静聴雨読

歴史文化を読み解く

ロストロポーヴィッチが亡くなった

2007-04-30 05:33:06 | 音楽の慰め
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ氏が亡くなった。享年80。2007年4月28日の新聞各紙が伝えた。

ロストロ(と略してしまおう)さんは有数のチェロ奏者だった。チェロを楽々と弾きこなす技は余人の真似を許さないものがあった。

チェロは人間と同じほどの大きな楽器で、この楽器を用いて旋律を紡ぐのは至難の業、といわれてきた。それまで、チェロ奏者の鑑といわれてきたのはパブロ・カザルスで、カザルスの演奏は精神性の豊かなものという定評があった。国連の会議場で演奏された「鳥の歌」は、平和希求のメッセージを伝えたとして伝説となっている。が、一方、裏を返せば、演奏の技巧面では特筆できるものではない、というのが客観的な評価である。

ロストロさんは、カザルスとは異なり、チェロという楽器の極限の可能性を切り開いて見せた。ロストロさんのチェロから出る音は人間のバリトンの声と聞きまがうほど、内声が豊かで、艶を帯びていた。まったく新しいチェロという楽器を誕生させたのがロストロさんだった。
今では、若いチェリストがチェロを自由自在に操るのを見るのは珍しくない。ヨー・ヨー・マなどはその典型だ。その直接の師範を探せば、ロストロさんに行き着くのだ。

ロストロさんの名演奏を2つ挙げる。

1.シューベルト「アルペジョーネ・ソナタ」
20分ほどの長さのソナタをベンジャミン・ブリテン(ピアノ)と演奏している。私のLPレコードの帯には「奏鳴曲」と印刷している。それほど古い演奏であり、古いLPレコードである。しかし、演奏の中身は、端麗な導入部を持つ第一楽章、文字通り謡うような第二楽章、激しく高みに昇りつめる第三楽章と、典型的な「ソナタ」の名解釈である。
チェロの音域の広さは驚くほどで、このLPレコードは、私のオーディオ・システムをテストするときの基準盤ともなっている。

2.ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」
ロストロさんは生涯何回もこの曲をレコード化している。どれがベストかはわからない。私の持っているのは、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との協演盤だ。これもまた激しい演奏だが、その裏には、ドヴォルザークの望郷の念がにじみ出ている。
ロストロさんとドヴォルザークとの相性の良さは有名だが、その訳は、ドヴォルザークの亡命体験にあるのだと思う。奇しくも、ロストロさんもソ連から市民権を奪われ、外国暮しを余儀なくされるという、似たような体験を持つことになる。

生涯の後半には、ロストロさんは指揮者としても活躍したが、それについて論評するほどの材料は持っていない。
また、ソルジェニーツィン氏との連携、エリツィン大統領との連携などについても、評価の材料を持っていない。
ロストロさんは、とてつもなく大きな、「チェロ奏法の改革者」だったというのが、私の感想だ。 (2007/4)

澁澤龍彦と渋沢竜彦

2007-04-06 06:53:32 | ことばの探求
国語・国字問題はいつの世でも世間の注目を浴びるテーマだ。古くは、明治時代の文部大臣・森有礼(もりありのり)が、標準語をフランス語か英語(あまりびっくりしたので、どちらだったか記憶があいまいだが)にしようと提議したことがある。また、第二次世界大戦に敗北した昭和20年代に、やはり時の文部大臣・山本有三(「路傍の石」の作者)が国字をローマ字に変えようと提議したことがあり、エスペランティストなどが賛同した経緯がある。

いずれも実現しなかったが、国が動くときには、国語・国字問題もにぎやかになるようだ。なぜなら、ことばは、国のガバナンス(統治)、歴史文化の推移、中央と地方との力関係、異国との交流、などの状況を忠実に写す鏡だからだ。

戦後(すなわち、第二次世界大戦敗北後)の昭和20年代に、新かなづかいの採用、当用漢字・教育漢字などの漢字制限施策などが実施されて、国語・国字改革が一挙に進んだ。外来語の大量流入や漢字の字体の簡略化もその一つだ。「廣澤」が「広沢」になり、覚えるにも書くにも便利になった。

近年のIT革命によって、国語・国字問題が改めてクローズアップされることになった。漢字が書けないのに漢字を表現することができるという事態が出現したのだ。そう、「かな漢字変換ソフト」のもたらした奇妙な現象である。
「廣澤」と書けなくてもかまわない。「ひろさわ」でかな漢字変換ソフトにかければ、「廣澤」でも「広沢」でも、お好みの漢字が選べるのだ。

だが、便利なだけではない事態が発生した。 

マルキ・ド・サドの小説の翻訳などで名の高いフランス文学者に澁澤龍彦がいる。何気なくこう書いたが、今日のテーマは彼の姓名の中にある。

「澁澤龍彦」は旧字体の「澁・澤・龍」を含んでいる。新字体の「渋・沢・竜」を使った表記ができるはずである。しかし、ほとんどの出版社の書籍で、彼の姓名は「澁澤龍彦」と表記してあり、旧字体が優勢だ。これは、本人の希望があって、かつ、文学作品の著者名なので、旧字体の姓名を採用しているのだろう。

だが、人によっては、あるいは、場所やメディアによっては、「渋沢竜彦」と表記している場合が大いにあり得る。これだけ、新字体が普及しているのだから。

ここで、近年のIT革命のもう一つの申し子が登場する。Yahoo! や Google などの「検索エンジン」がそれだ。キーワードを指定して、欲する情報を獲得するツールとして便利なものだ。

この「検索エンジン」を使って、例えば、澁澤龍彦の著作を拾ってみる。
「澁澤龍彦」で検索すれば「渋沢竜彦」はひっかからない。逆に、「渋沢竜彦」で検索すれば「澁澤龍彦」はひっかからない。「澁」と「渋」、「澤」と「沢」、「龍」と「竜」、にはそれぞれ別のコードが割り当てられているので、互いにまったく別物とみなされるからだ。

澁澤龍彦の場合は旧字体の「澁澤龍彦」の認知度が高いので、まだ救われる。
「みやざわ賢治」の場合は、見事に「宮沢賢治」と「宮澤賢治」に二分されているのだ。

片方のキーワードだけでは欲する情報をすべて獲得することができない。「澁澤龍彦」=「渋沢竜彦」、「宮沢賢治」=「宮澤賢治」とみなして検索処理をしてくれる検索エンジンはないものか? あるいはあるのかもしれないが、私は知らない。(2007/4)