静聴雨読

歴史文化を読み解く

様々な社会・様々な哲学・2

2008-01-18 04:20:17 | 現代を生きる
最近、感銘を受けたのが金子郁容の次の2つの著作だ。
「ネットワーキングへの招待」、1986年、中公新書
「ボランティア もう一つの情報社会」、1992年、岩波新書

いずれも、古い著作で、新書判の手軽な本だが、これらの中に、私の考えていることと響きあう点が多々ある。

金子は、米国で研究と教職に携わり、帰国後、一橋大学と慶応大学で教鞭をとっている。慶応義塾の幼稚舎の校長もしていたはずだ。現在もそうかは知らない。もともとは情報理論などを研究テーマとしていたようだが、それを踏み台にして、そこからはみ出て、現代社会の哲学を語っている、と私は理解した。

前に挙げたキー概念のうち、「ボランティアの哲学」・「介護の哲学」・「ネットワークの哲学」などは、正に、金子の扱うテーマと共通している。

現代は「共生の時代」だ。ボランティア活動を行う人とそれを受け入れる人との共生、介護を受ける人と介護をする人との共生、など、互いに相手を必要とするような関係を築くことが必須となっている。
金子のひそみに倣えば、このような共生の関係を築き上げるのに「ネットワーク」が使える。ネットワークはいわば透明な媒体であって、そこにつながる人の上下・貧富などを識別しないという特徴がある。今はやりのことばを借用すれば、「格差」を意識しない透明な関係を築くのにネットワークは貢献している。

さて、もう一人、哲学者・和辻哲郎を思い出す。彼の著書に「人間の学としての倫理学」というのがある。1937年に岩波全書の一冊として公刊された。「人間」は「じんかん」と読む。つまり、人と人との間の関係を考えるのが倫理学だと和辻はいっている。英語に直せば、 Ethics as Human Communication とでもいおうか。現代では、倫理学は「哲学」と言い換えたほうがわかりやすいだろう。

金子郁容と和辻哲郎とから導かれるのは、現代の哲学とは、非常に身近な人と人との間の関係を考えるものであり、図らずも和辻が指摘したように、現代の哲学は倫理学と極めて隣接しているといえる。 (つづく。2008/1)

様々な社会・様々な哲学・1

2008-01-05 08:37:47 | 現代を生きる
60歳台の半ばを迎えて、考える対象が変わってきて、その一つが、この歳になって、何に生きがいを見つけるか、であることを述べた。

考えることの二つ目は:
「すべての生き物に精霊が宿る」というのはアニミズムの思想だが、同じように、「すべての社会・すべての生活に哲学がある」、という考えが沸沸と湧いてきているのだ。

このことを具体的に述べてみたい。今までのコラムでも断片的に触れてきたのだが、私のブログのテーマに上ってきたキー概念に、以下のようなものがある。
「老い」
「ボランティア」
「介護」
「クラブ」
「メディア」
「ネットワーク」
「地域振興」
「ブログ」、などなど。

これらのことばに「哲学」ということばを付けても何ら違和感がないことを発見した。
「老いの哲学」
「ボランティアの哲学」
「介護の哲学」
「クラブの哲学」
「メディアの哲学」
「ネットワークの哲学」
「地域振興の哲学」
「ブログの哲学」、などなど。

ここでいう「哲学」とは、難しい概念ではなく、また、実用的なハウツウ的生き方や道徳的な処世訓でもなく、生きる力・勇気を与える力・社会を有機的に組織する力などを指すことばである。  (つづく。2008/1)