用したことはしばしばだ。また、ラ・ガーディア空港からケネディ空港までの連絡バスに乗って、街中をチラっと眺めたこともある。

しかし、ニューヨークの象徴であるマンハッタン地区に足を踏み入れたことは一度もない。一度、ニューヨークの北のプロヴィデンス(ロード・アイランド州)からプロペラ機でケネディ空港に向かう途中、マンハッタン地区の真上をかなり低い高度で飛んだことを覚えている。ああ、これがエンパイア・ステート・ビルディングか、これが、貿易センター・ビルディングか、と興奮したものだ。1995年のことだった。それが、マンハッタン地区に関する記憶のすべてだ。そのため、「ニューヨークには行ったことがない。」

行ったことはないのだが、どこかで、「行ったじゃないか」という声も聞こえてくる。オードリー・ヘプバーンの『ティファニーで朝食を』、ミュージカル『ウェスト・サイド物語』、ドキュメンタリー『バワリー25時』などの映像で、マンハッタン地区の隅々までおなじみになっている。植草甚一の著作で、マンハッタン地区の古本屋に出入りしたような気分になる。

これが既視感 deja-vu (アクサン・テギュとアクサン・グラーヴは省略)というものだろうか。
ニューヨーク、とくにマンハッタン地区についての情報はおびただしい量にのぼり、自然に、既に訪れたような錯覚におちいるのだ。『大雪のニューヨークを歩くには』(*)という案内書を読んだことも思い出すし、『42nd Street』というミュージカルもあったっけ。

しかし、ニューヨークはマンハッタン地区だけではない。 

東部に広がるクイーンズ地区、北部に広がるロング・アイランド地区などもニューヨーク「州」を構成していて、面積では、クイーンズ地区とロング・アイランド地区がマンハッタン地区をはるかに凌いでいる。

ある年、ロング・アイランド地区に引退している人を訪ねて、ラ・ガーディア空港から車で北を目指したことがある。運転は、現地法人のアメリカ人にお願いした。空港からしばらく走ると、イースト・リバーを渡る。河の両岸には、中産階級や低所得者向けと思われる高層住宅が林立している。

2時間ほど走って、ロング・アイランド地区の山の中に到着した。日本でいえば、軽井沢みたいなところだ。

そこでの仕事を終え、ラ・ガーディア空港に引き返すべく、陽の暮れかかった道を急いだ。
再びイースト・リバーにかかったときは宵に入っていた。そして、周りの景色に唖然とした。往きに見た中産階級や低所得者向け高層住宅が一斉に明かりを灯して、ゆらゆらと漂っているようなのだ。あたかも、蜃気楼のように、砂上の楼閣のように。

実際の建物がそんなに揺れていたわけではない。しかし、夕闇と明かりが相俟って、建物が今にも崩れそうに見えたのだった。アメリカ人の運転手もこの光景を気味悪がり、アクセルを踏んでその場から急いで離れたものである。1983年のこと。
実在するものが幻覚のようになる。これを、幻視 illusion というのであろうか?

というわけで、「ニューヨーク州(の一部)には行ったことがある。」しかし、「ニューヨーク(の中心)には行ったことがない。」
私にとって、ニューヨークの記憶といえば、イースト・リバー近くの「宵闇の楼閣」に他ならない。

5年前の9月11日に、テレビでニューヨークの貿易センター・ビルディングに飛行機がぶつかるのを目撃し、さらに数時間後、ビルの一つが崩落するのを目の当たりにして、驚愕するとともに、「これはどこかで見たことがある」との思いにとらわれた。1983年に経験したイースト・リバー近くの「宵闇の楼閣」の光景が知らず知らず重なり合っていたようなのだ。

あるはずのものがなきがごとく見えること(1983年の経験)と、あるはずものがなくなること(2001年の経験)とは、ほとんど同じではないか? 二本あった貿易センター・ビルディングそのものが「蜃気楼」か「砂上の楼閣」なのかもしれなかった。

これは文学的表現だが、現実が想像力を超えることは時々起こる。9・11はその不幸な実例になってしまった。

9・11以降、アメリカの一国主義の傾向が深まり、外国からの旅行者の入国にも様々なチェックが課せられるようになった。最近のテロ未遂事件でこの傾向はさらに顕著になっている。外国人に開かれていないアメリカのどこに魅力を見出せるのか? 今は進んでアメリカを訪れる気になれない。しばらくは、私にとってのニューヨークの記憶は、イースト・リバー近くの「宵闇の楼閣」に限られ続けることだろう。

(その後、東京で同じような景色がないか、探してみた。中央高速道路を新宿から西に向かう途中、初台を過ぎたあたりのマンション群が、宵の時刻に、イースト・リバー近辺の高層住宅と同じように、ゆらゆらと揺れているのにぶつかった。やはり、あった。「都市の周縁地域」、「宵の時刻」、「高層住宅」。この3つが重なると、どの大都市でも似たような景観が現出するようなのだ。) (2006/9)


ブログの哲学

2012-07-11 07:51:19 | Weblog

 

ブログを始めて2年。続けていくうちに、思わぬ発見をすることがあります。ブログ作法にまつわるコラムをまとめました。

(1)粘着質の功罪

最も意外な発見は、私がかなり粘着質な性格を有していることでした。
これまでは、逆に、淡白であっさりした性格だと自覚していましたので、自分に粘着質なところがあるという発見はかなりのショックでした。

粘着質は、別のことばに直せば「しつこい」性格だということです。
下世話な場面では、異性に「あなた、しつこいのよ」といわれれば一巻の終わりでしょうし、それ以上つきまとえば、「ストーカー」とみなされかねません。

粘着質な性格が私のブログにどう影響しているかを検証してみます。

例えば、「プルーストの翻訳」についてコラムを始めた時は、これほど長く続くコラムになるとは想定していませんでした。

初めは、「失われた時を求めて」について、なぜ井上究一郎と鈴木道彦とが、同時期に競い合うようにして、その全訳に取り組むのか、という疑問でした。鈴木の側から井上の翻訳への批判が出ていることは承知していましたので、両者の翻訳を比較してみようと思いつきました。それで、第一篇「スワン家の方へ」・第一部「コンブレー」の冒頭の一文で、井上訳と鈴木訳とを比較したのが始まりでした。

ここから、「粘着質な性格」がむくむくと目覚めました。
鈴木の翻訳史を調べてみよう。すると、何回かの訳文の変遷があり、その変遷の理由が謎として残りました。では、井上の方は? というわけで、井上の翻訳史を調べてみると、同じく何回か翻訳を変えています。その理由も(一部は)謎です。

それで、原文のフランス語の読解にまで手を伸ばすことになりました。辞書や文法書を参考にして原文を読解すると、プルーストがわずか8語のフランス語で、現在と過去とを対比する形で、過去の習慣を述べているのだと確信するに至りました。それで、おこがましくも、私なりの試訳を提示することにしました。「長いあいだ、早めに床に就くのが私の習わしだった。」というのが拙訳です。

結局、最初、井上訳と鈴木訳との比較に取りかかってから、最後に私なりの試訳を提示するまでに、7ヶ月かかるという長期作業になったのでした。 

もう一つ、「チヨウセンアサガオの不思議」のケースを振り返ります。

道端のお宅で見たチヨウセンアサガオについて判らないことを、インターネットでの調査を交えて記したのが最初でした。単発のコラムのつもりでしたが、念のため、図鑑などを参照したところから深みにはまりました。見る図鑑、見る図鑑で記述が異なるのです。

決定打はある園芸書でした。そこには、「いわゆる『チョウセンアサガオ』をチヨウセンアサガオ属に分類するのは誤りで、いわゆる『チョウセンアサガオ』はブルグマンシア属とダツラ属の2種に分かれる」と書いてありました。これは「目からうろこ」の類で、図鑑のいい加減さ、それの背後にある植物学界のいい加減さに目を覚まされました。

その園芸書に導かれて、道端のお宅のチヨウセンアサガオを一年かけて観察したところ、開花時期などの「不思議」の実態を解明することができました。チヨウセンアサガオの花は夏のみならず、秋から初冬にかけても開花するのです。

このような探索を継続する原動力が「粘着質」にあることは否定できません。

さて、「粘着質」は「しつこい」性格として忌み嫌われますが、一方、次のような表現もあります。
「あの料理店は食材に対する『こだわり』が半端じゃない。」
この場合、「こだわり」は、まさに「粘着質」を表わしているのではないでしょうか?

同じ「粘着質」の性格を表わすのに、「しつこい」性格といえばマイナスのシンボルに、また、「こだわる」性格といえばプラスのシンボルになってしまうのです。奇妙といえば奇妙です。

私のブログ作法に引き付けていえば、何か気になったことに「こだわり」、好奇心をもって探求を続けることにより、新たな発見を導き出すことができた場合、その原動力となった「粘着質」を「功」として評価していいのではないか、と思います。

「粘着質」の「罪」の部分(しつこさ)を抑え、「功」の部分だけを浮び出させる、そこにブログの文章作法の真髄があるように思います。 

(2)コラムニストになりたかった

ブログがこれほど居心地いいとは思いもよりませんでした。その理由をあれこれ考えてみたところ、ある一つのことに突き当たりました。

ブログの記事が一つの「コラム」であり、そのコラムを記すのがコラムニストだとすると、私は憧れのコラムニストを気取ることができるのに有頂天になっているのではないか?

コラムニストの正確な定義は知りませんが、「特定のジャンルについて、継続的に新聞・雑誌・メディアなどに記事を提供するジャーナリスト」といえると思います。ジャンルについては、例えば、スポーツの中でも野球というように、ごく狭い範囲のこともあれば、スポーツ全般ということもあるのが実際です。

コラムニストの例を2つあげてみます。

1.「天声人語」の筆者
朝日新聞朝刊の一面下段に君臨する有名なコラムが「天声人語」です。わずか618字のこのコラムは、時事だけでなく、自然・人物・歴史など幅広いテーマを扱っています。一人で担当しているそうですが、その知識・識見は驚くほどです。歴代のコラムニストにはそうそうたる新聞記者が名を連ねていますが、中でも辰濃和男は1981年から1988年まで担当した名物記者でした。自然観照と人情の機微に独特の冴えを見せたといわれています。

2.スポーツ・ジャーナリスト・二宮清純
スポーツ界では、二宮清純の例がわかりやすいと思います。
二宮は野球・サッカー・相撲・陸上競技・水上競技などあらゆるプロ・スポーツを扱います。彼の特徴は、アスリートの技術の分析やアスリートへのインタビューなどに発揮されるだけでなく、プロ・スポーツとビジネスのありようについての深い分析と提言に現われます。彼ほど、プロ・スポーツとファン(観客)との関わりを考えているコラムニストはいません。

さて、ブログの書き手が「コラムニスト」だと言ってもそしりを受けることはないでしょうが、ブログの書き手と、新聞・雑誌・メディアなどに寄稿したり発言したりするコラムニストとの間には、決定的な違いがあります。

新聞・雑誌・メディアなどに寄稿したり発言したりするコラムニストは、コラムのテーマや内容について、新聞・雑誌・メディアなどの「求めに応じて」決めていきます。
一方、ブログの書き手には、そのような「求め」はありません。自分でテーマを決め、自分で内容を固めていくしかありません。これが相違点です。

自分でテーマを決め、自分で内容を固めるのは、無限の自由に取り囲まれているように見えますが、逆に、テーマや内容の選択が恣意に流れたり、独り言やつぶやきに終始したりする危険があります。

世間にはびこるオシャベリ型のブログを避けながら、何とか「コラム」として評価していただけるようなブログとしたい、というのが、見えない読者を想定してブログに取り組む「コラムニスト」の心構えです。 

(3)ブログの特性

ブログの特性について、2つほど思い当たることがあります。

第一は、ブログは、「公的な要素」と「私的な要素」の混淆で成り立っていることです。

まず、道具立ての面を見ると、ブログはインターネットという通信インフラの上で展開される点で、極めて公的な色彩が強いといえます。しかし、ブログは個人の情報発信のツールであるという点で、私的なコミュニケーション手段です。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が個人と個人とのコミュニケーションを擬似コミュニティーに仕立て上げているのとは違います。

ブログで発信するコンテンツは、もちろん、人さまざまですが、例えば、歴史文化について記すブログのコンテンツは、読者との間に、ある程度共通の基盤があることを前提として書かれていて、その意味で「公的」な色彩を帯びています。しかし、「公的」なブログに「私的」な要素(個人的な経験など)を加えることによって、ブログの記事に深みと親しみやすさが増すことがわかりました。

第二に、ブログを続けていくには、「偶然性」を取り込むことが必要だということです。ブログは、日記に似て、毎日(私の場合は、隔日に)発信するものですから、あらかじめ用意したコンテンツを順繰りに発信するだけでは、長続きしませんし、マンネリになりがちです。そこに、日常生活、日々の経験、読書、研究、などを織り込むことができれば、コンテンツに精彩を与えることができます。

以上のことを、私の例で説明すると:

以前、「石橋湛山の魅力」というコムを載せました。

その、直接の動機は、小島直記という人が書いた石橋湛山の評伝を偶然古本屋で見つけ、読んだら面白いので、ブログで紹介しようと思ったことでした。紹介するに当たり、湛山の評論や回想録を読み、この人物が近代日本のジャーナリスト・政治家として、傑物であることがわかり、紹介する筆が進みました。
そして、以前、「ナマ湛山」に会ったという私的な事情もコラムをまとめるのに役立ちました。

このように、「私的な要素」と「偶然性」を織り込むことができる・許されているという点が、ブログの大きな特性であると理解するようになりました。 (2007/8-9)


ソローとモリス - 共通する側面

2012-07-09 07:54:21 | ソローとモリス

 

私の歴史文化論の中心に、アメリカのヘンリー・D・ソロー Henry D. Thoreau (1817年―1862年)とイギリスのウィリアム・モリス William Morris (1834年―1896年)を置くことは以前述べたが、なぜこの二人なのかについて疑問を抱く向きもあるかもしれない。自らの備忘録を兼ねて、整理してみよう。

数年前、ある人からヘンリー・D・ソローとウィリアム・モリスの共通点は何ですか、という質問を受けたことを思い出す。その時は、まともに答えることができなかった。特に何か共通点を意識してこの二人を取り上げたつもりは当時なかった。

しかし、今冷静に考えると、確かに共通点はある。
以下に、比較項目 : ソロー : モリス : の順に記す。
 創作者の側面 : 詩 : 詩とロマンス :
 思索者の側面 : 日記に結実 : 書簡に結実 :
 翻訳者の側面 : ギリシア・ローマ詩の翻訳 : サガの翻訳 :
 教師の側面 : 熱心な学校教師にして家庭教師 : 社会主義の教導者 :
 旅行家の側面 : コッド岬やメインの森への旅行 : アイスランドへの旅行 :
 自然保護の側面 : 植物相と動物相の観察 : 古建築保存活動 :
 講演者の側面 : コンコードなどにおいて : ロンドンなどにおいて :
 文明への反抗の側面 : 市民的不服従 : 大量生産・大量消費への疑問 :
 実業家の側面 : 家業の鉛筆製造に参画 : モリス商会を経営 :
 技術者の側面 : 測量技師 : 染色・工芸技師 :
 わが国への影響 : 宮沢賢治などに : 柳宗悦などの白樺派に :

このように、様々な側面で、二人は、ともに、検討に値する成果を残している。同時代の多くの大思想家に共通する資質のようにも思われる。

「ヘンリー・D・ソローとウィリアム・モリスの共通点は何ですか?」と質問した人は、続けて、「それは、文明への懐疑、ですか?」と質問してきた。
ああ、今思えば、彼女は答えを知っていたのだ。まさに、十九世紀の歴史文化に楯突いて、自然へ・民衆へ・ユートピアへと思索を紡ぎ続けた点が二人に共通している。

参考文献:
ウォルター・ハーディング『ヘンリー・ソローの日々』(山口晃訳、2005年、日本経済評論社)
名古忠行『ウィリアム・モリス イギリス思想叢書11』(2004年、研究社、*)
 (2006/11)


スイスの休日

2012-07-07 07:32:11 | 異文化紀行


東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開かれていた「スイス・スピリッツ 山に魅せられ画家たち」を観て来た。セガンティーニ、ホードラー、キルヒナーなど、スイスに生まれ、あるいは、スイスをベースに活躍した画家たちの絵を観ているうちに、ゆくりなくも、スイスで過ごした休日を思い出した。1983年のことである。

(1) マルチニまで

ジュネーヴでの仕事を終えた翌日が休日であった。休養に充てるという先輩と別れ、さて、どうしたものか、と考えた。朝食に降りたロビーでインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを見ていると、マルチニ Martigny という町でフェルディナント・ホードラーの展覧会が開かれているとの記事眼に入った。その日が初日である。よし、マルチニに行こう、と決めた。

地図で確かめると、マルチニは、ジュネーヴからレマン湖を半周したところにあるようだ。鉄道で行ける。
駅で確認すると、鉄道で一時間余りの行程だ。著名な避暑地のローザンヌを経由するらしい。早速来た列車に乗り込む。列車がローザンヌに近づくと、車掌が私の車両に来て「ローザンヌ!」と一声野太い声で叫んで立ち去った。これを日本語に訳すと、「次はローザンヌ、ローザンヌです。お降りの方は、忘れ物のないよう、お支度ください。次はローザンヌです。」となろうか。余分なことは言わないのが清々しい。

ローザンヌを過ぎてすぐヴヴェー Vevey に着く。ヴヴェーはそれほど著名ではない避暑地だが、私はこの街に特別な思い入れがある。ドストエフスキーが、ペテルブルグの債鬼から逃れて、アンナ夫人とともに、ドレスデン、バーデン・バーデンを経て滞在した街として記憶に残っていたからである。確かこの前後に赤ちゃんも儲けている。ひっそりとした街の様子を確かめる術もなく、列車はヴヴェーを離れ、有名なシオン城の周りを通って、マルチニに着いた。
 
(2)フェルディナン・ホードラー

マルチニ駅を出る。11月だが、かなり寒い。眼の前に、二つの巨大な三角形の鋭鋒が迫ってきた。しかし、名前がわからない(マッターホルンとブライトホルンだろうか? 正しいことは今でもわからない)。

目指すピエール・ジアナッダ財団 Fondation Pierre Gianadda 文化センターに向かう。
展覧会はフェルディナン・ホードラー Ferdinand Hodler とフェルディナン・ツォンマー Ferdinand Zommer の二人展で、それぞれ50点以上を並べた大掛かりなものである。大きな会場はひっそりとしている。つまり、人が極端に少ない。
山岳画に感銘を受けるとともに、山の日常を描いた絵も印象に残った。山小屋や小屋に寄せて積んである薪など。しかし、それらのどの絵がホードラーのもので、どの絵がツォンマーのものか区別がつかないまま美術館を去ることになった。

二人はスイスを代表する画家のようだ。ホードラーの名前は知っていたが、ツォンマーの名は聞いたことがない。

ホードラーについては、吉田秀和が詳しく論じているのをその後読んだ。(『調和の幻想』、1981年、中央公論社(*))
吉田はホードラーの「秋の夕べ」と菱田春草の「落葉」を並べて論じ、ホードラーの幾何学的パースペクティブの独自性を指摘している。また、ホードラーの絵が、具象にもかかわらず、非写実的・非日常的・装飾的高みを獲得している不思議を指摘している。また、類似した形態の反復がもたらすパラレリスム(「平行の原理」)をホードラーの特徴として挙げている。

ホードラーの本格的画集は見たことがないが、展覧会図録は二点入手した。
 『ホドラー展』(1975年、東京と京都の巡回展)
 『 Ferdinand Hodler 』(1983年、 ベルリン、パリ、チューリッヒの巡回展)
とくに後者は500ページにわたる大部なもので、カラー図版も多く収録されている。ホードラーの主題が、山岳画のほか、古代ローマに題材をとった兵士などや病床の知人などに広がっているのがわかる。人物の描写についてはエゴン・シーレとの類似性が顕著だ。

ピエール・ジアナッダ財団文化センターでは、1991年にも大掛かりなフェルディナント・ホードラー展を開催している。展覧会図録が出ている。内容は山岳画ではなく、古代ローマのロマンスの人物が主である。そういえば、マルチニでは、古代ローマの遺跡があり、ピエール・ジアナッダ財団文化センターはこの古代ローマの出土品を展示する目的で博物館を設置したという。これは、旅行案内書から仕入れた情報だ。ホードラーが古代ローマに題材をとった兵士の絵を大量に残したわけはこの辺にあるのかもしれない。 

なお、ツォンマーについて『新潮世界美術辞典』にあたったが、情報はなかった。 

(3)登山電車

マルチニ駅に歩いて戻った。正午だ。まだ、午後の時間が自由に残っていた。そこで、登山電車に乗ってみることにした。マルチニはフランスとの国境に近い街で、シャモニー方面に行く登山電車の始発駅でもある。切符売場で、「シャトラール・フロンティエール、ゴー・アンド・リターン」と叫ぶと、売り子が「ああ、ラウンド・トリップね」と答えて、往復切符を発券してくれた。(スイスの登山電車については、長真弓/文・写真『ヨーロッパアルプス鉄道の旅』、1992年、講談社カルチャーブックス、を参照)

車両は一両だけで、それが二分割されている。喫煙車と禁煙車である。分煙の徹底に驚いた。駅を出てまもなく、大掛かりなスイッチ・バックを繰り返して斜面を登り始めた。1時間ほどでル・シャトラール・フロンティエール Le Chatelard-Frontiere に着いた。列車はまだ先まで行くが、なぜここで降りることにしたかというと、この先は国境を越えてフランスに入ってしまうからだ。

駅を出ると、大きな峰々が眼前に飛び込んできた。間違いなく、シャモニーを構成する峰々だろう。
やはりかなり寒い。レストランに入り、マトンのクリーム・シチューのようなものを食べた。チーズがたっぷりかかり、まずまずの味だ。傍で、イタリア人のグループらしいのが10人ほどで大騒ぎしている。ここは、フランスに近いとともにイタリアにも近いことを実感した。ちなみに、マルチニもイタリア語から来ているようだ。

ジュネーヴに戻り、一日の遠足を終えた。ホテルで先輩と合流して、街中で中華料理の夕食をとるために再び外出した時には、日もすっかり暮れ、再び寒さを感じ始めていた。  (2006/6)

その後、マルチニ駅から出るシャトラール線については、「旅チャンネル」などで紹介されているのを何度か見た。シャモニー・モンブラン駅まで通ずる電車は「モンブラン急行」として親しまれているとのこと。 (2006/11)


会津紀行

2012-07-05 05:08:17 | 足跡ところどころ


1.只見線の旅

久しぶりに首都圏を離れ、会津地方を旅した。

特別養護老人ホームの母を見舞ったその足で、東北新幹線に飛び乗った。
 東京14:08-(東北新幹線)-15:30郡山
 郡山15:43-(盤越西線)-16:52会津若松
 会津若松17:03-(只見線)-18:09会津柳津

東京から会津柳津まではひたすら列車の乗り継ぎだけに気を使い、途中、白虎隊の史跡を見ることもなく、また、喜多方のラーメンを味わうこともなく、旅路を急いだ。この日のうちにできるだけ距離を稼いでおきたかったのである。

郡山から先は、セメント工場や銅精錬工場などが散見した。ふと、宮澤賢治を思い出した。技師兼営業マン、今でいえば、セールスエンジニアとして活躍した賢治は、大船渡線陸中松川の東北砕石工場で働いていたのだ、それを想起させるセメント工場や銅精錬工場だ。

会津若松から、会津坂下(あいづばんげ)までは、平坦な道が続き、水田の稲穂が見事だ。今年は豊作だ。また、りんご園が目立つ。ここでは、島崎藤村の「初恋」を思い出す。「林檎畠の樹(こ)の下に おのづからなる細道は 誰(た)が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ」

車内は帰宅途中の高校生でにぎやかだ。男子も女子もそれぞれグループになって盛り上がっている。

先日、北海道で起こった「事件」を思い出した。通学の高校生で混み合う朝の列車で、満員で乗り切れない乗客を積み残したというのだ。
車掌「奥に詰めるよう高校生にうながしたのだが、詰めてくれず、やむなく積み残した。」
高校生「いや、詰めるだけ詰めた。今日は通学の高校生以外の乗客が多かった。」

実際、高校生のいうように、通学の高校生以外の乗客が多かったのは事実らしい。
ところが、翌日、高校の先生が現場に出向いて、高校生に詰めるよう「指導」したら、積み残すことなく、全員乗れたというのだ。さらにおまけがあり、先生の指導した日は、前日にも増して、通学の高校生以外の乗客が多かったという証言があるのだ。

ここから、次のようなことがわかる。
高校生の感覚では、前日も十分詰めた。ところが、客観的に見ると、まだ空き、余裕があった。
高校生はグループの中では密着していて十分「詰めた」と思っているのだが、グループとグループの間には空き、余裕があって、それを詰めようという意識は高校生の中にはないのだ。

にぎやかだったさざめきがふっと静まり、高校生が下車支度をしている。会津坂下駅で、多くの高校生が下車していった。 (2007/8)

2.運転打ち切り

列車は、会津坂下を過ぎると、途端に、森林地帯に突入する。緑の木々とつる草との景観が続く。
これが只見線か。

今晩は柳津(やないづ)温泉に泊まることにしていた。列車はさらに先の只見方面まで行くのだが、それだと、夕飯を食いはぐれることになるので、会津柳津で途中下車した。すでに暮れなずむ頃なので、有名な福満虚空像尊を詣でることもなく、宿に入った。

夜は、温泉につかり、クロード・シモンを読んで、寝た。クロード・シモンを持ってきたのは失敗だった。難しすぎるのだ。宮澤賢治・高村光太郎・島崎藤村の詩集くらいが適当だった。

さて、翌朝、雨が地面を打つ音で目が覚めた。テレビによると、会津地方に大雨・洪水・雷注意報が発令されているとのこと。

再び、只見線に乗り、今日の目的地・只見を目指した。
列車は相変わらず森林地帯を縫うように進み、トンネルが多い。
只見線は只見川の渓谷に寄り添うように敷かれていて、ある場所では川をまたぎ、また、ある場所では、国道252号線と平行して走る。只見川には一面に霧がかかっている。

車掌が来て、「景観料300円いただきます。」という。「え、景色を見るだけなのにお金を払うの?」「はい、ただ見せん、ですから。」 それほど見事な景観だ。

しばらくして、車掌のアナウンスが入った。「大雨のため、会津川口から小出までは運転を見合わせております。この列車も会津川口で運転打ち切りとなる見込みです。」 あー、何てことだ。冗談をいっているときではない。只見に行けなくなった。会津川口から只見に通う便は一日に3本しかなく、そのうち1本が運休となってしまった。次の列車がたとえ動いたとしても、7時間後の出発だ。大きな時間の無駄だ。

会津川口で予定通り運転打ち切りとなったが、その先に行く乗客のために代行タクシーを手配すると駅員がいっている。只見まで行く乗客は3人、相乗りで出発した。タクシーは横殴りの雨の中を飛ばし、結果としては、列車で行くよりも早く只見に着いてしまった。この世の中、何が起こるかわからないものだ。 (2007/9)

3.田舎の古本村

只見に来たわけは、ここにある「田舎の古本村」を訪れたかったのだ。正しくは「たもかぶ本の街」という。
ここを本拠にして、古本と森林との交換などの事業を展開しているのが「たもかぶ本の街」だ。
詳しくは下記のホームページを見ていただきたいのだが、このホームページはおそろしくわかりづらい。
  http://www.tamokaku.com/2005/index.html

ここでは、森林との交換の目的で送られてきた古本が山のように集められている。それを見たくて、ここに来たのだ。只見駅から289号線を南に2kmほど行ったところに「たもかぶ本の街」はあった。歩いて30分ほどだろうが、あいにくの雨なので、タクシーで向かった。

「本の街」の入口には普通の古本屋が一軒あり、奥に、倉庫が何軒かある。頼めば、倉庫も自由に見せてくれる。「文芸書」「ビジネス・社会科学」「文庫・新書」などの倉があり、それぞれ、中には大きな本棚が配列されて、本が詰まっている。

初めは興奮したが、見ていくうちに、珍しい本はなく、雑本(ありきたりのコンテンツで、流通価値の乏しい本)がほとんどであることがわかって、興味が減殺した。

ここで感じたことを記すと:
1. 本が分類・配列されていない。そうか、これは文化資産としての「本」ではなく、リサイクル目的の紙資産なのか、と了解した。本が分類・配列されていないわけを店員に尋ねたら、「手が回らない」と返ってきた。そして、専門の古本業者が来て、ごそっと持って行ってもらうのを待っているのが実情らしい。
2.本棚の本が前後2列に収納されているが、当然、後ろの本は見えない。見ようと思ったら、前の本を取り除ける必要がある。
3.売価は定価の半額だが、その価値がある本は極端に少ない。結局、10冊求めて持ち帰った。
当初のもくろみは、多く購入して宅配便で送ってもらうつもりだったが、その必要もなかった。

「本の街」で2時間過ごして、雨が上がったのを幸い、駅方面に歩くことにした。只見線の列車をつかまえるにはまだ時間がたっぷりあるので、「温泉保養センター」に寄っていこうと思ったのだが、行ってみると、「定休日」だ。あー、どこまでもついていない。

あとは、街中でひたすら時間をつぶした。 (2007/9)

4.小出のやきとり屋にて

雨が上がって、列車も動くようだが、早めに会津を脱出するのが良いと思った。帰りは、上越新幹線経由にした。
 只見16:20-(只見線)-17:42小出
 小出18:33-(上越線)-18:42浦佐
 浦佐19:14-(上越新幹線)-21:00東京

途中、乗り継ぎの都合で、小出で大きな空き時間ができた。駅を出て、どこか休めるところがないかと見回したが、うどん屋とやきとり屋が目に入るだけだった。それで、やきとり屋に入った。

私が最初の客のようだった。

二番目の客は、仕事でよくこの地を訪れる「旅がらす」だ。女将が「旅がらす」に説明していたところによると、「上越新幹線が浦佐に停まるようになって、小出はさびれる一方」とのこと。駅前にめぼしい飲食店がないのもそのせいだ、と。

三番目の客は、私と同じく列車の時間待ちをする「おしゃべり」おばさんで、入ってくるなり、「アー、何にしよう。ビール大瓶は飲みきれないし、生ビールはないの、どうしよう」とうるさい。隣の「旅がらす」が「私のビールを一杯いかがですか」と持ちかけ、女将がすかさずグラスを取り出す。「おしゃべり」おばさんは大げさに謝意を表して、「じゃあ、私が一本頼むから、良かったら残りをあけてくださいな。女将さん、これは私につけてよ。」と続け、以後、「おしゃべり」おばさんと「旅がらす」は盛り上がっていた。

四番目の客は、常連らしい。女将が「水割りでいいですか」と確かめて、さっと水割りを出す。「水割り」といっても、焼酎の水割りのことだ。この客は水割り一杯を空けて店を出た。女将がノートにツケを記帳している。 (2007/9)

5.二十歳の美女の素性

五番目の客は、二十歳くらいの美女だ。店内の空気がさっと変わったのがわかった。女将が、「ハツ1本とレバー2本でいいですか?」と確かめているところから見ると、やはり常連らしい。それにしても、やきとり屋には場違いなキャラクターだ。

六番目の客は、やはり、常連らしい。

おかしなことに、以上六人とも、ひとりでやきとり屋に入ってきた。「小出のせつなさ」を見たように思えた。 

勘定を済ませて、駅に戻り、プラットフォームのベンチで列車を待っていると、さきほどの「おしゃべり」おばさんが隣に座って、「さきほどはどうも」と話しかけてきた。ここで、「おしゃべり」おばさんが、二十歳くらいの美女の素性に関して、驚くべき情報をもたらしてくれた。

「旅がらす」が女将に「ここに、キャバレーでもあるのかい?」と聞いたところ、女将がいうところでは、「あの娘は、貧血もちで、毎日、ここでハツ1本とレバー2本を食べて貧血を補っているのよ。お母さんが車で送り迎えしてね。」とのこと。
そういえば、表のワゴン車の運転席におばさんが座っていたのを思い出した。

ハツ1本とレバー2本、計240円の診療所とは、これもまた「小出らしいほほえましさ」だ。

街の寂れていく様を見つめ続けてきた女将、列車の時間待ちの女、仕事を求めて地方を流れさすらう旅がらす、常連客、貧血もちの娘・・・。
新藤兼人(「待ちぼうけの女」)や小津安二郎(「浮草」)にこの素材を預けたならば、一本の映画かテレビ・ドラマが出来上がってもおかしくないような出来事だった。 (2007/9)


会津八一をめぐる誤解

2012-07-03 07:08:28 | 文学をめぐるエッセー

大正から昭和にかけて、古今集以来の大和ぶりの和歌で活躍したのが会津八一である。中央公論社から全集が出ている。私の父が、八一の歌を額装して保存していた。そこにあった歌は、次のようなものである。
「たひひとのめにいたきまてみとりなるついちのひまのなはたけのいろ」
八一の歌はすべてかな表記である。また、ここでは濁点が省略されている。
これを私は次のように解釈した。
「旅人の眼に痛きまで緑なる築地の隙の縄竹の色」
築地塀の崩れた隙間から覗く縄竹のいかにも鮮やかな緑に眼を洗われることよ。すこぶる平明な歌だ。
ところが、私の解釈には誤りがあった。「自註鹿鳴集」(新潮文庫)を参照すると、次のように載っている。
「たびびと の め に いたき まで みどり なる ついぢの ひま の なばたけ の いろ」
ここでは、濁音が復活し、なおかつ、分かち書きが登場する。分かち書きは議論を複雑にするので措いておこう。私が「縄竹」と解釈したことばが「なばたけ」、すなわち、「菜畑」となっているではないか。考えるまでもなく、「縄竹」であれば、元のかなは「なわたけ」でなければならない。単純な思い違いだった。

しかし、なお違和感が残る。緑色の菜畑とは? 
「いちめんのなのはな、いちめんのなのはな」と詠った詩人がいたように、菜の花から連想するのは、圧倒的な黄色のマッスである。それが、緑の菜畑とは? これが、この歌に八一が仕掛けたわなである。おそらく、花の終わった初夏の菜の葉の印象を訴えたかったのであろう。見事、一本取られた気持ちである。
東京の中野駅と東中野駅との間の線路沿いの土手に、今3月、菜の花が咲き乱れている。よく見ると、黄色い菜の花と同じほどの迫力で黄緑色の菜の葉が存在を誇示しているのがわかる。菜の花は黄色、という先入観を笑うように。これから更に菜の葉の緑が勢力を増すのを予感させる光景だ。  (2006/3)


奇人変人列伝

2012-07-01 07:19:43 | 社会斜め読み

 

(1)ビブリオマニア

世の中には、変わった趣味を持つ人や特別に細部にこだわる人が少なくありません。原宿を闊歩するお人形ファッションの女の子もそうでしょうし、JR(旧国鉄)の各駅乗りつぶし(正確には「降りつぶし」でしょう、と半畳を入れたくなりますが)に挑む男性もいます。これらの人たちは、「奇人変人」と総称されます。世の中の奇人変人を見てみましょう。

その第1回は、他ならぬ私自身を取り上げましょう。

私と書籍との付き合い方を客観的に見ると、私もまぎれもなく一人の「奇人変人」です。本を集め、それを棚に並べ、そのうちのいくらかは読み、などしているうちに、いつのまにか家中が本で埋まってしまいました。50歳代前半のことです。最盛期には、16本の本棚が本で一杯になっていました。それも、棚の後列に単行本などを入れ、前列に文庫本などを置く、という二重配置でした。

これらの本を読みつぶすためには、少なくとも150年の余命が必要だとわかりました。そこで、意を決して、蔵書を減らすことにしました。一部は廃棄し、一部は古本屋に処分し、また、一部はインターネットで売却しました。これで、蔵書はかなり減りました。ここまでは、「普通の人」の振舞いです。

ところが、ある時点で、インターネット古書店の面白さに惹かれてしまい、新たに「売るための本」を仕入れるようになりました。これでは、元の木阿弥、手元の本は減らなくなりました。「蔵書」は減りますが、「仕入れ本」が増える、というわけです。

遠く宇都宮まで本の仕入れに赴いたことがあります。仕入れた本は5000円。これに要した交通費は6000円。これでは、何のために、遠くまで出向いたのか、わかりません。

しかし、これには、私なりに理屈を用意しており、遠くまで物見遊山に出向いた経費として交通費の6000円を計上しているのです。物見遊山の「ついで」に古本を仕入れたのだ、というわけです。

「病膏肓に入る」ということばがありますが、ことほどさように、本と付き合う(この場合は、本を「売る」)ために奇策を弄することをいとわない。これこそ、「奇人変人」の典型ではないでしょうか? 

(2)偉大な将棋指し

私の好きな将棋の世界にも、奇人変人といわれる人がいます。加藤一二三九段がその筆頭でしょう。14歳でプロにデビューして、現在(72歳)まで58年現役を張り続けています。名人にもなりましたし、史上最多勝利の記録を持っています。将棋界の第一人者です。

この加藤さんがさまざまな奇癖を持っていることで知られています。

(1)駒の位置を整えるために駒の上をちょんちょんとさすります。あまりそれを続けるためにかえって駒が乱れてしますことがあります。「囲碁・将棋チャンネル」の「銀河戦」の対局で、加藤さんの「駒ちょんちょん」の癖が現われました。指し手が終わったあと、5秒ほど、延々と「駒ちょんちょん」を続け、あろうことか、指した駒を裏返してしまったのです。これは、「待った」をして指し手を変えた行為とみなされます。この行為のため、後日、日本将棋連盟から出場停止などの制裁を受けました。

(2)将棋の対局は夜にまで及びます。昼食と夕食を対局の休憩中にとります。書生が「てんや物」の注文を対局者から取ります。加藤さんは決まって「昼はうな重、夜もうな重」を注文します。「どうして、いつも同じ食事なのですか?」と聞かれて、わけのわからない受け答えをしているのを耳にしました。最近は、「昼はにぎり鮨、夜もにぎり鮨」に代わったそうです。

(3)対局以外にも加藤さんは奇人変人ぶりを発揮しています。自宅の庭に集まる野良猫に餌付けをして、それが近隣の生活環境を乱すとして、近隣の住民に訴訟を起こされ、加藤さんが敗訴しました。詳細は知りませんが、悪臭が発生したり、野良猫の鳴き声が大きかったりしたのでしょう。

加藤さんは判決を受け、「(餌付けという行為は)悪いことだと思っていないが、判決には従う」というものでした。

奇人変人ぶりが度を越せば、非難の対象となります。「駒ちょんちょん」はルール違反になって制裁の対象となりましたし、「野良猫の餌付け」は社会規範に触れるとして社会から非難されたのでした。

(3)変わった文体

サラリーマンは変わったところが少ないのが特徴です。というよりも、サラリーマンは、表面上、変わったところを押し殺して生活しているのが実情でしょう。

私の知人でサラリーマンをしていた男がいます。Aとしましょう。Aは知能が極めて高く、記憶力抜群で、仕事の処理能力も優秀でした。

さて、以下はAの文章です。

「昨日は腕前のほど、しかと拝見。肉体作業といい、魚のおろし方といいスマートその物。垢抜けでした。腰痛を理由に、楽チンコースに回り後のフルコースを堪能するばかり。これに懲りずに次回も声を掛けて。どうも有難うでした。」

何となく、奇妙な違和感を覚えます。体言止めが多いのです。「拝見。」「その物。」「ばかり。」など。「垢抜けでした。」「有難うでした。」も体言に形式的に「でした。」を付けたもの。「声を掛けて。」は「ください。」を省略したものか?いずれも、語尾の収束法に苦労しているようなのです。

言葉の専門家の文章クリニックにかければ、次のような文章に変えます。

「昨日は腕前のほどをしかと拝見しました。貴君の肉体作業といい、魚のおろし方といいスマートその物でした。垢抜けているといってもいいかもしれません。腰痛を理由に、私は何も手伝わず、楽チンコースに回り、後のフルコースを堪能するばかりでした。これに懲りずに次回も声を掛けて。どうも有難うございました。」

ここで気がかりなのは、Aは、サラリーマン時代にも、このような文章作法を続けていたのだろうか、という点です。ビジネス文書で体言止めの多い文章を綴れば、胡散臭い眼で見られ、「奇人変人」扱いされたのではないか? ご本人に確認したことはないのですが、「優秀だが、変わっているサラリーマン」とみなされていた気がします。 

(4)定年後の語学学習

サラリーマンを退役したAの文章を見ても誰も「奇人変人」扱いしません。そう、現役を退いた人は何をやろうとも自由なのです。もはや、サラリーマン社会の規範に縛られないのです。

さて、Aが最近、語学にのめりこんでいると聞きました。

もともとAは外国語の学習が好きで、英語に加えて、ドイツ語・ロシア語・フランス語もマスターしてしまいました。「何でロシア語を習うのか?」とAに聞いたところ、「ドストエフスキーを原語で読みたいから。」と返ってきたことを覚えています。なるほど。Aには外国語をマスターする独特の手法があるらしいのです。

そして、退役後のAが選んだ新しい外国語が中国語でした。なぜ中国語を選んだのか、気になるところです。「中国の取引先とスムーズに話を進めるには中国語を知っていたほうが便利だから。」とか「魯迅を原語で読みたいから。」とかいう答えを予想しましたが、Aの答えはあいまいで要領を得ません。

ここではたと膝を打ちました。Aは、商売とか研究とかの道具として語学学習を見ているのではなく、語学学習そのものが目的なのではないだろうか?

昨年、Aは中国語を学習するために、短期間の「語学留学」を上海で行ってきました。そして、今年になって、本格的に、数ヶ月の「語学留学」を上海で敢行するために現地に飛び立ちました。これほどまでに語学自体が打ち込む対象になりうるとは。驚きです。一般に世間では、Aの行動を「奇人変人」のそれとみなすかもしれませんが、ご本人がそれに意義を見出しているのであれば、それに対してあれこれいうのは、「余計なお世話」かもしれません。 

(5)「軍事オタク」の政治家

北朝鮮がミサイルを打ち上げることになり、その軌道が沖縄の先島諸島をまたぐかもしれないことが明らかになって、国が緊張しています。近辺にイージス艦を配置して地対空迎撃ミサイルの発射準備をしたりと大変です。

さて、このような国の防衛問題に特に詳しい政治家がいます。自由民主党の石破茂氏です。自民党政権時代に防衛大臣・農林水産大臣を歴任し、自民党政務調査会長も勤め、自民党の総裁選挙に立候補したこともある大物です。

決して正面を見ず、斜め右を見ながら話す話しぶりが妖しい雰囲気を醸しますが、話す内容は理詰めで説得力があり、自民党の論客という定評があります。

自民党が野党に回り、石破氏は政府の防衛政策を問う側に回りました。相手は、防衛大臣・田中直紀氏です。石破氏にとって、これほど相手にしやすい、つまり、いじめやすい相手はいません。15年か20年国会議員を勤めた割りには、防衛問題を勉強した跡が見られない防衛大臣が相手だからです。

早速、衆議院の予算委員会で質疑が始まりました。石破氏は田中氏に向かって、防衛問題の基本概念を細かく聞きます。当然、田中氏はしどろもどろになります。

テレビ映像が映し出す委員会風景は、まるで、入社試験の口頭試問のようでした。石破氏が、ここで、「それ見たことか。何もわかってないじゃないか。」と思ったかどうかはわかりませんが、「なるほど、石破氏は『軍事オタク』なのだ」ということを実感しました。

現下の緊迫した朝鮮半島情勢では、国会で審議すべきは、北朝鮮の軍事挑発への対峙の仕方、中国を後押しして北朝鮮の暴走を制止する外交手段、などでしょう。自らと防衛大臣との防衛知識の優劣を争っている場合ではありません。このことを、石破氏は理解していません。彼もまた、政治家としては、「奇人変人」に類するのではないでしょうか?   

(6)「昭和レトロ」の語り部 

映画『三丁目の夕陽』がヒットするなどして、昭和30年代への懐古の情が顕著になっています。特に、経済の高度成長を記憶している世代にとって、高度成長前ののんびりとした時代はかけがえのないものに映ります。

さて、「旅チャンネル」に時々登場する人に、町田 忍がいます。「昭和風俗研究家」を名乗っています。彼は、現在の街中を徘徊しながら、「古き良き昭和」の名残りを探し求めます。

彼の収集物を列挙します;

「偽木(ぎぼく)」:コンクリートで木材を模したもの。公園の境界標識や掲示板などに使われている。

「不二家のペコちゃん人形」:不二家の店頭に置いてあるあれです。

「狛犬」:神社の門前に左右一対に配してある石製の狛犬です。

これらの収集物は自分のものとすることはできないので、町田氏は写真に撮って残します。彼のカメラは銀鉛フィルムのカメラです。決して、ディジタルカメラには手を出しません。

「征露丸のパッケージ」:整腸剤。今は「正露丸」。歴代のパッケージを変わるごとに集めている。

「街頭配りティシュー」:今は、中身のティシュー・ペーパーを捨て、広告主のラベルのみを集めているとのこと。

これらの収集物にどういう意味があるかはにわかにわからない。

「古き良き昭和」を懐かしむ点では同じ気持を持ちますが、だからといって、「征露丸のパッケージ」や「街頭配りティシュー」を集めてどうなるのでしょう。まさに、町田氏は昭和レトロの残り香に魅了された「奇人変人」の一人といえましょう。 

(7)サンタクロースがやってきた 

大学のクラスメート(「B」と呼ぶ)にほぼ40年ぶりに再会しました。サラリーマンを退役したはずですが、最近Bがどのように生活しているかはわかっていませんでした。待ち合わせ場所に行くと、サンタクロースのような男がいました。白髪に加えて、whiskers(ほおひげ), beard(あごひげ), mustache(口ひげ)がもじゃもじゃと生えていて、総白髪でした。まさに、サンタクロースそのものでした。

話してみると、昔の人懐っこさがそのまま残り、知的好奇心も相変わらず活発なことも確認できました。すると、サンタクロース風の風貌は何を意味しているのか? 考えさせられます。

しばらく考えて得た結論は、Bはサラリーマン退役後の生活をそれまでの生活とはっきり区別するために、サンタクロース風を装っているのではないか、というものでした。 

(8)PC卒業

サラリーマンを退役したBは、それまで使っていたPCを使うのを止めた、という。これには驚きました。「PCは持っているが、使っていない。メール・アドレスは忘れた。」

そのため、Bとの連絡はすべて郵便です。

私は主宰する将棋愛好会の連絡で、PCを持たない先輩への連絡で郵便を使うことがあります。80円切手が見る見る減っていきます。したがって、郵便での連絡には違和感を覚えません。しかし、それは「先輩」への連絡に限られていて、「同輩」や「後輩」にはPCを持たない人はいませんでした。今や状況は変わったようです。

さて、Bとの会話の中で、Bから、「昔の懐かしい外国映画をみるにはどうしたらよいか?」と聞かれました。私は、得たりや応と、「それなら、インターネットで検索すればすぐわかるよ。」と答えたのですが、Bは「もう、そういうのはいいよ。」というばかりでした。

ああ、PCやインターネットは「そういうの」に成り下がってしまったわけです。

振り返ってみると、個人がPCを持てるようになったのが、20年前から15年前のこと。それまでは、外国映画のプログラムを調べるために、新聞や「ぴあ」などで情報を集めていたわけです。PCとインターネットのおかげで、新聞や「ぴあ」に頼る必要がなくなったわけですが、PCがなければ情報が集められないわけではありません。PCを拒否するBを「奇人変人」と見ることは必ずしもフェアではありません。

PCを捨て、サンタクロースに変装していても、読書量は多く、知的好奇心も旺盛です。そして、現在、Bは銅板画の制作に没頭しているそうです。 

(9)趣味と収集癖

何をもって人を「奇人変人」と評するのでしょうか?

趣味と収集癖との関係を考えてみたいと思います。

例えば、「いけばな」を趣味としている人、ゴルフを趣味としている人、読書を趣味としている人は、「すてきな趣味ですね。」とか、「健康にいいでしょう。」とか、「博学多才になりますね。」とか評されます。趣味とは人間の生に潤いを与える潤滑油だとして認められているわけです。

ところが、「いけばな」の趣味が高じて高価な花器を集め始めたら周りの人の目が急に厳しくなりますし、ゴルフのクラブを毎年更新すれば奥様からクレームが出ますし、本を読まないで棚に積んでおくだけだと「家が狭くなる。」と周りの猛非難を浴びます。これらは、本来の趣味の範疇を超えた「収集」だとみなされるからです。どうやら、このあたりが「奇人変人」と呼ばれるか呼ばれないかの境界線のようです。

「収集癖」が人の病であることは疑いありません。

「軍事オタク」の政治家が収集しているのは「防衛大臣の失言」でしょうし、「昭和レトロの語り部」が収集しているのは「昭和の残り香のある『偽木』の写真集」です。

また、退役後に中国語の習得に熱中するのも、外国語の一種の「収集」です。

かくいう私も本の収集に明け暮れてきました。いまではそれを逆手にとって、「インターネットで本を売る」ことを趣味にするようになりましたが。

さて、以上のような「収集家」に比べて、PCを捨ててサンタクロースに変装したBの場合は、取り立てて何かを収集しているわけではありません。早くに、「悠々自適」の境遇を獲得したに過ぎません。その意味で、Bは純粋な老人なのかもしれません。「何かを収集する」という俗物の思いつきをはや卒業しているのですから。  (2012/3-4)