上畑沢の延命地蔵(カンバダのズンド様)の脇に、巨大な湯殿山碑があります。過日「背炙り峠の巨大な湯殿山碑」について書きましたが、今回の石碑はもっと巨大です。地面からの高さは、土台石も含めると、3mはあるでしょうか。手を伸ばしても上端は、はるか上です。土台石を含めなくても石碑本体だけでも3トン以上はあるのではないかと思います。
地元、上畑沢の人達によると、石材は立石山から持ってきたそうです。岩質は、背炙り峠の物とは全く異なりますが、堆積岩なのか火成岩なのかも分かりません。全体的に硬い均一な安山岩風な岩質を基本としたところに、2~3mmほどのガラス状の角ばった結晶が点状に散在しています。そのうち詳しい人から教えてもらいます。私の畑沢にあった実家の土台石も同じ岩質でした。恐らく、立石山の石材は、上質な石材として広く使われていたものでしょう。畑沢における産業の一つにもなっていたのではないかと、素人は勝手に想像しています。「立石山」の名称も、石材供給場所らしいものに感じられます。
石碑の表側には「湯殿山」と書かれ、言わずとも知れた出羽三山の一つです。裏側には「象頭山」とあり、四国の山岳信仰の対象の山名かと思います。世話人名、願主の名前もまだしっかりと残っており、読み取ることができました。世話人名は、苗字がない屋号と思われる名前だけです。殆どは畑沢に残っている屋号と一致していますが、一部の名前は思い当たりません。教えてもらう必要があります。上畑沢だけでなく、下畑沢の屋号も見られます。年号は「文化八年」とありますので、西暦に換算すると1811年で、単純に計算すると、今から202年前になるでしょうか。明治維新の57年前になるかと思います。背炙り峠の湯殿山碑は、「袖崎の郷土史」によると嘉永5年(西暦1852年)ですので、上畑沢の湯殿山碑は、それより41年古いものになります。
ところで、畑沢には、何故これほどまでに巨大な湯殿山碑があるのでしょうか。湯殿山碑は特に珍しいものではなく、山形県なら街道筋の多くのところで見られます。しかし、畑沢の湯殿山碑よりもはるかに小さいものです。大きい理由として二つ考えてみました。一つは、背炙り古道が、湯殿山参りの重要な通行路であったことだと思います。宮城県側から山形県へは、上の畑の奥にある軽井沢街道から入って来ました。さらに大勢の参詣者が、背炙り古道を通って湯殿山へ向かっていました。江戸初期に鉱山としての「銀山」が衰退した後は、背炙り古道はこの湯殿山参りが主だったそうです。
もう一つは、大きい石材を得やすかったことによるものではないでしょうか。タテス石(立石山の石)とゴロウ石(ゴロウ山の石)に見られる石材供給場所があったと思われることです。