今回も温泉とは無関係です。次回記事で温泉ネタに戻ります。
前回記事の続編です。
前回記事で取り上げた「龍騰断橋」から線路に沿って北上すると、旧山線屈指の観光名所である勝興駅跡にたどり着きました。ここは1998年に廃止された旧山線の駅のひとつであり、台鉄で最も標高が高い駅だったそうですが、現在では山間に取り残された古い木造駅舎と秘境のような雰囲気が人気を呼び、定期列車が走らなくなった今でも、週末になれば多くの観光客で賑わう苗栗県屈指の観光地として名を馳せています。
人気観光地とはいえ駅前の通りは1.5車線、狭いところでは車1台しか通れないほど狭く、にもかかわらず公共交通機関のアクセスが不便であるため、週末には山奥とは思えないほどマイカーの大渋滞が発生するんだとか。細い通りなのに沿道にはお土産店や飲食店が櫛比しており、訪問客や店舗の数に対して駐車場が圧倒的に足らず、他に逃げる道も無いため、これらの要因が渋滞に拍車をかけているようです。幸か不幸か、私が訪れた日は南国台湾にしては珍しく10℃近くまで冷え込んだ雨の日だったため、人気観光地なのにひと気が少なく、渋滞にはまることもなくスムーズに行動でき、駅から近い場所で駐車することもできたのですが、そんな悪天候にもかかわらず駐車場の切符捥ぎのおじさんは、我慢強く雨合羽を着て外で立っており、たまにしか来ない客から律儀に集金していました。
後述する駅舎の向かいに古い木造建築を発見。どうやら駅長宿舎だった建物のようです。
駅舎の右隣には観光案内所が設けられ・・・
硬券を模した記念グッズが販売されていました。往時の券を再現したものではなく、縁起が良い語句や駅名を並べて切符のようにしたものばかり。
鉄道の切符を集めるのも私の趣味のひとつですが、本物しか興味がないので、こうした観光客向けのイミテーションは購入しませんでした。
現役時代の面影を残す駅舎内部に入ってみましょう。1912年(明治45年)に建造された木造駅舎は苗栗県の史跡に指定されています。窓口の上には時刻表が掲示されていました。
駅舎を抜けて線路やホームが残る構内跡へ。繰り返しますが旧山線は既に廃止されており、もう列車は運転されていないため、構内へ自由に立ち入ることができます。この区間は廃止されるまで電化されていたため、架線こそ撤去されていますが、架線柱などはそのまま残されており、線路の真ん中に立つと、いまにも電車が走ってきそうな雰囲気です。駅舎前には「台湾鉄路最高点 海抜402.326m」の記念碑が建てられており、傘をさしながら記念写真を撮る人の姿も見られました。
ここは元々「十六份信號場」という信号所として開設され、その後に駅として昇格したのですが、当時は十六份信號場、もしくは十六份駅と呼ばれており、
現在の勝興という名前に改称されたのは1958年なんだとか。線路の脇には旧称が大きく表示されていました。
勝興駅を含む旧山線は単線区間だったので、線路は駅から離れるとすぐに1本へ収斂します。
台中側はすぐトンネルになっており、このトンネルをくぐった向こう側に「龍騰断橋」が続いているのですが、ここでトンネルのポータル上部に注目。
トンネルのポータルに彫られた「開天」の文字は、このトンネルが開鑿された1904年(明治37年)に台湾総督府の総務長官だった後藤新平が揮毫したものです。よく見ると「開天」の文字の右側に「明治三十七年九月」、左側に「後藤新平書」と彫られていますね。後藤新平は台湾統治や関東大震災後の東京復興で辣腕をふるった英傑ですが、その一方で金権政治の典型例としても知られており、毀誉褒貶が非常に激しい人物でもあります。後藤新平が進めた事業は結果的に後世で大いに役立っているわけですが、氏の業績はトドのつまり、政治や行政は綺麗ごとじゃ進まないってことを示しているのかもしれませんね。
2面3線のホームには現役時代の駅名標も残されており、架線柱にはステンシルの駅名標も括り付けられていました。あくまで個人的な見解ですが、台湾は世界で最もステンシルを多用する地域ではないかと思います。
駅構内に隣接して水辺の公園も整備されており、駅をちょっと離れた場所から眺めることもできます。晴れていれば長閑な風景を楽しめたのでしょうけど、天気ばかりは致し方ありません。
北へ伸びる線路は下り勾配で次の駅である三義、そして新竹・台北方向へと続いています。この旧山線は1998年に廃止されたものの、観光資源としての価値が見直されて2010年に観光鉄道として復活を遂げ、期間限定ですが、蒸気機関車牽引の客車列車が三義〜勝興〜龍騰〜泰安を走行したんだそうです。廃線跡とはいえ、妙に線路がしっかりとしていたのですが、それもそのはず、つい数年前まで人間を乗せた列車が走っていたのですから当然ですね。この観光列車は翌年の2011年にも運転されたそうですが、その後の運転状況については情報が得られず、どうやら最近は運転されていない模様です。でも、苗栗県では再度の運転復活を検討しており、2018年を目処に、2010年の復活期間である三義〜泰安間に加えて泰安〜后里間を延長させたいんだとか。この延長が実現すれば起点と終点が現行の山線に接続されますので、観光鉄道の利用客にとっては(特に台中方面からの)利便性が格段に向上します。延長を伴う復活の可能性はどの程度なのかわかりませんが、是非復活運転を実現させていただきたいものです。
(出典:フォーカス台湾 2015年8月7日 「日本時代開通の台湾鉄道・旧山線、観光列車の運行区間拡大へ」)
さて、駅をひと通り見学し終えた私は、レンタカーに戻って三義の街へ向かい、市街地からちょっと離れた幹線道路沿いに位置する小洒落た客家料理屋さんへ立ち寄って、ランチセットをいただきました。塩気が強めで味も濃い客家料理は、日本人、特に関東以北の人間にとっては食べやすい味付けであり、私が好きな料理のひとつです。この界隈は客家の方々が多く住んでいる地域であるため、あちこちにこうした客家料理店があり、私が訪れた店のみならず、勝興駅前にも観光客向けの客家料理店が並んでいました。
余談ですが、この客家料理屋から西へ入った山中では、1981年に遠東航空103便の飛行機が墜落し、乗員乗客110名全員が死亡する大惨事が発生しました。私の尊崇する作家向田邦子もその犠牲者の一人。当時は道が整備されていなかったため、山から集められた遺体は一旦勝興駅まで運び、そこから列車で搬送したんだそうです。勝興駅は単に長い歴史を歩んできたのみならず、台湾史に残る惨劇にも関係していたのでした。
苗栗県三義郷勝興村勝興89号
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前回記事の続編です。
前回記事で取り上げた「龍騰断橋」から線路に沿って北上すると、旧山線屈指の観光名所である勝興駅跡にたどり着きました。ここは1998年に廃止された旧山線の駅のひとつであり、台鉄で最も標高が高い駅だったそうですが、現在では山間に取り残された古い木造駅舎と秘境のような雰囲気が人気を呼び、定期列車が走らなくなった今でも、週末になれば多くの観光客で賑わう苗栗県屈指の観光地として名を馳せています。
人気観光地とはいえ駅前の通りは1.5車線、狭いところでは車1台しか通れないほど狭く、にもかかわらず公共交通機関のアクセスが不便であるため、週末には山奥とは思えないほどマイカーの大渋滞が発生するんだとか。細い通りなのに沿道にはお土産店や飲食店が櫛比しており、訪問客や店舗の数に対して駐車場が圧倒的に足らず、他に逃げる道も無いため、これらの要因が渋滞に拍車をかけているようです。幸か不幸か、私が訪れた日は南国台湾にしては珍しく10℃近くまで冷え込んだ雨の日だったため、人気観光地なのにひと気が少なく、渋滞にはまることもなくスムーズに行動でき、駅から近い場所で駐車することもできたのですが、そんな悪天候にもかかわらず駐車場の切符捥ぎのおじさんは、我慢強く雨合羽を着て外で立っており、たまにしか来ない客から律儀に集金していました。
後述する駅舎の向かいに古い木造建築を発見。どうやら駅長宿舎だった建物のようです。
駅舎の右隣には観光案内所が設けられ・・・
硬券を模した記念グッズが販売されていました。往時の券を再現したものではなく、縁起が良い語句や駅名を並べて切符のようにしたものばかり。
鉄道の切符を集めるのも私の趣味のひとつですが、本物しか興味がないので、こうした観光客向けのイミテーションは購入しませんでした。
現役時代の面影を残す駅舎内部に入ってみましょう。1912年(明治45年)に建造された木造駅舎は苗栗県の史跡に指定されています。窓口の上には時刻表が掲示されていました。
駅舎を抜けて線路やホームが残る構内跡へ。繰り返しますが旧山線は既に廃止されており、もう列車は運転されていないため、構内へ自由に立ち入ることができます。この区間は廃止されるまで電化されていたため、架線こそ撤去されていますが、架線柱などはそのまま残されており、線路の真ん中に立つと、いまにも電車が走ってきそうな雰囲気です。駅舎前には「台湾鉄路最高点 海抜402.326m」の記念碑が建てられており、傘をさしながら記念写真を撮る人の姿も見られました。
ここは元々「十六份信號場」という信号所として開設され、その後に駅として昇格したのですが、当時は十六份信號場、もしくは十六份駅と呼ばれており、
現在の勝興という名前に改称されたのは1958年なんだとか。線路の脇には旧称が大きく表示されていました。
勝興駅を含む旧山線は単線区間だったので、線路は駅から離れるとすぐに1本へ収斂します。
台中側はすぐトンネルになっており、このトンネルをくぐった向こう側に「龍騰断橋」が続いているのですが、ここでトンネルのポータル上部に注目。
トンネルのポータルに彫られた「開天」の文字は、このトンネルが開鑿された1904年(明治37年)に台湾総督府の総務長官だった後藤新平が揮毫したものです。よく見ると「開天」の文字の右側に「明治三十七年九月」、左側に「後藤新平書」と彫られていますね。後藤新平は台湾統治や関東大震災後の東京復興で辣腕をふるった英傑ですが、その一方で金権政治の典型例としても知られており、毀誉褒貶が非常に激しい人物でもあります。後藤新平が進めた事業は結果的に後世で大いに役立っているわけですが、氏の業績はトドのつまり、政治や行政は綺麗ごとじゃ進まないってことを示しているのかもしれませんね。
2面3線のホームには現役時代の駅名標も残されており、架線柱にはステンシルの駅名標も括り付けられていました。あくまで個人的な見解ですが、台湾は世界で最もステンシルを多用する地域ではないかと思います。
駅構内に隣接して水辺の公園も整備されており、駅をちょっと離れた場所から眺めることもできます。晴れていれば長閑な風景を楽しめたのでしょうけど、天気ばかりは致し方ありません。
北へ伸びる線路は下り勾配で次の駅である三義、そして新竹・台北方向へと続いています。この旧山線は1998年に廃止されたものの、観光資源としての価値が見直されて2010年に観光鉄道として復活を遂げ、期間限定ですが、蒸気機関車牽引の客車列車が三義〜勝興〜龍騰〜泰安を走行したんだそうです。廃線跡とはいえ、妙に線路がしっかりとしていたのですが、それもそのはず、つい数年前まで人間を乗せた列車が走っていたのですから当然ですね。この観光列車は翌年の2011年にも運転されたそうですが、その後の運転状況については情報が得られず、どうやら最近は運転されていない模様です。でも、苗栗県では再度の運転復活を検討しており、2018年を目処に、2010年の復活期間である三義〜泰安間に加えて泰安〜后里間を延長させたいんだとか。この延長が実現すれば起点と終点が現行の山線に接続されますので、観光鉄道の利用客にとっては(特に台中方面からの)利便性が格段に向上します。延長を伴う復活の可能性はどの程度なのかわかりませんが、是非復活運転を実現させていただきたいものです。
(出典:フォーカス台湾 2015年8月7日 「日本時代開通の台湾鉄道・旧山線、観光列車の運行区間拡大へ」)
さて、駅をひと通り見学し終えた私は、レンタカーに戻って三義の街へ向かい、市街地からちょっと離れた幹線道路沿いに位置する小洒落た客家料理屋さんへ立ち寄って、ランチセットをいただきました。塩気が強めで味も濃い客家料理は、日本人、特に関東以北の人間にとっては食べやすい味付けであり、私が好きな料理のひとつです。この界隈は客家の方々が多く住んでいる地域であるため、あちこちにこうした客家料理店があり、私が訪れた店のみならず、勝興駅前にも観光客向けの客家料理店が並んでいました。
余談ですが、この客家料理屋から西へ入った山中では、1981年に遠東航空103便の飛行機が墜落し、乗員乗客110名全員が死亡する大惨事が発生しました。私の尊崇する作家向田邦子もその犠牲者の一人。当時は道が整備されていなかったため、山から集められた遺体は一旦勝興駅まで運び、そこから列車で搬送したんだそうです。勝興駅は単に長い歴史を歩んできたのみならず、台湾史に残る惨劇にも関係していたのでした。
苗栗県三義郷勝興村勝興89号
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