静聴雨読

歴史文化を読み解く

クラス会 4

2014-03-22 07:01:38 | Weblog

 

クラス会に遅れて参加した。16名(男8名、女8名)の昔のクラスメートに久々に再会した。多くの人が顔を見ただけで誰だかわかった。

 

数人だけ、誰だかわからないクラスメートがいた。

角刈りで東大に進学したはずの男は、今は飯場の監督風情でタバコを吹かしている。

裕福な市会議員の風情の男は教育界で40年過ごした男らしい。

名前を名乗らないで近況報告した女性は誰だったろう?

 

昔とまったく変わらないクラスメートも何人かいた。

定年後も多芸多才ぶりを発揮している男。

「チョイ悪おやじ」を演じ続ける男。

清楚なセレブリティのまま50年過ごした女性、などなど。

 

あっという間の数時間であった。

(2014/3)


クラス会 3

2014-03-20 07:52:51 | Weblog

 

5年ほど前、あるクラスメートから突然メールをもらった。外部中学組の一人で、極めて優秀、記憶力抜群。東大に進み、その後化学メーカーに進んだはずの男だ。その後、彼との交友が復活して現在に至っている。

卒業後、クラス会に不義理を重ねていたにもかかわらず、クラス会との細い糸が切れずにつながってきたのは、幹事のSさんの配慮に負うところが大きい。私が転居を重ねてもクラス会の案内を受け取ることができたのもSさんのおかげだ。また、ある時、私の発行するブックレットをSさんに送ったところ、Sさんはほかのクラスメートに回覧してくれた。Sさんにはそのような、姉御肌のところがある。ちなみに、SさんはK中学組だ。 (2014-03-20)


クラス会 2

2014-03-18 07:50:10 | Weblog

 

私の高校は創立当初から男女共学で、男子24名、女子26名のクラスで3年間過ごした。クラスは付属K中学からエスカレーター進学した者と、付属S中学からエスカレーター進学した者、それに外部の中学から進学した者、の3つの「派閥」に分かれていた。K中学組が最も結束が強く、卒業後もK中学組は互いに行き来していたようだ。それに比べて、S中学組はバラバラで、卒業後の動静はなかなか伝わって来なかった。外部中学組は優秀な生徒ばかりで、存在感を保っていた。

私自身はS中学組だったが、外部中学組とも仲良くしていた。

さて、卒業後、クラス会が時々開かれていたが、私は参加しなかった。三十歳台に一度参加しただけだ。

その後、15年ほど前、たまたまクラス担任の恩師の近くに住むことになり、挨拶に伺って、クラス会メンバーとの交流も復活した。ただ、クラス会に参加する機会はなかった。やがて、恩師は老後に備えて娘さんの近くで暮らすことになり、遠くに行ってしまった。それで、クラス会メンバーとも疎遠になった。(2014-03-18)


特異日/クラス会 1

2014-03-16 07:44:48 | Weblog

 

勤めを退職してから、暇な日々が続いていた。意識してそうしていた。

今年の3月15日(土)は、そのような日常の中の「特異日」といえるような日だった。

まず、所属するNPO法人の総会の日にあたった。そこで、決算報告を担当しているので、必ず出席しなくてはならない行事だ。これで、午後がつぶれた。

次に、主宰する将棋愛好会の例会があったが、これはNPO法人の総会にぶつかるので、あきらめた。

これらに加えて、亡くなった叔母の七七忌法要が重なった。これは予定外で、遠くに出かけるのは難しく、泣く泣く出席を諦めた。

さらに困ったことに、高校のクラス会があるという。NPO法人の総会に重なるので、これも諦めざるをえない。しかし、久しぶりに是非クラスメートと再会したいと思い、その旨を幹事に伝えたところ、二次会に迎えてくれるという。喜んで、夜の二次会に出席させてもらうことにした。

(2014-03-16)


ヨーロッパ! ヨーロッパ! (3)EUとユーロの実験

2014-02-14 07:06:15 | Weblog

 

さて、現在のヨーロッパで最も注目すべきは、EUとユーロの行く末だろう。

1993年に発効したマーストリヒト条約によって誕生したEU(欧州連合)は、初めの「西欧諸国の連合」の性格を脱皮して、今や、27ヵ国が加盟する大連合に成長した。歴史・文化・言語・通貨が異なる国々がこれほどまで連合を組むとは予想できないことであった。

また、2002年には、欧州統一通貨として、「ユーロ」が発行され、EU加盟国のうち16ヵ国がユーロを採用し、ほかにも6ヵ国がユーロを導入している。「ユーロ」は、今や、ドルに次ぐ「第二の基軸通貨」と評されるまでになった。これもまた、大規模な通貨統合が実現するとは夢にも思わぬ出来事だった。

だが、統合地域が巨大化し、統合通貨が拡大するにつれて、その中で、歪みが否応なく露呈してくるのは避けられない。それは、EU内やユーロ圏内における国ごとの格差として現われる。上部に、旧「西欧」諸国が、そして、下部に、周辺の北欧・東欧・南欧諸国が、という二重構造が出来上がってくる。

そして、EUやユーロの安定を脅かしたのが、アイスランドに始まる周辺諸国であった。ギリシア、ポルトガル、ハンガリー、最近のアイルランド・スペインに見られるように、いずれも経済基盤の弱い国々が財政不安・金融危機・通貨不安の波に洗われた。これを解決するのは並大抵の努力では無理かもしれない。

改めて、EU統合と通貨統合の理念に各国が立ち返ることが求められる。それは何か、に答えることはできない。ただ言えるのは、現代のEUの実験・ユーロの実験は、はるか昔の中世期に、大西洋・地中海・カスピ海がとりまく広大な地域を「ヨーロッパ」として霧の中から浮かび上がらせた歴史的経験の再生のはずだ、ということだ。 (2010/11)

 


ブックレット

2012-11-06 07:46:31 | Weblog

 

「いつもブックレットを送っていただき、ありがとう。でも、これは手間がかかるのじゃないの?」

「いいえ、元のブログがありますから、ブックレットに仕立てるのに余り手間がかからないのですよ。文章はほとんど手直ししていません。」

「それにしても、立派な装丁で、金と手間がかかっているように見えるけれども。」

「いえいえ、手元のプリンターでできる範囲で仕上げています。また、製本のホッチキス止めの都合で、16-20ページに抑えています。」

 

「もし、君がブックレットを作るのを「義務」だと感じ、義務を遂行するのに大変な手間をかけているのだったら、一層、ブックレットを作るの止めてしまったら? そう思うなあ。君の書くエッセイを読みたい時には、ブログ「晴釣雨読」にアクセスすればいいわけだし、まとまった文章を読みたい時には、君が定期的に発行するという私家版文集をひも解けばいいのじゃないかなあ。」

「まず、第一に、私にとって、ブックレットを作るのは「義務」ではなく、「趣味」の一つです。編集・印刷・製本のすべての過程が楽しくてしょうがないのです。第二に、私より上の世代では、PCに馴染まない人もいて、そのような人に読んでもらいたいのです。そのような人は、逆に、私家版文集の分厚さに怖気をふるう人も少なくありません。この程度の厚さなら、気軽に手にとってもらえるのではないかと考えました。また、年賀状の代役にも使っています。」

 

「ところで、ずいぶん文字が大きいと思うのだが。」

「MS明朝の12Pです。単行本の9Pに比べて確かに大きいです。これも、私より上の世代に読んでいただきたいために、文字を大きくしました。」

 

「読みやすくするなら、写真をふんだんに挟んだらいいのに。」

「文章一本で読者を惹きつけたい、というのが私の願いです。やがて、筆力が衰え始めたら、写真に頼るようになるかもしれませんが。」 (2012/11)


ある日

2012-10-25 09:41:16 | Weblog

 

「おう! 久しぶり。元気にしているか?」

「はい、先輩。仕事を退役し、母の看取りも終えましたので、今は趣味を糧にしております。」

「何をやっているのかね?」

「はい、5つほどの顔を持っています。第一に、十九世紀歴史文化の研究者として。今は開店休業ですが。第二に、ブログ「晴釣雨読」のブロガーとして。6年半続けています。第三に、古書店「BIBLOSの本棚」の経営者として。始めて10年を超えました。ただし、あくまで、趣味の範囲です。第四に、美術館の学芸員として。亡くなった母の絵を整理して、ヴァーチャルとリアルでギャラリーを作ろうとしています。第五に、将棋クラブの主宰として。大学同窓会に将棋クラブを立ち上げ、その世話役をしています。また、外国の将棋指しとの交流を始めました。」

「いろいろやっているんだな。でも、みんな遊びごとのように見えるが。」

「その通りです。人生の「義務」をし終えると、「趣味」しか残りません。美術館の学芸員だけは、亡母の追憶という義務感がついていますが。」

 

「先輩はいかがですか?」

「おう! いろいろ頼まれてな。NPO法人の役員を2つさせられていて、加えて、町内会の役員も仰せつかって、結構忙しいよ。」

「生きがいがあって、素晴らしいですね。」

「おう! 忙しくしていないと、手持ち無沙汰になる性分でね。これだけは、一生抜けきれないね。」

「で、趣味は?」

「月に1度ゴルフに行っている。囲碁の寄り合いにも顔を出している。もっとも、NPOの会合とぶつかることが多くてね。」

 

「ボランティア活動は何かなさっていますか?」

「忙しくて、体を動かすボランティア活動には参加できないので、もっぱら寄付で気持を表わしているよ。」

「素晴らしいですね。私も何もしていません。東日本大震災の際には、被災した仲間に寄付したりしましたが、一時的なものに終わりました。」

「OBの交流会には、せいぜい顔を見せろよ。世間との付き合いを継続することは、老化防止にも役立つぜ。」

「はい、先輩。先輩もどうぞ余生を享受してください。」  (2012/10)


なぜ、町と村とで違いがあるのだろう?

2012-10-01 14:42:59 | Weblog

 

大阪府・大阪市が推進している「大阪都構想」。これを実現するために、国会が法律化した「大阪都実現法」(正式な名前は知らない)。これによって、東京都以外でも、大阪府のような大都市が「特別区」を持つことができるようになった。

だが、地方自治体を管轄する法律(現在では、地方自治法)は難しくて、よく判らない。

まず、都道府県だが、なぜ都・道・府・県という4つの呼称を許したのか?

石原・東京都知事は、大阪府が「大阪都」と名称変更するのにヒステリックに反発している。そもそも、都と府は、その権限などに違いがあるのか? 判らないことばかりだ。

さて、都道府県の下に市町村がある。これは誰でも知っている。

だが、市と町と村との間にどのような区別があるのだろう? 恥ずかしながら、私は知らない。

それで、Wikipedia で調べてみた。

市町村はいずれも「基礎自治体」に位置づけられる。

そのうち、市には要件があり、「人口5万人以上(合併に伴う特例を受けた場合は3万人以上)」のほか、あえてあいまいな言葉を使えば、「商業・工業・市街地など、いかにも都市的であること」が市の要件となる。すると、漁業で栄える港町などは市の要件を満たさないことになりかねない。

町にも要件があり、「都道府県が定める一定の人口(神奈川県の場合、5000人)があること」がその要件だ。

すると、「村」は? 村には要件はない。市でも町でもない自治体が「村」となるらしい。

つまり、基礎自治体としては、もともと、「村」しかなくて、それに人口などの要素が加わって、「町」ができ、「市」ができるのだろう。

その割りに、「村」の存在が貶められている気がする。呼び方も、「市・町・村」が一般的で、「村・町・市」とは誰も呼ばない。市町村に序列・階層構成を認める考え方は、旧憲法(大日本帝国憲法)下の市制・町村制のなごりが色濃く残っているのだろう。

なお、「市」の要件を満たす自治体が「町」に留まっても、また、「町」の要件を満たす自治体が「村」に留まっても問題ない。 (2012/10)

 


世界標準・1

2012-09-25 07:58:07 | Weblog

 

一昨年(2010年)からでしょうか、野球のストライク・ボールの呼び方に新しい方式が導入されました。わが国では、従来、ストライクを先に、ボールを後に呼ぶのが習わしでした。2ストライク・3ボールのように。一方、野球の宗主国アメリカを始めとしてアジア諸国もすべてボールを先に、ストライクを後に呼ぶ方式を採用しています。3ボール・2ストライクのように。世界的に見れば、ストライク・ボールの呼び方に二つの方式が並存していたわけです。これでは、例えば、国際試合では、どちらの方式を採用するか悩むことになります。ちなみに、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、ボールを先に、ストライクを後に呼ぶ方式を採っていました。

さて、何の力が働いたのか、また、言い出しっぺは誰だかわかりませんが、わが国でも、諸外国の(ボールを先に、ストライクを後に呼ぶ)方式を採用することが決まったのです。初めは、高校野球や社会人野球が新方式を採用しました。テレビのアナウンサーは最初戸惑っていましたが、やがて慣れました。次に、プロ野球も新方式を採用し、今では、新方式が定着しています。

ストライク・ボールの呼び方について、わが国の方式が生まれ・定着してきたのには、それなりの「いわれ」があったことと思います。今は、それは明らかでありませんが。

しかし、あえてわが国の方式を捨て、諸外国の方式に合わせたことにより、野球の国際的価値が数段高まったことは間違いないでしょう。

諸外国の(ボールを先に、ストライクを後に呼ぶ)方式の採用を推進した人たちは、大きな仕事を成し遂げたわけです。「統一できるところは統一する」という考え方が、「世界標準」を作り出すためには必要です。(2012/9)


ブログの哲学

2012-07-11 07:51:19 | Weblog

 

ブログを始めて2年。続けていくうちに、思わぬ発見をすることがあります。ブログ作法にまつわるコラムをまとめました。

(1)粘着質の功罪

最も意外な発見は、私がかなり粘着質な性格を有していることでした。
これまでは、逆に、淡白であっさりした性格だと自覚していましたので、自分に粘着質なところがあるという発見はかなりのショックでした。

粘着質は、別のことばに直せば「しつこい」性格だということです。
下世話な場面では、異性に「あなた、しつこいのよ」といわれれば一巻の終わりでしょうし、それ以上つきまとえば、「ストーカー」とみなされかねません。

粘着質な性格が私のブログにどう影響しているかを検証してみます。

例えば、「プルーストの翻訳」についてコラムを始めた時は、これほど長く続くコラムになるとは想定していませんでした。

初めは、「失われた時を求めて」について、なぜ井上究一郎と鈴木道彦とが、同時期に競い合うようにして、その全訳に取り組むのか、という疑問でした。鈴木の側から井上の翻訳への批判が出ていることは承知していましたので、両者の翻訳を比較してみようと思いつきました。それで、第一篇「スワン家の方へ」・第一部「コンブレー」の冒頭の一文で、井上訳と鈴木訳とを比較したのが始まりでした。

ここから、「粘着質な性格」がむくむくと目覚めました。
鈴木の翻訳史を調べてみよう。すると、何回かの訳文の変遷があり、その変遷の理由が謎として残りました。では、井上の方は? というわけで、井上の翻訳史を調べてみると、同じく何回か翻訳を変えています。その理由も(一部は)謎です。

それで、原文のフランス語の読解にまで手を伸ばすことになりました。辞書や文法書を参考にして原文を読解すると、プルーストがわずか8語のフランス語で、現在と過去とを対比する形で、過去の習慣を述べているのだと確信するに至りました。それで、おこがましくも、私なりの試訳を提示することにしました。「長いあいだ、早めに床に就くのが私の習わしだった。」というのが拙訳です。

結局、最初、井上訳と鈴木訳との比較に取りかかってから、最後に私なりの試訳を提示するまでに、7ヶ月かかるという長期作業になったのでした。 

もう一つ、「チヨウセンアサガオの不思議」のケースを振り返ります。

道端のお宅で見たチヨウセンアサガオについて判らないことを、インターネットでの調査を交えて記したのが最初でした。単発のコラムのつもりでしたが、念のため、図鑑などを参照したところから深みにはまりました。見る図鑑、見る図鑑で記述が異なるのです。

決定打はある園芸書でした。そこには、「いわゆる『チョウセンアサガオ』をチヨウセンアサガオ属に分類するのは誤りで、いわゆる『チョウセンアサガオ』はブルグマンシア属とダツラ属の2種に分かれる」と書いてありました。これは「目からうろこ」の類で、図鑑のいい加減さ、それの背後にある植物学界のいい加減さに目を覚まされました。

その園芸書に導かれて、道端のお宅のチヨウセンアサガオを一年かけて観察したところ、開花時期などの「不思議」の実態を解明することができました。チヨウセンアサガオの花は夏のみならず、秋から初冬にかけても開花するのです。

このような探索を継続する原動力が「粘着質」にあることは否定できません。

さて、「粘着質」は「しつこい」性格として忌み嫌われますが、一方、次のような表現もあります。
「あの料理店は食材に対する『こだわり』が半端じゃない。」
この場合、「こだわり」は、まさに「粘着質」を表わしているのではないでしょうか?

同じ「粘着質」の性格を表わすのに、「しつこい」性格といえばマイナスのシンボルに、また、「こだわる」性格といえばプラスのシンボルになってしまうのです。奇妙といえば奇妙です。

私のブログ作法に引き付けていえば、何か気になったことに「こだわり」、好奇心をもって探求を続けることにより、新たな発見を導き出すことができた場合、その原動力となった「粘着質」を「功」として評価していいのではないか、と思います。

「粘着質」の「罪」の部分(しつこさ)を抑え、「功」の部分だけを浮び出させる、そこにブログの文章作法の真髄があるように思います。 

(2)コラムニストになりたかった

ブログがこれほど居心地いいとは思いもよりませんでした。その理由をあれこれ考えてみたところ、ある一つのことに突き当たりました。

ブログの記事が一つの「コラム」であり、そのコラムを記すのがコラムニストだとすると、私は憧れのコラムニストを気取ることができるのに有頂天になっているのではないか?

コラムニストの正確な定義は知りませんが、「特定のジャンルについて、継続的に新聞・雑誌・メディアなどに記事を提供するジャーナリスト」といえると思います。ジャンルについては、例えば、スポーツの中でも野球というように、ごく狭い範囲のこともあれば、スポーツ全般ということもあるのが実際です。

コラムニストの例を2つあげてみます。

1.「天声人語」の筆者
朝日新聞朝刊の一面下段に君臨する有名なコラムが「天声人語」です。わずか618字のこのコラムは、時事だけでなく、自然・人物・歴史など幅広いテーマを扱っています。一人で担当しているそうですが、その知識・識見は驚くほどです。歴代のコラムニストにはそうそうたる新聞記者が名を連ねていますが、中でも辰濃和男は1981年から1988年まで担当した名物記者でした。自然観照と人情の機微に独特の冴えを見せたといわれています。

2.スポーツ・ジャーナリスト・二宮清純
スポーツ界では、二宮清純の例がわかりやすいと思います。
二宮は野球・サッカー・相撲・陸上競技・水上競技などあらゆるプロ・スポーツを扱います。彼の特徴は、アスリートの技術の分析やアスリートへのインタビューなどに発揮されるだけでなく、プロ・スポーツとビジネスのありようについての深い分析と提言に現われます。彼ほど、プロ・スポーツとファン(観客)との関わりを考えているコラムニストはいません。

さて、ブログの書き手が「コラムニスト」だと言ってもそしりを受けることはないでしょうが、ブログの書き手と、新聞・雑誌・メディアなどに寄稿したり発言したりするコラムニストとの間には、決定的な違いがあります。

新聞・雑誌・メディアなどに寄稿したり発言したりするコラムニストは、コラムのテーマや内容について、新聞・雑誌・メディアなどの「求めに応じて」決めていきます。
一方、ブログの書き手には、そのような「求め」はありません。自分でテーマを決め、自分で内容を固めていくしかありません。これが相違点です。

自分でテーマを決め、自分で内容を固めるのは、無限の自由に取り囲まれているように見えますが、逆に、テーマや内容の選択が恣意に流れたり、独り言やつぶやきに終始したりする危険があります。

世間にはびこるオシャベリ型のブログを避けながら、何とか「コラム」として評価していただけるようなブログとしたい、というのが、見えない読者を想定してブログに取り組む「コラムニスト」の心構えです。 

(3)ブログの特性

ブログの特性について、2つほど思い当たることがあります。

第一は、ブログは、「公的な要素」と「私的な要素」の混淆で成り立っていることです。

まず、道具立ての面を見ると、ブログはインターネットという通信インフラの上で展開される点で、極めて公的な色彩が強いといえます。しかし、ブログは個人の情報発信のツールであるという点で、私的なコミュニケーション手段です。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が個人と個人とのコミュニケーションを擬似コミュニティーに仕立て上げているのとは違います。

ブログで発信するコンテンツは、もちろん、人さまざまですが、例えば、歴史文化について記すブログのコンテンツは、読者との間に、ある程度共通の基盤があることを前提として書かれていて、その意味で「公的」な色彩を帯びています。しかし、「公的」なブログに「私的」な要素(個人的な経験など)を加えることによって、ブログの記事に深みと親しみやすさが増すことがわかりました。

第二に、ブログを続けていくには、「偶然性」を取り込むことが必要だということです。ブログは、日記に似て、毎日(私の場合は、隔日に)発信するものですから、あらかじめ用意したコンテンツを順繰りに発信するだけでは、長続きしませんし、マンネリになりがちです。そこに、日常生活、日々の経験、読書、研究、などを織り込むことができれば、コンテンツに精彩を与えることができます。

以上のことを、私の例で説明すると:

以前、「石橋湛山の魅力」というコムを載せました。

その、直接の動機は、小島直記という人が書いた石橋湛山の評伝を偶然古本屋で見つけ、読んだら面白いので、ブログで紹介しようと思ったことでした。紹介するに当たり、湛山の評論や回想録を読み、この人物が近代日本のジャーナリスト・政治家として、傑物であることがわかり、紹介する筆が進みました。
そして、以前、「ナマ湛山」に会ったという私的な事情もコラムをまとめるのに役立ちました。

このように、「私的な要素」と「偶然性」を織り込むことができる・許されているという点が、ブログの大きな特性であると理解するようになりました。 (2007/8-9)


メール不達現象

2012-06-20 07:36:58 | Weblog

 

メールとは時々どこかに消えてしまうもののようです。

私の運営する「BIBLOSの本棚」では、時々お客様から「受注確認のメールが届かないけれど、どうしてか?」という問い合わせが入ります。その原因の多くが、私からのメールがお客様の「迷惑メールフォルダー」に仕分けられてしまって、お客様の目に触れなかったというものですが、中には、そうでなく、本当に行方不明になるメールが少しだけれどあるようです。

インターネット・ショッピングのあるお店の「注意書き」には、「フリー・メールを使っている人にメールが届かないことが時々あります」と書いてあり、「フリー・メール」の例として以下のものが掲げられています。

 yahooメール(yahoo)

 hotmail(MSC)

 gmail(google)

  goomail(goo)

  aolメール(aol)

なるほど、「フリー・メール」を使っている人に宛てたメールが行方不明になることがあるのか。これは納得がいきます。

「BIBLOSの本棚」におけるメール不達のケースの95%は、よく見ると、「フリー・メール」を使っている人宛でした。残りの5%はお客様の側における「メールの見逃し」でした。

すると、インターネット・ショッピングなどでは、「フリー・メール」を使わないようにするのがスマートなやり方であることがわかります。

私の主宰する将棋愛好会で、一斉通知を時によっては受け取れないメンバーが2名いて、そのメール・アドレスを確認すると、hotmailと aolメールのアドレスでした。

「フリー・メール」は無料で便利ではあるが、その信頼度の低さを考えると、インターネット・ショッピングや同好会の連絡に使うのは避けるべきなのでしょう。 (2012/6)


ガッツリ系

2012-05-23 07:16:37 | Weblog

 

東京・神田神保町。昔は多くの大学が集まる学生街だった。今は大学の多くが郊外に移転してしまい、大学生の数は大幅に減っている。しかし、いまだに、昔の学生街の雰囲気を残しているものがある。それが「食堂」だ。

神田神保町には多くの食堂がある。

神保町交差点近くに2店ある「さぼうる」は古くからある喫茶店・食堂だ。ここで、スパゲティ・ナポリタンを頼んで驚いた。普通の店に比べ、パスタが1.5倍ほどあるのだ。そう、ここは、神保町の食堂の「ガッツリ系」の伝統を忠実に墨守しているのだ。(ただし、味はお勧めしない。)

スパゲティ屋の「パパ・ミラノ」もパスタの量が多い。

カレー屋はどうかといえば、神保町交差点近くの「ボンディ」も「カヴィアル」も同じように、カレーにゆでジャガイモを添えてサーブされる。全部を食べると、腹がくちくなる。

すずらん通りには、有名な「キッチン南海」があり、いつも行列ができている。ここで食べた「ひらめフライしょうが焼き定食」には驚いた。ひらめフライと豚のしょうが焼きのそれぞれがボリュームたっぷりなのだ。値段は750円。豚のしょうが焼きは結構いける。(ただし、この店の売りのカレーはいただけない。カレールウが焦げていた。)

このように、どの食堂も「ガッツリ系」で統一されているらしい。昔の学生に代わって今は近所のOLやサラリーマンの食欲を満たしているようだ。 (2012/5)


個人誌を作りました。

2012-04-09 07:18:28 | Weblog

 

晴釣雨読 第19集[Ozekia のブログから  2008 - 2009] 

Ⅰ 音楽の慰め

バイロイト詣で・Ⅰ 出発まで            

バイロイト詣で・Ⅱ 現地にて         

バイロイト詣で・Ⅲ 『ニーベルングの指輪』    

バイロイト詣で・Ⅳ 『パルジファル』        

バイロイト詣で・Ⅴ ワーグナーの素晴らしさ      

2009年に訪れた「バイロイト音楽祭」の印象記です。

「音楽と政治」・「ワーグナーの哲学」にも触れています。

個人誌としては最長の26ページになりました。  (2012/4)


ひな祭り

2012-03-03 07:04:28 | Weblog

 

33日の「ひな祭り」を前にして、近くのスーパーでは、絶え間なく「ひな祭り」の歌を流している。そう、「あかりをつけましょ ぼんぼりに」というやつだ。聞くとはなしに聞いていると、何番かの節に、次のような歌詞があるのに気が付いた。

 

「お内裏様とおひな様 二人ならんですまし顔」・・・なかなか細かな観察とユーモアたっぷりの批評が込められている。

 

そして、結びは;

「お嫁にいらした姉さまに よく似た官女の白い顔」・・・こちらは、姉を亡くした喪失感を官女の顔に寄せて詠っている。

 

この歌詞の作者は? インターネットで調べると、サトウハチローであった。有名な童謡作家だ。また、タイトルは「うれしいひな祭り」が正解らしい。

 

タイトルはともかく、短い歌詞の中に少女の情感の機微を表わすテクニックは相当なものだと感じ入った。

 

2月の「バレンタイン・デー」の前は、このスーパーでは、AKB48の「 I want you 」と発する歌(タイトルは知らない)が鳴り続けていた。こちらは極めて直截な愛の表現で、余韻はまったくない。

  (2012/3

 


一年間の安心料

2012-01-21 11:55:27 | Weblog

 

人間ドックの検診結果が届いた。前回検診を受けたのが15ヶ月前だったが、前回と比べてどうだろうか?

 

生活習慣病の高血圧症と高脂止症については、投薬の成果で、極端な異常はなかった。

前回、潜血が検出された便については、今回OKだった。ほっとした。

肝臓機能の指針であるγ-GTPの値は前回に比べて劇的に下がった。ここ2ヶ月の節酒の成果が端的に現われたようだ。

 

今回、最も気になるのが体重の増加で、前回比3.5kg増加してしまった。これにはまいった。

暴飲暴食など、特に思い当たる原因はないのだが、とにかく体重が増えたことは間違いない。

少し、気合を入れて運動するしかないか。本格的に散歩を始めよう。

 

実は、今一番気になっているのが、目が霞みだしたことだ。 白内障? 緑内障? 本を読むのがつらくなった。特に、左目が気になる。

人間ドックでは、視力検査はあるが、それ以外の検査があるわけではない。

ドクターの問診の際、それを訴えると、眼科の検診を勧められ、眼科の予約をとっていただいた。

 

結局、人間ドックとは、費用をかけて、一年間の安心を得る儀式なのか?

人間ドックで異常が見つかれば、心配が増え、異常が見つからなければ、とりあえずほっとする。それの繰り返しなのだろう、と割り切ることにした。 (2012/1