真相は如何にと云うところで、調べてみるといろいろ新たな発見、知らないことってまだまだタンとあります。
先ずはこの地の・畑の提灯山笠、子供の頃から見ています。結構勇壮な喧嘩というか、競争する走りの提灯山笠が、初夏の夜を彩ります。
最近は開演時期が違ってきたのかな?
おらっちゃの行ってた頃は丁度梅雨の終りで、天気次第でどーなるんだろう?と結構やきもきした思いがあります。
いろいろ調べると、昭和の終りまではやはり7月13~15日、梅雨の真っ盛り、
平成に入り、7月第四土曜日を挟む3日間、概ね梅雨明けしてますね、この時期ならば。
写真は以下ネットからの借用、承諾得ていないので盗用になるのかな?
悪気はないので、許してませませ!!
この祭り、祭りの最初に安全のため、神輿とともに海岸で「お汐井汲」とよばれる神事を行い、
清めて安全を祈願して始まる様です。
この汐井汲、こっち方面の祭りでは結構神事として実施されており、この由来もちょっと調べてみたいもんです。
今回は山笠由来がメインですので、これを詳しく調べてみます。
江戸時代の1802(享和2年)、この地に疫病がまん延した際に神社に祈祷したところ、疫病が収まったことを喜んだ村人たちが
1803(享和3年)に須賀大神(スサノオノミコト)に対し、感謝の意を表した祝い山笠を作り奉納した行事が始まりと云われている。
かれこれ200年以上続いています。かっては大山笠4基だけだった様だが、1960(昭和35年)以降小山笠4基が追加され、計8基の
山笠行事となっている。
大山笠は12段の提灯による高さ約10mの山笠であり、昼から夜姿を変える祭りは全国的にも例がなく、この山笠の見どころとなっている。
ただ、この変化、この地近郊には意外と多く、南に位置する苅・町の山笠、昼から夜、こんな風に変貌します。
・畑山笠、4つの神社が関与していますが、メインの・畑神社の近傍でこの競演行われます。この・畑神社の創建にもいろいろ問題ある様で、
これについても今後書きましょう。
提灯山笠が作られたのは、思っていた程昔でなく明治の中頃の様です。
明治と云えば、この頃からこの地が工業地帯として発展し始めた頃ですので、この近代化とも提灯山笠関係ありそうです。
昼間の山笠、この近辺の各地にあり、今でこそ結構少なくなったが、昭和30年代、まだまだこの工業地帯が元気な頃、
ほんに各町毎に山笠ありました。
山笠の起源は、上記した様に神社での災厄や疫病への祈りとして、その町の住民が行った様で、その形状はいろいろあり、
おらっちゃの記憶は概ね人形等の飾り山笠です。
それに対し、北陸のあっちの山車はどうなんだろう?
資料によれば、毎年10月初めに開催される八幡宮の秋季例大祭としての山笠で、
祈りは祈りでもどっちかと云えば収穫へのお礼の意味での祭りみたいです。
起源はこっちの1800年頃よりもっと古く1650年(慶安3年)に最初の山車が、最後は1862年(文久2年)全ての山車が揃った様です。
山車と提灯が一緒の時期かは今一不明ですが、どーなんだろう、やっぱ提灯、明治以降かな?
こんな様子で、山笠の歴史纏まるのかな と思っていたら、結構面白い資料が見つかりました。
もう少しその資料を読み解いて、またまたここで披露しましょう。