(1) 芭蕉の心境
思い立って、中国を旅することにした。今は「中国」というと隣りの大陸を思い浮かべるが、ここでの「中国」は中国地方だ。
世の中への貢献を終え、家族の世話も一段落し、これからは自分自身の生を見つめ直すしかないと思い始めると、しきりに芭蕉の心境が気になり始めた。「おくの細道」への旅を計画した芭蕉は、本当かどうかはさておいて、この旅が人生最後の旅になるかもしれない、あるいは、旅先で野垂れ死にするかもしれないと考え、それでも構わない、と覚悟を決めたのは間違いない。
私の場合、それほどまでの深刻さはないが、そろそろこれまでの人生を整理し、お世話になった人には礼をいい、再び会うかわからない人には秘かに最後の別れの挨拶をしたいという気がそぞろに持ち上がった。
今回、訪ねる土地は4ヶ所: 倉敷 → 広島 → 美祢 → 山陽小野田 で、3泊4日の旅程を組んだ。
(2) 倉敷
初日は岡山県・倉敷に行った。ここには、母の絵の仲間で、母の絵を非常に評価しているHKさんが住んでおられる。
母の最後の個展となった2005年8月の個展に、HKさんは、そのためだけに、わざわざ東京まで足を運んでくださった。母の絵のどこを評価しているのか? それを知りたかった。
HKさんは、勤め先を定年退職して、今は、少々の田を耕したり、畑に野菜を作ったりしながら、画業に勤しんでいる、とのこと。近年、農家の高齢化が進み、田の面倒を見切れなくなった近隣の人から、代わりに田を耕すよう依頼され、結構忙しいらしい。
お宅の居間には、幅2間の床の間があり、右半分に仏壇(幅90cm 高さ170cm)が鎮座し、左半分には『天照大神』の大きな掛け軸が掛かっている。神仏同居はこの地では珍しくないらしい。
HKさんは20年前か30年前から、母の絵に注目していたそうだ。テーマや色使いが人まねでないことが最も評価する点、だそうだ。
母は、水彩画を描くにあたって、クレパスで輪郭を描くという手法を開発した。クレパスの乗った部分は水をはじくので、絵具が乗らない。この原理を逆手にとって、クレパスの遊びに画想を委ねたのだ。HKさんはこの点を高く評価しておられた。
母の絵のテーマは、花・風景・抽象画の3つに分かれるが、実は、クレパスを使った水彩画の花には抽象画に通ずるものがあるのではないか? これは私の見立てだ。
これから、母の絵を整理して、人に見てもらえるようにする上で、改めて協力していただきたいとお願いして、倉敷を離れた。
(3) 広島
広島には、大学時代のゼミナールのクラスメートSMがいる。サラリーマンを退役して郷里に帰ったそうだ。奥様も広島出身なので、この決定は難なく決まったらしい。
SMは40年前の容貌・体躯のまま私の前に現われた。頭髪に白いものが混じっているのだけが変わったところだ。
私はどうか、と聞くと、「少し、ふっくらとなったね。」と言われた。そう、大学時代は53kgだった体重が今では70kgなのだから。
広島には大学時代に一度寄ったことがあるだけで、それは山陽新幹線の開通する前のことだ。
その後、町は変貌を重ねたことだろうが、私の関心は変わらないもの、そう、ヒロシマ関連の史跡にある。それで、SMに、原爆資料館と原爆ドームとを案内してもらった。
この春の福島原発の事故以来、ヒロシマを訪れる人が増加しているとSMはいう。
ヒロシマ関連の史跡の見学で疲れた後は、旧交を温める酒盛りになった。
ゼミナールのクラスメート(「ゼミテン」といったが、この言葉は今でも生きているのだろうか?)は15名。SMは幹事を勤めていたので、ほとんどのクラスメートを覚えているという。
私の場合は、大学卒業後まで付き合いのあったのは一人だけ。それも、数年で途絶えたままだ。
しかし、そぞろ昔のゼミテンに会ってみたいという思いが募っている。
本当は、指導教師の恩師が元気だった時にお目にかかる機会をつくるべきだったのだが、7-8年前に恩師は亡くなってしまった。
恩師の生前に一回だけクラス会が開催されたそうだが、そのころ私はクラスメートの誰とも付き合いがなかったので、出席は叶わなかった。
そして今、SMにクラス会の開催をもちかけたわけだ。
今年は、大学卒業後45年にあたるので、秋の同窓会の場でゼミナールのクラス会を同時に開催するプランをSMが考えてくれた。久しぶりに旧友の顔が拝めそうだ。
(4) 美祢
山口県・美祢市は、秋芳洞・秋吉台のある町として知られている。この町に、高校時代のクラスメートIYさんがいる。Uターンしたご主人に付いてきて二十数年になるという。
毎日午後はご主人の経営する工務店の事務の仕事をしているというので、そこにIYさんを訪ねた。高校卒業以来だから、何と49年ぶりの再会だった。IYさんは昔に比べ、少し華やいで見えた。私のことを聞くと、ここでも、「少し、太ったかしら。」と言われた。そう、その通りだ。
さて、それからは、クラスの面々や恩師を一人ずつ俎上に上げて、それぞれが知る消息をぶつけ合った。IYさんが卒業アルバムを持ち出し、私が北海道修学旅行の企画冊子を持参して、それらを材料にして、あれこれ話し合った。まったく息つくひまのない言葉の応酬だった。私は口数の少ない方だが、この日の3時間半で、1年分の言葉を発した気分だった。一方、IYさんも、これまでの印象とは異なり、よく話を継いでいたように思う。
クラスメートの中にその後結婚したカップルが一組あったのだが、IYさんがいうには、「ほかにも、いろいろ、噂があったのにねえ」とのこと。ここで、ドキッとした。しかし、それ以上聞き出すことは憚られた。次の機会にアルコールを飲ませて、聞き出すことにしよう。
山口県といえば、中原中也と金子みすずが思い浮かぶが、今回は二人の名前を出すのを忘れるほど、昔話に熱中してしまった。
来年は高校卒業後50年になるので、そのクラス会で再会しようと約して別れた。
(5) 山陽小野田
山口県・山陽小野田市は、小野田市と隣町が合併してできた市で、炭鉱とセメントの町として知られている。ここに、亡くなった兄の嫁が帰って暮らしているので、訪ねてみた。兄は早くに亡くなったので、もう、かれこれ25年になるという。リュウマチの痛みが時々ひどくなり、熱発すると、入院せざるを得ないという。
今回訪れた時は、幸い症状が治まっていて、活発に、兄の死後の生活について話してくれた。義姉はよく話す人なので、私は聞き役に回ることが多い。
昨年は左手の骨髄の手術をしたと聞いてびっくりした。悪性のものでないと聞いて、やや安心したが、これからの老後を一人で暮らす不安感が義姉を襲うらしい。
3DKの県営住宅の住まいは整頓が行き届いている。この地では、目立つ生活は禁物だと義姉はいう。派手な衣装や装飾品、車の乗り回し、などは要注意らしい。住人は古くからの人が多く、他人の振舞い、とくに他所から越してきた人の振舞いをよく見ていて、心狭い感じを受けるらしい。
「お元気で何よりでした。これからも穏やかに過ごしてください。」と挨拶して、山口宇部空港に向かった。
(6)帰ってきて
もう二度と来ることはあるまい、また、再び相見(えるまみ)ことは叶わないかもしれない、とやや悲壮な覚悟で出た「西国行脚」であったが、終わってみれば、再会の約束の連続で、いい意味で、予想がはずれた。
今回の旅でお目にかかった人たちの年齢は、61歳から70歳まで。
HKさんは、61歳で、サラリーマンを退役したものの、バリバリの農業の現役。
SMは、私と同年で、サラリーマン退役後の生活を楽しむ毎日。
IYさんは、やはり、私と同年で、自営業のご主人(70歳)を手伝う毎日。
義姉は70歳で、老後の生活を守る毎日。
未だに仕事に就いている人も、退役した人も、健康に不安を抱きながらも、まずまず、元気で、生活に余裕を見出している。それを確認したのが最大の収穫だった。「再会の約束」も生活の余裕があってこそのことだ。
中では、70歳の義姉から聞いた「老後の不安」「一人暮しの不安」が最も身につまされる話題だった。会った人だれもが、まもなく70歳を迎える。迎撃態勢を布くか、協調路線でいくか、それは一人ひとりの老後を迎えるスタンスの問題だ。そのスタンスを決めるのは、やはり、健康状態だろう。
そんなことを、旅から帰ってきて思っている。
例えば、5年後に、今回お目にかかった人たちと再会できるかどうかはわからない。私の側に何か起こるかもしれないし、相手側に何かこるかもしれない。そういう微妙な年頃に差し掛かっていることは日々認識していく必要がある。
この旅を契機にして、さらに、各地を経巡ってみたいと思う。 (2011/6)