静聴雨読

歴史文化を読み解く

西国行脚

2011-11-08 07:52:06 | 足跡ところどころ

 

(1) 芭蕉の心境

 

思い立って、中国を旅することにした。今は「中国」というと隣りの大陸を思い浮かべるが、ここでの「中国」は中国地方だ。

 

世の中への貢献を終え、家族の世話も一段落し、これからは自分自身の生を見つめ直すしかないと思い始めると、しきりに芭蕉の心境が気になり始めた。「おくの細道」への旅を計画した芭蕉は、本当かどうかはさておいて、この旅が人生最後の旅になるかもしれない、あるいは、旅先で野垂れ死にするかもしれないと考え、それでも構わない、と覚悟を決めたのは間違いない。

 

私の場合、それほどまでの深刻さはないが、そろそろこれまでの人生を整理し、お世話になった人には礼をいい、再び会うかわからない人には秘かに最後の別れの挨拶をしたいという気がそぞろに持ち上がった。

 

今回、訪ねる土地は4ヶ所: 倉敷 → 広島 → 美祢 → 山陽小野田 で、3泊4日の旅程を組んだ。 

 

(2)     倉敷

 

初日は岡山県・倉敷に行った。ここには、母の絵の仲間で、母の絵を非常に評価しているHKさんが住んでおられる。

母の最後の個展となった20058月の個展に、HKさんは、そのためだけに、わざわざ東京まで足を運んでくださった。母の絵のどこを評価しているのか? それを知りたかった。

 

HKさんは、勤め先を定年退職して、今は、少々の田を耕したり、畑に野菜を作ったりしながら、画業に勤しんでいる、とのこと。近年、農家の高齢化が進み、田の面倒を見切れなくなった近隣の人から、代わりに田を耕すよう依頼され、結構忙しいらしい。

 

お宅の居間には、幅2間の床の間があり、右半分に仏壇(幅90cm 高さ170cm)が鎮座し、左半分には『天照大神』の大きな掛け軸が掛かっている。神仏同居はこの地では珍しくないらしい。

 

HKさんは20年前か30年前から、母の絵に注目していたそうだ。テーマや色使いが人まねでないことが最も評価する点、だそうだ。

母は、水彩画を描くにあたって、クレパスで輪郭を描くという手法を開発した。クレパスの乗った部分は水をはじくので、絵具が乗らない。この原理を逆手にとって、クレパスの遊びに画想を委ねたのだ。HKさんはこの点を高く評価しておられた。

 

母の絵のテーマは、花・風景・抽象画の3つに分かれるが、実は、クレパスを使った水彩画の花には抽象画に通ずるものがあるのではないか? これは私の見立てだ。

 

これから、母の絵を整理して、人に見てもらえるようにする上で、改めて協力していただきたいとお願いして、倉敷を離れた。 

 

(3)     広島

 

広島には、大学時代のゼミナールのクラスメートSMがいる。サラリーマンを退役して郷里に帰ったそうだ。奥様も広島出身なので、この決定は難なく決まったらしい。

 

SMは40年前の容貌・体躯のまま私の前に現われた。頭髪に白いものが混じっているのだけが変わったところだ。

私はどうか、と聞くと、「少し、ふっくらとなったね。」と言われた。そう、大学時代は53kgだった体重が今では70kgなのだから。

 

広島には大学時代に一度寄ったことがあるだけで、それは山陽新幹線の開通する前のことだ。

その後、町は変貌を重ねたことだろうが、私の関心は変わらないもの、そう、ヒロシマ関連の史跡にある。それで、SMに、原爆資料館と原爆ドームとを案内してもらった。

この春の福島原発の事故以来、ヒロシマを訪れる人が増加しているとSMはいう。

 

ヒロシマ関連の史跡の見学で疲れた後は、旧交を温める酒盛りになった。

ゼミナールのクラスメート(「ゼミテン」といったが、この言葉は今でも生きているのだろうか?)は15名。SMは幹事を勤めていたので、ほとんどのクラスメートを覚えているという。

 

私の場合は、大学卒業後まで付き合いのあったのは一人だけ。それも、数年で途絶えたままだ。

しかし、そぞろ昔のゼミテンに会ってみたいという思いが募っている。

 

本当は、指導教師の恩師が元気だった時にお目にかかる機会をつくるべきだったのだが、7-8年前に恩師は亡くなってしまった。

恩師の生前に一回だけクラス会が開催されたそうだが、そのころ私はクラスメートの誰とも付き合いがなかったので、出席は叶わなかった。

 

そして今、SMにクラス会の開催をもちかけたわけだ。

今年は、大学卒業後45年にあたるので、秋の同窓会の場でゼミナールのクラス会を同時に開催するプランをSMが考えてくれた。久しぶりに旧友の顔が拝めそうだ。 

 

(4) 美祢

 

山口県・美祢市は、秋芳洞・秋吉台のある町として知られている。この町に、高校時代のクラスメートIYさんがいる。Uターンしたご主人に付いてきて二十数年になるという。

 

毎日午後はご主人の経営する工務店の事務の仕事をしているというので、そこにIYさんを訪ねた。高校卒業以来だから、何と49年ぶりの再会だった。IYさんは昔に比べ、少し華やいで見えた。私のことを聞くと、ここでも、「少し、太ったかしら。」と言われた。そう、その通りだ。

 

さて、それからは、クラスの面々や恩師を一人ずつ俎上に上げて、それぞれが知る消息をぶつけ合った。IYさんが卒業アルバムを持ち出し、私が北海道修学旅行の企画冊子を持参して、それらを材料にして、あれこれ話し合った。まったく息つくひまのない言葉の応酬だった。私は口数の少ない方だが、この日の3時間半で、1年分の言葉を発した気分だった。一方、IYさんも、これまでの印象とは異なり、よく話を継いでいたように思う。

 

クラスメートの中にその後結婚したカップルが一組あったのだが、IYさんがいうには、「ほかにも、いろいろ、噂があったのにねえ」とのこと。ここで、ドキッとした。しかし、それ以上聞き出すことは憚られた。次の機会にアルコールを飲ませて、聞き出すことにしよう。

 

山口県といえば、中原中也と金子みすずが思い浮かぶが、今回は二人の名前を出すのを忘れるほど、昔話に熱中してしまった。 

 

来年は高校卒業後50年になるので、そのクラス会で再会しようと約して別れた。  

 

(5) 山陽小野田

 

山口県・山陽小野田市は、小野田市と隣町が合併してできた市で、炭鉱とセメントの町として知られている。ここに、亡くなった兄の嫁が帰って暮らしているので、訪ねてみた。兄は早くに亡くなったので、もう、かれこれ25年になるという。リュウマチの痛みが時々ひどくなり、熱発すると、入院せざるを得ないという。

 

今回訪れた時は、幸い症状が治まっていて、活発に、兄の死後の生活について話してくれた。義姉はよく話す人なので、私は聞き役に回ることが多い。

昨年は左手の骨髄の手術をしたと聞いてびっくりした。悪性のものでないと聞いて、やや安心したが、これからの老後を一人で暮らす不安感が義姉を襲うらしい。

 

3DKの県営住宅の住まいは整頓が行き届いている。この地では、目立つ生活は禁物だと義姉はいう。派手な衣装や装飾品、車の乗り回し、などは要注意らしい。住人は古くからの人が多く、他人の振舞い、とくに他所から越してきた人の振舞いをよく見ていて、心狭い感じを受けるらしい。

 

「お元気で何よりでした。これからも穏やかに過ごしてください。」と挨拶して、山口宇部空港に向かった。 

 

(6)帰ってきて

 

もう二度と来ることはあるまい、また、再び相見(えるまみ)ことは叶わないかもしれない、とやや悲壮な覚悟で出た「西国行脚」であったが、終わってみれば、再会の約束の連続で、いい意味で、予想がはずれた。

 

今回の旅でお目にかかった人たちの年齢は、61歳から70歳まで。

HKさんは、61歳で、サラリーマンを退役したものの、バリバリの農業の現役。

SMは、私と同年で、サラリーマン退役後の生活を楽しむ毎日。

IYさんは、やはり、私と同年で、自営業のご主人(70歳)を手伝う毎日。

義姉は70歳で、老後の生活を守る毎日。

 

未だに仕事に就いている人も、退役した人も、健康に不安を抱きながらも、まずまず、元気で、生活に余裕を見出している。それを確認したのが最大の収穫だった。「再会の約束」も生活の余裕があってこそのことだ。

 

中では、70歳の義姉から聞いた「老後の不安」「一人暮しの不安」が最も身につまされる話題だった。会った人だれもが、まもなく70歳を迎える。迎撃態勢を布くか、協調路線でいくか、それは一人ひとりの老後を迎えるスタンスの問題だ。そのスタンスを決めるのは、やはり、健康状態だろう。

そんなことを、旅から帰ってきて思っている。

 

例えば、5年後に、今回お目にかかった人たちと再会できるかどうかはわからない。私の側に何か起こるかもしれないし、相手側に何かこるかもしれない。そういう微妙な年頃に差し掛かっていることは日々認識していく必要がある。

 

この旅を契機にして、さらに、各地を経巡ってみたいと思う。  (2011/6

 


世界史像の組み換え・2

2011-11-06 07:19:49 | 歴史文化論の試み

さて、本論に入ります。少し長くなりますが、一気に載せます。

(4)再び、世界史とは?

高校の「世界史」の授業では、多くのことを教えられましたが、それでも、多くのことを教えられないまま終わった、という感も否めませんでした。それは、いわば当然で、あらゆる地域の古代から現代までを網羅して授業するためにどれだけの授業時間を確保すれば足りるかを考えれば、容易にわかることです。

そもそも、「世界史」とは何か、を考える必要がありそうです。

一つの地域、一つの民族、一つの国家の歴史を仮に「一国史」と名づけますと、「一国史」の学習は、その地域、その民族、その国のアイデンティティを理解するために必須でしょう。「バルカン半島の歴史」、「ユダヤ民族の歴史」、「日本史」などを思い浮かべればわかります。

それに対し、「世界史」とは何であるべきでしょうか? 単に、他の地域、他の民族、他の国家の「一国史」をいくつか学ぶのでは、「世界史」とはいえないのではないでしょうか? 私の疑問はここにあります。

ともすれば、日本人の学ぶ「世界史」が、西洋中心=ヨーロッパ中心の歴史になりがちで、東アジアを「極東」と呼ぶ見方や、植民地拡張の時代を「大航海時代」と言い習わす歴史観を植えつけるのに貢献してきました。

西洋中心=ヨーロッパ中心の歴史観を覆す「世界史」学習のパラダイムの変革が必要です。その方法論を次回から述べたいと思います。  

(5)「交渉史」としての世界史

他の地域、他の民族、他の国家の「一国史」をいくつか学ぶ「世界史」を脱して、新しい「世界史」像を作りたい。切実にそう思います。

まず、ある地域、ある民族、ある国家と他の地域、他の民族、他の国家とが対立し交流する様を描き・理解する「交渉史」が欲しいと思います。

一例として、中世の地中海を舞台にしたイスラム勢力とキリスト教勢力との対立と相互浸透を挙げましょう。

前に、大学の「世界史」の入学試験問題の一つを見ました。

「問い。次の文章を読み、具体的史実に照らして、100字以内で、解説せよ。『地中海を挟み、長らく対抗していたイスラム勢力とキリスト教勢力の関係は、15世紀を迎え、ようやく一つの決着を見た。』」

解答の一つとして:
「地中海沿岸からヨーロッパ南部を侵略したイスラム勢力に対して、11世紀以降数次の十字軍を
中東に派遣するなど、キリスト教勢力が反攻に転じ、ついに1492年、スペインのグラナダ城を開城させ、イスラム勢力からのレコンキスタ(国土回復)を実現させた。」を挙げました。

実は、この解答は、キリスト教勢力に立った見方に過ぎません。イスラム勢力に立てば、自ずから別の解答があるでしょう。ところが、イスラムの考えを学んで来なかった私は、イスラム勢力に立った中世地中海史がわからないままです。これまでの世界史教育に大きな欠陥があるといわざるをえません。

一つの史実に対して、二つの、あるいはそれ以上の地域、民族、国家が対立し交流する「交渉史」を学ぶことこそ「世界史」にふさわしいのではないでしょうか?  

もう一つの例を挙げましょう。

世界の近代史は植民政策の歴史であったといってもいいすぎではありません。ヨーロッパを主体とする近代国家が、中南米・アジア・アフリカの諸国を植民地にしていく歴史が世界近代史です。

フィリピンのセブのマクタン島に、マゼラン到達の記念碑が立っています。マゼランとは、いうまでもなく、ポルトガルの冒険家・航海者で、初めて大西洋を西に向かって横断することに成功したことで有名です。そして、その足で、太平洋を西に進み、フィリピンにまで到達したのです。そこで、マクタン島の領主ラプ・ラプとの戦闘で命を落としました(1521年)。

マクタン島のマゼラン到達の記念碑は面白い構造になっています。一面には、ラプ・ラプがマゼランを迎え撃って、これを倒したと記しています。もう一面(つまり、裏面)には、マゼランがフィリピンにまで到達したものの、ラプ・ラプと戦って破れた、と記しています。この記念碑が象徴するように、一つの史実には二つの側面からの見方がありうるのです。その両面の見方を理解しない限り、「世界史」を正しく把握することにはなりません。

植民政策の歴史は、これまで、あまりにも、植民者=ヨーロッパの側からの記述に偏っていました。中南米・アジア・アフリカからの見方を付け加えて、植民政策の功罪を理解すること、これが「交渉史」としての「世界史」を学ぶ意義だと思います。 

(6)近代の官僚制

一つの史実に対して、二つの、あるいはそれ以上の地域、民族、国家が対立し交流する「交渉史」を学ぶことが「世界史」にふさわしいのではないか、と申しました。もう一つ、別の角度から問題を提起してみます。

歴史にはそれを突き動かす原動力があります。すでに見たように、産業革命とそれに続くフランス革命などのブルジョワジーによる革命は近代を刻印するものです。しかし、各国の近代化の過程は互いに似ているところと似ていないところがあります。それはなぜか、考えてみる価値があります。

一般的にいえば、ブルジョワジーは近代国家の形成と運営を自ら行わず、その任を官僚に委ねました。その結果、各国に強大な「官僚制」が生まれました。これが似ているところです。フランス革命以後のフランスはその典型です。また、イギリス・ドイツなどのヨーロッパ諸国もこれに倣いました。

わが国でも、明治以来の「富国強兵」の国つくりを託されたのは、官僚です。政府のナンバー2かナンバー3の大久保利通を半年以上も欧米に派遣して、それらの国情をつぶさに視察させ、欧米の法制度や国民掌握術などをわが国に輸入させました。その結果、わが国は急速な近代化を成し遂げます。

しかし、「官僚制」にも影の側面のあることがやがてはっきりしてきます。 

1914年と1918年のロシア革命で、ロシアに社会主義政権が誕生しました。多くの人の夢を乗せた国作りがロシアで始まりました。

ところが、まもなく、社会主義政権を牛耳るのが、ほかならぬ官僚たちであることが誰の目にも明らかになりました。国民、人民、大衆、といろいろことばはありますが、これらの人たちの生活を守り、生活程度を上げていく任務を担っていたはずのソ連政府の官僚が、自らの特権を擁護することに汲々とするとするようになりました。

やがて、1989年の「ベルリンの壁」の崩壊に伴い、ソ連も解体の憂き目に遭いました。当然のことでした。

ソ連時代のロシアには、「サービス」という概念がありませんでした。「サービス」を提供しなくても、誰でも同じ賃金が得られる「悪平等」の考えに、官僚が染まってしまったからです。

同じような事態は中国でも見られます。1948年の中華人民共和国の成立以来、中国を指導してきたのは、中国共産党とその教えを実行する官僚群でした。官僚たちは国の近代化に貢献するとともに、賄賂・腐敗の温床にもなってしまいました。

このように、資本主義社会と社会主義社会とを問わず、「官僚制」は近代国家に不可欠の統治機構であるようなのです。その反面、強力な統治機構の「負」の側面が必ず現われることに注意すべきです。 

(7)わが国の場合

さて、翻って、わが国を見てみると、明治政府は近代化のピッチを上げるために、官僚制をフルに活用してきたことはすでに見た通りです。以降、「優秀な官僚」という神話がわが国を闊歩してきましたが、海外への領土拡張という軍部に意向には抵抗する術がありませんでした。よくよく考えてみますと、「官僚」とは何かに仕える存在です。ブルジョワジーに仕えていた官僚が、仕える相手を軍部に変えたにすぎない、とみなすこともできます。

第二次世界大戦に敗北した日本は戦後の復興に向かうことになりますが、そこで再び、官僚が活躍しました。国土の復興・民心の鼓舞に果たした官僚の力は無視できません。

しかし、戦後の復興を終え、高度成長を果たした今、官僚の「負の側面」が指摘されるようになりました。それを一言でいえば、官僚の「上から目線」が国民の批判にさらされ始めたのでした。国を思う気持は人一倍強い官僚ですが、国民に対しては、上から指導する癖が抜けないのです。

「テクノクラート」ということばがあります。特定の技術分野の専門家で、その分野では並ぶものもいない存在です。例えば、発電の分野における原子力発電の専門家、など。今では、ITの分野におけるIT専門家もそうかもしれません。これらの「テクノクラート」は、官僚制の生み出した官僚の双生児です。

また、わが国には、「労働貴族」ということばもあります。これに見合う英語があるのかどうか、わかりません。「労働貴族」とは、労働組合幹部のことで、経営者と渡り合う経験を積むうちに、いつのまにか、労働者を上から見る習慣を身につけ、生活ぶりも貴族のようになった人たちのことです。

官僚、「テクノクラート」、「労働貴族」の三者に共通するのが、国民を上から見る目線です。

近代国家が、国を問わず、また、体制を問わず、官僚制に支えられていることを見てきましたが、果たして、国と国の間に、また、体制と体制との間に、「官僚制」に質的差があるのか、を知りたいと思います。

長々と書いてきましたが、このような、国と国、また、体制と体制、を比較する「比較史」が、新しい「世界史」のテーマであるべきではないか、というのが私のいいたいことでした。  

(8)「交渉史」と「比較史」

これまで「世界史像の組み換え」と題して述べてきたことをまとめます。

一つの地域、一つの民族、一つの国家の歴史をたどる「一国史」は、その地域、その民族、その国家のアイデンティティを理解するために必須です。日本人にとっての「日本史」、セルビア人にとっての「バルカン半島史」、イスラエル人にとっての「ユダヤ民族史」を例にとれば、それは明らかです。

一方、ある地域、ある民族、ある国家の人びとが「世界史」を学ぶということはどういう意味があるのでしょうか? 

例えば、イギリスに留学する人がイギリスの「一国史」を学びたがったり、セルビアを旅行する人が「バルカン半島史」を知りたがったりするのは、あくまでも他の地域、他の民族、他の国家の歴史としての「一国史」を知るということに止まります。

そのような他国の「一国史」といわゆる「世界史」とは異なるはずだ、と私は言いたい。

そして、本当に学んで意味のある「世界史」とは、複数の地域、民族、国家が互いに作用を及ぼしあう「交渉史」と、歴史を突き動かす力が地域、民族、国家ごとにどのように違うのか・あるいは似ているのか、を検討する「比較史」とではないかというのが私の仮説です。

「交渉史」(相互作用=英語の interaction=の歴史、といったほうが私の言わんとするのに近いかもしれません。)の例として:

1. 中世地中海世界を舞台にした、イスラム勢力とキリスト教勢力との争い
2. ヨーロッパ諸国による植民政策の中南米・アジア・アフリカ諸地域に及ぼした影響、

を挙げましたが、さらに、

3. 小麦・香料・花卉などの東西にわたる伝播と交易
4. インドに発祥した仏教の東漸

など、興味あるテーマが多くあります。

「交渉史」のキモは、影響を及ぼした側と影響を受けた側とを等しく見る眼を養うこと、と、両者の相互作用を学ぶことにあります。

また、「比較史」の例として:

5. 近代国家における「官僚制」の比較

が重要なことを指摘しました。他にも、例えば:

6. 封建制から資本主義への移行に当たって、イギリス・フランスなどのヨーロッパ「先進」諸国と、ロシア・日本などの「後進」諸国との間で、どのような違いがあったか
7. 宗教と政治との関わり方について、イスラム教・キリスト教・仏教とで、どのような違いがあるか

など、興味あるテーマは数多くありそうです。

「比較史」においても重要なことは、比較的なじみのない側の見解に耳を傾けることではないでしょうか? それこそが、「世界史」を学ぶ意義だと思います。繰り返しになりますが、「世界史」とは、一つの歴史事象を複数の眼で見てみることだと思います。そのことによって、物事を多角的に見て判断する訓練ができるのだと思います。 (終わる。2010/3-4)


世界史像の組み換え・1

2011-11-04 07:00:40 | 歴史文化論の試み

(1)世界史とは

私の高等学校の社会科では、日本史と世界史とのどちらかを選択し、地理と政治・経済とのどちらかを選択するようにカリキュラムが組まれていたように記憶しています。今になって思えば、地理を除く日本史、世界史、政治・経済はいずれも必須ではないでしょうか? 授業時間の制約から、このような科目選択制が敷かれていたのでしょう。

日本史と世界史に限っていっても、どちらも、知識として身につけておきたい教科でした。私は世界史を選びました。日本史が、細かい歴史的事実(年号も含めて)の暗記を求めるのに対して、世界史は、もう少し広い視野に立って歴史を俯瞰する訓練ができるのではないか、というのがその理由でした。さらにもう一つの要素が私を世界史に駆り立てました。それは、簡単にいえば、ヨーロッパへの憧れ、でした。

もちろん、世界史ですから、古代オリエントから始まり、連綿と続く歴史文化を跡付けるのは当然です。ギリシア、ローマの地中海世界からヨーロッパへと、歴史文化をたどるのは、いわば、「定番」です。中世以降は、ヨーロッパが主役の座に座り、産業革命からフランス革命へと、近代化への道をたどるのが、世界史のハイライトでした。

しかし、他にも、イスラム社会の興隆と衰退や、インド・中国の文明の興起、ラテン・アメリカの勃興、アメリカの独立と強大化など、「世界史」には、採り上げなくてはならない要素が多くあります。それらをすべて採り上げるには、時間が足りません。ここでも、時間不足のせいで、世界史=ヨーロッパ史のように思い込まされたフシがあります。もっとも、ヨーロッパへの憧れに身を焦がしていた生徒には、それで何ら不満はありませんでした。 

(2)一つの世界史像

さて、私が志望することにした大学には、ヨーロッパ中世史の大家が何人かいました。それらの先生の出題する入学試験の「世界史」はユニークなことで知られていました。

先生方の編んだ「高校世界史」の教科書があり、高校の先生からそれを見せられ、入学試験の「世界史」の「傾向と対策」に励みました。その教科書を見て、驚いたのは、中世史に割くページが多いのです。

その大学の過去の「世界史」の入学試験問題を見て、さらに驚きました。それを思い出しながら、再現してみます。

「問い。次の文章を読み、具体的史実に照らして、100字以内で、解説せよ。『地中海を挟み、長らく対抗していたイスラム勢力とキリスト教勢力の関係は、15世紀を迎え、ようやく一つの決着を見た。』」

この文章を読み解くことが求められています。
一つの答えを示すと:
「地中海沿岸からヨーロッパ南部を侵略したイスラム勢力に対して、11世紀以降数次の十字軍を中東に派遣するなど、キリスト教勢力が反攻に転じ、ついに1492年、スペインのグラナダ城を開城させ、イスラム勢力からのレコンキスタ(国土回復)を実現させた。」

こういう問題が10問(か15問)出るのが、この大学の「世界史」の入学試験問題でした。

このように、史実を読み解く力を高校生に求めるのはいかがなものか、という批判もあったようですが、この問題が、唯一の「解答」を求めているのではなく、いろいろあり得る「解説」を求めているのだとすれば、今時の「マル・バツ」式問題や「穴埋め」問題よりもはるかに歴史理解の深さを測るのに適していたように思います。  

(3)フランス近代史

話戻って、高等学校の世界史の授業では、1789年のフランス革命から始まり、ナポレオンの登場、二月革命、七月革命、パリ・コンミューンと続くフランス史は息継ぐ暇もないほど劇的な場面に満ちています。このフランス近代史を学ぶ過程で、近代史のダイナミズムに触れました。

フランス革命が掲げた「自由(liberte)・平等(egalite)・友愛(fraternite)」の理念が、モンテスキュー・ヴォルテール・ルソーなどの18世紀啓蒙主義に淵源を持つものであることや、新興ブルジョワジーが貴族階級に取って代わったのがフランス革命の意味であることを知って新鮮な驚きを覚えました。

没落する階級と興隆する階級の力学を理解するには、高校の世界史の教科書だけでは物足りなく感じ、副読本も読みました。それが、次の2冊です。

シェイエス『第三階級とは何か』、昭和25年、岩波文庫
カール・カウツキー『フランス革命時代における階級対立』、昭和29年、岩波文庫

このような学習を通じて、フランス革命とは、新興ブルジョワジーが貴族階級を駆逐するものであると同時に、新たに、新興ブルジョワジーと「第三階級」との対立の幕開けを宣言するものでもあったことがわかりました。「第三階級」とは、農村の小農民・都市の低賃金労働者・小規模自営業者などを併せた呼称です。

フランス革命の掲げた「自由・平等・友愛」の理念のうち、「自由」はブルジョワジー主導の民主主義によって実現を見ました。それに比べ、「平等」と「友愛」については、ブルジョワジーと「第三階級」との対立を解決しない限り、誰の眼にも見えるものにならないわけです。

この点を鋭く衝いたのがバブーフの一派でした。
フランス革命後のジャコバン党の独裁政治が倒されはしたものの、新興ブルジョワジーと「第三階級」との格差は広がる一方でした。これに危機感を抱いたバブーフの一派は、「平等」を掲げて、「第三階級」の地位向上を企てましたが、敢え無くその狙いはつぶされました。「バブーフの陰謀」と呼ばれる事件です。

「バブーフの陰謀」に関する日本語の文献は次の通りです:
柴田三千男『バブーフの陰謀』、岩波書店
平岡 昇『平等に憑かれた人々-バブーフとその仲間たち-』、岩波新書

長らく気になりながら確かめられなかったバブーフの一派の思想を、今年になって、ようやく知ることができました。平岡によれば、バブーフの一派の思想は、主にルソーの『人間不平等起源論』と『社会契約論』に拠ったものであり、いずれも小農民出身の論客による、新興ブルジョワジーと「第三階級」との「平等」を目指すものであり、カール・マルクスより以前の初期社会主義の萌芽であったそうです。

「平等」を目指す運動は、以後、19世紀から20世紀にかけて連綿と続きますが、なお、解決することなく21世紀にまで持ち越されています。わが国でも、鳩山内閣が公表したわが国の「貧困率」の高さが衝撃を与えました。突然、バブーフを思い出したのも、そのようないきさつがあってのことでした。 (2010/3)