静聴雨読

歴史文化を読み解く

多作家の悲哀

2012-05-21 07:44:33 | 私の本棚

 

明治以降の近代の文学者は恵まれていました。経済的に恵まれていたかはさて措いて、その死後、その業績を偲ぶ「全集」が必ず編まれたからです。25歳で亡くなった樋口一葉の業績は、筑摩書房版『樋口一葉全集 全4巻6冊』にまとめられていますし、同じく25歳で亡くなった石川啄木の業績も、筑摩書房版『石川啄木全集 全8巻』にもれなく収録されています。これらの文学者は「死後、幸せになった」例であるといえるでしょう。

近代の文学者のうちでも、大家と称される人は、その全集も大部なものになります。例を挙げれば;

『漱石全集 四六判、全28巻+別巻』(岩波書店)

『鴎外全集 菊判、全38巻』(岩波書店)

『三島由紀夫全集 四六判、全42+別巻+補遺』(新潮社)

などは、本棚の2段分を優に占めるボリュームです。

国民文学畑で例を挙げれば;

 『司馬遼太郎全集 四六判、全68巻』(文藝春秋)

 『松本清張全集 四六判、全66巻+「黒の回廊」』(文藝春秋)

 『吉川英治全集 四六判、全56巻』(講談社)

 『山岡荘八全集 四六判、全46巻』(講談社)

なども、本棚2段以上を占める口です。

これらの近代文学の大家もまた幸せでした。

一方、現代作家の中で、死後になかなか全集が編まれない人たちが出てきました。私の愛好した井上光晴・井上ひさし・寺山修司には、全集編纂の動きが見られません。なぜでしょう? それは、これらの作家が残した著作が膨大なため、全集にまとめると百巻前後になるという事情が大きいようです。作家の全集ですから、厳密にいえば、詩・小説・戯曲・評論・エッセー・翻訳・日記・書簡・その他、のすべてを収めなければなりません。その方針を忠実に守れば百巻前後になり、そのため出版社が二の足を踏むようなのです。

最早、現代では、全集を求めることが高望みなのかもしれません。

『井上光晴長編小説全集 全15巻』(福武書店)・『井上ひさし全芝居 全7巻』(新潮社)・『寺山修司著作集 全5巻』(クインテッセンス出版)など、ジャンル別の集成や選集で我慢するしかないのかもしれません。 (2012/5)

 


究極の本棚・3(万葉集)

2011-01-16 06:53:11 | 私の本棚

日本の古典からは、『万葉集』と『源氏物語』は是非「究極の本棚」に加えたいところです。

大学時代の友人の一人は、様々な点で私の先を颯爽と歩いていましたが、古典にも一家言持っていて、「『万葉集』だけ読めば十分だ。」と言っていたのを思い出します。当時はその意味を理解できませんでしたが、さすがに、今になれば、見当がつきます。宮廷貴族から防人まで、幅広い日本人の精神を具現したのが『万葉集』です。

第3番:中西 進『万葉集 全訳注 原文付 全5巻』(講談社)

万葉学の泰斗・中西 進にはおびただしい万葉集に関する研究書がありますが、一般人向けのものとして、この講談社文庫版(全5巻)の訳注本を読んでみたいと思っています。

「石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子 巻第八)

この歌に技巧を見出すのは難しいでしょう。技巧を必要としない歌作法が、広く宮廷貴族から防人までを一流歌人に仕立て上げた秘訣です。というところをじっくり味わいたいものです。

この本には全漢字の原文も付いていますが、それを飛ばして、歌そのものと若干の訳注だけを拾い読みしても、十分原典の香りをつかめるのではないか、と思います。

文庫本ですので、活字がやや小さいのが玉に瑕です。同じ構成で活字の大きい版(「ワイド判 岩波文庫」のような版)を出版してもらえるとさらにうれしいのですが。  (2008/2)

実は、中西 進『万葉集 全訳注 原文付』には、講談社文庫版のほかに、全1冊の机上版(講談社、昭和59年)も刊行されていることがわかりました。早速、古本屋で求めました。まるで、『広辞苑』のような分厚さです。こちらを「究極の本棚」に加えて、座右の書としましょう。  (2008/12)

さらに新しい発見。
中西 進『万葉秀歌 全2巻』(講談社現代新書、昭和59年)と中西 進『傍注 万葉秀歌選 全3巻』(四季社、2005年)が刊行されていることがわかりました。いずれも、氏の大学での講義をベースにした注釈書で、大変読みやすいと感じました。これらも、「究極の本棚」の候補にしておきます。  (2009/1)


究極の本棚・2(コリン・デクスター)

2010-12-09 07:07:27 | 私の本棚
==左欄上の「文字サイズ変更」で、文字を大きくすることができます。==

老後の楽しみにミステリーを読むことを計画したのはいつでしたか? アームチェアに埋まって、のんびりと、頭の体操をするのは、時間の余裕のある時には無上の喜びとなります。

そう思っていたのですが、定年で現役を退く前に、この玉手箱を開いてしまいました。
ガイドブックを頼りに、ベスト100の50番くらいまで、片っ端から読みました。

その中では、レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』、マイケル・Z・リューイン『刑事の誇り』などのアメリカのミステリーやピーター・ラヴゼイ『偽のデュー警部』、アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』などのイギリスにミステリーに感銘を覚えました。
また、アメリカのミステリー(ハードボイルドのスタイル)とイギリスのミステリー(パズル・ストーリー)との味わいの違いを体得したように思います。

第2番:コリン・デクスターのミステリー

中でも最も気に入ったのが、ディック・フランシスとコリン・デクスターのミステリーでした。

ディック・フランシスは40冊ほどの作品を発表していますが、いずれも、競馬サークルをテーマにしています。騎手・調教師・装蹄師・予想屋など、競馬サークルに息づく様々な人々を取り上げて、ミステリーに組み込んでいます。

36冊まで読破しました。そこで、ディック・フランシスの断筆が発表されました。奥さんが亡くなったのです。彼はミステリーの構想を練るのに奥さんの協力を得ていたのではないか、と噂されていたのですが、彼の断筆は図らずもその噂を証明することになってしまいました。これも一つのミステリーでしょう。
その後、彼は執筆を再開しましたが、それは息子さんの協力を仰ぎながらのことだと、ご本人がいっています。

コリン・デクスターはオックスフォードを舞台にしたミステリーを14冊発表しました。いずれも格調の高いパズル・ストーリーで、私の読んだ中では、最高のミステリー作家であり、最高の作品群だと評価しています。
14冊発表したところで彼は断筆を宣言しました。ディック・フランシスと違って、コリン・デクスターが執筆を再開することはまずないでしょう。

今ではミステリーを読む楽しみを卒業してしまいましたが、コリン・デクスターだけは、機会があれば、再読してみたいと思っています。彼のミステリーは再読に耐えるだけの密度の濃さを持っています。いずれもハヤカワ文庫で容易に入手できます。 (2008/4)


究極の本棚・1(須賀敦子)

2010-11-19 08:03:20 | 私の本棚
私の本とのつきあいを省みると、本が際限なく増え続けたのが第一期とするなら、本の処分を始めたのが第二期でした。その後、本の死蔵をやめ、人に譲ることを始めたのが第三期といえるかもしれません。現在はこの第三期の真っただ中ですが、秘かに第四期を見据えています。それは、既存の本を他人と共有するのは従来と同じですが、それに加えて、自分だけの「究極の本棚」を作ろうと試みる時期です。以下、この「究極の本棚」の姿を描いてみたいと思います。

「究極の本棚」に収める本には厳しい条件が付きます。
1.80歳までに是非読みたい本であること。
2.活字が大きいこと、印刷が鮮明なこと、など、読みやすい本であること。
3.本棚1本にすべてが収まること。

以上の条件にあてはまる本を徐々に選んでいきたいと思っています。

第1番:『須賀敦子全集 全8巻』(河出文庫)

単行本で出ていた全集のほぼ完全な文庫化で、このような出版ができたことが奇跡のようです。

須賀敦子は、聖心女子大学を卒業後、フランスに留学し、その後、イタリアに転進しました。ミラノで、書店を営む仲間たちと交流を続け、そのうちの一人と結婚します。ブルジョアのお嬢様と左翼の知識労働者の結婚は波紋を広げたようです。

十数年後、夫が亡くなり、須賀は日本に戻り、それから、文筆活動を始めます。
最初の著書は『ミラノ-霧の風景』です。私は、長らく、この本はミラノの観光案内書だと誤解して、読みませんでした。
次作の『コルシア書店の仲間たち』で、初めて、須賀のバックグラウンドを理解しました。

以後、『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』『ユルスナールの靴』など、イタリアとの係わりを須賀は独特の文章で綴っていきます。しっとりとして、女性らしいやや思い入れの強い文体に特徴があります。

この全集には、エッセーのほか、翻訳や日記なども収録されていて、これらをすべて読んでみたいと思っています。 (2008/1)

二つの文学全集

2009-08-10 01:00:00 | 私の本棚
多くの出版社が競うように文学全集を刊行したのは遠い昔のことになった。
今では、権威主義を嫌う風潮が盛んで、お仕着せの文学全集など歯牙にもかけないのだろう。
と思っていたのだが、このところ、また新しい流れが見受けられるようだ。それを書いてみよう。

池澤夏樹の個人編集になる「世界文学全集 全24巻」(河出書房新社)の刊行が始まった。
これは従来の「世界文学全集」の概念を大きく覆す試みに満ちている。

1.まず、「体系」を持たないこと。従来のものでは、古典から現代へ、とか、国ごとに括る、とか、配列に意を注ぐところだが、この全集では、24巻の配列に法則性がない。池澤の考えが隠されているのかもしれないが、それはわからない。

2.20世紀の小説家が選ばれているようだ。しかし、ジョイスとプルーストは選ばれていない。フォークナーとカフカは入っている。最初の5巻の作者を並べると、ケルアック、バルガス・リョサ、クンデラ、デュラス、サガン、ブルガーコフだ。知っている作家も知らなかった作家もいる。

3.初訳(初めての日本語訳)・新訳(新たな訳者による日本語訳)・全面改訳(従来の訳者による改訳)が多いのが意欲的だ。

4.装丁は、B6判カバー装で、函はつかない。函がつかないことが、従来の文学全集との違いを際立たせている。表紙は厚紙装で、なんだか、1950年代の装本のようで、いただけない。厚紙装は、時が経つと、温度や湿度の変化で張ってしまって元に戻らないのだ。

5.これだけ斬新な文学全集だが、タイトルが依然として、「世界文学全集」なのが微笑ましい。「二十世紀文学の精華」くらいのネーミングを考えてもいいではないか。

全巻揃えるつもりはないが、バルガス・リョサ『楽園への道』、田村さと子訳、を求めてきた。初訳である。ポール・ゴーギャンとフローラ・トリスタンの物語だそうだ。  

一方、日本文学全集では、これは少し古くなるが、1991年から刊行の始まった「ちくま日本文学全集 全60巻」が出色だ。

1.まず、池澤夏樹編の「世界文学全集」と同じく、体系を捨てたこと。刊行順に01から60までの番号がふってあるだけだ。

2.作家の選び方が柔軟だ。純文学の作家だけでなく、白井喬二、海音寺潮五郎などの大衆文学作家、夢野久作、江戸川乱歩などの推理作家、稲垣足穂、澁澤龍彦などの幻想作家、柳田國男などの思想家、も収録している。一方、従来の文学全集に「当然のように」割り当てられていた徳田秋声、横光利一、野間宏などはカットしている。

3.一巻に一作家を充てている。

4.A6判(文庫版)で、装丁は厚紙表紙・カバー装。一巻450ページ前後。この装丁は画期的だ。瀟洒な装本は思わず手に取りたくなる魅力に溢れている。

5.これだけ斬新な文学全集だが、タイトルが依然として、「ちくま日本文学全集」となっているのが、池澤編「世界文学全集」と同じで、微笑ましい。「近代文学のエスプリ」くらいのネーミングを考えてもいいではないか。

最近、この「ちくま日本文学全集 全60巻」から30巻を抜き出して再刊する動きが判明した。おそらく、評判がよくて、よく出たものの再刊なのだろう。装丁も若干変わり、厚紙表紙を止め、「ちくま学芸文庫」などと同じ材質の表紙になって一層親しみやすくなった。タイトルも「ちくま日本文学」(!)となり、永年のコブであった「全集」の文字がなくなった。これこそ画期的なことだ。

新しく近代文学に親しみたいという人には、文句なく、この「ちくま日本文学 全30巻」を推奨したいと思う。 (2008/2)

「ちくま日本文学」は10巻増巻して、全40巻となった。 (2009/7)




寺山修司の全集を作るとしたら

2009-02-01 12:10:10 | 私の本棚
寺山修司が47歳の若さで亡くなったのは1983年5月のこと。まもなく24年になる。今生きていれば71歳、いかに早世だったかがわかる。

しかし、寺山は47年の間に十分過ぎるほどの仕事を残した。
寺山のレパートリーは驚くほど広く、俳句・短歌・詩(短詩・長編詩)・演劇・映画・小説・文学評論・社会評論・青少年へのコンサルテーション・競馬エッセーなどなどの分野で、第一人者であった。そのため、寺山の作品(著作と映像作品)も膨大である。

寺山の没後24年になるのに、いまだに全集が編まれないのはなぜだろう? 長らく疑問に思ってきた。放恣な生活を続けた寺山なので、著作権の継承関係が複雑で、一本の全集にならないのだろうと思っていた。齋藤慎爾によると、「百巻を超すという巻数に名乗りをあげた出版社が恐懼し撤退した」との噂があり、その通りなのだという。(寺山修司「寺山修司の俳句入門」、2006年、光文社文庫、への解題)

なるほど、なるほど。もしそうだとしたら、残念至極だ。
百巻を超すことになろうとも、寺山修司全集は是非実現してもらいたいと思う。
ただし、従来の観念による「全集」では、出版社も読者も共倒れになるだろう。A5判、厚函入り、の全集では、価格が高くなり、到底百巻を揃える読者を十分に見出すことは難しい。

もっとハンディな全集を考えたらいかが?
ちょうど格好の例が、「植草甚一スクラップブック」、晶文社、全41巻+別巻がある。
B6判、紙装、ビニールカバーのハンディなものである。(ただし、ビニールカバーはいただけない。夏には伸びるし、冬には縮む。ここは、岩波新書のように、紙カバーにビニール・コーティングしたものがいい。)これで、思い切りコストを抑えられる。

もう一つ、寺山のレパートリーが多岐に渡ることが障害になっている、と齋藤慎爾は指摘している。どういうことかというと、例えば、俳人は短歌に関心がなく、歌人は俳句に関心がないというのが通例だというのだ。寺山修司全集を編んでも、俳人は俳句篇だけを、歌人は短歌篇だけを求めるらしい。つまり、多岐に渡る寺山のレパートリーすべてに付き合う読者は極端に少ない、という事情があるのだ。

それならそれで、方法はありそうだ。
それぞれの分野が独立する形式のシリーズにして、それを総合すると「寺山修司全集」となるように編集すればいい。
(なお、寺山修司の全集は著作だけでは不十分で、映像(演劇の舞台記録映像と映画)も当然収録しなくてはならない。)

こうして、出来上がる全集は以下のようになる。この際、「全集」の文字も止めよう。

寺山修司ワールド
寺山修司ワールド・俳句の細道
寺山修司ワールド・短歌の広場
寺山修司ワールド・詩の迷宮(短詩・長編詩)
寺山修司ワールド・芝居小屋(戯曲と舞台記録映像)
寺山修司ワールド・映画館(映画とシナリオ)
寺山修司ワールド・小説の蒼穹
寺山修司ワールド・文学評論のリング
寺山修司ワールド・社会評論のコロシアム
寺山修司ワールド・少年相談所
寺山修司ワールド・競馬パドック

すべてで何巻になるか知らないが、このような「全集」が編まれ、刊行されたら、私はすべての篇を揃えるだろう。 (2007/5)

今月から、クインテッセンス出版から『寺山修司著作集 全5巻』の刊行が始まった。A5判、カバー装、函入り、の軽い装丁だ。各巻560ページ前後だという。実物はまだ見ていない。

だが、「全5巻」とは! 寺山修司が5巻に収まってしまうのか。各巻の内容は、1俳句・短歌など、2小説・シナリオなど、3戯曲、4青春論・幸福論など、5評論、となっている。競馬エッセーはいっていないようだ。前回提案した「寺山修司ワールド」と対照させる、次のようになる。

寺山修司ワールド
寺山修司ワールド・俳句の細道 →→→→→→→→→→ 1俳句・短歌など
寺山修司ワールド・短歌の広場 →→→→→→→→→→ 1俳句・短歌など
寺山修司ワールド・詩の迷宮(短詩・長編詩)→→→→→ 1俳句・短歌など
寺山修司ワールド・芝居小屋(戯曲と舞台記録映像)→→ 3戯曲
寺山修司ワールド・映画館(映画とシナリオ) →→→→→ 2小説・シナリオなど
寺山修司ワールド・小説の蒼穹 →→→→→→→→→→ 2小説・シナリオなど
寺山修司ワールド・文学評論のリング →→→→→→→ 5評論
寺山修司ワールド・社会評論のコロシアム →→→→→ 4青春論・幸福論など
寺山修司ワールド・少年相談所 →→→→→→→→→ 4青春論・幸福論など
寺山修司ワールド・競馬パドック →→→→→→→→→ (省略)

なるほど、こういう編集の仕方があったか。これなら、読者に過度の負担を強いることもなかろう。書店の店頭で実物を見てみよう。 (2009/2)


池内紀の仕事・2

2008-06-08 06:21:53 | 私の本棚
その5。読書の達人として。

池内紀に、「101冊の図書館」、1993年、丸善ライブラリー、があることを最近知って、早速読んでみた。

これもまた、「読書の達人」のなせる業だといえよう。
池内の選んだ本は、ドイツ語圏文化にとどまらず、古今東西にわたっている。総じて、古典や名作は多くなく、ちょっぴり味のある本が多く選ばれている観がある。

図らずも、池内と私に共通する嗜好も垣間見える。例を挙げれば:
梶井基次郎「桜の樹の下には」
ガルシア=マルケス「族長の秋」
曽良「随行日記」
魯迅「雑文集」
尾佐竹猛「賭博とすりの研究」
大石真人「全国いで湯ガイド」
レニ・リーフェンシュタール「回想」
村井弦斎「食道楽」
石井研堂編「異国漂流奇譚集」
伊藤整「雪明りの路」、など。

読んでよかった本を101冊選んで仮想図書館を作るという池内の試みは、現在進行中の私の「究極の本棚」に共通するものがある。私の場合は、「読んでよかった本」ではなく、「これから死ぬまでに是非読んでみたい本」を選ぶのである。その際、過去に読んだことがあるかないかは問わないことにしている。

池内のひそみに倣って、古典や名作以外のものを多くしようかとも思案中だ。 (終わる。2008/6)
             

池内紀の仕事・1

2008-05-22 04:57:15 | 私の本棚
池内紀(いけうち・おさむ)をご存知だろうか? 知る人ぞ知る・知らない人は知らない、ドイツ語圏文化の達人である。亡き種村季弘の衣鉢を継ぐ存在、といえるのではないだろうか。

池内の活躍ぶりを「BIBLOSの本棚」で検索してみると:

その1。歴史・地理案内人として。
「ドイツ 読んで旅する世界の文化と歴史」、新潮社
「ザルツブルク 祝祭都市の光と影」、音楽之友社
「ウィーン 都市の詩学」、音楽之友社
「ハプスブルク物語」、新潮社とんぼの本

その2。ウィーン世紀末の案内人として。
「ウィーン 聖なる春」、国書刊行会
「ウィーン世紀末文学選」、岩波文庫

その3。旅の達人として。
「ひとり旅は楽し」、中公新書
「西洋温泉事情」、鹿島出版会
NHKのBS放送で、ライン川を下る紀行番組があったが、その案内人の一人として登場していたように思う。

その4。ドイツ語文献の翻訳家として。
「グリム童話 全2巻」、ちくま文庫
さらに、カフカの小説の翻訳が何冊か白水社から出ているし、ゲーテ「ファウスト」の翻訳も集英社から出ている。単に、ドイツ語圏文化の達人という「便利屋」には終わらないぞ、という意気込みを感じさせる翻訳の業績だ。 (つづく。2008/5)