静聴雨読

歴史文化を読み解く

ソローのこと

2012-10-31 07:50:35 | 歴史文化論の試み

 

「名古屋で学会の研究会があったので、寄らせていただきました。」

「その歳で研究とは立派なことね。」

「いえいえ、ヘンリー・D・ソローの思想は歳をとってからの方が理解が進むように思えます。」

 

「彼は十九世紀アメリカの人でしょう? 何が本職なのかしら。」

「詩人・エッセイスト・教師・旅行家・社会活動家・エコロジストなどが彼のレッテルです。総称して「思想家」といわれています。」

「今は「哲学者」と呼ばれることもあるそうね?」

「はい、「思想家」と「哲学者」との違いはよくわかりませんが。アメリカの哲学史では、いまだに、ソローの名前は出てこないそうです。」

「なぜかしら?」

「難しい問題です。私自身もソローを哲学者と呼ぶにはためらいを感じます。」

「どうして?」

「哲学といえば、プラトンにしてもヘーゲルにしてもサルトルにしても、きらきら輝く言葉の断片が有名ですが、それでその哲学者の思想の全体が表わされるとは思わないのです。サルトルを引けば、「私とは、あなた(相手)に見られている存在です。」という言葉があります。確かにその通りですが、そういうあなたも私に見られている存在であり、それを連結すると、「私とは、私に見られているあなたに見返されている存在です。」となり、議論は無限ループに陥ります。哲学はそのような言葉の遊びに堕す危険性をたえず孕んでいるように思います。」

「なるほどね。」

 

「ここに、ソローの著作から断片を編んだ本があります。『ソロー語録』(岩佐伸治編訳)です。名古屋に来る新幹線で読んだのですが、これを読むと、ソローの哲学者ぶりを表現する「箴言」が数多くあることがわかります。でも、ある言葉の正反対の箴言が別の個所に存在することも多いのです。つまり、ソローの思想を理解するためには、『ウォールデン』や『日記』を通して読まなければ、その真髄をつかまえられないと思うのです。哲学者という呼称はソロー理解の妨げになりかねない、と感じています。」

「でも、ソローを哲学者と呼ぶ人たちは、ソローの中に観念的な哲学ではなく、生活に直結する哲学を見出しているのではないの?」

「はい、その通りです。わが国では、鶴見俊輔が開拓した分野です。生活の営みの中に、人生の奥儀が秘められているということを、ソローはやや難しい言葉で表わしました。むしろ、ソローの哲学を理解させる原動力になったのは、ウォールデン湖畔に掘立小屋を建てて移り住んだ行動であったといえるでしょう。」

「彼の『ウォールデン』には、自然の移り変わりの記述のほかにも、経済などの記述もあるのが特徴でしょ。」

「はい、日々の営みにも哲学があるという考えを自然に表出しているのが『ウォールデン』です。その考えは、わが国の北村透谷の『人生に相渉るとは何の謂いぞ』にも共通するものです。」

「なるほど。それだったら、『ソローと北村透谷との関連を鶴見俊輔風に読み解く』というような論文にまとめたらいいのに。」

「いえいえ、私には。」 (2012/11)


『新しい世界史へ』を読む

2012-02-02 07:26:36 | 歴史文化論の試み

 

私は、最近、「世界史像の組み換え」と題するコラムを発表しました。(「晴釣雨読」第18号、

20121月、または、末尾のブログ参照

 

その中で、これまでの世界史が、一国史を束ねただけであり、かつ、ヨーロッパ偏重であったことに異議を提起しました。これからの世界史は、一つの歴史事象を多面的に見る交渉史であり、比較史であるべきで、それによって初めて、近代の植民史や官僚制が検討できるようになる、という趣旨でした。

 

同じことを説いている本があるよ、と知人から教えられました。羽田正『新しい世界史へ』(201111月、岩波新書)がそれです。羽田氏は東京大学東洋文化研究所の所長ですが、長い間、イスラームの研究をしておられるとのことです。

それで、ヨーロッパ中心史観に強い違和感を覚えたのは想像に難くありません。私たちは、等しく、2001年の「911」以降、アメリカを中心としたキリスト教文明とイスラーム文明との「衝突」を目の当たりにしたのですから。

 

本書の第3章「新しい世界史への道」が羽田氏の主張の核心です。節の名を並べれば;

1 新しい世界史の魅力

2 ヨーロッパ中心史観を超える

3 他の中心史観も超える

4 中心と周縁

5 関係性と相関性の発見

 

また、羽田氏は、第4章でさらに踏み込んだ「新しい世界史の構想」を提案しています。節の名を一部並べれば;

3 世界の見取り図を描く

4 時系列史にこだわらない

5 横につなぐ歴史を意識する

 

氏は、歴史上のある時点の世界を輪切りにして、各地の歴史事象を集めることを提案しています。これは、歴史事象の連続的継起に過度に意味を持たせるべきではない、という主張と重なり合います。しかし、これはどうでしょう。歴史とは過去の歴史事象の吟味・反省などから未来を切り開く使命を担っているという従来の歴史観を私は捨てることはできません。

 

最後の「横につなぐ歴史を意識する」には全面的に賛成で、私はそれを「交渉史」と「比較史」で実現したいと提案したのでした。詳しくは、以下のブログを参照願います。 (2012/2

 

「世界史像の組み換え」  http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20111104/

http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20111106/

 

 

 


世界史像の組み換え・2

2011-11-06 07:19:49 | 歴史文化論の試み

さて、本論に入ります。少し長くなりますが、一気に載せます。

(4)再び、世界史とは?

高校の「世界史」の授業では、多くのことを教えられましたが、それでも、多くのことを教えられないまま終わった、という感も否めませんでした。それは、いわば当然で、あらゆる地域の古代から現代までを網羅して授業するためにどれだけの授業時間を確保すれば足りるかを考えれば、容易にわかることです。

そもそも、「世界史」とは何か、を考える必要がありそうです。

一つの地域、一つの民族、一つの国家の歴史を仮に「一国史」と名づけますと、「一国史」の学習は、その地域、その民族、その国のアイデンティティを理解するために必須でしょう。「バルカン半島の歴史」、「ユダヤ民族の歴史」、「日本史」などを思い浮かべればわかります。

それに対し、「世界史」とは何であるべきでしょうか? 単に、他の地域、他の民族、他の国家の「一国史」をいくつか学ぶのでは、「世界史」とはいえないのではないでしょうか? 私の疑問はここにあります。

ともすれば、日本人の学ぶ「世界史」が、西洋中心=ヨーロッパ中心の歴史になりがちで、東アジアを「極東」と呼ぶ見方や、植民地拡張の時代を「大航海時代」と言い習わす歴史観を植えつけるのに貢献してきました。

西洋中心=ヨーロッパ中心の歴史観を覆す「世界史」学習のパラダイムの変革が必要です。その方法論を次回から述べたいと思います。  

(5)「交渉史」としての世界史

他の地域、他の民族、他の国家の「一国史」をいくつか学ぶ「世界史」を脱して、新しい「世界史」像を作りたい。切実にそう思います。

まず、ある地域、ある民族、ある国家と他の地域、他の民族、他の国家とが対立し交流する様を描き・理解する「交渉史」が欲しいと思います。

一例として、中世の地中海を舞台にしたイスラム勢力とキリスト教勢力との対立と相互浸透を挙げましょう。

前に、大学の「世界史」の入学試験問題の一つを見ました。

「問い。次の文章を読み、具体的史実に照らして、100字以内で、解説せよ。『地中海を挟み、長らく対抗していたイスラム勢力とキリスト教勢力の関係は、15世紀を迎え、ようやく一つの決着を見た。』」

解答の一つとして:
「地中海沿岸からヨーロッパ南部を侵略したイスラム勢力に対して、11世紀以降数次の十字軍を
中東に派遣するなど、キリスト教勢力が反攻に転じ、ついに1492年、スペインのグラナダ城を開城させ、イスラム勢力からのレコンキスタ(国土回復)を実現させた。」を挙げました。

実は、この解答は、キリスト教勢力に立った見方に過ぎません。イスラム勢力に立てば、自ずから別の解答があるでしょう。ところが、イスラムの考えを学んで来なかった私は、イスラム勢力に立った中世地中海史がわからないままです。これまでの世界史教育に大きな欠陥があるといわざるをえません。

一つの史実に対して、二つの、あるいはそれ以上の地域、民族、国家が対立し交流する「交渉史」を学ぶことこそ「世界史」にふさわしいのではないでしょうか?  

もう一つの例を挙げましょう。

世界の近代史は植民政策の歴史であったといってもいいすぎではありません。ヨーロッパを主体とする近代国家が、中南米・アジア・アフリカの諸国を植民地にしていく歴史が世界近代史です。

フィリピンのセブのマクタン島に、マゼラン到達の記念碑が立っています。マゼランとは、いうまでもなく、ポルトガルの冒険家・航海者で、初めて大西洋を西に向かって横断することに成功したことで有名です。そして、その足で、太平洋を西に進み、フィリピンにまで到達したのです。そこで、マクタン島の領主ラプ・ラプとの戦闘で命を落としました(1521年)。

マクタン島のマゼラン到達の記念碑は面白い構造になっています。一面には、ラプ・ラプがマゼランを迎え撃って、これを倒したと記しています。もう一面(つまり、裏面)には、マゼランがフィリピンにまで到達したものの、ラプ・ラプと戦って破れた、と記しています。この記念碑が象徴するように、一つの史実には二つの側面からの見方がありうるのです。その両面の見方を理解しない限り、「世界史」を正しく把握することにはなりません。

植民政策の歴史は、これまで、あまりにも、植民者=ヨーロッパの側からの記述に偏っていました。中南米・アジア・アフリカからの見方を付け加えて、植民政策の功罪を理解すること、これが「交渉史」としての「世界史」を学ぶ意義だと思います。 

(6)近代の官僚制

一つの史実に対して、二つの、あるいはそれ以上の地域、民族、国家が対立し交流する「交渉史」を学ぶことが「世界史」にふさわしいのではないか、と申しました。もう一つ、別の角度から問題を提起してみます。

歴史にはそれを突き動かす原動力があります。すでに見たように、産業革命とそれに続くフランス革命などのブルジョワジーによる革命は近代を刻印するものです。しかし、各国の近代化の過程は互いに似ているところと似ていないところがあります。それはなぜか、考えてみる価値があります。

一般的にいえば、ブルジョワジーは近代国家の形成と運営を自ら行わず、その任を官僚に委ねました。その結果、各国に強大な「官僚制」が生まれました。これが似ているところです。フランス革命以後のフランスはその典型です。また、イギリス・ドイツなどのヨーロッパ諸国もこれに倣いました。

わが国でも、明治以来の「富国強兵」の国つくりを託されたのは、官僚です。政府のナンバー2かナンバー3の大久保利通を半年以上も欧米に派遣して、それらの国情をつぶさに視察させ、欧米の法制度や国民掌握術などをわが国に輸入させました。その結果、わが国は急速な近代化を成し遂げます。

しかし、「官僚制」にも影の側面のあることがやがてはっきりしてきます。 

1914年と1918年のロシア革命で、ロシアに社会主義政権が誕生しました。多くの人の夢を乗せた国作りがロシアで始まりました。

ところが、まもなく、社会主義政権を牛耳るのが、ほかならぬ官僚たちであることが誰の目にも明らかになりました。国民、人民、大衆、といろいろことばはありますが、これらの人たちの生活を守り、生活程度を上げていく任務を担っていたはずのソ連政府の官僚が、自らの特権を擁護することに汲々とするとするようになりました。

やがて、1989年の「ベルリンの壁」の崩壊に伴い、ソ連も解体の憂き目に遭いました。当然のことでした。

ソ連時代のロシアには、「サービス」という概念がありませんでした。「サービス」を提供しなくても、誰でも同じ賃金が得られる「悪平等」の考えに、官僚が染まってしまったからです。

同じような事態は中国でも見られます。1948年の中華人民共和国の成立以来、中国を指導してきたのは、中国共産党とその教えを実行する官僚群でした。官僚たちは国の近代化に貢献するとともに、賄賂・腐敗の温床にもなってしまいました。

このように、資本主義社会と社会主義社会とを問わず、「官僚制」は近代国家に不可欠の統治機構であるようなのです。その反面、強力な統治機構の「負」の側面が必ず現われることに注意すべきです。 

(7)わが国の場合

さて、翻って、わが国を見てみると、明治政府は近代化のピッチを上げるために、官僚制をフルに活用してきたことはすでに見た通りです。以降、「優秀な官僚」という神話がわが国を闊歩してきましたが、海外への領土拡張という軍部に意向には抵抗する術がありませんでした。よくよく考えてみますと、「官僚」とは何かに仕える存在です。ブルジョワジーに仕えていた官僚が、仕える相手を軍部に変えたにすぎない、とみなすこともできます。

第二次世界大戦に敗北した日本は戦後の復興に向かうことになりますが、そこで再び、官僚が活躍しました。国土の復興・民心の鼓舞に果たした官僚の力は無視できません。

しかし、戦後の復興を終え、高度成長を果たした今、官僚の「負の側面」が指摘されるようになりました。それを一言でいえば、官僚の「上から目線」が国民の批判にさらされ始めたのでした。国を思う気持は人一倍強い官僚ですが、国民に対しては、上から指導する癖が抜けないのです。

「テクノクラート」ということばがあります。特定の技術分野の専門家で、その分野では並ぶものもいない存在です。例えば、発電の分野における原子力発電の専門家、など。今では、ITの分野におけるIT専門家もそうかもしれません。これらの「テクノクラート」は、官僚制の生み出した官僚の双生児です。

また、わが国には、「労働貴族」ということばもあります。これに見合う英語があるのかどうか、わかりません。「労働貴族」とは、労働組合幹部のことで、経営者と渡り合う経験を積むうちに、いつのまにか、労働者を上から見る習慣を身につけ、生活ぶりも貴族のようになった人たちのことです。

官僚、「テクノクラート」、「労働貴族」の三者に共通するのが、国民を上から見る目線です。

近代国家が、国を問わず、また、体制を問わず、官僚制に支えられていることを見てきましたが、果たして、国と国の間に、また、体制と体制との間に、「官僚制」に質的差があるのか、を知りたいと思います。

長々と書いてきましたが、このような、国と国、また、体制と体制、を比較する「比較史」が、新しい「世界史」のテーマであるべきではないか、というのが私のいいたいことでした。  

(8)「交渉史」と「比較史」

これまで「世界史像の組み換え」と題して述べてきたことをまとめます。

一つの地域、一つの民族、一つの国家の歴史をたどる「一国史」は、その地域、その民族、その国家のアイデンティティを理解するために必須です。日本人にとっての「日本史」、セルビア人にとっての「バルカン半島史」、イスラエル人にとっての「ユダヤ民族史」を例にとれば、それは明らかです。

一方、ある地域、ある民族、ある国家の人びとが「世界史」を学ぶということはどういう意味があるのでしょうか? 

例えば、イギリスに留学する人がイギリスの「一国史」を学びたがったり、セルビアを旅行する人が「バルカン半島史」を知りたがったりするのは、あくまでも他の地域、他の民族、他の国家の歴史としての「一国史」を知るということに止まります。

そのような他国の「一国史」といわゆる「世界史」とは異なるはずだ、と私は言いたい。

そして、本当に学んで意味のある「世界史」とは、複数の地域、民族、国家が互いに作用を及ぼしあう「交渉史」と、歴史を突き動かす力が地域、民族、国家ごとにどのように違うのか・あるいは似ているのか、を検討する「比較史」とではないかというのが私の仮説です。

「交渉史」(相互作用=英語の interaction=の歴史、といったほうが私の言わんとするのに近いかもしれません。)の例として:

1. 中世地中海世界を舞台にした、イスラム勢力とキリスト教勢力との争い
2. ヨーロッパ諸国による植民政策の中南米・アジア・アフリカ諸地域に及ぼした影響、

を挙げましたが、さらに、

3. 小麦・香料・花卉などの東西にわたる伝播と交易
4. インドに発祥した仏教の東漸

など、興味あるテーマが多くあります。

「交渉史」のキモは、影響を及ぼした側と影響を受けた側とを等しく見る眼を養うこと、と、両者の相互作用を学ぶことにあります。

また、「比較史」の例として:

5. 近代国家における「官僚制」の比較

が重要なことを指摘しました。他にも、例えば:

6. 封建制から資本主義への移行に当たって、イギリス・フランスなどのヨーロッパ「先進」諸国と、ロシア・日本などの「後進」諸国との間で、どのような違いがあったか
7. 宗教と政治との関わり方について、イスラム教・キリスト教・仏教とで、どのような違いがあるか

など、興味あるテーマは数多くありそうです。

「比較史」においても重要なことは、比較的なじみのない側の見解に耳を傾けることではないでしょうか? それこそが、「世界史」を学ぶ意義だと思います。繰り返しになりますが、「世界史」とは、一つの歴史事象を複数の眼で見てみることだと思います。そのことによって、物事を多角的に見て判断する訓練ができるのだと思います。 (終わる。2010/3-4)


世界史像の組み換え・1

2011-11-04 07:00:40 | 歴史文化論の試み

(1)世界史とは

私の高等学校の社会科では、日本史と世界史とのどちらかを選択し、地理と政治・経済とのどちらかを選択するようにカリキュラムが組まれていたように記憶しています。今になって思えば、地理を除く日本史、世界史、政治・経済はいずれも必須ではないでしょうか? 授業時間の制約から、このような科目選択制が敷かれていたのでしょう。

日本史と世界史に限っていっても、どちらも、知識として身につけておきたい教科でした。私は世界史を選びました。日本史が、細かい歴史的事実(年号も含めて)の暗記を求めるのに対して、世界史は、もう少し広い視野に立って歴史を俯瞰する訓練ができるのではないか、というのがその理由でした。さらにもう一つの要素が私を世界史に駆り立てました。それは、簡単にいえば、ヨーロッパへの憧れ、でした。

もちろん、世界史ですから、古代オリエントから始まり、連綿と続く歴史文化を跡付けるのは当然です。ギリシア、ローマの地中海世界からヨーロッパへと、歴史文化をたどるのは、いわば、「定番」です。中世以降は、ヨーロッパが主役の座に座り、産業革命からフランス革命へと、近代化への道をたどるのが、世界史のハイライトでした。

しかし、他にも、イスラム社会の興隆と衰退や、インド・中国の文明の興起、ラテン・アメリカの勃興、アメリカの独立と強大化など、「世界史」には、採り上げなくてはならない要素が多くあります。それらをすべて採り上げるには、時間が足りません。ここでも、時間不足のせいで、世界史=ヨーロッパ史のように思い込まされたフシがあります。もっとも、ヨーロッパへの憧れに身を焦がしていた生徒には、それで何ら不満はありませんでした。 

(2)一つの世界史像

さて、私が志望することにした大学には、ヨーロッパ中世史の大家が何人かいました。それらの先生の出題する入学試験の「世界史」はユニークなことで知られていました。

先生方の編んだ「高校世界史」の教科書があり、高校の先生からそれを見せられ、入学試験の「世界史」の「傾向と対策」に励みました。その教科書を見て、驚いたのは、中世史に割くページが多いのです。

その大学の過去の「世界史」の入学試験問題を見て、さらに驚きました。それを思い出しながら、再現してみます。

「問い。次の文章を読み、具体的史実に照らして、100字以内で、解説せよ。『地中海を挟み、長らく対抗していたイスラム勢力とキリスト教勢力の関係は、15世紀を迎え、ようやく一つの決着を見た。』」

この文章を読み解くことが求められています。
一つの答えを示すと:
「地中海沿岸からヨーロッパ南部を侵略したイスラム勢力に対して、11世紀以降数次の十字軍を中東に派遣するなど、キリスト教勢力が反攻に転じ、ついに1492年、スペインのグラナダ城を開城させ、イスラム勢力からのレコンキスタ(国土回復)を実現させた。」

こういう問題が10問(か15問)出るのが、この大学の「世界史」の入学試験問題でした。

このように、史実を読み解く力を高校生に求めるのはいかがなものか、という批判もあったようですが、この問題が、唯一の「解答」を求めているのではなく、いろいろあり得る「解説」を求めているのだとすれば、今時の「マル・バツ」式問題や「穴埋め」問題よりもはるかに歴史理解の深さを測るのに適していたように思います。  

(3)フランス近代史

話戻って、高等学校の世界史の授業では、1789年のフランス革命から始まり、ナポレオンの登場、二月革命、七月革命、パリ・コンミューンと続くフランス史は息継ぐ暇もないほど劇的な場面に満ちています。このフランス近代史を学ぶ過程で、近代史のダイナミズムに触れました。

フランス革命が掲げた「自由(liberte)・平等(egalite)・友愛(fraternite)」の理念が、モンテスキュー・ヴォルテール・ルソーなどの18世紀啓蒙主義に淵源を持つものであることや、新興ブルジョワジーが貴族階級に取って代わったのがフランス革命の意味であることを知って新鮮な驚きを覚えました。

没落する階級と興隆する階級の力学を理解するには、高校の世界史の教科書だけでは物足りなく感じ、副読本も読みました。それが、次の2冊です。

シェイエス『第三階級とは何か』、昭和25年、岩波文庫
カール・カウツキー『フランス革命時代における階級対立』、昭和29年、岩波文庫

このような学習を通じて、フランス革命とは、新興ブルジョワジーが貴族階級を駆逐するものであると同時に、新たに、新興ブルジョワジーと「第三階級」との対立の幕開けを宣言するものでもあったことがわかりました。「第三階級」とは、農村の小農民・都市の低賃金労働者・小規模自営業者などを併せた呼称です。

フランス革命の掲げた「自由・平等・友愛」の理念のうち、「自由」はブルジョワジー主導の民主主義によって実現を見ました。それに比べ、「平等」と「友愛」については、ブルジョワジーと「第三階級」との対立を解決しない限り、誰の眼にも見えるものにならないわけです。

この点を鋭く衝いたのがバブーフの一派でした。
フランス革命後のジャコバン党の独裁政治が倒されはしたものの、新興ブルジョワジーと「第三階級」との格差は広がる一方でした。これに危機感を抱いたバブーフの一派は、「平等」を掲げて、「第三階級」の地位向上を企てましたが、敢え無くその狙いはつぶされました。「バブーフの陰謀」と呼ばれる事件です。

「バブーフの陰謀」に関する日本語の文献は次の通りです:
柴田三千男『バブーフの陰謀』、岩波書店
平岡 昇『平等に憑かれた人々-バブーフとその仲間たち-』、岩波新書

長らく気になりながら確かめられなかったバブーフの一派の思想を、今年になって、ようやく知ることができました。平岡によれば、バブーフの一派の思想は、主にルソーの『人間不平等起源論』と『社会契約論』に拠ったものであり、いずれも小農民出身の論客による、新興ブルジョワジーと「第三階級」との「平等」を目指すものであり、カール・マルクスより以前の初期社会主義の萌芽であったそうです。

「平等」を目指す運動は、以後、19世紀から20世紀にかけて連綿と続きますが、なお、解決することなく21世紀にまで持ち越されています。わが国でも、鳩山内閣が公表したわが国の「貧困率」の高さが衝撃を与えました。突然、バブーフを思い出したのも、そのようないきさつがあってのことでした。 (2010/3)


EUとユーロの実験

2010-12-03 08:28:24 | 歴史文化論の試み

さて、現在のヨーロッパで最も注目すべきは、EUとユーロの行く末だろう。

1993年に発効したマーストリヒト条約によって誕生したEU(欧州連合)は、初めの「西欧諸国の連合」の性格を脱皮して、今や、27ヵ国が加盟する大連合に成長した。歴史・文化・言語・通貨が異なる国々がこれほどまで連合を組むとは予想できないことであった。

また、2002年には、欧州統一通貨として、「ユーロ」が発行され、EU加盟国のうち16ヵ国がユーロを採用し、ほかにも6ヵ国がユーロを導入している。「ユーロ」は、今や、ドルに次ぐ「第二の基軸通貨」と評されるまでになった。これもまた、大規模な通貨統合が実現するとは夢にも思わぬ出来事だった。

だが、統合地域が巨大化し、統合通貨が拡大するにつれて、その中で、歪みが否応なく露呈してくるのは避けられない。それは、EU内やユーロ圏内における国ごとの格差として現われる。上部に、旧「西欧」諸国が、そして、下部に、周辺の北欧・東欧・南欧諸国が、という二重構造が出来上がってくる。

そして、EUやユーロの安定を脅かしたのが、アイスランドに始まる周辺諸国であった。ギリシア、ポルトガル、ハンガリー、最近のアイルランド・スペインに見られるように、いずれも経済基盤の弱い国々が財政不安・金融危機・通貨不安の波に洗われた。これを解決するのは並大抵の努力では無理かもしれない。

改めて、EU統合と通貨統合の理念に各国が立ち返ることが求められる。それは何か、に答えることはできない。ただ言えるのは、現代のEUの実験・ユーロの実験は、はるか昔の中世期に、大西洋・地中海・カスピ海がとりまく広大な地域を「ヨーロッパ」として霧の中から浮かび上がらせた歴史的経験の再生のはずだ、ということだ。 (2010/11)

中国の憂鬱

2010-11-17 06:41:11 | 歴史文化論の試み
APECが閉幕した。そこに集った各国首脳の中で、中国の胡錦濤国家主席の表情が硬く、その挙措動作があたかもロボットのように見えた。ここに中国の置かれた現在の立場が現われている。

中国は、日本との間に尖閣諸島の領土紛争を抱えているのみならず、同じように南シナ海で、ベトナム・インドネシア・フィリピンなどの国々の漁船を拿捕したりして、物議を醸している。また、領土紛争にからめて、レアアースの輸出制限措置を発動して、全世界の批判を浴びるに至った。

本当に中国と付き合っていて大丈夫か、と思う人が増えている。

中国を理解するためには、その歴史を振り返る必要があろう。

第一に、清朝までの王朝が育んだ「中華思想」がある。中国優越思想だ。この残渣が現代まで尾を引いている。

第二に、アヘン戦争に象徴されるように、十九世紀の欧州・米国・日本の植民地主義に蹂躙された苦い記憶が中国にはある。ナショナリズムを長い間鬱屈させてきたのだ。

第三に、中華人民共和国の成立に伴い、共産党主導国家として現在に至っている。国民を掌握すべきだというプレッシャーに縛られている。

そして、第四に、近年の急速な経済成長とそれに伴う格差の拡大が挙げられる。経済大国への変貌に、国家としての品格や国民性の成熟が追いつかなくなっているのだろう。

このように、中国の歴史的経験を振り返ると、現在の中国が、国権と民権の相克、排外的対外観との格闘、その中での民心掌握への腐心などに翻弄されているのがよくわかる。胡錦濤主席の硬い表情からそのようなことが窺えた。 (2010/11)

歴史の転換期

2010-10-05 07:35:16 | 歴史文化論の試み
(1) 転換期の認識の難しさ

私たち一人ひとりは日々生活を営んでいます。この一人ひとりの日々の営みが集積して、地域の・国の・世界の歴史を形作ることは、観念的には理解できても、なかなか実感できるものではありません。

私自身の経験を振り返ってみます。戦後、わが国が貧乏国として出発し、わが国の工業製品の粗悪さが世界的に喧伝された期間が長く続きました。ところが、衣類・自動車・電器製品などの品質が飛躍的に良くなり、わが国は世界に名だたる製品輸出国に変貌していました。しかし、その中を生きてきたはずの私に、わが国がいつ「豊かな国」に転換したのか、の認識がありません。

歴史の転換を確認するためには、少し引いて高みから世界を見る必要があるのでしょう。また、少し時間を隔てないと、歴史の転換をつかまえるのが困難だ、ともいえます。同時代の歴史を語る難しさはここにあります。

同じようなことが、現在も起きつつあるように思います。

世界的に、中国の存在感が増しています。GDP(国民総生産)は、アメリカに次いで世界2位になろうとしています。わが国の製品輸出先も、従来のアメリカに加え、中国が飛躍的に伸びています。アメリカと中国の二国を指して「G2」という呼び方も生まれています。

ところが、当事者の中国の人たちには、自国が大国に変貌しつつある、という認識がないようなのです。二酸化炭素の排出量で、中国は、アメリカ・インドと並んで三大国といわれています。ところが、中国は、自国は「途上国」だから、「先進国」並みの排出削減の議論は妥当でない、と主張しています。

また、北京オリンピックや上海万国博覧会を開催するほどになったにもかかわらず、中国の人たちの公衆道徳は最低レベルです。これは、外から見られる・評価されることに無関心だということの表われのように思えます。

おそらく、中国の人たちは、自国が「大国」化しつつあることを自覚していないのでしょう。 (2009/11)

昨今起きた尖閣諸島沖の中国漁船の体当たり事件をめぐる中国政府と中国国民の反応を見ると、「中国の人たちは、自国が『大国』化しつつあることを自覚していない」というのは間違いで、「中国の人たちは、『大国』化しつつある中で、国際社会でどう振舞うべきかの訓練を受けていない」と言い直すべきでしょう。 (2010/10)

(2)戦後史の転換期

同時代史をその渦中で把握することの難しさを述べました。

さて、世界規模の大戦が終わった1945年以降を仮に「現代」と呼ぶとして、この60年余の期間に「歴史」を読み取れるでしょうか? さすが60年は長く、その期間を引いて眺めると、歴史の変遷が見てとれます。

地域の歴史・国の歴史だけでなく、世界規模の歴史の「転換」を考えると、政治・経済・社会の各面で大きなメルクマール(標識)となるような出来事が見出されなければなりません。その観点で1945年以降の歴史をたどると、1968年と1989年に歴史の「転換」点があるのではないか、というのが私の見解です。これはあくまで私の私見で、人それぞれの見解が分かれても一向に構いません。

1968年は、世界的規模で「学生の反乱」が吹き荒れた年です。
フランスではパリ市街を学生が占拠しました。鈴木道彦は『異郷の季節』(1986年、みすず書房、*)でパリの「学生の反乱」を活写しています。
アメリカでも、映画『いちご白書』に描かれたように、「学生の反乱」が燎原の火にように広がりました。
わが国では、東京大学の安田講堂占拠事件など、やはり、「学生の反乱」が世間の耳目を引きました。

いずれも、既存の秩序の正当性を問う行動であったことが共通しています。

1989年は、いうまでもなく、「ベルリンの壁」の崩壊した年です。それまでの東西冷戦体制が崩壊し、社会主義体制を信奉してきた人々が深刻な挫折感を味わったことが特徴的です。以後、アメリカを中心とした体制が世界を支配するかに見えました。

しかし、経済面では、1985年の「プラザ合意」により、世界通貨としてのドルへの過度の依存が否定されたことにより、アメリカ中心の世界経済体制にひびが入り始めました。

このような文脈で見ると、今年2009年は、新たな現代史の「転換」点かもしれないという思いにとらわれます。
昨年2008年秋の「リーマン・ショック」に端を発する世界的信用経済の破綻は、ドルへの信任を低下させ、今やドルの基軸通貨としての地位がゆらいでいます。

政治面では、アメリカの一国主義はすでに行き詰まりました。アメリカ・ヨーロッパ・アジアがそれぞれ対等のパートナーとして、政治面でも経済面でもそれぞれの役割を担っていくべきことが明らかになりつつあるといえます。  (2009/12)

(3)20年周期の転換期

現代史の「転換」のメルクマール(標識)として、以下の年を仮説として提示しました:

1945年(第二次世界大戦の終結)
1968年(世界的規模で「学生の異議申し立て」)
1989年(「ベルリンの壁」の崩壊)

このように並べると、奇しくも、約20年ごとに、現代史の「転換」が起きていることになります。これが偶然かどうか、判断する材料はありません。仮に、「20年ごとの転換」説に乗ると、次の「転換」期として、2008年または2009年が当たっても不思議ではありません。

2008年(「リーマン・ショック」)

経済面のみならず、政治面でも、2008年に、アメリカにオバマ大統領が誕生し、アメリカの世界一極支配体制を見直す機運が生じています。

また、そのお相伴に預かる形で、わが国でも、2009年の本格的な「政権交代」が実現しました。先日まで続けられていた国の「事業仕分け」の光景がその象徴でした。

この中ではっきりしたのは、わが国の官僚がいわれてきたほど「有能」でないことでした。政策にはまだ素人の民主党議員や民間仕分け人の質問にまともに答えられないのを見て、多くの国民は、官僚たちが国民向けにその「有能さ」を発揮してきたのではない、ということを理解しました。

明治政府以来の「官僚制」の崩壊が現実化したという点では、2009年はわが国にとって、「大転換」の年となるという予感がします。これは、私たちにとって、稀有の経験となるでしょう。  (2009/12)

(4)未来の転換期の予兆

現代史を20年きざみで見るという見方はなかなか便利です。これからは、これから100年の未来史について、同じく20年きざみでどのようなことが起こり得るか、予測してみましょう。

1 世界の主導権争い
 1-1 アメリカの相対的地位の低下
 1-2 アジアの存在価値の向上
1-3 核の拡散と廃絶との争い
1-4 基軸通貨は、ドルの一極制からドル・ユーロ・元の多極制へ

2 グローバル化
2-1 経済のグローバル化
2-2 国境の存在意義の低下

3 格差
 3-1 地域間格差の是正へ
 3-2 貧富間格差の是正へ

4 地球環境問題
 4-1 先進国での取り組みが急ピッチに
 4-2 途上国での取り組みも「待ったなし」に

以上が大雑把に見たこれからの世界の変動要因ですが、それぞれの項目の「転換」が、いつ、どのような形で現われるかについては、さらに考えることにしたいと思います。 (2009/12)

(5)成長の尺度

これから100年の間に起こると予想される事態はまだほかにもあります。

5 価値観の変化
 5-1 個人の価値観の多様化
 5-2 国家観の変貌

個人のレベルでは、今でも、経済的豊かさを第一に追い求めるか、家族の絆の深さを何よりも大事にするか、人様々です。

一方、国家観となると、非常に貧しい国家観しかないのが現状です。すなわち、国民総生産(GNP)至上主義が全世界を支配しています。中国がもてはやされているのは、他国が経済の停滞に苦しんでいる時に、依然として、年10%前後の経済成長率を維持しているというのが理由です。

しかし、先進国は、これからの中国を含め、まもなく際立った経済成長は望めなくなる、というのが私の予測です。経済成長率が高いから素晴らしい、経済成長率がゼロだから困ったことだ、という考え方を克服することが必要になってきます。そのためにどうするか?

一つの仮説を提示しますと:

国を測る尺度として、経済成長率(それもあって構わないのですが)のほかに、国民が生活にどれだけ満足しているかという尺度をもう一つ設定するのはどうでしょう? それを、仮に、国民総満足度(GNS=Gross National Satisfaction)と呼んでみます。

ある国は、現在のように、経済成長の高さがGNSに直に反映している、と主張します。
ある国は、他国への援助の多さがGNSの大きな要素である、というかもしれません。
また、ある国は、生活程度は高くなくても、部族間の対立もなく、平和に生活するのが、GNSの指標になる、というかもしれません。

そう、GNSにどのような要素を含めるかは、国それぞれで違いがあって不思議でありません。また、年々要素が変わっても構いません。

そのようにして、国ごとに、自国のGNSを定義して、そのGNSの成長率を測り、国際的な場でそれを発表する習慣が出来上がると、各国の他国を見る眼が変わってくるのではないでしょうか?
国によって価値観が多様であることを国同士で認め合うことができれば、それは素晴らしいことです。「そんなの『夢物語』だよ」と一笑に付されてしまうかもしれませんが。 (2009/12)

鶴見俊輔『思い出袋』

2010-10-03 09:48:28 | 歴史文化論の試み
鶴見俊輔『思い出袋』(2010年、岩波新書)を読んだ。
最近7年間の短文をまとめたもので、82歳-89歳の文章だ。

以前、「私のバックボーン」というコラムの中で、次のように述べた。
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鶴見俊輔。私の最も尊敬する哲学者です。アメリカの分析哲学から研究生活を始めたようですが、これはよく分かりません。本人も分からないようですから気にすることはないでしょう。
目線の低さが誰も真似できないところです。庶民・常民・おばさん・がきデカ、誰とでも意見を交わすことができ、誰からもそのいいところを吸収できるという特技は余人を許しません。戦後、雑誌『思想の科学』を興し、「限界芸術」(専門家でないものによる、芸術か芸術でないかはっきりしないような芸術)論を唱え、漫画を読んで「ムフフの哲学」を唱えたのも、目線の低さの然らしめるところでした。『鶴見俊輔集 全17巻』(筑摩書房)と『鶴見俊輔座談 全10巻』(晶文社)は(アメリカの分析哲学を除いて)読破しました。
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今回の著作では、鶴見の育った環境だとか依拠する信条とかがよくわかる。

その1。
鶴見は、小学校・中学校では不良学生で、中学校を放校される。圧倒的な母親の権威に強く反発したのが原因だ。

その2。
政治家の父親(鶴見祐輔)の手配で、中学校を放校された鶴見はアメリカに渡り、ハーヴァード大学に入学して、アメリカ分析哲学を専攻する。小学校・中学校の不良学生とのギャップには驚くばかりだ。

その3。
日米開戦に伴い、アメリカの捕虜となり、日米捕虜交換船で帰国する。

その4。
海軍に入り、インドネシアのバタヴィアで通信兵として過ごす。カリエスの病を得て、内地送還。

以上が20歳代半ばまでの、鶴見の履歴だ。
この間に、アメリカに対する見方を育み、日本に帰るかどうかで悩み、日本の軍隊に対する見方を勉強し、敵を殺す命令に従うかどうかで悩み、というような経験をする。

これらの経験が、戦後の鶴見の活動(『思想の科学』誌の創刊、アメリカ軍脱走兵をかくまう運動への加担、など)を規定したということがよくわかる。

鶴見の文章は断片的で、時に、読んでとまどうことがあるのだが、今回は、短文の中に、断片的な文章がピタリとはまっている印象を受ける。 (2010/10)


歴史文化論の試み

2010-09-25 07:17:19 | 歴史文化論の試み
ブログのタイトルが「歴史文化を読み解く -民族・宗教・エコロジー・芸術-」で、自己紹介の欄に「とくに、中世以降の『文明の衝突』と十九世紀以降の『文明への懐疑』に興味があります。」と謳っているわりには、その香りが乏しいのではないか、というお叱りが聞こえてきます。ここで、関心のありかを説明したいと思います。

* * * * *

まず、「歴史文化」ですが、このことばは一般に「文明」と称されるものとほぼ同じものを指しています。「文明」ということばを使わないのは、このことばが新興宗教の雰囲気を帯びているためです。

古代から連綿と続く歴史文化。その古い部分は「世界遺産」として世界的に認知されています。そのグローバルな広がりは驚くほどで、地球上のあらゆる地域で、歴史文化が興り、その多くが廃れています。古代の歴史文化は自然と闘い敗れて廃れていったものが多いのはやむを得ないところです。砂漠や山上や水辺に世界遺産が分布していることが古代の歴史文化の特徴を表わしています。しかし、私の関心はあまりここにはありません。

中世に入り、民族の移動が繰り広げられるようになりました。その最も大規模な例はシルクロードでの東西文明の交流でした。そこでは、民族間の交流とともに対立も起こりました。また、民族間に加えて宗教間の交流・対立が台頭してきます。その最大の例が、イスラム社会とキリスト教社会との交流・対立でした。地中海をベースにしたイスラム社会とキリスト教社会との交流・対立は「文明の衝突」として広く知られています。

スペインのアンダルシアとポルトガルで見た中世の遺構(城砦や教会)は「文明の衝突」の跡を如実に示していました。また、スペインのパラドールやポルトガルのポーサーダなどの宿泊施設は、中世の遺構を利用した趣のあるものです。
イスラム社会とキリスト教社会との交流・対立が現代にも微妙な影を落としていることは、アフガニスタンやイラク・イランをめぐるアメリカ合衆国などの外交政策に照らすと明らかです。関心を寄せざるを得ない所以です。 

16世紀はキリスト教社会の中における宗派間の対立(宗教戦争)で彩られています。その細かいことはよくわからないので、あまり関心がありません。

17世紀の産業革命以降、大量生産に伴う格差社会の発生がイデオロギーの対立を生み出していきます。さらに19世紀に顕著になった大量消費の風潮は歴史文化に対する深刻な懐疑を生み出していきます。

イギリスの思想家ウィリアム・モリス William Morris は、このような大量生産・大量消費への反発を思想化しました。彼は、社会主義の教導者として名を成しただけでなく、手作りの工芸運動 Arts and Crafts や印刷出版運動 Kelmscott Press により、大量生産・大量消費ではない「もう一つの道」を実践して見せました。

モリスの「もう一つの道」はユートピア探しとしても表現されました。トーマス・モアの『ユートピア』以来、現世に欠けた理想の社会をユートピアとして構想する動きが陸続として興りますが、モリスは『ユートピアだより News from Nowhere 』という名の書物で彼の理想郷を描きました。モリスのユートピアは、ラファエル前派に似て、中世への里帰りの感がないこともありません。
モリスの書物のタイトルからわかるように、ユートピアとは「どこにもない理想郷」です。逆にいえば、理想の社会を手に入れてしまうと、その社会はユートピアではありません。そういう本質的矛盾を
「ユートピア」は秘めています。

19世紀以降、思想家以外にも、ユートピアを求める集団が数多くありました。とくに、芸術家や宗教集団がユートピアを目指しました。一般に「コロニー」と呼ばれる根拠地に拠った人たちで、すでに私のブログに登場したヴォルプスヴェーデに拠った芸術家集団は一つの典型です。彼らは大量生産・大量消費に順応できない純粋な人たちでした。わが国では、武者小路実篤の提唱した「美しい村」が一つの「コロニー」といえるでしょう。

宗教集団でいえば、これは20世紀になりますが、ガイアナの人民寺院のようなカルト集団の中に極端な形のユートピア願望が見られます。わが国にあてはめれば、山梨県上九一色村にこもったカルト集団でしょうか。 

19世紀以降の「文明への懐疑」は自然との付き合い方の反省をももたらしました。アメリカのヘンリー・D・ソロー Henry D. Thoreau はウォールデン湖畔の小屋で一人暮らしをしながら、人間と自然、自然の摂理、自然と経済、などに関する思索を『ウォールデン-森の生活 Walden ; or, Life in the Woods』にまとめて発表しました。
ソローはアメリカにおける自然保護思想の始祖といわれますが、ソロー以降も、ジョン・ミューア、セオドア・ルーズベルト(大統領)、レイチェル・カーソンなどなど、自然保護の伝統はアメリカに息づいています。しかし、その自然保護思想と19世紀の西部開拓史とはどう整合するのでしょうか? アメリカについての疑問の一つです。

19世紀から20世紀にかけての歴史文化を俯瞰する上で、エコロジー思想とともに重要なのがジェンダーの思想です。何しろ、20世紀も終わろうとするときになって、「男女共同参画」を施策として打ち出す国があるほどですから。
ジェンダー思想の源流は18世紀イギリスのメアリー・ウルストンクラフト Mary Wollstonecraft の女性解放思想に求められるかもしれません。以来、女性の従属状態の改善と、男女の性差に基づく不平等の解消に、19世紀から20世紀までの200年を要したというのが実情です。シモーヌ・ド・ボーヴォワールのいう『第二の性』はこの問題の根本を衝くことばです。

これまでの文明が産業の発展を推進力にした工業文明であったのに対して、現代を情報のネットワーク化を基盤にした情報文明だと捉える見方があります(公文俊平『情報文明論』など)。確かに一理ある現代歴史文化の捉え方ですが、議論が拡散してしまいそうなので、ここまでは踏み込まないつもりです。

問題は「その先」に何を見通すか、にあります。
例えば、情報のネットワーク化の先には、均質化した人間群が生まれるのか、また、それが幸せなことなのか、という疑問が生じますし、情報のネットワーク化の暁には、国家とか国境とかにどういう意味が残るのか、という難問が立ちふさがります。 

* * * * *

というわけで、人類の歴史文化を縦に読み解く上で、「民族・宗教・エコロジー・芸術」をキーワードにしていきたい、というのがとりあえずの私の「関心のありか」です。風呂敷が大きすぎることは承知しています。また、この風呂敷でも包みきれないテーマが多々出現しそうなことも予感していますが、まずはこれで出発してみようと思います。 (2006/7)

私のバックボーン(現代日本人編)

2010-09-23 07:22:15 | 歴史文化論の試み
歴史文化論を始めるにあたって、私の「関心のありか」を説明してきましたが、これから、私の歴史文化論を支えるバックボーンを明かしたいと思います。

話を広げると、古今東西すべてにわたって、影響を受けた人、ためになった人、気になる人、を挙げていかねばなりませんので、際限がありません。そこで、ここでは、現代日本人に絞って、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を挙げたいと思います。すでに亡くなった人も含みますが、戦後に活躍した・または現在も活躍している、ほぼ同世代の人たちです。

(1) 思想分野

まずは加藤周一。西洋・東洋・日本の文化に普く通じている評論家です。「近代日本の文明史的位置」「芸術の精神史的考察」など、私の問題関心にフルに重なる仕事を残しています。ただし、私はまだ加藤周一を十分読みこなしていません。これから、「加藤周一著作集 全24巻」、平凡社、を精読したいと思います。

鶴見俊輔。私の最も尊敬する哲学者です。アメリカの分析哲学から研究生活を始めたようですが、これはよく分かりません。本人も分からないようですから気にすることはないでしょう。
目線の低さが誰も真似できないところです。庶民・常民・おばさん・がきデカ、誰とでも意見を交わすことができ、誰からもそのいいところを吸収できるという特技は余人を許しません。戦後、雑誌「思想の科学」を興し、「限界芸術」(専門家でないものによる、芸術か芸術でないかはっきりしないような芸術)論を唱え、漫画を読んで「ムフフの哲学」を唱えたのも、目線の低さの然らしめるところでした。「鶴見俊輔集 全17巻」、筑摩書房、と、「鶴見俊輔座談 全10巻」、晶文社、は(アメリカの分析哲学を除いて)読破しました。

丸山真男。有名なエリート政治学者です。「幕末における視座の変革」「超国家主義の論理と心理」など、政治状況の分析に卓抜した才能を発揮しています。私は彼のレトリックの巧みさに惹かれます。「丸山真男集 全17巻」、岩波書店、は読破しました。「丸山真男座談 全10巻」、岩波書店、「丸山真男講義集 全7巻」、東京大学出版会、「丸山真男書簡集 全6巻」、みすず書房、が残っていますが、読み通す時間があるかどうか? (2006/8)

(2)芸術分野

吉田秀和。大学時代に音楽好きの友人がほれ込んでいました。その頃は、私は映画に夢中でしたし、その後は演劇に興味が移行していましたので、私が吉田秀和を読み始めたのはずっと後です。そして、初めて、音楽(作曲と演奏)を批評する方法を教えられました。クラシック音楽を素人にもわかるように解いてくれます。また、美術評論も分りやすく、私は重宝しています。「吉田秀和全集 全24巻」、白水社、を読みました。

美術の分野では、残念ながら、これという大物に出会いませんでした。オランダ・フランドル美術については土方定一、イコノロジーについては若桑みどり・辻佐保子など、個別のテーマについては学ぶべき人がいますが、美術全般について意見を傾けるべき人は見当たりません。美術評論家の多くが、講壇的・権威主義的色合いが強くて、ついていけません。むしろ、専門外の吉田秀和の
発想に共感します。「調和の幻想」「トゥ-ルーズ・ロートレック」「セザンヌ物語」など。

木下順二。「夕鶴」など民話を題材にした戯曲から、現代史に題材をとった重厚な戯曲まで、圧倒的な存在感があります。「山脈」「蛙昇天」「沖縄」「オットーと呼ばれる日本人」「白い夜の宴」「審判」などは、劇場で見ました。
オーソドックスな作劇法で、その後の唐十郎・野田秀樹・寺山修司などとは、自ずと別の立場に立っています。

佐藤忠男。鶴見俊輔と「思想の科学」つながりの映画評論家です。蓮見重彦などには評判がよくありませんが、私は佐藤忠男を支持しています。初期の「斬られ方の美学」から近作の「日本映画史」まで、評論の質・量とも圧倒的です。溝口健二・黒澤明・小津安二郎・木下恵介・今村昌平・大島渚。この6人のモノグラフをすべて物した映画評論家がほかにいるでしょうか?
教育評論にも活躍しています。  (2006/8)

(3)創作分野

埴谷雄高。最近「死霊」を読み終えました。良くも悪くもこの小説の中に、埴谷宇宙学のすべてが凝集されています。「虚体」「自同律の不快」「死滅する国家」などなど。最初に読んだのは、「兜と冥府」「鐘と蜉蝣」など奇妙なタイトルのついたエッセー集でしたが、そこで語られていたことが、そのまま小説「死霊」にも現われていることは現代の不思議の一つです。

大江健三郎。「個人的な体験」以降のファンで、ほぼ全点読んでいると思います。「洪水はわが魂に及び」「万延元年のフットボール」などがお気に入りですが、その後時々現われる私小説もどきの作品は支持しません。

井上ひさし。小説・エッセー、どれをとっても面白いこと請け合いです。劇作家としても一流で、多作であるにもかかわらず、遅筆で演劇関係者に迷惑をかけることがしばしばあるのは解せません。

井上光晴。胡散くささ一杯の小説家です。登場人物のネーミング(紙咲道夫少年など)の特異性、フォークナーばりの3場面同時進行の小説つくり、などに特徴があります。多作で本も多く出版された割には人気がありませんでした。いまでもありません。ある出版社から、娘の井上荒野と同時に本を出すことになり、井上荒野は初刷5000部だったのに対し、井上光晴は初刷2000部だったというエピソードを、井上荒野が「ひどい感じ 父・井上光晴」、講談社、で紹介しています。私の推測ではもっと少なく、1500部程度だったのではないかと思っています。

ほかに、木下順二の劇作がありますが、上で触れました。

以上、思想分野・芸術分野・創作分野で、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を10人挙げました。私の思想形成のバックボーンとなっている人たちです。  (2006/9)


私のバックボーン(近現代外国人編)

2010-09-21 07:25:09 | 歴史文化論の試み
私の歴史文化論を支えるバックボーンを、現代日本人と近現代外国人に分けて紹介していますが、今回は、19世紀以降の近現代外国人に絞って、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を10人挙げたいと思います。並びは生年順です。

(1) ヘンリー・D・ソロー(1817-62)
近代の歴史文化に対して深刻な懐疑を抱き、その思索を日記や紀行文などで表現した19世紀アメリカの思想家です。後述のウィリアム・モリスとともに、「ソローとモリス-共通する側面」と題するコラムで紹介しました。
http://blog.goo.ne.jp/ozekia/e/5612eda87827e744eb57e71d867eb1b4

(2)ドストエフスキー(1821-81)
とても読んで面白いロシアの大小説家です。長編が多いのですが、彼の長編小説をスラスラ読めるかどうかが、身体と精神の健全さの「リトマス試験紙」になっているように思います。私は、小沼文彦訳で読みました。

最近、亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」(古典新訳文庫、光文社)が話題を集めました。「BIBLOSの本棚」に置いていたのですが、すぐに誰かに求めていかれました。新訳の玩味はしばし「お預け」です。

(3)ウィリアム・モリス(1834-96)
モリスは、生涯の前半では、画家の道を捨て工芸家になることで深刻に悩み、妻とダンテ・ガブリエル・ロセッティとの間でやはり深刻に悩み、生涯の後半では、社会主義グループ内の抗争や覇権争いに深刻に悩みました。
しかし、彼の生涯は悲劇性を伴いません。そこが気に入るところです。
 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/e/5612eda87827e744eb57e71d867eb1b4   

(4)魯迅(1881-1936)
近代中国が外国の列強の植民地になってしまったことを強く悲しみ、その憤りを文学と評論で表現したのが魯迅です。

現在の上海・魯迅公園は、お年寄りと熟年おばさんの社交場となっていて、中国将棋(象棋)指す人たち、ダンスに興じる人たち、などが見受けられますが、そこから、19世紀後半から20世紀にかけて、独立の精神を自虐的に訴えた魯迅の面影を探すことは難しいようです。

(5)ベルトルト・ブレヒト(1896-1956)
ドイツの劇作家です。近代演劇を超越した劇作法を何に例えたらいいのか、と考えるのですが、あるいは日本の能に類似点を見出せるかもしれません。

「場の聖ヨハンナ」「おさえればとまるアルトゥーロ・ウィの興隆」「コーカサスの白墨の輪」などを日本の新劇の劇団が演じるのを観ました。いずれも新劇くささに染まってはいますが、ブレヒトの象徴性・狂気性などはひしひしと伝わってきました。ブレヒトは間違いなくシェークスピア以来の演劇の鬼才です。

(6)ジャン・ポール・サルトル(1905-80)
大学生になってから、人文書院から出ていたサルトル全集をよく読みました。主に、小説・戯曲・評論で、哲学にまでは及びませんでした。「存在と無」・「弁証法的理性批判」などは読み残しです。また、フローベール論「家の馬鹿息子 全3巻」は読む機会はないでしょう。

知識人の政治参加・社会参加(アンガージュマン)がもっともわかりやすいサルトル像ですが、晩年のマオイスム(毛沢東主義)への傾倒は理解を超えています。  

(7)ジャクソン・ポロック(1912-56)
アメリカの即興主義の画家です。
大きな画布の上にまたがって絵具をたっぷり含んだ絵筆を自在に振り回すポロックを写真で見ましたが、そこから生まれる絵はみずみずしい精気をたたえています。本当に奇跡のような画家です。

ポロックの画法が誰から受け継いだものなのか、また、誰がそれを受け継いだのかわかりませんが、少なくとも、アンディ・ウォーホルとは異質だと想います。つまり、ウォーホルにある一種の「てらい」はポロックにはありません。

(8)マルグリット・デュラス(1914-96)
現代フランスの小説家で、映画のシナリオや監督、戯曲なども手がける多才な人です。私の最も好きな作品は「太平洋の防波堤」で、十代に過ごしたベトナムでの経験を織り込んだ小説です。
「愛人」が大ベスト・セラーになりましたが、その背景にあるのが若い男との性愛であることはよく知られています。彼女は齢を重ねてからアルコール中毒に悩みました。

実は、デュラスとサルトルには共通点があると私は考えています。
・アルコール中毒(デュラス)と大食い(サルトル)
・異性との交遊ぶり
・戯曲への偏愛ぶり、など。

(9)ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007)
アゼルバイジャン(旧ソ連)出身のチェリスト・指揮者。
今年4月に亡くなった際に、ブログに以下の追悼文を載せました。
 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/e/a9eb73184c2d0dee6edf331f5c6cd67b

ロストロポーヴィチは、はっきりとした日付を覚えていませんが、1959年(昭和34年)ごろ、レニングラード交響楽団のソリストとして、初来日しました。指揮者も記憶にありませんが、東京・新宿のコマ劇場で公演したことは覚えています。私は、そのコンサートを聴いています。誰かから入場券を譲ってもらったのでした。ロストロポーヴィチの演奏した曲目も定かではありませんが、懐かしい思い出です。

(10)フランソワ・トリュフォー(1932-84)
映画人から一人挙げるのはなかなか難しく、ヌーヴェル・ヴァーグの代表としてトリュフォーを挙げることにしました。ジャン・リュック・ゴダール、クロード・シャブロルと並んでヌーヴェル・ヴァーグの旗手といわれますが、三人の映画手法はまったく異なります。ゴダール=破壊的・前衛的、トリュフォー=伝統継承的かつ前衛的、シャブロル=伝統継承的かつ家族的、という違いがあります。

トリュフォーの映画では、カメラは流れるように、シークエンスも流れるように、主題も家族・仲間・同志などが多いのが特徴です。代表作を一作だけ挙げるのは難しく、「突然炎のごとく」「アメリカの夜」「ピアニストを打て」「華氏451」などみな傑作です。
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以上、近現代の外国人で、影響を受けた人、ためになった人、気になる人を10人挙げました。私の思想形成のバックボーンとなっている人たちです。 (2007/11)



森 有正のこと

2010-04-13 04:18:27 | 歴史文化論の試み
(1)その1

「BIBLOSの本棚」から、『森有正全集 全14巻+補巻+対話篇2巻 全17巻』を求めていかれた方がいる。感慨ひとしおだ。この機会に、森 有正について、覚えていることを記しておこう。

森 有正(1911年-1976年)は、明治政府の文部大臣を勤めた森 有礼(もり・ありのり)の確か孫にあたる。(以後、「確か」とか「らしい」とかいうことばが頻出するが、その理由は後ほど述べる。)

森は東京大学を出て、母校の確か文学部フランス文学科で教鞭をとりつつ、デカルト・パスカルの哲学の研究を行っていた。その過程で、エリート学者の通例通り、フランスに留学することになる(1950年)。確か助教授の時だった。

ところが、フランスに留学した彼は、留学期限が過ぎても、日本に帰らなかった。
日本には、確か奥さんと娘さんを残したまま、彼は、フランスに留まった。
やがて、彼は東京大学助教授を辞職するか除籍されるかして、文字通り、フランスで一人生活することになる。以後、高名なフランス哲学者としては気に染まぬような仕事で糊口を塗すこともあったらしい。

そして、10年が経過した。この間に彼の書き溜めた手紙と日記が少しずつ発表されて、森 有正の名がわが国に甦った。『バビロンの流れのほとりにて』『流れのほとりにて』『城門のかたわらにて』などの著作である。

これらの著作は、哲学者のものと見ると物足らないところがあるが、異国で一人生活しながら思索を紡いだ結果と見れば、新鮮な驚きを呼び覚ますものであった。わが国の読書界は森 有正を歓迎した。 

こうして、わが国の読書界に確固たる地歩を築いた森 有正は、短期間、日本への帰国を重ねるようになる。1960年代のこと。それに合わせて、雑誌『展望』などに感想を寄稿するようになる。『遥かなノートル・ダム』『旅の空の下で』『木々は光を浴びて』『遠ざかるノートル・ダム』などにまとめられた著作である。私が森 有正に関心を寄せ始めたのはこの頃のことだ。

これらの著作は、前記の日記の延長線上にあるものであり、とくに、生活者の「経験」と「感覚」を重視する点が共通している。

以後も、短期間の日本帰国を重ねるとともに、日本の大学に奉職する話も具体化していたらしい。しかし、それが実現する前に、フランスで帰らぬ身となった。実に、フランス滞在26年に及んだ。

森 有正の死後まもなくして、彼の全集が編まれた(1978年-1982年)。全14巻+補巻のもので、彼の著作のほぼすべてに加え、未発表の日記も発表された。
ところが、この全集には不思議なことが一つある。それは、「年譜」がないのだ。
通常の個人全集では、詳細な「年譜」が付いていて、それにより、その人の生涯をたどれるのだが、森 有正の全集には「年譜」がない。

もともと、その行動からも推測できるように、森 有正には、自己神秘化(ミスティフィケーション)の趣きが少なからずあり、彼は、自己の個人的な事柄を公にすることを極端に嫌ったらしい。フランスに渡って日本に帰らない理由も口を閉ざしたままだ。おそらく、晩年になって、個人全集の話が出版社から持ち上がった際に、森 有正が「年譜」を付けないことを、希望したか、条件にしたか、したのだろう。

森 有正に関する著作をものにした木下順二・佐古純一郎・二宮正之・杉本春生・辻 邦夫・栃折久美子なども、揃って、森 有正の伝記的事実には目を向けていない。
初めに、森 有正の伝記的事実について、「確か」だとか「らしい」とかいう表現が多くなると述べたのは、森 有正の「年譜」がないのがその理由である。

さて、森 有正は、晩年になって、知人に、「(デカルトかパスカルかの)研究の決定版を書き終えた。まもなく印刷に回せるだろう。」と話していたそうだ。ところが、彼の死後、遺稿などを整理しても、デカルトもパスカルもどこにも見当たらなかったという。どうやら、森 有正一流の虚言壁で、周りは煙に巻かれたらしい。

『森有正全集 全14巻+補巻』(*)は現在絶版だが、『森有正エッセー集成 全5巻』(*)がちくま学芸文庫に収録されている。これは、1950年にフランスに渡って以降の著作・日記・書簡を編集したものである。ところが、こちらも絶版らしい。  (2009/10)

(2)その2

その後、「BIBLOSの本棚」から、『森有正全集 全14巻+補巻』(*)がさらに1セット、『森有正エッセー集成 全5巻』(*)も飛び立っていった。異様なほどの森 有正フィーバーだ。何か訳があるのだろうか?

インターネットで「森 有正」を検索してみると、思わぬことに突き当たった。今年9月に、NHK教育テレビの「NHK知る楽-こだわり人物伝」という番組で、『世界の中心で、愛をさけぶ』の作者・片山恭一氏が、森 有正のことを4回にわたって話したらしい。私は、このところ、新聞を購読していないので、テレビで森 有正が取り上げられていることを知らなかった。どうやら、この番組が、「遅れてきた森 有正フィーバー」の源のようだ。それにしても、片山恭一氏、恐るべし、だ。

前回、森有正全集に「年譜」がない不思議を述べたが、同じインターネット検索で、「CHEZ TAKAHASHI 高橋サンち」というホームページに出会い、その中で、「森有正略年譜」をまとめられているのを発見した。印刷したところ、7ページにわたる労作である。「CHEZ TAKAHASHI 高橋サンち」のご主人も、私と同じく、森有正全集に「年譜」がないことにいらだち、自分で「森有正略年譜」を作成することを試みられたのだろう。

それで、森 有正の伝記的事実が明らかになった。前回の私の記述に誤りや不十分な個所があることがわかったが、幸いなことに、「確か」とか「らしい」とか、確認できない事実はあいまいな表現にしておいたので、文章全般を書き直す必要はなさそうだ。改めて、「CHEZ TAKAHASHI 高橋サンち」のご主人にお礼を述べたい。

森 有正を論ずる著作では、海老坂 武『戦後思想の模索 森有正,加藤周一を読む』(1981年、みすず書房)が面白かった。1950年代から1960年代までの森の著作を読み込みながら、フランスと日本との間で格闘する知識人の営みを活写している。森 有正と加藤周一との共通項は、いうまでもなく、「留学体験」だ。森は留学先のフランスに留まる決意をし、加藤は長い留学の末、日本に帰ることを決意する。二人の結論の相違がどこからくるか、という点を海老坂は論じている。  (2009/11)


八月の鎮魂再び

2009-08-04 01:00:00 | 歴史文化論の試み
最高気温が35度を超えた日を「猛暑日」という。今は全国各地で猛暑日を記録しています。

1945年の夏、東京の皇居前広場の玉砂利に座って昭和天皇の「玉音放送」を聞いた人たちは、さぞ暑かったことでしょう。玉砂利から伝わる熱でやけどをする思いではなかったでしょうか。
現在、1945年の夏に皇居前広場に居合わせた人に、当日の記憶を尋ねたら、「玉音放送」の中身より、玉砂利から伝わる熱の方を鮮烈に思い出すのではないでしょうか。

さて、八月はわが国では死者を追悼する特別な月です。それに関連する本を読むのが、私の習わしとなっていて、昨年は「靖国問題」を取り上げました。今年は?

最近、アメリカの下院議会で、戦時中、日本が戦地で働かせた慰安婦(従軍慰安婦)の扱い方に問題があったとして、日本政府に謝罪を求める決議案が可決されました。このいわゆる「従軍慰安婦」問題については、村山内閣の河野洋一官房長官が謝罪の談話を発表していて、一部の人は「もう謝罪を済ませた問題をなぜ蒸し返すのか」と思っているようです。

ところが、問題は簡単ではありません。
背景には、戦時中のみならず、戦後も現在まで続く日本人による人権軽視の事実があるようなのです。最近では、国連が、日本の外国人労働者の受け入れに人権にもとる行為があると指摘したことがあります。

安倍首相は今年4月にアメリカを訪れ、「従軍慰安婦」問題についてはすでに日本政府として「謝罪済み」という根回しをしてきたというのですが、それをとらえたアメリカのメディアが「 Prime Minister’s Double Talk 」というキャンペーンを張りました。
Double Talk とは、辞書によれば、「(政治家などの使う)まことしやかなごまかし」です。
北朝鮮による「拉致」を糾弾する論調と、自国の人権問題への無関心ぶりとが調和していないという指摘なのです。

素人の目には、「謝罪済み」「解決済み」と繰り返すより、改めて、自分のことばで、日本の人権政策を述べて諸外国の理解を求める方がはるかにスマートだと思うのですが。
「解決済み」と言い張るのは、「拉致問題は解決済み」という北朝鮮の言い分と似たり寄ったりです。 

さて、「従軍慰安婦」問題について、2冊読みました。

 吉見義明『従軍慰安婦』、1995年、岩波新書
 千田夏光『従軍慰安婦<続篇>』、1978年、三一新書

この2冊は対照的です。

学者である吉見の著書は、「従軍慰安婦」問題を、歴史の事実を掘り起こすことで明らかにすることに力点が置かれています。慰安施設の設置にあたって日本軍の指示・指導がどのようにあったか、慰安婦はどのように集められたか、国際法に照らして日本軍が「従軍慰安婦」問題についてどのような責任を負うべきか、などです。

一方、ジャーナリストである千田の著書(これは、千田自身の前著『従軍慰安婦』の続篇という意味で、吉見の著書との関連はありません)は、慰安婦からの聞き書きや日本軍の軍人からの聞き書きから構成されていて、身につまされるものがあります。千田の筆致はやや乱暴で、吉見のような客観性に欠けるきらいがありますが、よくこれだけの聞き書きができたものだという思いもします。特に、日本軍の軍人からの聞き書きは貴重で、日本軍が「従軍慰安婦」問題にどれだけ深く関与していたかを明らかにしています。

これら2冊は、内容があまりに衝撃的で、ここで紹介するのをためらいます。吉見の著書は書店で手に入りますので、直接手にとってほしいと思います。
ここでは、両著から共通に導き出されることをわずかばかり記すと:
1.「従軍慰安婦」が、慰安婦の出身地の貧困や格差を負っていること
2.「従軍慰安婦」の中でも、出身が日本か朝鮮か中国かで取り扱われ方に差があったこと

現在、外国から研修の名目で受け入れた「研修生」を企業などで低賃金の「労働力」として働かせることが国際的に非難を浴びています。これらの外国人研修生は日本人労働者に比べて劣悪な労働環境を強いられています。
「従軍慰安婦」問題を知ると、それと現在の外国人研修生受け入れ制度との共通点が見えてきます。
もちろん、これはわが国だけの問題ではなく、ドイツ・フランスなどのヨーロッパ諸国やアメリカにも共通する問題ですが。 (2007/8)



八月の鎮魂

2009-08-02 01:00:00 | 歴史文化論の試み
八月はわが国では特別な月です。 

お盆休みには、多くの都会で働く人たちが一斉にふるさとに帰り、しばしの英気を養います。また、炎熱のなか、甲子園でおこなわれる高校野球に多くの人が熱中します。

一方、八月の、特に前半には、現代史の画期となるできごとが多くあります。暦順に記せば、6日の広島被爆、9日の長崎被爆、15日の終戦記念日、となります。さらに、近年、12日が日航機の尾巣鷹山墜落の日として加わりました。三日ごとに重要なできごとを刻む、まさに特異な月として、八月は私たちの前に毎年現れます。

これらのできごとで亡くなられた方々の鎮魂を込めて、関連する本を読むのが、私の習わしとなっています。

ここ数年、やはり一番気になるのは「靖国問題」でしょうか。ベストセラーの高橋哲哉『靖国問題』、ちくま新書、を読んだ方もいらっしゃると思います。実は、私はこの本を読んでいません。手に取ったら、ゴチック体の文章が多く目に付き、なにやら、政党のアジ文書のようで、すぐに手を引っ込めました。そばにあったヒットラー『わが闘争』、角川文庫、をひも解くと、これもゴチック体の文章が目立ちます。

もう少し、穏やかな議論に耳を傾けたい。
私の選んだのは、大江志乃夫『靖国神社』、岩波新書、です。1984年刊で、2001年に第20刷が出ました。これもよく売れたロングセラーのようです。 

目次は:「1 なぜいま靖国神社問題か」「2 天子・大元帥・天皇」「3 靖国神社信仰」「4 村の靖国・忠魂碑」「おわりに 靖国の宮にみ霊は鎮まるも」

ここでは、「1」と「3」を紹介しましょう。この2章によって、靖国神社の性格の歴史的変遷を理解することができます。わかりやすくするために、時系列に沿って整理してみます。

1879年(明治12年) 九段の招魂社が靖国神社と改称、別格官幣社に列格される
                (地域レベルの招魂社から国レベルの靖国神社へ)
1887年(明治20年) 靖国神社の神職任免権が内務省から陸軍省・海軍省に移管
                (軍人の慰霊施設であることが鮮明になる)
1898年(明治31年) 戦病死者の特別合祀の陸軍大臣告示
                (祀る対象が大幅に拡大する)
1945年(昭和20年) 昭和天皇の最後の公式参拝
                (それまでの「祭政一致」の性格が終りを告げる)
1952年(昭和27年) 宗教法人となる
                (政教分離が発足する)
1959年(昭和34年) B級・C級戦犯を合祀
1978年(昭和53年) A級戦犯を合祀
                (国レベルの戦犯の合祀に踏み切る)

戦前と戦後とを分けて検討してみると、戦前では、国レベルへ、軍部主導へ、祀る対象の拡大へ、という流れが見られ、文字通り国家レベルの宗教施設として大きくなっていったことが分ります。
また、戦後になって、国家レベルの宗教施設ではなくなりましたが、1978年(昭和53年)のA級戦犯の合祀によって、再び、国家レベルの宗教施設としての性格を帯び始めています。

このように見てくると、「靖国問題」とは、靖国神社を「国家レベル」の「宗教施設」として認知させたいという靖国神社の立場をどう考えるか、という問題であることがわかってきます。

戦後のGHQと日本政府との協議の中で、日本政府は、靖国神社を慰霊施設ではなく宗教施設として存続させたいと主張したそうです。その時点で、「政教分離」の原則が自動的に適用されることを日本政府が承認したことになります。
そうすると、国として考えるべきことは、戦争犠牲者の「慰霊施設」をどのように作るか、という点に絞られるはずでした。それを、一宗教法人である靖国神社に、いわば、まかせきりにしたツケが現在に及んでいるといえます。

国の首相が靖国神社に参拝することの是非はよくわかりません。ただ、そのことによって近隣の国々との外交交渉さえできなくしてしまうのは、今はやりのことばでいえば「もったいない」というところでしょうか。  (2006/8)

記憶のよみがえり現象・1

2009-03-14 13:38:59 | 歴史文化論の試み
(1)「記憶」の構造

いきなりだが、「記憶」について、述べてみたいと思う。記憶がどのような構造をしているのか、また、その記憶の「よみがえり」はどのように起こるのか、などについて、私の関心のある様々な分野で検証してみたい。

「記憶」についての本格的研究は、哲学・心理学・大脳生理学の専門家にまかせるよりほかないが、身の回りにも、「記憶」をめぐる不思議な事象がいろいろとある。

平たくいえば、記憶は過去の事象に関する経験・体験を大脳に刻みつけたものだから、経験・体験の量が多くなれば、すなわち、加齢が進めば、脳内におけるそれらの整理が進むのだと推測できる。

膨大な過去の経験・体験の「整理」は、一つは、それらの一部分の「忘却」となって表われ、もう一つは、それらの「圧縮」となって表われるのではないか、というのが私の試論である。

「忘却」については、戸井田道三『忘れの構造』、1984年、筑摩書房、が参考になる。この点は後に述べることにしたい。

過去の経験・体験の「圧縮」とは、記憶容量の限界などの理由により、必要に迫られて、膨大な経験・体験を押しつぶすことだ。卑近な例を引けば、かさばる段ボールを圧縮して紙のブロックを生成するのに似ていようか。紙のブロックから個々の段ボールの属性を推測することは難しいが、個々の段ボールの属性がまったく失われたわけではない。過去の経験・体験は「圧縮」されて、「仮死状態」に置かれているといえばわかりやすいだろうか。  (つづく。2009/3)