静聴雨読

歴史文化を読み解く

ことばのクリニック - 獺祭(だっさい)

2014-04-13 07:30:44 | ことばの探求

 

東京・羽田空港の国際線ターミナルの食堂街のあるお店に「獺祭(だっさい)」という日本酒がおいてあった。珍しい名前だ。蔵元は山口県岩国市の旭酒造株式会社。

ラベルに「純米大吟醸50」とある。これは何を意味するか?

ラベルには説明があり、「山田錦を50%まで磨いて醸した純米大吟醸」とある。山田錦は有名な酒米だ。それを、容積が50%に減じるまで磨いて、残った米から醸造した酒を「大吟醸」ということらしい。なるほど。道理で、市販の「大吟醸」と名の付く酒が高いわけだ。酒米の半分を無駄にするわけだから。

ところで、磨いて粉になった米粉はどうなるのだろう? これを処分するのはもったいない。精製して、「商用米粉」として市場に出しているのだろうか? 気になるところだ。

さて、ラベルの説明文の後半は、「きれいで新鮮な味と柔らかで繊細な香りが絶妙なバランスを保っています。」となっている。

何となく締まりのない文章だ。なぜだろう?

原因1 : 味と香りのバランスを強調したいのに、強調できていない。

原因2 : 「きれいで新鮮な」味と「柔らかで繊細な」香りとは、いずれもアタマの形容が重い。かつ、「きれいで」と「「やわらかで」の表象するものがボケている。

原因3 : 「・・・が絶妙なバランスを保っています。」もまた言葉の語呂の座りが悪い。

かくして、わが改良コピーは以下のようになる:

「新鮮な味と繊細な香りのバランスが絶妙です。」 

いや、まだおかしい。

「みずみずしい味と繊細な香りのバランスが絶妙です。」

こんなところだろうか。 (2014/4)


メール文の作法(私の文章作法・Ⅱ)

2011-01-28 07:09:16 | ことばの探求

世の中には、メール文の作法について多くの説が出回っているようだが、私の気になる点だけをピックアップしておきたい。

1. テキストの中に「あて先」と「発信人」を書くべし。

「あて先」もなしにいきなり用件を書く人、また、「発信人」を省略する人が多い。若者だけでなく、ビジネスマンにも広く見られる現象だ。
メール文には、個人あてのものと一斉放送的なものとがあり、この間の区別がつかないために起きる事象だと睨んでいる。
一斉放送的なものはともかく、個人あてのものには「あて先」を載せるだけで、親密感や相手への敬意を表現できるのに。

2. 電報文化から脱却すべし。

本文を短くするためなのかどうかわからないが、語尾を省略したり、名詞を羅列したりするメール文に出会うことがある。ケイタイでメールを打つようになって、この傾向はますます広がっている。
必死になって文章を短くするのは、その昔の「電報文化」の名残りではなかろうか。「イサイフミ」が「委細は手紙でお知らせします。」の省略形であることは、「電報文化」を知るひとには常識だが、現在、これほどまでにしゃかりきになって、文章を短くする必要があるのか。答えは、「そんな必要はない。」ゆったりと、思う存分、書きたいことを書けばいいのだ。  (2011/1)


私の文章作法・Ⅰ

2011-01-22 07:54:23 | ことばの探求

ブログを始めてから文章を書くことが多くなった。一日おきに約1000字から成るコラムをブログに載せているので、一年に180本、18万字の文章を書いていることになる。昔風にいえば、四百字詰め原稿用紙で450枚の原稿を書いていることになる。これは、一冊の書物に該当するほどの量だ。

文章を書くことが多くなれば、自ずから、文章作法を気にするようになる。それを書いてみようと思う。

(1)翻訳表記の限界

一昔前の川柳に、「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」というのがある。
ドイツの文豪・ゲーテは、明治・大正時代には「ギョエテ」と表記されることが多くあった。昭和になって、それを笑って「俺のことか」と巧みに風刺したのが前述の川柳だ。

ゲーテのドイツ語表記は Gothe  。ただし、 o にはウムラートがついている。ウムラートのついている o は、「オ」と「エ」の中間で、日本語にはそれを表記する文字はない。それで、先人は苦労して、「ギョエテ」という表記法を編み出した。「ゴエテ」とすれば、さらにドイツ語の表音に近かったかもしれない。

しかし、「ギョエテ」にしても「ゴエテ」にしても、原音を十分に表記できているとはいいがたい。

ひるがえって、「ゲーテ」はどうだろうか?
「オ」と「エ」の中間のウムラート付きの o に忠実であることをあきらめて、「エ」に寄せた表記が「ゲーテ」だ。思い切りがよくて、日本語としても発語しやすいので、現在定着している。
しかし、ドイツ人は「ゲーテ」と発語していない。

つまるところ、「ギョエテ」も「ゲーテ」も、ウムラート付きのGothe を正しく表記できていない点で五十歩百歩だといえる。冒頭の川柳は、卑俗な表現を使えば、「目くそ、鼻くそを笑う」の典型だ。

日本語にない発音の例では、英語などの v がある。violin はヴァイオリン。このように、 v には「ヴ」を充てる方法が比較的浸透している。「ヴ」は日本語にない文字だが、世に受け入れられたのは、子音のせいかもしれない。
ウムラート付きの o のように、「オ」と「エ」を無理やり圧縮して一つの文字にすることは、日本人には馴染まなかったのだろう。 
            
(2)厳密さを追求するのはあきらめよう

「ギョエテ」も「ゲーテ」もドイツ語の原音を十分に表記できていない、と前回述べた。
それではどうするか?
私の答えは、厳密さを追求しない、だ。さすがに「ギョエテ」は時代遅れだとしても、「ゲーテ」でも「ゴーテ」でもいいじゃないか、と思う。また、「バイオリン」でも「ヴァイオリン」でも、どちらでもいいではないか。

もう一つ、外国語の日本語表記で頭を悩ますのが、長音の取り扱いだ。

ギリシアの「ソクラテス」は、実は、「ソークラテース」と表記した方が原音の表記に近いそうだ。「プラトン」も「プラトーン」。しかし、日本語表記では、これまで、「ソクラテス」・「プラトン」が圧倒的に優勢だ。

この長音の省略は、ほかの地域の言語の日本語表記に広く見られる現象で、インド・アラビア・ヨーロッパの諸言語の長音を忠実に日本語に移していない場合が多い。どうも、日本語は長音を苦手としているらしい。

できるだけ原音に忠実に日本語表記すべきか、従来の長音省略の趨勢を追随するか、は人により意見の分かれるところだろうが、私は、どちらでもいい、むしろ、広く浸透している方式を無理やり変更するほどのことではない、と思っている。

日本語は外国語と違うこと、外国語の音を完全に日本語で表記することは不可能なこと。以上を踏まえて、外国語の音の日本語表記を考えればいい。・・・どうもつまらない結論になってしまった。 

(3)体言止めの採用

私の文章は硬いといわれる。その通りで、自分でもいやになる。

コラムの文章は、「である」・「だ」調を使うか、「です」・「ます」調を使うか、二通りだが、いずれの場合も、普通に記述すると、「・・・である(です)。したがって、・・・である(です)。しかし、・・・の場合には、・・・である(です)。まったくもって、・・・だ(です)。」というような文章の運びに陥りがちだ。これが硬さを印象付けることになる。なんとか改善できないか。

そう考えて思い当たったのが、「体言止めの採用」である。
「最近、はまっているのが海釣りです。」というかわりに、「最近、はまっているのが海釣り。」という塩梅に、終わりの動詞の「です。」などを省く手法である。

この「体言止めの採用」は、新聞の文章で多用されている。
近年、新聞の活字が大きくなり続けている。それに伴って、収録できる文字数は減り続けているのだ。そのため、新聞の文章では、なりふりかまわず、「体言止めの採用」に走っている。そういう実際的な要請による「体言止めの採用」であったが、副作用として、文章が引き締まる効果をもたらしたといってもよいと思う。

後者の効果をねらって、「体言止めの採用」を試みているところだ。
しかし、「体言止めの採用」を使いこなすのは難しい。現に、この文章でも、「体言止めの採用」はどこにも現れない。意識して用いないといけないらしい。 (2008/9-11)

英語学習の思い出(続)

2008-10-09 07:51:44 | ことばの探求
(1)イントネーションにまつわる思い出

日本語の苗字では、4文字の名前が多くあります。福田内閣の閣僚を例にとれば、「町村」「桝添」「鳩山」などがそうです。これらのイントネーション(抑揚)を調べると、「^^・・」「・・・・」「・・・・」となり、いずれも、抑揚が少ないか、ない、ことがわかります。これが、英語を話す人たちには障害となっているようです。

高等学校でのもう一人の英語教師は、英語ではイントネーションが重要であることを盛んに強調しておられました。
「沖縄」ということばを例にとって、彼は説明します:
「沖縄」は日本語では、「_・・・」と発言しますが、それでは、アメリカ人やイギリス人には通じません。
そういって、彼は黒板に、「owe-key-now-wa」と書きました。そして、「now」の上にアクセントがあることを表示したのです。そのイントネーションは「・_ _ _ ^・ ・」となるでしょうか。

なるほど、抑揚の乏しい日本語の「沖縄」と、英語の「Okinawa」では、聞いた感じはまったく違います。イントネーションの重要性がひしひしとわかります。

先生は「沖縄」の発音を学ばせるにあたって、次のような例文を使われました。
 Okinawa is the keystone of the Pacific.

「沖縄は太平洋の要め石だ」という意味で、アメリカ政府当局者やアメリカ軍部がたえず口にしていたセリフです。沖縄返還が実現するよりも前の時代の話なので、日本人の中にも、このように、アメリカ政府やアメリカ軍部の代弁をする人が多くいました。

沖縄から東アジアのソ連・中国・北朝鮮に爆撃機を飛ばすことができましたし、また沖縄から西アジアには航空母艦を派遣することもできたわけで、文字通り、沖縄はアメリカにとって戦略的に重要な太平洋の拠点でした。でも、それを日本人から聞かされたくはない、という気持ちも生じました。

現在、沖縄は日本に帰ってきましたが、沖縄にはいまだにアメリカ軍基地が多く残っています。 アメリカ軍にとっては、「沖縄は太平洋の要め石だ」という認識は健在のようです。

それに対して、日本人の認識がどう変わるのかが問われているように思います。

 Okinawa is a paradise for reef. (沖縄は珊瑚の楽園だ)
という人が多くなるのが望ましいと思います。

(2)ヒアリングにまつわる思い出
            
私の受験した大学では英語の中にヒアリングの試験もありました。受験生の中には、このヒアリングにパニックになる人もいたようで、「ヒアリングは捨てて、ほかの部分で頑張る」、と表明する人もいました。

私の高等学校ではヒアリングの授業があり、わずかでしたが、ヒアリングには慣れていました。それで、大学受験でのヒアリングは恐れるに足らないものでした。

大学を卒業して、会社勤めを始めてしばらくは、英語を使う機会がほとんどなかったことはすでに述べた通りです。
その後、突然、英語を必要とする部署に配置転換となり、外国企業の人たちとのコミュニケーションが始まりました。

英語に慣れるには英語の話される環境に身を置くのが一番だといわれますが、アメリカなどへの出張で英語のシャワーを浴びることが、ヒアリングの最上の勉強法でした。初めは何も聞き取れなかったものが、いつのまにか、少しずつ、耳にひっかるようになります。
英語の環境に身をさらす時間に比例して、ヒアリングの能力が上がるように実感しました。

アメリカなどへの出張から帰るとヒアリング能力は落ちます。しかし、また、次のアメリカなどへの出張に出て、英語のシャワーを浴びると、再びヒアリング能力が戻ることを体感しました。まさに、バッテリーの充電です。

今は、英語の環境に身を置くことはありませんので、ヒアリング能力は落ちました。しかし、再び英語の環境に身を置けば、ヒアリング能力が復活することは間違いありません。

と自慢してみたものの、痛い経験もしています。
ヘンリー・D・ソローを記念する年次集会が毎年7月に、アメリカ・マサチューセッツ州コンコードで開かれます。ある年、この集会に出席しました。そして、多くの講演や討論を聞いたのですが、そのどれもがチンプンカンプンで、まったく理解できませんでした。これはショックでした。ある程度、話題の範囲が限られていれば、理解できるものと思っていたのですが、思うようになりませんでした。これが、本当のヒアリングの実力なのでしょう。

(3)優雅なイギリス英語

仕事でロンドンに出張した時のこと。
ウィンブルドンにある小さな会社を訪れることになり、住所だけを頼りに行くのは心もとないので、ロンドン市街からタクシーを拾うことにしました。ホテルのドアマンに頼みました。これが間違いでした。

運転手に行き先のアドレスを示し、「ここに行ってほしい。」と告げました。「あいよ!」といって、運転手は車を発進させました。

しばらく乗ってウィンブルドンに近づいたと思われた時、車が急に止まりました。運転手が窓ガラスを下ろし、路行く女性に何やら尋ね始めました。二人の会話は延々と続き、15分ほど過ぎたところで、運転手が「 Much obliged ! 」と発して会話は終了しました。「ありがとうございました。」といったのだと理解しましたが、その余りに短い謝辞に、一瞬、あっけにとられました。

運転手のいうことには、まったく地理不案内で、今尋ねてやっとわかった、とのことでした。ロンドンのタクシー運転手にはありえないことです。そう、この運転手は、ホテルのドアマンと結託した白タクの運ちゃんなのでした。

しかし、この運ちゃんの発した「 Much obliged ! 」の一言が何と詩的で美しかったことか!

話変わって、オーストリアのウィーンで開かれたある国際会議でのこと。

タイの大学教授の方から話しかけられたことがありました。何人もの子分を従えて、見るからに、セレブリティーぶりを発揮しています。
彼女から、日本の放送大学のことを尋ねられて、私の知る限りのことをお話しました。
終わりに彼女の発したことばが「 Much obliged ! 」でした。

彼女の英語は完全なイギリス英語で、限りなく優雅な英語でした。これが、Queen’s English なのかと思いを深くしたものです。
映画『王様と私』でデボラ・カーの演じた王女を思い出しました。デボラ・カーの英語も優雅なものでした。

おそらく、タイには、正統的な Queen’s English が受け継がれているのでしょう。イギリス植民地主義の数少ない「正の遺産」をここに確認することができます。

イギリス英語には、ごつごつしたところがある反面、優雅な側面があることを、ロンドンの白タクの運ちゃんとタイの大学教授は教えてくれました。

(4)やさしい英語

アメリカの作家・ヘミングウェイに『老人と海』という小説があります。スペンサー・トレーシーの主演で映画にもなりました。老人と情熱、老人と孤独を描いた傑作です。この小説の原題が THE OLD MAN AND THE SEA というものです。何とわかりやすい題名でしょうか? よく見ると、6語すべてが3字で構成されています。これほど、単純でわかりやすい題名を考えるヘミングウェイはただものではありません。

同じアメリカの作家・フィッツジェラルドは「彼は決して難しいことばを使いません。」とヘミングウェイを評しています。むべなるかな、です。

さて、仕事でアメリカの企業の方々と折衝するなかで、勤務先の上司が「君の英語は、中学生の語彙で言わんとすることを表現しているね。」と評したことがありました。確かに、私の英語は拙くて、やさしい言葉ばかりを使っていました。作文であれば、辞書を参考にして、難しい言葉をちりばめることもできますが、会話では、辞書を参考するわけにはいかないではありませんか。それで、頭にある言葉と構文で会話文を考えることになります。

今考えれば、あの時の上司の言葉は最高のホメ言葉だったわけです。

やさしい言葉で英文を組み立てる。この過程で、知らず知らず、ヘミングウェイの方法に感化されていたようだ、と思い当たります。 

(5)会話はどこで習ったか?

今、会話をどこで習ったか、を思い出そうとしているのですが、なかなか思い出しません。

ヒアリングについては、高校時代からボツボツと、また、勤め人になってからは、海外出張の機会が増えるにしたがって、その機会に、ヒアリングをマスターしたことは思い出します。

だが、会話については、継続的に習ったことはないのです。
勤務先の英会話教室に通って「ままごと」のような会話を習ったことはあります。
講師は同じ企業の英語通でしたが、その教室で学習したことの一つを思い出しています。

Thank you very much. と相手にいわれたら、即座に、 Not at all. It’s my pleasure. と返しなさい、という教えです。この「どういたしまして」ということばを発することが習慣として定着すれば、会話に余裕が生まれる、という意味だったと思います。いかにも、企業人として理にかなった考えです。

そのような断片的な学習以外に、結局、会話をどこかで学んだことはなかった、といえます。

私の英会話は、(1)相手のいうことを理解する、(2)それに対して、やさしいことばを組み立てて応答する、という2点に尽きるようです。そして、その学習の場は、もっぱら、勤め人時代の海外出張の機会だったというのが結論です。  (2008/4-9)


英語学習の思い出

2008-03-06 07:56:16 | ことばの探求
分載していました「英語学習の思い出」をまとめて、再掲載します。(長文)
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(1)アメリカ英語の思い出

今では、小学校で英語を教える学校が多いと聞きますが、私の時代は、英語は中学校で初めて教わるものでした。私の場合もそうでした。
最初にまみえた英語教師は、30歳台前半で、笠置しづ子を思わせる「がらっぱち」風情の女性でした。いつもお腹にカイロをしのばせていました。

この先生から、文字通り、英語を「一から」教わったわけです。
「ワン、トゥー、スリー。 th は舌を上下の歯にはさんで。」
「フォー、ファイヴ。 f も v も上の歯で下くちびるを噛んで。」
「セックス。」
ここで教室がシーンとしてしまいました。
先生は「6」を発語したはずですが、それが「シックス(スィックスといったほうがわかりやすいか)」とは聞こえず、「セックス」と聞こえるのです。

先生の話では、i は「イ」と「エ」の中間の母音だそうです。また、e は「エ」と「ア」の中間、 a は「ア」よりも「ヤ」に近い発音だということです。six が「スィックス」ではなく、「セックス」と聞こえたのは、このせいでした。
先生の英語はアメリカ英語で、イギリス英語との違いを実感しました。

後年になって、外国のカジノのルーレットで遊んだ時、
 “ Would you please put my tip on ‘6’?” (「6」にチップを置いてもらえますか?)となかなか言えなかったことも思い出します。それほど、「6」のトラウマは尾を引きました。

(2)イギリス英語の思い出
            
中学の3年間はアメリカ英語にどっぷりつかって、その、やや下品ではあるが流れるような発音に慣れました。

高等学校に入ると、状況が少し変わりました。ちょうどクラスの担任になった教師が英語の先生だったせいで、さらに英語に親しむようになりました。先生は「私の英語はアメリカ英語とイギリス英語のブレンドです。」と説明しておられた。

さらに英語の勉強をしたいと思い、東京・千駄ヶ谷にあった津田英語会の塾に通うようになりました。そこの先生は津田塾大学のOGで、50歳台の方でした。この先生から英文法でしごかれました。

今記憶に残っている一文に次のようなものがあります:
Be it ever so humble, there’s no place like home.
そう、「埴生の宿」に出てくる一節で、「たとえみすぼらしくとも、家に優るものはない。」という文章です。

この文章は、仮定法の例文として引かれたのですが、
Be it ever so humble が
Whatever it is so humble と同じことだと説明を受けても、何となく釈然としませんでした。
以後、現在まで、同じ文型に出会ったことは一度もありません。

この先生が、コテコテのイギリス英語の使い手でした。
 I can’t imagine.
を、「アイ カーント イマジン」と発声されると、それまで親しんだ「アイ キャント イマジン」との違いにとまどいました。そこでの救いは、高校の先生の「ブレンド英語」でした。この「ブレンド英語」を勝手に解釈して、アメリカ英語とイギリス英語をごちゃ混ぜにして平気な顔をすることにしました。
この悪癖はその後ずっと続き、今では、どの部分がアメリカ英語でどの部分がイギリス英語か判別できなくなってしまいました。

イギリス人の発音を聞いていると、ものすごくごつごつしていることに気づきます。アメリカ英語の流れるような発音とはずいぶん違います。
Hopeが「ホープ」とも「ホウプ」とも聞こえなくて、「ハウプ」と聞こえます。ブレア前首相の演説を数多く聞きましたが、この「ハウプ」式がどうにも引っかかってしょうがありませんでした。

(3)英語合宿の思い出

大学を卒業して、会社勤めを始めてしばらくは、英語を使う機会はほとんどありませんでした。企業は、部署によって、また、仕事によって、英語が必須のところと英語の不要なところと分かれます。私は、入社後十数年間、まったく英語を必要としない部署で仕事をしていました。

その間、体系だった英語の勉強はしませんでしたが、一度だけ、合宿形式の英語トレーニングに参加したことがあります。一週間、宿泊施設に泊りがけで、朝から晩まで、英語で生活し、英語で討論するという、文字通り、英語漬けの生活を送りました。

同宿した相棒は「こんなに暑くては寝てられない!」と日本語で寝言を言っていました。これを皆の前で言えば、罰金を徴収されるところでした。

講師として参加していた3人はいずれもアメリカ人で、ここで、再びアメリカ英語のシャワーを浴びました。
ここでは、アメリカ英語とともに、アメリカ人の考え方を学ぶことができました。

とくに、リーダー格の人が特別でした。彼は、受講者に聞きます:
「アメリカ人はどんな人ですか?」
受講者が思い思いに答えます:
「アメリカ人は、背が高くて、肥っている。」
「アメリカ人は、尻が大きい。」
「アメリカ人はよく食べる。」
「アメリカ人は親切だ。」、などなど。

彼は、おもむろに、口を開きます:
「アメリカ人には、背が低くて、痩せている人もいる。」
「アメリカ人には、細い体型の人もいる。」
「アメリカ人には、少食の人もいる。」
「アメリカ人にも、不親切な人は多い。」

彼の言わんとすることは、日本人のアメリカ人に対するイメージが一面的だということなのです。
大きい人も小さい人も、大食の人も少食の人も、親切な人も不親切な人もいるのがアメリカだと、彼はいっていたのでした。アングロサクソン人だけでなく、アフリカ黒人も、ヒスパニックも、東洋人もともに暮らすのがアメリカだと彼は言いたかったのでしょう。
大きな勉強をした思いでした。

この合宿では、アメリカ英語の発音でも新しい発見がありました。
Again ということばばあります。これを「アゲイン」と発音すると、「違う! アゲン。」と直されるのです。Refrain も Retain も同じです。この指導が正しいのかどうかわかりませんが、今も印象に鮮やかです。
            
(4)企業英語の思い出

入社後十数年間、まったく英語を必要としない部署で仕事をしていましたが、突然、英語を必要とする部署に配置転換となりました。外国企業との提携を推進する部署です。そこでは、英語の契約を多く扱いました。

英語の契約文は、日本語でもそうですが、奇妙なものです。
今でも、頭に残る文章に次のようなものがありました:

It is expressly understood and agreed upon by the parties hereto that in no event shall any action against this section by either party be construed any material breach hereof by the party.

日本語では、「いずれかの当事者が本章に反する行動をとったとしても、それをもって本契約の重大な不履行とみなすべきではない。」とでも訳すことができます。

この文章は何を言わんとしているのでしょうか?

本章とは本契約の中の一章を指すので、本章は本契約の中の重要な部分ではないことを断っているのです。つまり、本章は「つけたり」だといっているのです。それを持って回った表現で書いているにすぎません。

in no event も any action も any material breach も契約文らしい強調の表現です。
hereto は to the agreement のこと、hereof は of the agreement のことで、契約文にしばしば出てくる言い回しです。
It is から that までは「天ぷらの衣」のようなもので、あってもなくてもいいものです。

ここで使われている英語は、法律関係者内の一種の「隠語」のようなものでしょう。
こういう契約英語に携わって面白かったかといえば、面白いわけがありません。
ある時、提携相手の人と話していると、企業内の法務部門について、彼から質問がありました。
「日本の企業では、彼ら企業内法務部門をどう思っているのですか?」
「いわば、Necessary Evil (必要悪)でしょうか。」
「ハハハ、アメリカの企業では、Unnecessary Evil (お邪魔虫)ですよ。」  ずいぶんきつい冗談を聞かされたものです。 (2008/2)

澁澤龍彦と渋沢竜彦

2007-04-06 06:53:32 | ことばの探求
国語・国字問題はいつの世でも世間の注目を浴びるテーマだ。古くは、明治時代の文部大臣・森有礼(もりありのり)が、標準語をフランス語か英語(あまりびっくりしたので、どちらだったか記憶があいまいだが)にしようと提議したことがある。また、第二次世界大戦に敗北した昭和20年代に、やはり時の文部大臣・山本有三(「路傍の石」の作者)が国字をローマ字に変えようと提議したことがあり、エスペランティストなどが賛同した経緯がある。

いずれも実現しなかったが、国が動くときには、国語・国字問題もにぎやかになるようだ。なぜなら、ことばは、国のガバナンス(統治)、歴史文化の推移、中央と地方との力関係、異国との交流、などの状況を忠実に写す鏡だからだ。

戦後(すなわち、第二次世界大戦敗北後)の昭和20年代に、新かなづかいの採用、当用漢字・教育漢字などの漢字制限施策などが実施されて、国語・国字改革が一挙に進んだ。外来語の大量流入や漢字の字体の簡略化もその一つだ。「廣澤」が「広沢」になり、覚えるにも書くにも便利になった。

近年のIT革命によって、国語・国字問題が改めてクローズアップされることになった。漢字が書けないのに漢字を表現することができるという事態が出現したのだ。そう、「かな漢字変換ソフト」のもたらした奇妙な現象である。
「廣澤」と書けなくてもかまわない。「ひろさわ」でかな漢字変換ソフトにかければ、「廣澤」でも「広沢」でも、お好みの漢字が選べるのだ。

だが、便利なだけではない事態が発生した。 

マルキ・ド・サドの小説の翻訳などで名の高いフランス文学者に澁澤龍彦がいる。何気なくこう書いたが、今日のテーマは彼の姓名の中にある。

「澁澤龍彦」は旧字体の「澁・澤・龍」を含んでいる。新字体の「渋・沢・竜」を使った表記ができるはずである。しかし、ほとんどの出版社の書籍で、彼の姓名は「澁澤龍彦」と表記してあり、旧字体が優勢だ。これは、本人の希望があって、かつ、文学作品の著者名なので、旧字体の姓名を採用しているのだろう。

だが、人によっては、あるいは、場所やメディアによっては、「渋沢竜彦」と表記している場合が大いにあり得る。これだけ、新字体が普及しているのだから。

ここで、近年のIT革命のもう一つの申し子が登場する。Yahoo! や Google などの「検索エンジン」がそれだ。キーワードを指定して、欲する情報を獲得するツールとして便利なものだ。

この「検索エンジン」を使って、例えば、澁澤龍彦の著作を拾ってみる。
「澁澤龍彦」で検索すれば「渋沢竜彦」はひっかからない。逆に、「渋沢竜彦」で検索すれば「澁澤龍彦」はひっかからない。「澁」と「渋」、「澤」と「沢」、「龍」と「竜」、にはそれぞれ別のコードが割り当てられているので、互いにまったく別物とみなされるからだ。

澁澤龍彦の場合は旧字体の「澁澤龍彦」の認知度が高いので、まだ救われる。
「みやざわ賢治」の場合は、見事に「宮沢賢治」と「宮澤賢治」に二分されているのだ。

片方のキーワードだけでは欲する情報をすべて獲得することができない。「澁澤龍彦」=「渋沢竜彦」、「宮沢賢治」=「宮澤賢治」とみなして検索処理をしてくれる検索エンジンはないものか? あるいはあるのかもしれないが、私は知らない。(2007/4)