(10)渡辺季彦の事績
渡辺茂夫と渡辺季彦は二人三脚で「ヴァイオリン道」を歩んできた。
渡辺茂夫が大成(といっていいかどうかためらわれるが)するに当たって、渡辺季彦の果たした役割はとてつもなく大きい。
季彦自身、「ヴァイオリンの音色についてお誉めいただいておりますが、これは・・・レオポルド・アウアー、カール・フレッシュ、そして私の奏法によるものと考えます。」と言い切っている。(『神童』のライナー・ノーツより、1996年)
季彦が茂夫の英才教育を始めた時(1946年ころか)から50年間、季彦のヴァイオリン教授法の信念に揺るぎはない。
それならば、なぜ、季彦は茂夫を手離してアメリカに留学させたのか? これが、1996年にテレビ・ドキュメンタリー「よみがえる調べ 天才バイオリニスト渡辺茂夫」を見た時以来、私の抱いてきた疑問であった。
その疑問は、『神童』『続・神童』に収録されているオーケストラとの協演を聴いて氷解した。茂夫とオーケストラとでは、レベルが違いすぎるのだ。茂夫が自由奔放に弾いているのに対して、オーケストラはつぶやくように、単調な節をつけているだけで、協奏にならない。
日本の中では茂夫の才能をこれ以上伸ばす環境がない。これが、季彦の下した判断だったのだ。
茂夫の教育を誰の手に委ねるか、については、様々な動きがあったようである。
江藤俊哉は、カーティス音楽院でジンバリスト氏に教えてもらうのがいいと進言したらしい(1954年)。
同じく1954年にヤッシャ・ハイフェッツはジュリアード音楽院に入学することを勧める。
1955年には、ダヴィッド・オイストラッフの前で茂夫は演奏を披露している。
結局、茂夫はジュリアード音楽院でイヴァン・ガラミアン教授に師事することになるのだが、奏法を巡り師弟の対立が生じたことはすでに述べた通りだ。
ここで、仮定の話だが、季彦が茂夫に同道してアメリカに行けばよかったのではないか、という荒唐無稽な考えが浮かぶ。「ステージ・ママ」ならぬ「ステージ・パパ」であるが、奏法について季彦がガラミアン教授と徹底的に討論する機会があれば、結果はともあれ、茂夫が一人追い込まれることは避けられたのではないか、と思うのだ。
季彦に後悔があったとすれば、この一点に尽きるように思われる。 (つづく。2008/5)
(11)見出された時
茂夫帰国の1958年から、茂夫の亡くなる1999年まで41年間。この間、茂夫は季彦の介護を受けて余生を送った。あたかも、この間、時が止まったように見える。しかし、時は止まっていなかった。
1988年に「渡辺茂夫ヴァイオリン演奏の記録」というCD(3枚組。非売品)がまとめられた。それに尽力した俵田武彦氏も鬼籍に入られたという。
そして、1996年の「渡辺茂夫現象」とでもいうべき、茂夫の奇跡的復活。
2006年の渡辺茂夫作曲の「ヴァイオリン・ソナタ」2曲のCD発売。
埋もれかけた一人の天才ヴァイオリニストは、48年かけて、確実に見出された。
時はしばしば忘却の味方をするものだが、茂夫の場合は、時の経過が醸成する何かが働いているように思える。それは、戦後の混乱期への郷愁かもしれないし、「蒼穹」を想起させる茂夫の磁力かもしれないし、また、今は忘れられかけているアウアー奏法のもたらす「深くたゆたう」音色のせいかもしれない。
2006年3月にこのコラムを書き始めてから、読者からコメントを寄せていただいた。中には、横浜の放送ライブラリーに足を運んだ方もおられた。茂夫の魅力は今なお失せず、新しいファンを獲得し続けているようだ。現在も、渡辺茂夫は「見出され」続けている、といってよい。
(2008/5)
山本茂様:コメントありがとうございました。
私も貴著『神童』に感銘を受けた一人です。
毎日放送のドキュメンタリーは、自殺説に触れないとともに、謀殺未遂説も紹介しないことで、中立を保っていたように思います。
私がこのドキュメンタリーに感心した一つに、そのナレーション、つまり、コメンタリーが冷静で、要を衝いていたことがあります。わが国のドキュメンタリーとしては画期的なことでした。