帆船模型で遊ぼう!!

1から始める木造帆船

とうとう・・・・

2016-06-18 08:36:07 | その他

あまりにセコイ言い訳で、ついに表舞台から、ここの出身である宰相?から引きずり降ろされた我が高校のホープ舛添氏。

今後はどの様に再登場するか、ウォッチしたいがどうなんだろう?

それで思った、我が郷土の有名人、どんな人がいるのかな?

調べるにはやっぱあのウィ・・・、全てをこれで、それが最も公平だろう!!

先ずは我が出身の町、合併したのがおらっちゃの幼少?時代。

当時100万の人口を擁した大都市ですが、今はそれを切るほど減りました。それに較べ隣の県庁所在地である・岡市、人口150万以上と大きく離されています。

合併時は1963年、当時、5区、現在は1市7区と、当時の2つの市が2区、東西、南北に別れています。

5市の頃、各市にその市の名を冠した高校が1~2校、まー当時のその市の進学校と呼ばれた学校です。

それらをチョイスし、調べてみます。

・司高校・・・・有名人は、「んっ!知りません。」何人かは書かれているが、・・・・

・倉高校・・・・流石これらの市の中でダントツです。当時夏は霜降りの学生服、この地の藩校として、いろいろ周辺と差をつけていました。

        多くの名が挙げられていますが、それなりに知られた名とすれば、火野葦平、わたせせいぞう。

        この人らのみを挙げることで、こっちの知識・教養も試されます。

・畑高校・・・・ここもほとんど知りません、残念ながら。

・松高校・・・・ここもあんまり?と、残念です。

・築高校・・・・これらの高校の中で東の・倉、西の・築と云われた双璧の高校です。結構います、いろんな人材が。

        出光計助、高倉健、平野啓一郎、そしてあのイチローを見い出した仰木彬 、いろんなジャンルの方々を輩出しています。

さて我が母校 ・幡高校・・・・舛添要一、上野英信、やっぱこの程度、有名人は。

        その1人があまりにセコイ、悲しいです。

        この方の幼少時代からの生立ちがTVで、親の死亡で窮乏生活、当時広告の裏を利用してノート代りに・・・。

        あの頃、それほど物が書ける紙ってなかったから、おらっちゃも結構広告の裏紙利用していろいろ使っていたが、その後の差は・・・。

        それが当たり前なほど、紙ってなかったと思うがどうだろう?

        ここで挙げた上野英信、あの炭鉱画家の山本作兵衛氏との繋がりもあり、また出身地が今のこの近くと、意外な繋がり感じられます。

 

 

やっぱ、あんまりいなかった高校卒業の有名人、高校除けばこの地の有名人、やっぱこの方、松本清張、松本零士、2人の松本勢です。

必ずしもこの地の出身ではないが、繋がり強い筈です!!

これも偏向郷土愛??

 

 

 

コメント (2)
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