-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「畑沢祭の報告が今頃か!」と叱られそうですが

2016-04-25 18:58:59 | 行事

 平成28年4月15日に畑沢祭がありましたが、それから十日も経ってからの報告となりました。祭の中でスビタレなりに考え事があったからです。皆さんは「スビタレのくせに」とお思いになるでしょうが、スビタレでも考え事はあります。それが、今日(4月20日)畑沢へ行ってきて一段落しました。

 そんなことよりも、嬉しいことを人づてに聞きました。ある中学生がこのブログを見ていてくれているということでした。こんなブログを見てくれるのは、私の縁者だけかと思っていたのですが、物好きな方(失礼しました。)もおられるようです。まあ、青少年に有害な内容がありませんので、何とか御覧いただいても問題はないかと思います。

 

 さて、祭の日はあいにくの天気で、小雨が断続的に降っていて、気温も低いままで推移しました。今年は春の訪れが早かったので、珍しく温かいお祭りを期待したのですが、残念でした。

 神主さんのお祓いは、10時ごろから行われました。今年も昨年に続いて女性の神主さんでした。この方は去年から来ていただいているのですが、もっと前から来ていただいていたような気がします。まだ、二年目ですがすっかり畑沢になじんでおられます。

 熊野神社に参列したのは、区長、副区長、氏子総代、下畑沢当番、中畑沢当番、上畑沢当番等です。ほかに神主さんと私を含めて合計9人がお堂の中でした。

 私は昼頃で退席しました。山楯(やまだて)周辺で、用事を済ませてそこから熊野神社をカメラに納めました。


背中炙り峠の楯跡の最新写真です。

2016-04-12 18:17:45 | 歴史

 4月6日に行った「背中炙り峠の楯跡」の調査は、いつもどおり一人ぼっちで行いました。国会議員の方々でさえ、どの政党にも属しないで一人ぼっちで活動するのは寂しいようで、一人ぼっちの議員があるグループと一緒になりました。しかし、私はスビタレですが、それでも一人ぼっちで活動しています。

 この日、私は畑沢側からの古道を調査しながら登っていきましたが、尾根に出る少し手前の残雪に、この日に歩いた真新しい靴の跡を発見しました。大人と子供と思われる長靴の跡でした。長靴は普通のタイプのものではなくて、滑り止め用のスパイクが仕込んであるものです。普通の人がこの辺りに来る理由を考えられなかったので、山菜取りかとも想像したのですが、まだまだ、山菜の時期ではありません。この靴跡は、そこから乳母木地蔵、楯跡を通って村山市側古道へ向かっていました。恐らく、「楯跡」に興味を持って、県道29号線の背炙峠近くの林道から入りこんだ人たちのようです。私以外にも興味を持っておられる方がいることうです。仲間ができたような気分でしたが、最後までお会いできませんでした。もしかして、畑沢通信を御覧になって興味を持って下さったのでしょうか。ここは熊も猪も出ます。怖がらないで来たようです。

 さて、楯跡で確かめたかったことがありました。私が楯の櫓台の説明をこのブログに投稿した時に、「櫓から野辺沢城が見える」らしきことを書いていましたが、実のところ確かめていませんでした。そこで、見とおしがよいこの日に確かめてみました。櫓台と言っても「櫓」そのものはなく、「台」だけになっていますので、「見える」「見えない」を厳密に論じることはできませんが、それなりの確認はできます。櫓がないなら木に登ろうと大木の枝を見たところ、一番下の枝でさえ頭上はるかで手が届きません。これでは木に登ることができません。ロープを持参しなかったことを悔やみましたが、しょうがありません。そのままの状態で野辺沢城があったお城山を探しまたが、大平山(宝沢山)から繋がっている尾根が邪魔していて、とても野辺沢城が見えるような状況ではありませんでした。この櫓台から野辺沢城と直接に連絡をとることは難しかったようです。それでは、どのようにして野辺沢城と連絡を取っていたのでしょうか。考えても私の頭では直ぐに思いつきません。私の頭に閃きが起きるには時間がかかります。それも年単位の時間です。ところで、この櫓台からは村山側が良く見えます。敵の侵攻を監視するのに十分に機能を発揮できそうです。

 これまで確認できなかったものは外にもありました。堀切の末端がどうなっているかです。草が生え樹木に葉が茂っている時期は、険しい堀切の東側(畑沢側)は、急峻な坂が暗い闇の中に吸い込まれ、奈落の底に向かっているように見えました。そのため、スビタレとしては、とても堀切の端を確認などできませんでした。しかし、この日は草も木の葉もまだです。堀切が十分に見えました。坂の下に転がっていかないように十分に注意しながら末端の方に近づきました。そして、末端の方から上を仰いで撮った写真がこれです。「背中炙り峠の楯」調査結果(2)に載せた曲輪(5)と曲輪(7)の間にある堀切(3)です。右が曲輪(5)の南端で、左が曲輪(7)の北端です。中央の窪んだ真ん中の一番上には、虎口が見えます。堀切の幅は約5mです。

 同じように上記の堀切の南に位置する堀切(5)です。この堀切は曲輪から少し離れた場所に作られたものですが、堀切としてはしっかりとしたもので、巾が5mにもなります。


背中炙り峠の早春

2016-04-11 19:28:06 | 自然

 背中炙り峠の楯を調査した4月6日、周囲は春そのものです。坂下から上り始めて、周囲の山々よりも高くなると、遠くの高山が大きく顔を出しました。畑沢側からは、北西から北東側までを眺めることができます。最も大きく見えるのが鳥海山です。畑沢から北西方向へ直線で50kmありますので、それなりに小さくなっているのでしょうが、かなりはっきりと見えます。鳥海山へ40年前と10年前に登ったことがあります。山形県内で最も標高が高く、私はヘロヘロ状態で下山しました。もう登る気はしません。

 北の方向には、白い雪を抱いた峰の団体さんがあります。山脈状に並んでいます。新庄市、金山町、最上町の境に陣どっている神室山系です。標高は大したことはないのですが、登り口の標高が低いので実質的な標高差が大きいことと、峰から峰へ渡るのにかなり標高を損するために困難を極めました。あれは30年程前です。山へ登った話は、このごろ、ほとんどが昔話になりました。もう体力がないのです。体力自慢の私でしたが、やっぱり若い時とは違うようです。悔しいですね。

 同じように体力がなくて、ヘロヘロ状態の蝶を見ました。まだ雪が融けたばかりですから、この蝶は成虫のままで越冬したようです。羽の周囲はボロボロですです。それでも羽の模様が見えますので、「何とかの一つ覚え」的知識で考えますと、ヒョウモンチョウではないかと思います。はて?ヒョウモンチョウは成虫のままで越冬するのでしょうか。聞いたことがありません。Wikipediaで調べましたが、「成虫での越冬」とは書かれていませんでした。とすると、新発見かヒョウモンチョウでないかです。どなたか教えてください。ところで、一匹だけではなく、4、5匹は飛んでいました。あしからず。

 尾根に近づくと、池がみえました。昭和50年代ごろに水田用に作られたものです。この池は山の中にひっそりと佇んでいますので、水鳥の楽園になっているようです。晩秋には冬の渡り鳥がいっぱいになります。しかし、今は春です。冬鳥が北へ帰る途中に池で休んでいるとも思われません。双眼鏡で覗いたら、「コガモ」でした。渡りはしません。去年の五月にもここで写真を撮りました。でもその時は極、少数の番(つがい)でした。今年は群れになっています。交尾らしき行動をとる鳥もいました。きっと「集団見合い」だろうと勝手に結論付けました。

 今年も写真を撮ろうと足を忍ばせて近づいたのですが、鳥にも目ざとい奴がいるものです。騒ぎだして、一斉に空へ飛び立ちました。飛び立った鳥たちは遠くへ逃げるわけではなくて、池の上空をぐるぐると何度も飛び回っています。「変な奴」が立ち去ったら、直ぐに池に戻るつもりだったようです。私は歓迎されざる存在です。私が少し池から遠ざかっただけで、ざわざわっと集団で池に降りていました。

 ところで、今年の畑沢まつりは4月15日(金)です。熊野神社で9時ごろからお払いが行われます。


松母橋(まつぼばし)の上から周囲の風景

2016-04-07 17:20:29 | 近況報告

 昨日(平成28年4月6日)、前日に続いての晴天でしたので、葉が茂って見通しが悪くなる前に、背中炙り峠の楯と古道を調査しに行ってきました。今年は雪融けが早く、適度な残雪さえもなくなってしまうのではないかと焦って出かけました。調査の方はまあまあの成果を得ることができました。去年の秋と比べて格段に見通しが利き、新たな発見がいくつかありました。この時期は調査に最適です。特に私のように何の専門的な知識と技術を持っていない者は、肉眼を主体とした調査になりますので、見通しが利く利かないは重要な意味を持っています。

 さて、五月下旬まで背炙り峠(県道29号線)が通れませんので、尾花沢と延沢を回って畑沢へ向かいました。荒町の集落を過ぎて畑沢へ入る前に、朧気川に架かっている松母橋を渡ります。ところが、そのまま橋を渡るにはもったいないほどに周囲がきれいに見えました。そこで、本当は悪いことかも知れませんが、橋の上に車を止めて、周囲の景色を眺めてしまいました。

 最初に右前方の山です。まだ名前を知りません。畑沢から延沢にある小学校や中学校へ通学する時に、いつも目にした独特の形をした山です。大変に急峻な斜面を有していますので、冬季はしょっちゅう雪崩が起きます。そこで、固有名詞としてではなく、一般名詞として「なでつぎやま」と呼んでいました。一般名詞ですから、この山以外にも、雪崩が起き易い山はこのように呼ばれます。この山、形が独特なのは理由があります。じっと写真を御覧ください。山の上の方が岩だらけで、下の方は岩が見えません。しかも地層らしきものが、右(南 畑沢側)から左(北 延沢側)へ向かって、上がっています。それを千鳥川が削りました。これがその理由だそうです。「何とか地形」らしき名前があったのですが、忘れました。このブログでも説明したのですが、面倒なので探しません。詳しくお知りになりたい方は、「尾花沢市史」の上巻を御覧ください。私が説明するよりも、ずっと確かです。それは置いときまして、あらためて眺めると惚れ惚れします。いつか登ってみたいと思いつつ、既に半世紀を過ぎてしまいました。

 さて、反対側を見ますと遠くに細野地区の集落が見えます。そして集落の直ぐ上にはスキー場のように白い雪の帯が見えます。ここにも行って滑ってみたいのですが、まだその機会がありません。

 橋の真下には、朧気川が流れています。例年ですと、雪融けの濁った水がにごった水がごうごうと流れているのですが、今年は既に雪融けもほぼ終わりに近づいて、澄んだ水が流れています。それでも、雪融けが盛んだったころは、大分、増水したようで、川岸の近くの葦が流れの方向へねじ伏せられています。よく見ると、この川には魚道が作られています。川の工事が頻繁に行われて、どこもかしこも魚などの生き物がすめなくなっている所が多くなっているのですが、このようにきちんと魚道を作ってもらうと、生き物の移動が可能となり、生態系の保全がより確実になります。ありがたいことです。

 

 魚たちがいると、人もいるようで、橋の上流には釣り人が見えます。この日は平日でしたから、この人も、私と同じように「退職者」で、岩魚や山女を釣りに来たのでしょう。さて、釣果はいかがだったでしょうか。聞きたかったのですが、なかなか来ないので、聞かないでこの場を離れました。

 


大事な写真を忘れていました。

2016-04-04 14:31:39 | 近況報告

 一昨日、投稿した際に、畑沢の早春を代表する風景を載せませんでした。福寿草です。雪融けが早い土手などでは三月中に咲いていますが、最盛期は四月に入ってからです。今年は4月2日で早くも最盛期でした。実家の土手が福寿草で覆われています。畑沢には、外にも福寿草が咲き誇っている場所があるそうですが、私は近くにあるこの場所で満足していますので、他の場所へ足を伸ばしたことがありません。この日、曇りがちでしたので、花弁が全開していません。