静聴雨読

歴史文化を読み解く

法務大臣の器

2010-11-23 08:20:03 | 社会斜め読み
Y法務大臣が辞任した。失言の責任をとった、とのこと。

これまでに、メディアなどで報じられたY氏の言動で気になったところを列挙すると;

1.Y氏は、法務大臣に就任後、「2ヶ月も」選挙区に帰っていなかった、という。(本人の言)
久しぶりに支持者の前に出て、「気が緩んだ」、という。(本人の言)

これにはあきれた。政治家で、内閣の要職にある者が、選挙区に帰ることを最重要に考えているとは!

2.Y氏は、支持者の笑いを取るために、「法務大臣は気楽な稼業」という趣旨の発言をしたらしい。

せっかく、支持者にまみえるなら、大事な国政の報告をすべきだろう。

3.Y氏は、国会議員になって20年間に、法務関係の立法・行政に携わったことはなかった、という。(本人の言) 「何で、この私が? と思った」、という。(本人の言)

それで自信がなければ、法務大臣を受けるべきではなかった。もっとも、これは、菅総理大臣の任命責任の方が重いが。

法務に素人の政治家は法務大臣になってはいけないのか? 
では、法律に素人の市民が「裁判員」を勤めているのを、どう説明するのか?
素人は素人なりに、市民感覚で、あるいは、政治家の感覚で、裁判員や法務大臣を勤めればいいのであって、素人であることを弁解の種にしてはならない。

4.Y氏は、大酒喰らって東京に戻る車中で、法務大臣への就任を要請された、という。(本人の言)

大酒は喰らうべきではないし、それを公言する神経も理解できない。

このように、Y氏は、法務大臣の器でないばかりか、一政治家として、その資質に欠けているといわざるをえない。(2010/11)


湘南の四季

2010-11-21 05:56:43 | 近郊めぐり
(1)冬の鎌倉

12月の一日、鎌倉に足を伸ばした。勤め先の「先輩」と江ノ島で落ち合い、七里ガ浜を散策しようということになった。 

「先輩」とはしばらく不通だった連絡が最近復活し、年に一回、文字通り、おしゃべりをするために顔を合わせている。「先輩」はまったく先輩ぶらないという「特技」を持っていて、その特技を私は高く評価している。

以前、「老いたる覇権主義」というコラムで、現役から退いた後に、ボランティア活動の場や、趣味の場や、家族の世話の場で覇権を争うことの空しさを書いたが、「先輩」はこの覇権主義から見事に脱却して生活しておられる。それで、私も気兼ねなくお付き合い願っているわけだ。

江ノ島から江ノ電に乗り、七里ガ浜で降りる。考えてみれば、江ノ電に乗るのも初めての経験だ。目指すは「先輩」ご推奨の「珊瑚礁」というカレー屋。海岸通りに面して「珊瑚礁」はあった。驚いたことに、冬の最中だというのに、ウェイトレスが肩を露出させたムームーのような衣装で接客している。客層はといえば、若いカップルが多い。海に面したテラス席が評判のようだ。

「先輩」と私もテラス席を所望して、店自慢のカレーと生ビールを食した。
昼下がりの海は「ベタなぎ」で、水の小粒がきらきらと光を反射して美しい。
なぎのせいか、平日のせいか、サーファーは見かけなかった。沖に見えるのは、釣り船だけ。
ここから、「真白き富士の嶺」に歌われた、逗子開成高校の水難事故を想起する手がかりは何もない。

まことに陶然とするような冬の一日だった。

「先輩」に近況を伺うと、「月月・火水木・金金」の忙しさ、とのこと。仙人のように、忙しがらないという境地にはまだ達しておられないようだ。  (2008/12)

(2)湘南の夏

湘南には夏がよく似合う。えぼし岩、サザン・オールスターズ、そして、七夕まつり。いずれも、夏の風物詩として広く知られている。

7月のある日、平塚と茅ヶ崎に遊んだ。
平塚では、「七夕まつり」の最中だった。ここの「七夕まつり」は、近年、7月の最初の木曜日から日曜日までの4日間と固定されるようになった。今年は、7月2日(木)から5日(日)までで、7月7日ははずれてしまう。やや興趣が殺がれるが、観光客に分かりやすくする配慮だから、我慢するよりほかない。

平日の午後なのに、平塚駅から「七夕まつり」の会場まで、ずいぶん人が出ている。沿道には、屋台がびっしり出ていて、にぎわっている。500軒も出ているのではないだろうか。トルコ料理のカバブの屋台を3軒も見かけた。民謡流しなどを見て、生ビールを味わって、会場を出た。夜はさらにすごいにぎわいになるのだろう。

夕方、茅ヶ崎に移動した。ケーブル・テレビ局の主催する室内楽コンサートを聴くためだ。「初冬の鎌倉」でご一緒した「先輩」に誘っていただいたのだ。NHK交響楽団の弦楽器奏者とピアニスト・高橋 希が共演する。

プログラムの前半は小品で、個々の楽器の特徴が理解できるような曲が選ばれていた。また、「少年時代」(井上陽水)や「TSUNAMI」(サザン・オールスターズ)などを器楽用にアレンジしたものも披露された。

この日の弦楽器の編成は少し特殊だった。

普通、弦楽四重奏団といえば、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1で構成されるものだが、この日の構成は、ヴァイオリン1、ヴィオラ1、チェロ1に加えて、コントラバスが入っている。その訳は、後半の曲目にあった。
そう、後半は、シューベルト『ピアノ五重奏曲 イ長調 ます』が演奏されることになっている。

ピアノ五重奏曲といえば、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1にピアノを加えた5人で演奏されるのが普通だ。モーツァルトのピアノ五重奏曲もブラームスのそれも皆同じだ。その中で、シューベルト『ピアノ五重奏曲 イ長調 ます』だけは、コントラバスを加えて演奏するよう指定されている。重低音を強化したいという作曲者の意向からだろうが、その成果やいかに。

演奏はなかなか良かった。演奏者の若さが出ないかと危惧していたのだが、それも杞憂に終わった。
第三楽章のスケルツィオに入る前の緩如楽章で、ピアノと弦楽器のアンサンブルが見事だった。
シューベルトがコントラバスを加えた理由までは理解できなかったが。

コンサートを終えて、「先輩」と駅前のスターバックスで雑談した。話は、「湘南」に及び、私から、「平塚や茅ヶ崎が中心となって、政令指定都市を目指したらいかがでしょう。名前は『湘南市』」と持ちかけると、「先輩」は、「以前からそういう話は出ているのですよ。ところが、鎌倉市と藤沢市が話に乗ってこないのですよ。」と話される。

なるほど、鎌倉市はすでにアイデンティティを確立しているし、藤沢市も自身が肥大化しているので、他の市との合併に食指を動かさないのだろう。「それならば、プライドの高い鎌倉市と藤沢市は措いておいて、平塚市と茅ヶ崎市のほかに、東隣の辻堂市や西隣の大磯町を糾合して、新市を目指すのはどうでしょう。名前も、『湘南海岸市』とすれば、ブランド力の高い政令指定都市となるのではないでしょうか。」・・・夏の夜の無駄話をして、帰途についた。  (2009/7)


(3)早春の北鎌倉

3月のある日、北鎌倉に出かけた。冷たい雨の降る一日だった。鎌倉古陶美術館は、円覚寺の並びにあり、古民家を活用した小さな美術館だ。大きな太い梁の見える建物は、なかなか趣きがある。小さな中庭には、梅の古木が二本、それぞれ紅色と桃色の花を咲かせていて、それが雨にぬれている。一幅の絵のようだ。

館内に展示されているのは、時節柄なのか、「雛人形」だ。様々な雛人形に出会ったが、思った以上に、雄雛が多いのが意外だった。

一隅に、「八十四才 乾山」の揮毫のある日本画が置いてあった。冬の椿か牡丹を画面にあしらったものだが、その構図がユニークだった。右上の二輪の花のうち一輪は、一部が枠からはみでて欠けているのだ。左の上辺、右の二輪よりやや下辺にさらに二輪の花が描かれていて、中辺から下辺にかけて、大きな空間が広がっている。日本画で時々みかける構図だ。

ところで、「乾山」とは? 
有名な尾形光琳の弟の尾形乾山(けんざん)だろうか? だが、乾山は陶芸家で、絵も描いたのだろうか? また、乾山の生きたのは寛文3年(1663年) - 寛保3年(1743年)で、80歳で亡くなっている。84歳までは生きなかったはずだ。とすると、ここでいう「乾山」とは誰のことだろう? 

さて、早春の「鎌倉古陶美術館」を訪れたのは、日本女子プロ将棋協会(LPSA)の主催する棋戦「NTTル・パルク杯第2期天河戦3番勝負第2局」を観戦するためだった。中井広恵天河に石橋幸緒女流四段が挑戦していて、第1局は石橋が制している。この第2局に勝てば、タイトル交代となる。

午後1時から、指導対局のファン・サービスが始まった。私は、中倉宏美女流二段に「飛車落ち」で教わった。「少し悪い手」は何手も指したが、私にしては珍しく、「ものすごい悪手」を指さなくて済んだ。この一時間は至福の時間だった。

午後3時から、富岡英作八段と中倉宏美女流二段による解説会が始まった。
始まった当初は中井が優勢で、その後、石橋が盛り返して、どちらが優勢かわからない情勢が続き、最後は石橋が接戦をものにして、天河位を獲得した。大変見ごたえのある対局だった。

途中、「次の一手」をあてるクイズが出題され、幸運にもそれに当たり、湯のみをいただいた。まったく、ついていた一日だった。

対局終了後、二人の対局者が解説会場まで足を運んで、感想戦を披露してくれた。興奮醒めやらぬ風情の石橋新天河の歯に衣着せぬ感想が印象的だった。

午後6時、お開きとなり、二人の対局者とLPSAの関係者が一列となって、参加者にお礼の挨拶をしている。清々しい光景だった。このようなことができるのは、ほかに、鈴木環那女流初段ぐらいだろう。

中井女流六段と石橋女流四段(新天河)はLPSAを背負う二枚看板だ。今後も各種棋戦で健闘する姿を見せてほしい。 (2010/3)

(4)横須賀紀行

日曜日の午後、神奈川県の「よこすか芸術劇場」に赴き、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いた。野島 稔とその仲間のピアニストたちが、6曲のピアノ・ソナタを一気に演奏する、一種のガラ・コンサートだ。

「よこすか芸術劇場」は京浜急行の汐入駅前にある。開館15年だそうだが、今回初めて訪れた。
劇場はヨーロッパのオペラ・ハウスもどきで、馬蹄形のバルコニーが5階まである立派なものだ。

私は当日券を求めたのだが、予期していた通り、5階のバルコニー席しかなかった。そこから舞台を見下ろすと、広い舞台にピアノが一台とピアニストだけ。ピアニストは文字通り「芥子粒」のようにしか見えない。ピアニストの表情を追うのはあきらめて、音色だけを楽しむことにした。

ところが、この音色が、高い天井によく響き、私のところにも心地よく返ってくる。思わぬ拾い物だ。

曲目とピアニストを列挙すると:

第8番 ハ短調op.13 「悲愴」 神谷郁代
第14番 嬰ハ短調op.27-2 「月光」 田部京子
第17番 ニ短調op.31-2 「テンペスト」 迫 昭嘉
第21番 ハ長調op.53 「ワルトシュタイン」 野平一郎
第23番 ヘ短調op.57 「熱情」 迫 昭嘉
第32番 ハ短調op.111 野島 稔

曲目は、ベートーヴェンの初期・中期・後期を代表する名曲がずらっと並び、ピアニストたちも現代日本を代表する人たちが並んでいる。何とも、贅沢な演奏会だ。

初期に属する「悲愴」と「月光」はハイドン・モーツァルトの流れを汲む典雅な古典派の色合いの濃いものだが、同じく初期の「テンペスト」になると、均整を重んじる気風はすでにない。

中期の「ワルトシュタイン」と「熱情」は、音量からいってもピアニズムからいってもピアノの限界を追い求めるように、劇的な高まりを演出している。

後期の第32番では、華やかなピアニズムから、一転、一つ一つの音を確かめるような思索的なフレーズが続く。後期の弦楽四重奏曲でも同じことがいえるが、構築的で沈潜的な楽曲は、中期の演劇的な楽曲とかけ離れていて、正直いって、難しすぎて理解を越える。

この日の6曲によって、ベートーヴェンの初期から後期までの変遷が素人なりにつかめたように思う。

演奏はみな熱演で、誰が良く、誰が悪い、というのは憚られる。好みだけでいえば、田部京子の熱情的な「月光」と野平一郎の目まぐるしい音の奔流が見られた「ワルトシュタイン」が特に印象に残った。

野島 稔は「よこすかピアノ・コンクール」を主宰していて、この日のピアニストたちはその審査委員であるという。豪華なメンバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴けて、幸せな気分になった。

また、来年のこの催しに注目したい。 

横須賀はアメリカ海軍と日本の海上自衛隊の基地の町であり、なんとなく近寄りがたい。JRの横須賀駅前の横須賀港には、巡洋艦や駆逐艦などが停泊し、さらには、どこかに、原子力潜水艦も潜んでいるのかと思うと、ぞっとする。そのように近寄りがたい町に、立派な芸術劇場ができて、クラシック音楽やバレエを中心に上演しているのは、意外な気がする。

汐入駅から横須賀中央駅まで、「ドブ板通り」(「よこすか芸術劇場」のホームページには「ドブ坂通り」と記載されている。)を歩いてみる。日曜日の昼間なので、通りは死んだように静まっている。
レストランに入って、名物の「よこすか海軍カレー」(850円)を試してみた。感想は、ない。私としては、「松屋」のオリジナル・カレー(350円)の方が口に合う。

教会の前には、日曜日の礼拝を終えた黒人の大人や子供が群れている。黒人ばかりだ。黒人専用の教会なのだろうか? そういえば、「ドブ板通り」で油を売っているアメリカ人も黒人ばかりだった。アメリカ海軍基地は黒人の割合が多いのではないか、と思わせる。

横須賀の町は地元の祭礼でにぎわっていた。はっぴに白足袋の男女が大勢繰り出している。あいにくの雨の中、彼らの意気は盛んだ。

海軍の町、豪華な芸術劇場、ひっそりと息づく地元民。3つの要素が混在する不思議な町-それが横須賀なのだろう。

(「よこすかピアノ・コンクール」は、地元出身の野島 稔の音頭で2006年に創設されたコンクールで、隔年に開催されている。次回は2010年春の予定。)  (2009/5)


究極の本棚・1(須賀敦子)

2010-11-19 08:03:20 | 私の本棚
私の本とのつきあいを省みると、本が際限なく増え続けたのが第一期とするなら、本の処分を始めたのが第二期でした。その後、本の死蔵をやめ、人に譲ることを始めたのが第三期といえるかもしれません。現在はこの第三期の真っただ中ですが、秘かに第四期を見据えています。それは、既存の本を他人と共有するのは従来と同じですが、それに加えて、自分だけの「究極の本棚」を作ろうと試みる時期です。以下、この「究極の本棚」の姿を描いてみたいと思います。

「究極の本棚」に収める本には厳しい条件が付きます。
1.80歳までに是非読みたい本であること。
2.活字が大きいこと、印刷が鮮明なこと、など、読みやすい本であること。
3.本棚1本にすべてが収まること。

以上の条件にあてはまる本を徐々に選んでいきたいと思っています。

第1番:『須賀敦子全集 全8巻』(河出文庫)

単行本で出ていた全集のほぼ完全な文庫化で、このような出版ができたことが奇跡のようです。

須賀敦子は、聖心女子大学を卒業後、フランスに留学し、その後、イタリアに転進しました。ミラノで、書店を営む仲間たちと交流を続け、そのうちの一人と結婚します。ブルジョアのお嬢様と左翼の知識労働者の結婚は波紋を広げたようです。

十数年後、夫が亡くなり、須賀は日本に戻り、それから、文筆活動を始めます。
最初の著書は『ミラノ-霧の風景』です。私は、長らく、この本はミラノの観光案内書だと誤解して、読みませんでした。
次作の『コルシア書店の仲間たち』で、初めて、須賀のバックグラウンドを理解しました。

以後、『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』『ユルスナールの靴』など、イタリアとの係わりを須賀は独特の文章で綴っていきます。しっとりとして、女性らしいやや思い入れの強い文体に特徴があります。

この全集には、エッセーのほか、翻訳や日記なども収録されていて、これらをすべて読んでみたいと思っています。 (2008/1)

中国の憂鬱

2010-11-17 06:41:11 | 歴史文化論の試み
APECが閉幕した。そこに集った各国首脳の中で、中国の胡錦濤国家主席の表情が硬く、その挙措動作があたかもロボットのように見えた。ここに中国の置かれた現在の立場が現われている。

中国は、日本との間に尖閣諸島の領土紛争を抱えているのみならず、同じように南シナ海で、ベトナム・インドネシア・フィリピンなどの国々の漁船を拿捕したりして、物議を醸している。また、領土紛争にからめて、レアアースの輸出制限措置を発動して、全世界の批判を浴びるに至った。

本当に中国と付き合っていて大丈夫か、と思う人が増えている。

中国を理解するためには、その歴史を振り返る必要があろう。

第一に、清朝までの王朝が育んだ「中華思想」がある。中国優越思想だ。この残渣が現代まで尾を引いている。

第二に、アヘン戦争に象徴されるように、十九世紀の欧州・米国・日本の植民地主義に蹂躙された苦い記憶が中国にはある。ナショナリズムを長い間鬱屈させてきたのだ。

第三に、中華人民共和国の成立に伴い、共産党主導国家として現在に至っている。国民を掌握すべきだというプレッシャーに縛られている。

そして、第四に、近年の急速な経済成長とそれに伴う格差の拡大が挙げられる。経済大国への変貌に、国家としての品格や国民性の成熟が追いつかなくなっているのだろう。

このように、中国の歴史的経験を振り返ると、現在の中国が、国権と民権の相克、排外的対外観との格闘、その中での民心掌握への腐心などに翻弄されているのがよくわかる。胡錦濤主席の硬い表情からそのようなことが窺えた。 (2010/11)

ある日の集荷依頼

2010-11-15 10:13:02 | 社会斜め読み
「もしもし。料金後納のゆうパック1つの集荷をお願いします。」
「お客様のお名前をお聞かせください。」
「xxxxです。」
「はい、yyyy様。お客様の住所をお聞かせください。」
「いや、yyyyではなくxxxxです。」
「失礼しました、zzzz様。」
「そうではなく、xxxxです。」
「すみません。お客様の電話が遠いのですが。」
「xxxxです。」
「わかりました、xxxx様。それでは、お客様の住所をお聞かせください。」
「aaaaです。」
「はい、aaaaですね。アパートやマンションの屋号などはございませんか?」
「bbbbです。」
「お客様の電話番号をお聞かせください。」
「ccccです。」

「集荷はゆうパックですね。」
「初めに、そういったでしょう。」
「いくつでしょうか?」
「1つです。初めに、そういったでしょう。」
「大きさはどのくらいですか?」
「100サイズです。」
「みかん箱くらいですか?」
「そうです。」
「台車が必要なくらいの重さですか?」
「それは、集荷する人によりけりでしょう。」

「伝票はお持ちですか?」
「もう、書き終えました。」
「お支払いは、現金ですか? 切手ですか?」
「料金後納だって、初めにいったでしょう。」

「集荷に伺う時間のご希望がございますか?」
「午後にお願いします。」
「2時、4時、6時のどれを希望なさいますか?」
「2時でいいです。」
「それでは、2時にお客様宅に集荷に伺います。」

以上は、ある日の、郵便事業会社のある支店とのやりとりだ。ケイタイからの通話料は160円。
 (2010/11)


同業割引

2010-11-11 06:17:50 | BIBLOSの本棚
インターネットで古本を扱っていますが、時々、本業の古書店から注文をいただくことがあります。
馴染み客の注文の取次ぎの場合や、自店の品揃えの拡充、あるいは、店主が勉強で読むため、など種々のケースがあるようです。

そのような古書店の方からの注文も、一般のお客様からの注文と同じように処理してきました。

最近、ある大手古書店から注文をいただきました。「受注確認通知」に請求額を記入してメールを差し上げました。その返信で、「同業割引を適用していただけないのですか?」という問い合わせがありました。

はて? 何だろう。聞いてみました。

「同業割引とは、古書店同士の取引の場合に10%ディスカウントすることです。」
なるほど。どうやら、この同業割引は古書店業界で暗黙の了解になっているらしい。私が知らなかっただけのことです。

今まで、同業割引を要求された古書店は一店もありませんでした。今回、初めて、古書店として認知されたといえるかもしれません。その意味で、今回のことは新鮮な驚きです。
「さすが、大手古書店。経営がしっかりしているわ。」と感心する気持もありますが、「大手古書店が零細古書店をいじめて、どうなる。」という気持が湧かないでもありません。

今回は気持ちよく、端数をサービスさせていただきました。

さて、立場が逆になったら、どうでしょう。
「BIBLOSの本棚ですが、同業割引でお願いします。」
「は? どちらにあるお店ですか?」
「インターネット専業の古本屋なので、お店はありません。」
「最近、そういうのが多いのよねえ。誰でも、インターネット古書店を名乗って、同業割引を要求するので、困ってしまう。」
こんなやりとりが想像できます。  (2010/11)

公営競技雑感・5

2010-11-09 08:31:15 | スポーツあれこれ
競馬・競輪・ボートレース・オートレースの4つの公営競技は、国や地方自治体の財政を潤す目的で創設されたが、人気の離散によって、中央競馬とボートレースを除き、その開催の大義名分を失ってしまった。

すると、もう一つの大義名分にすがることになる。それは、「関連する業界の振興」という大義名分だ。

競馬の本来の存在意義は、「軍馬の確保」のための「サラブレッドの改良」と「農耕馬の確保」のための「アラブ種の改良」にあった。これは、明治時代以来の大義名分だった。しかし、軍事活動に馬を活用することがなくなり、また、農耕に馬を利用する習慣も廃れてしまった。その意味では、もはや、競馬の本来の存在意義はない。競馬は、スポーツとしての魅力で生き残るしかなくなった。

競輪・ボートレース・オートレースは、いずれも、関連業界(自転車産業・モーターボートとそのエンジン産業・オートバイ産業)の振興という大義名分で生き残っているが、レースとしての魅力を保たない限り、永続は難しい段階に至っている。

結局、(1)大義名分、(2)経営の健全性、(3)スポーツまたはレースとしての魅力、の3つの観点から、公営競技の存続の可否が評価されることになる。

中央競馬:(1)なし(2)健全(3)魅力あり → 存続
地方競馬:(1)なし(2)不採算(3)魅力あり → 廃止
競輪:(1)少ない(2)不採算(3)魅力は限定的 → 廃止
ボートレース:(1)少ない(2)健全(3)魅力なし → 存続
オートレース:(1)少ない(2)不採算(3)魅力なし → 廃止

以上が、公営競技に対するおおざっぱな採点だ。 (2010/11)


公営競技雑感・4

2010-11-07 05:58:52 | スポーツあれこれ
競輪は、競馬と対照的で、「人が走る」。その点では、陸上競技などと共通する、身体能力の勝負が見物だ。

競輪には、もう一つ、別の要素がある。それは、「チームを作って走る」ことだ。これは、説明を加えないとわからないだろう。

競輪は9人の選手で走る。その9人の選手が、いくつかのチームに分かれるのだ。典型的なのが、「三分戦」といわれる、3人ずつの3チームに分かれる場合だ。チーム分けの決まり方は知らない。よくあるのは、「北関東」とか「中部」とかの同郷同士がチームを組む場合だ。

チームの中には序列があり、一番強い選手が縦1列の真中を占め、次に強い選手が先頭、一番弱い選手がしんがりを勤めるというのが定番だ。これには理由があり、競輪は向かい風に弱い。したがって、先頭選手は向かい風の抵抗をかぶるので、不利だ。2番手の選手は、先頭の選手の後ろにいるため、風の抵抗が少ない。その特等席は一番強い選手が取るのが暗黙の了解になっている。

では、なぜ、一番弱い選手が先頭を走らないのか? それでは、「レースを作れない」のだ。ほかのチームとのかけひきを行うには、先頭選手は、いつでも、飛び出せる脚力が必要なのだ。

こうして、3人のチームで、ほかのチームとのかけひきを繰り返して、ゴールをめざすわけだ。もちろん、最後には、落伍する選手が出てくる。それは、チーム内の3番手の選手に多い。

1着・2着は、Aチームの2人かBチームの2人かCチームの2人かで決まることが多いのが競輪の特徴だ。

チームワークが要求される競輪だが、事前にチーム内で相談できるのだろうか? 競技前、選手は宿舎に隔離されているのだが、選手同士で打ち合わせすることができるのだろうか? これは知らない。おそらく、事前の打ち合わせはできない仕組みになっていて、選手同士の連携は阿吽の呼吸で行っているのだろう。その意味で、競輪は最も人間臭い競技といえる。

ボートレースは、公営競技の中では、最も人気の高い競技だが、その人気の理由がわからない。
水面を4周ほどするレースなのだが、スタートして最初のターンを成功させた選手がほぼ1着になるという、単純なものだ。

もちろん、フライングすれすれのスタート技術だとか、ターンの技術だとかがレースを決めることはわかるが、それが最初のターンで決まってしまい、あとは流しているだけ。これのどこが面白いのだろう。

オートレースは、あの爆音が耐えられない。  (2010/11)

公営競技雑感・3

2010-11-05 07:14:23 | スポーツあれこれ
私は、公営競技をあまり知らない。大井競馬に3回、京王閣競輪に1回、平和島ボートレースに1回。実地に見たのはこれだけだ。たまにテレビで放映されるビッグ・レースを観ることがある。

競技別の好き嫌いでいえば、好きな順に、競馬・競輪・ボートレース・オートレースとなる。

競馬はいささか特殊な事情があり、中央競馬と地方競馬の二本立ての開催体系ができている。中央競馬とは、農林水産省の特殊法人である日本中央競馬会が主催するものだ。
地方競馬とは、地方自治体などが組合を作って主催しているものだ。
中央競馬と地方競馬の関係は、サッカーのJ1とJ2、プロ野球の一軍と二軍のようなもの。

ここで扱うのは、地方競馬の方で、前記、川崎競馬と門別競馬は地方競馬の競馬場だ。

競馬はほかの競技とは違う要素がある。それは、「走るのは馬」というもの。もちろん、ジョッキー(騎手)が乗って制御するが、馬の能力によって勝負が決まることが多い。

馬には不思議な側面があり、例えば、先行が得意な馬、追い込みが得意な馬というように、脚質に馬の個性が出る。先行が得意な馬に追い込みを試みさせてもうまくいかない。逆に、追い込みが得意な馬に先行を試みさせても、やはり、うまくいかない。
この脚質がどうして生まれるのか解明して解説している人は聞いたことがない。そこが面白く、競馬の奥行きの広いところだ。 (2010/11)


公営競技雑感・2

2010-11-03 06:50:27 | スポーツあれこれ
競馬・競輪・ボートレース・オートレースの4つの公営競技の入場者数と売上高を見ていえることは;

ボートレースを除いて、いずれも、入場者数が少なく、これでは到底黒字経営は成り立たない。
門別競馬:365人、弥彦競輪:631人、青森競輪:622人などは一日の入場者数が千人を切っている。これでは、観客より関係者の方が多いのではないか、と冗談が飛び出すほどのひどさだ。

ボートレースは、各レース場とも、入場者が1万人を超え、人気の定着ぶりがうかがえる。ただし、売上はそれほど多くなく、一日、1億円台-2億円台のレース場がほとんどだ。これで、経営が成り立つのかは大いに怪しい。

ただ、大きなグレード・レースが開催されるシリーズでは、一日の入場者数が10万人を超えることがある。常滑Bや唐津Bで、10万人超えの入場者数の記録を見たことがある。その時の売上高は記憶していないが、15億円ほどではなかったか? いずれにしても、ボートレースには、いまだに、爆発力が残っていることを証明している。

こう考えると、今風の「事業仕分け」の基準を適用すれば、ボートレース以外の、競馬・競輪・オートレースは廃止すべきなのではないか、ということになる。 (2010/11)


公営競技雑感・1

2010-11-01 07:32:31 | スポーツあれこれ
公営競技、または、公営ギャンブルについて書いてみたい。

「公営競技」とは、競技の名において、賭け事を楽しむものである。具体的には、競馬・競輪・ボートレース・オートレースの4競技を指す。なぜ、「公営」なのか? それは、国(の特殊法人)か地方自治体が主催しているからだ。「公営でギャンブルを主催するとはけしからん。」という意見は以前からある。

国(の特殊法人)や地方自治体がなぜ公営競技を主催するのか? それは、テラ銭が国(の特殊法人)や地方自治体の財政を潤すからであった。ところが、近年、その大前提が怪しくなってきた。

以下は、2010年10月28日付けのスポーツ紙に掲載された、27日の各公営競技の記録である。
入場者数と売上高を並べる。

 川崎競馬 : 6462人 : 7億7100万円
 門別競馬 :  365人 : 1億4100万円

 伊東競輪 : 1246人 : 2億6600万円
 弥彦競輪 :  631人 : 1億3100万円
 青森競輪 :  622人 : 1億6300万円
 一宮競輪 : 2597人 :    9400万円
 福井競輪 : 1007人 : 1億4600万円
 広島競輪 : 1503人 : 1億5000万円

 江戸川B : 16449人 : 1億0000万円(Bはボートレース。以下同じ。)
 多摩川B : 14462人 : 1億3200万円
 平和島B : 31969人 : 2億4000万円
 常滑B   : 71728人 : 5億8200万円
 唐津B   : 14316人 :    9000万円
 住之江B : 38542人 : 2億0600万円
 若松B   : 37104人 : 1億8900万円

 浜松A   : 2616人 :  1億0800万円(Aはオートレース。)

これらの数字から何が読み解けるか? (2010/11)