静聴雨読

歴史文化を読み解く

凱旋門賞を勝つには(オルフェーブル)

2013-10-11 07:50:02 | スポーツあれこれ

 

オルフェーブルが凱旋門賞に昨年に続き今年も挑戦し、またも、2着に終わった。日本の競馬関係者の落胆は大きい。

昨年は、スミヨン騎手の騎乗ぶりが酷評された。最後の直線で追い出すのが早すぎたこと、その後、馬が急激に内斜行するのを防げなかったこと。この2つのミスがなければ、昨年は、オルフェーブルが2馬身差で優勝できた、というのだ。

今年のスミヨン騎手の騎乗ぶりに大きなミスはなかった。しかし、優勝したトレヴ(牝3歳、フランス)に5馬身も離されてしまった。日本の競馬関係者の落胆ぶりがわかる。明らかに力の差を見せつけられたのだから。

レース後のスミヨン騎手の談話によれば、「馬群の中でもまれて、オルフェーブルは消耗してしまった。」ここに敗因が示されている。

以前も書いたが、「フランスの競馬は日本のそれとは異なる。芝が深く、馬場は柔らかい。時計のかかるタフなコースだ。レースはスローペースで流れ、最後の600メートルの瞬発力と持続力の勝負になることが多い。」

4コーナーでは、勝ったトレヴとオルフェーブルとは同じ位置(馬群の後方・外側)にいたのだが、そこから抜け出すトレヴの瞬発力がすごくて、オルフェーブルはついていけなかった。スタミナ・スピード・瞬発力がすべて揃わないと凱旋門賞を勝てないことを、エルコンドルパサー・ディープインパクトに続いて、オルフェーブルは実証したわけだ。この課題を克服して凱旋門賞を勝つ日本馬が出現することを期待しよう。                                                    (2013/10)


凱旋門賞を勝つには(ディープインパクト)

2013-10-09 07:53:37 | スポーツあれこれ

 

10月1日のフランスの凱旋門賞から1週間が経ち、ディープインパクトの敗因を論ずる論調にある結論めいたものが見える。それは、「ぶっつけ」で挑戦させたこと、である。「ぶっつけ」というのは、長期休養明け、という意味と、フランスの馬場を経験させずに、という意味の二つがある。

ディープインパクトは6月の宝塚記念以降レースを使わず、休養とヨーロッパへの順応に時間を充てた。その間、凱旋門賞まで3ヶ月半。決して長すぎるとはいえない。「長期休養明け」は当たらないだろう。

「フランスの競馬を経験させずに」という指摘は要を衝いている。

フランスの競馬は日本のそれとは異なる。芝が深く、馬場は柔らかい。時計のかかるタフなコースだ。レースはスローペースで流れ、最後の600メートルの瞬発力と持続力の勝負になることが多い。騎手同士のかけひきが激しい。日本の馬と騎手はこれらのことに戸惑う。今回、騎手はフランスで数多く騎乗している武豊だから、問題ない。

問題は、ディープインパクトに馬場の特徴やレースの特徴を覚えさせる必要があったのではないか、という点である。凱旋門賞の前に一度、同じロンシャン競馬場でディープインパクトにレースを経験させれば、馬場のタフさ、レースのタフさ、を人馬とも会得したと考えられる。利口な馬は「馴致」という訓練で驚くほど新しい環境を学習するという。

どうして、事前にディープインパクトにフランスの競馬を経験させなかったか? 以下は推測だ。

6月の宝塚記念から凱旋門賞までの3ヶ月半の間に一度レースを使うには間隔が少なすぎる。それで「ぶっつけ本番」になったのだろう。

馬主や調教師に、6月の宝塚記念をスキップして、早めにフランスに渡るという決断があれば、一度フランスでレースを使う余裕ができていたことだろう。その結果で、本番の凱旋門賞に臨む作戦を立てるヒントをつかめたはずだ。

馬主が求めるのは名誉と金銭だ。ディープインパクトは天皇賞・春を勝った時点で日本の古馬(4歳以上の馬)ナンバーワンの称号を手に入れてしまったのだから、宝塚記念は(金銭を別にすれば)パスしてもよかった。その決断を欠いたことが残念だ。

1999年にエルコンドルパサーがやはり凱旋門賞に挑戦した。この時は、6ヶ月前にフランスに渡り、2度レースを経験させ、その上で凱旋門賞に出走した。結果は惜しい2着だった。最後の600メートルの瞬発力と持続力の勝負でやや競り負けた、という評価が一般であったが、準備過程については誰もが賞賛した。これだけ用意万端準備して負けたのだから、馬の力が足りなかったと素直に納得した。

今回のディープインパクトは、本当に馬の力が足りなかったのか、まだ霧中のままだ。まだ、やり残したことがあったのでは、という思いが捨てきれない。

海外の競馬に挑戦するには、現地の競馬に慣れる努力が必要だということを、今回のディープインパクトの敗戦は如実に示した。そう批評することは、今回のディープインパクトに限れば結果論かもしれないが、次回のディープインパクトの海外挑戦やほかの馬の海外挑戦を考えた場合、必ず役立つ教訓ではなかろうか?                        (2006/10)


職団戦

2013-10-07 07:00:56 | 将棋二段、やりくり算段

 

久しぶりに将棋の職団戦に出場した。20年ぶり、だろうか。職団戦とは、「職域団体対抗将棋大会」のことで、年に2回、東京で開催される。5人でチームを組み、補欠が1名認められている。わがチームは6名でチームを組んだ。50歳代が3名、60歳代1名、70歳代2名で、平均60歳のシニア世代のチームだ。

大会は7つのクラスに分けられていて、各クラスで優勝を競う。わがチームは一番下のクラスで、64チームがトーナメント戦を戦う。優勝するまでに6回戦う必要があるわけだ。

わがチームの戦力構成は、⑥⑤③③②②(丸の中が段位を指す)。六段と五段が絶対的なポイントゲッターで、2勝を確実にものにする。残りの4名が交代に出場して、残る1勝をもぎとる。これが基本的戦略だ。

1回戦は戦略通り、3勝2敗で通過した。

だが、2回戦で波乱が生じた。何と、六段が負けてしまったのだ。しかし、ここは3段の2名が勝利をものにし、辛うじて、3勝2敗で通過することができた。

3回戦でも五段が負けたものの、三段と二段が勝ちを収め、ここも、3勝2敗で通過することができて、ベスト8に進んだ。「ここまで来たら、優勝や」との檄が飛ぶ一方、「頭が疲れた」とぼやく人も出た。

ここで、6人制チームの利点が出てきた。3回戦まで、三段の2名と二段の2名は交代で休んできた。それが、各人の疲労を少なくする効果があったのだ。

4回戦と5回戦は、それぞれ、4勝1敗で勝ち抜けることができ、決勝に進むことになった。

2勝2敗で最後の六段の勝敗に運命が託されたが、勝ちきることができ、わがチームは3勝2敗で見事優勝してしまった。

全員あっけにとられたが、やがて、皆にやにやし始めた。

表彰が終わり、近くの居酒屋で祝勝会をしたのは言うまでもない。        (2013/10)

 


カースン・マカラーズ

2013-10-05 07:04:11 | 文学をめぐるエッセー

 

アメリカ南部の女流作家カースン・マカラーズ( 1917- 1967 )を読み始めた。THE LIBRARY OF AMERIKA が1巻ものの小説選集を出しており、そこに彼女の主要な小説5作が収められている。B6判相当で、827ページ。これなら3ヶ月もあれば読み通せるのではないか、という見当だ。

5作を発表順に並べると:

1940       The Heart is a Lonely Hunter (心は孤独な狩人)

1941       Reflections in a Golden Eye (黄金の眼に映るもの)

1943     The Ballad of the Sad Café (悲しみ酒場の唄)

1946       The Member of the Wedding (結婚式のメンバー)

1961       Clock without Hands (針のない時計)

 

ほかに、詩・短編小説・戯曲・エッセーなどがあるが、彼女を知るには上記小説5編で十分だろう。

 

なぜ、マカラーズなのか?

古くは、劇団民芸が、渡辺浩子の演出で『悲しみの酒場のバラード』を上演したのを観た印象が鮮烈に残っていること。

そして、最近では、夏になると隣家で繰り広げられる家族喧嘩がマカラーズの世界を思い起こさせること。一昨年と今年の夏がとくにひどかった。

 

このようなきっかけで、マカラーズを本格的に読んでみようか、という気になった。

 

マカラーズはアメリカ南部のジョージア州を舞台に小説を展開する。蒸し暑い気候条件は、人の心も狂わせる。それを彼女がグロテスクに描く。しかし、奥底に、人間の持つ原始的優しさが垣間見える。そこが魅力だ。

 

さて、マカラーズにとりかかろう。と思ったのだが、日本語訳の本がなかなか見つからない。やむなく、英語の原書で読むことにする。 (2013/10)

 


豊穣の秋(とき)

2013-10-03 07:34:34 | 身辺雑録

第三の人生の過ごし方は、人により、様々です。親や配偶者の介護に明け暮れる人、病いを得て療養中の人、ボランティア活動に汗を流す人、日々悠々自適に好きなことをして過ごす人、などなど。

この第三の人生の特徴は、様々な活動のどれを選んでもいいこと、また、どのように組み合わせてもいいことです。第一の人生で蓄積した知識・教養と第二の人生で得た経験・人脈とを活用して、自分の好きな人生設計ができます。

私の場合を振り返ってみると:

第二の人生とは別の仕事(趣味を兼ねた古本屋)、母の世話、ブログ、などを組み合わせて、この第三の人生を設計してきました。ここ数年は、趣味の将棋に打ち込む時間が長くなりました。

これらのうち、古本屋を畳み、母の世話を終えた今は、「日々悠々自適に好きなことをして過ごす」ことが残っているにすぎない、と自覚しました。「晴釣雨読」の生活です。これは、第四の人生です。

その矢先に、将棋のNPO法人に携わる先輩が体調を崩し、その仕事を手伝うようになりました。今年の初めからです。先輩は今年の初夏に早々に亡くなり、私はNPO法人の活動を継続せざるを得なくなりました。第四の人生はお預けです。

さて、第三の人生の特徴は、好きなことを自由に組み合わせて設計できることだと申しました。まさに、第三の人生は「豊穣の秋(とき)」を約束する人生です。しかしながら、第一の人生で蓄積した知識・教養の質、また、第二の人生で得た経験・人脈の多寡によって、第三の人生の豊かさが決まることは否定できない事実です。その意味で、第三の人生とは、第一の人生と第二の人生の「合わせ鏡」だといえるかもしれません。          (2013/10)


第三の人生

2013-10-01 07:08:08 | 身辺雑録

仮に、人生を区切るとすれば、学業を終えるまでを第一の人生、仕事を終えるまでを第二の人生とすることに、大方の異論はないでしょう。私の場合は、大学を卒業した22歳までが第一の人生、サラリーマン生活にピリオドをうった60歳までが第二の人生、ということになります。自営業の方は、この第二の人生が長く、65歳や70歳を過ぎても現役、という方も多く、まったく、これらの方々には頭が上がりません。

さて、第二の人生を終えた後にくるのが第三の人生です。

この第三の人生の過ごし方は、人により、様々です。親や配偶者の介護に明け暮れる人、病いを得て療養中の人、ボランティア活動に汗を流す人、日々悠々自適に好きなことをして過ごす人、などなど。

私の場合を振り返ってみると:

勤め先に「次の仕事に就くのを支援する制度」(正式な名前は忘れました)があり、次の仕事に必要なスキルを身につけるために有給休暇を取ることができました。58歳を過ぎたところで、この制度の適用を申請しました。

私の考えた「次の仕事」とは、研究生活です。「十九世紀歴史文化の研究」を本格的に目指すつもりでした。具体的には、ヘンリー・D・ソロー Henry D. Thoreau とウィリアム・モリス William Morris に焦点を充てて、近代文明への対峙の仕方を研究しようとする試みです。

勤め先の了承を得て休暇に入った矢先に、母が脳梗塞で倒れ、私の生活の中心は母の世話に移行し、「十九世紀歴史文化の研究」は棚上げになりました。以来、8年間は、同じ状態で推移しました。

この間、たまたま、ブログを立ち上げることを思いつき、4年前に「歴史文化を読み解く」と題するブログを始めました。本格的な「十九世紀歴史文化の研究」は棚上げせざるを得なくとも、少しでも「歴史文化」に関わりのあるテーマでコラムを発表しようというものです。このブログの心地よさにすっかりはまって現在に至りました。

今年の夏、一通り母の世話が終わり、幸い病いの兆候もない私には、日々悠々自適に好きなことをして過ごす道が残っているに過ぎないことを自覚せざるを得なくなりました。
棚上げにしていた「十九世紀歴史文化の研究」のほこりをはたいて再開するか、思案中です。

そのためには、さらに身辺を整理し、読書力を回復させ、ということが必要です。
また、環境を変えることも有効かもしれません。

「日々悠々自適に好きなことをして過ごす」ことを、昔の人は「晴耕雨読」と称しました。晴れの日には畑を耕し、雨の日には読書で心を耕す、ということです。多くの人の理想でしょう。
私の場合は、畑を耕す趣味はないので、読み替えて、「晴釣雨読」です。晴れの日には海に出て魚釣りで過ごし、雨の日には読書で過ごす、という生活です。

「晴釣雨読」は造語ですが、インターネットで検索すると、このことばでブログを書いている人が多く存在することがわかりました。

神奈川県に金沢八景という漁港があります。遊漁船の釣り宿が30軒ほど密集する釣り人のメッカです。私もこれまでよくここに出向き、おそらく10軒以上の釣り宿にお世話になっています。

近くには、金沢文庫・称名寺など、鎌倉時代の遺刹もあり、鎌倉にもほど近い立地です。
まさに、「晴釣雨読」のためにしつらえた場所ではないか。
そうだ。この地に居を移そうか。そんなことを考える今日この頃です。 (2010/10)