-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

熊野神社周辺のユキツバキ

2015-08-30 16:49:27 | 自然

 8月30日の今日、どうしても我慢が出来ずに、「安保法案反対」の集会に行って、さらにデモ行進とシュプレヒコールをしてきました。無宗教と支持政党なしの私には極めて珍しい行動で、40年以上も前にメーデーに参加して以来のことです。


 さて、このところ私は畑沢に関する調査をまとめていますが、その中で最近、興味があるのが「ユキツバキ」です。これまでも、三回ほどユキツバキのことについて投稿してきました。それらを以下のように畑沢のまとめにしようと思っています。まだ原稿段階ですが、最終盤になる予定です。

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 ユキツバキ(雪椿)と言うのは、日本の多雪地帯だけに分布している野生の椿です。新潟県では県木に指定されていますので新潟県だけが有名ですが、山形県内にも分布しており、庄内地方、置賜地方の小国町と米沢市及び村山地方の白鷹山の東側のそれぞれ山地に自生しています。白鷹山の東側とは山形市大平地区のことで、一帯にはかなり一般的に見られる樹木です。ところが、同じ村山地区でありながら、大平地区以外の村山地方には自然の分布地区と言える場所がありません。ただ寒河江市内の葉山にあった大圓院の敷地跡には、ユキツバキが少数ながら生えていて、ここの椿が昭和11年にユキツバキが新種として認められたそうですが、生えているのは大圓院の屋敷跡の一画だけで、周囲にも自生しているわけではありませんので、「自然分布」と言えるかどうかについては議論があるようです。同じように新庄市内、大石田町内、尾花沢市内でも神社仏閣の境内や墓地でも「庭木」的に数多く見られるそうです。これは尾花沢市内にお住いのS.O氏から教えていただいたことです。畑沢の家々でも椿が植えられているのが見られ、葉の形などを見るとユキツバキのようです。すなわち、昔からユキツバキは庭の花木として大事に育てられていたようです。従って、ユキツバキがあるからと言っても、直ちに自然分布とは断定できません。
 そのユキツバキが「庭木」程度の少数ではなく、畑沢の山の斜面いっぱいに生えている場所があります。それは熊野神社周辺です。山の裾一帯には、約200mにわたってユキツバキが大きな群落を形成しています。大きな群落でしたので、人手によるのではなくて自生しているものと思われました。これまで尾花沢市内においては野生の椿が自生している報告はなされていません。もしも、自生している野生種であれば、ツバキ類の分布に関する大きな発見にもつながる可能性がありました。
 
 椿は神社が建っている山の斜面に生えている広葉樹の下層に、這うように枝を伸ばしています。夏季は広葉樹の陰になって姿が見えなくなりますが、まだ広葉樹の葉が開かない早春には椿の濃い緑がはっきり見えます。枝の径は地面からの生え際でも、太いものでも直径が4~5cmです。花弁や葉はユキツバキの特徴そのものを備えています。


ユキツバキの特徴
1    葉の縁はヤブツバキに比べて鋸歯が鋭い
2    樹形は積雪の関係で地を這う形になる
3    花弁は薄く、水平に広く開く
4    雄蕊の花糸は合着せず、濃橙黄色から黄赤色


 これほどの群落が人為的とは思えないのですが、大高滋氏によると、「自然分布」と言えるには、「周囲の山地にもユキツバキが見られる」ことが大事だそうです。そこで、熊野神社の周囲にあるユキツバキの群落から少し離れた場所などを調べたのですが、残念ながら見つけることができませんでした。

 しかし、この群落に隣接する場所では、樹高30cmに満たないような小さなユキツバキの幼木も見られました。群落内のユキツバキで実った種子が運ばれて発芽したものでしょう。熊野神社が建てられた約四百年前から、このように次々と実生によって増え続けて大群落を形成したと考えられます。先述したように、確かに熊野神社周辺のユキツバキが「自生」であるとは言い切れない面があります。しかし、逆に村人の手によって植えられた少数のユキツバキから始まったのだとすれば、四百年という「永い歴史を感じさせるもの」です。そのように考えると、「自生」かどうかにこだわることなく、「他では何処でも見られないユキツバキの大群落があり、村人とともに存在してきた」のは事実ですから、畑沢の素晴らしい誇りとして大事にしたいものです。

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  畑沢の熊野神社周辺のユキツバキに関連して、妙なことを思いつきました。尾花沢市史編纂委員会が昭和60年に発効した「延沢軍記」に、かつて畑沢に住んでいた有路現右衛門が所蔵していた「延沢軍記 巻之一」が掲載されていて、「霞山之城普請之事」のところに下の一節がありました。

 延沢城の馬場の周囲には、「花木」が植えられたとあります。現代で花木と言うと桜、梅、紫陽花などを思い浮かべますが、築城当時の花木とは椿のことではなかったと想像してみました。しかも椿であったならば、ユキツバキである可能性があります。延沢城の跡を確認してみたいと思っています。確認しましたら、報告しますので、楽しみにしていてください。



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